市中の山居

オーストラリアの市民権を得て第三の人生を送る年金暮らしのおじさんのQOLを追求するサイトです。

WMサバイバル記録

2018年9月21日

今日は女医と少し後にDRも合流、

IgG 3.40 、IgM 774、ヘモグロビン 15.6 他は正常、
思いがけず好結果に満足した。

次回は2019年 3月15日 4時半

WMサバイバル記録

2018年3月16日

2日の予定が先生の都合で本日の3時半になった、
時間に先生はインド人の患者の応対をしていたので、代理の女医が対応。

IgG は聞きそびれたが、IgMは899と初めて1000を切った、ヘモグロビンは14.8と好調、白血球は相変わらず低い。

次回は9月21日3時半、その間2、3回血液検査。

WMサバイバル記録

2017年1月6日

わざわざ女房に早退して貰い病院に行ったのだが生憎手違いで主治医は未だ休暇中だった、手配してくれた主治医の秘書は去年の暮れで辞めていた。
仕方が無いので別の医師に2ヶ月間の2回の血液検査の結果を聞いた。
結果良好、IgMは2100、ヘモグロビンは12.8、PPIは12と10年前に宣告を受けた当時を大幅に下回る結果が出た。
次回は3月末に予約を入れた。

2017年3月17日

風邪ひいたり、市民権のセレモニーだとかにかまけていて医師面談の予約確認が出来てなかったが、前回の確認時に確定してたらしい。
今回は主治医に直接結果を聞いた。
IgGが2.5と通常の3分の一でグロブリン製剤点滴が必要な位だが、IgM1500、ヘモグロビン13.9、PPIは10と大幅に下回ったので次回まで様子見になった。
IgGが戻るまでにかなり時間が必要で回復した症例もあるので期待したい。
次回は6月中旬。

2017年6月17日

前の時もそうだったが風邪がやっと治り掛けた頃の医師面談。
今日は主治医が忙しいらしくアシスタントの女医、最初顔を思い出せないで失礼してしまった。
IgGが2.49で相変わらず低い、IgM1200、ヘモグロビン14.2で回復、PPIは8、
CRPを念の為確認したら8と高めでした。

主治医からの引き継ぎでインフルエンザの予防接種を受けろと言われたので、以前は効かないから要らないと言ってたなどと文句つけてたら、そこに本人登場確認したら矢張りした方が良いと言う。
女医も活性化したワクチンじゃないから大丈夫と言った。
家に帰り週末悩む、月曜にGPに確認しようと思ったが、女房が主治医がそう言ったなら何故従わないと言われるだけよと言った。
月曜朝調べたらIWMCのHPでも進めていたし、近所の薬局で気軽に出来ると知り、早速町まで出てショッピングモール内の薬局で受けて来た。
今回の収穫は血液検査を6週に一度で良いと主治医がこちらからお願いしようという思惑通りの事を言ってくれた事だ。
次回は9月15日。

2017年9月15日

4時半の予約が先生の都合で12時半になったので昼飯前に病院に行った。

IgGが2.48で相変わらず低い、IgM1000、ヘモグロビン14.3で回復、PPIは10。
CRPは聞きそびれた。

一応数値が安定傾向なので次回は来年の3月2日になった、その間2ヶ月毎に血液検査をする事になった。

WMサバイバル記録

BR治療サイクル3

2016年9月15日

血液採取、毎週血液検査はきつい、10年来使っていた左腕の血管は針を刺しても血が出て来ない様になってしまったので、仕方がなく右腕を使用する様にした。

2016年9月16日

10時からリツキサンの点滴を開始する、100ml、から400ml迄30分毎にスピードを上げて12時で無事終了し、12時30分からベンダムスチンの点滴を開始し、2時40分終了。

2016年9月17日

11時ベンダムスチン点滴開始1時終了。

8月に引き続き、吐き気と怠さに苛まれる、抗がん剤投与後2週間はどうしようもない。

2016年9月30日

2時30分医師面談、結果良し、IgM 5700-3600、ヘモグロビン9.8-12
8年前の状況まで戻る。
医師がIgMはこれ以上下がらないかも知れないが自分としてはハッピーだと言うので、先生がハッピーな限り自分もハッピーですと握手。
当初このままリツキサンの点滴だけ月一で続けるかと先生が言ったが結局10月の4サイクル目を済ませてから結果を見て協議する事に落ち着いた。
血液採取も毎週はしないで良い事になった。

BR治療サイクル4

2016年10月13日

血液採取

2016年10月14日

9:00リツキサン点滴、12:00 ベンダムスチン

2016年10月15日

11:30 ベンダムスチン点滴
看護婦が血管をなかなか探せずステロイドで押した為液漏れで腕に染みが残ってしまった。

2016年11月3日、16日
血液採取

2016年11月17日
2時医師面談

残念ながらIgMの結果が出ていない、どうもテストは高額な為キャンサーセンター依頼じゃないと割愛されるみたいだ。
他の数値からIgMも順調に下がっていると推察される。
因みにヘモグロビンは通常の最低ライン13まで回復。
11月12月と月末にIgMの検査をして一月に再度医師と相談する事に決定した。
来年にはオーストラリアでもイブリティニブが認可されるので見通しは明るい。

WMサバイバル記録

2016年8月4日

9時血液採取9時45分終了

2016年8月5日

2時半に病院に到着したが、手違いで予定がキャンセルされていたが説明して割り込む。
ステロイド点滴。
可愛い韓国人の担当医に蕁麻疹の事を告げ、強い抗生物質から解放される。

2016年8月11日

9時45分血液採取10時10分終了。

2016年8月12日

8時病院到着8時半より治療開始するも、血管が見つからず難儀、10時頃リツキサン(こっちではリタックスと呼ばれている)が到着したのでやっと点滴を開始する。
30分毎にバイタルをチェックするが、血圧が88/44に下がったので中断する。
ステロイドを注入する、看護婦が5時半に済むように点滴速度を計算したが度々の中断で、ベンダムスチンの点滴は日曜日に延期になった。
不幸にも鼻水が出るようになり、鼻の下にも蕁麻疹が出たので再び中断する。
点滴液を増やし少しの間水分だけ点滴、便所に頻繁に行く事になった。
血圧も戻り、蕁麻疹も消えたので点滴再開し6時15分頃終了した。

2016年8月13日

今回も針で神経を痛め腕が痛い。

便秘気味

11時病院到着

ベンダムスチン点滴

2016年8月14日

8時より点滴開始の予定だったが血圧が低過ぎるので開始出来ず点滴液のスピードを上げる。
ようやく開始するも、何れにせよ血圧が少なくとも95に上がる迄帰宅させて貰えない。
ピネイの看護婦から抗がん剤治療中は1日3リットル水を飲まなきゃ駄目だと説教される。
点滴後点滴液のみ点滴し再度血圧を計り、99迄上がったので解放される。
便秘解消の為プルーンジュースを飲み、30分後に解消する。
3日続けての抗がん剤治療で疲労困憊し2度も昼寝してしまった。

2016年8月15~16日

軽度の吐き気を模様すが薬の服用する程ではない。
胃散を服用。

看護婦に少しは歩いた方が良いと言われたので散歩する事に決めた。

2016年8月17日〜20日(土)

矢張り抗がん剤点滴後1週間は副作用の吐き気と怠さに苛まれる。
又点滴後は1時的に体重が増加し、夜中便所に起きる回数が増える。

WMサバイバル記録

2016年7月7日

10時にガンセンターで骨髄穿刺及び血液採取をする。
若いインド人の女医だった、後に韓国人の若くて可愛い女医が回り持ちでラボに異動になったので担当になる。

2016年7月12日

10時にガンセンターで医師の説明を受け、28日x4サイクルの治療を受ける事に決定、そのままキモテラピーのオリエンテーションを受ける。

2016年7月15日

1サイクル治療開始

3時 ガンセンター
初日
ステロイド点滴に続きベンダムスチン(こっちではベンダマスチンと呼ばれている)点滴、5時半終了。
韓国人の看護婦が言うに副作用は2、3日後だそうだ。
血管が中々見付からず針で神経を痛めた為腕が痛い。
抗がん剤点滴はなるべく手の甲に針を刺した方が良いらしい、それも出来れば太い針で。
太い針は青色になっていて、駄目な時は黄色の細い針にして呉れる。
その日は何も無く痛風予防、帯状疱疹予防の薬等を服用して終わる。
体重減少、寝汗。

2016年7月16日

1サイクル2日目

朝から便秘。
件の韓国人看護婦曰く、便秘にはプルーンかプルーンジュースが効くという。

11時半 ガンセンター
ステロイド点滴、ベンダムスチン点滴。
件の韓国人の可愛い女医に腕の痛みを告げるが、数日で無くなると言われ取り敢えず安心。

1週間毎にステロイド点滴を受け、前日に血液採取をする事になる。

2016年7月19~21日

吐き気予防薬服用

2016年7月21日

吐き気予防薬服用

血液採取

2016年7月22日

一時病院に行きステロイド点滴、3時半終了、帰宅後下痢。

2016年7月26日

前夜就寝時寒気を感じる。
午後一時50分頃寒気を感じ、オリエンテーションで貰った体温計で計る。
38度5分から下がらないのでオリエンテーションで言われた通り、救急に行きそのまま入院。
身体中に電極を貼られ点滴、黄色い針にして呉れと言うリクエストも、「我々が一番適切な針を選ぶ」と意地悪そうな看護婦により敢え無く却下。
血圧が88/44迄下がる、好中球減少症の恐れありと言われ、検査する。
それがある限り空きベッドが無いらしい。
結局血圧が戻る迄3泊する羽目になる。
病院飯は不味くはない。
最初のフロアーはホームレスみたいの迄収容されている6人部屋で、翌日血液内科のフロアーに移される。
主治医の回診の時に29日はステロイド点滴の予定になっていると告げると、1週間先延ばしになった。
抗生物質の点滴を続ける限り実際の症状が分からないので退院出来ない、主治医に相談して点滴をやめ、錠剤服用に変更して貰う。
珍しい事に日本人の看護婦に会った、滞豪15年看護婦歴10年だそうだ、英語しか喋らないのでこちらも英語で対応、レバノン系の若い看護婦が仕切ってたのでそれ以上話す機会は無かった。
抗生物質の副作用か、腕に蕁麻疹が出る、ピネイ看護婦に相談するが痒くなる迄様子見になる。

WMサバイバル記録

2016年6月

日本からシドニーに戻ってすっかり疲れきっちまって、ちょっと駅前まで行くにも極度の疲労感で横にならないと回復しなくなった、心拍数も1キロ歩くと100近くなる普段から70台で参る。
何せヘモグロビン10.4でCRP6.8じゃな身動き取れない、ちょっと落ち着いたから主治医の予約しようと思ったら忙しい先生で6月末迄空きがないらしい、一応6月30日に予約を入れた。

主治医は5月は休暇か学会らしい、直接血液内科に直訴すれば割り込めると言われ、日本からの紹介状は開けられないので、主要項目を英訳してスプレッドシートに纏めてfaxしようかとも思ったが、相手に勘違いされて俺が恰も治療を望んでるように取られ、弟子あたりに投薬開始されても困るし保留にした。

資料を送れば順番を割り込めると言うので、日本からの紹介状を開封して送ろうとしたら、大部分が日本語のままの資料で、名前が折角振りがながヤナギタになっているのにわざわざyanagidaに変更してあるし、宛先がnorth sydneyになっているのに、俺がニュージーランドに移住すると書かれていてその上2月25日の結果が結果が悪かったのを俺がマルクを断ったからだみたいに書いてあった。
それでも一応自分で主要項目を英訳した分も含めてファックスしてみたが、結局最初に相談したクリニックの検査内容が十分で無いと却下され、日本語の資料は読めないと却下された。

結局近所のクリニックで検査項目も精査して再度紹介状を書いて貰ったが予約日を覆す事は出来なかった。

2016年6月30日

遂に待ちに待った面談日が来た、先生は此処まで粘ったんだからもう観念した方が良いと言った。
治療を始めない限り悪化するばかりだし、治療を始めれば少なくとも10年間は取り戻せるとも言った。

治療内容を説明し始めた主治医に、シクロフォスファミドは嫌だからベンダムスチン、リツキサンで行けないかと言うと、今説明するから焦るなとたしなめられた。
結局ベンダムスチン、リツキサン治療、所謂BRに決定した。

治療をするに当たって骨髄穿刺をして今までの診断が間違っていない事を確認してから、先に進む事になった。

今の俺に何が出来るか

今国籍離脱者として何が出来るか、WM(血液がんの一つ)サバイバーとして何が出来るか考えているが。

図らずも俺が賞賛するオーストラリアの教育システムも医療システムも哲学が科学に反映している良い例なのである。

俺が日本の特異体質を追求する切っ掛けになったのは、日本では真善美が衣食住に反映していない事である、詰まり哲学が生活に反映していない事だ。

思想と社会が全く関係ない、それは思想が外来だからである。

学校で習った事が社会で通用しない、何故か、教育は建前であり本音が苛めだからである。

日本人は美意識先行型なので真善美も勝手に美善真に並べ替えて真を最後に持って来てしまい、自ら美しい国と自画自賛する。

「日本人はどうしてか教科書に出ている事しか信じない傾向がある、筆者の様に教科書に出ていない事を追求している人間とは自ずと接点すら無い。
日本の心は輸入の学問では解けないと言いつつ、輸入の手法でしか解けないジレンマ、その割には近代文明を構築する普遍主義の普の字も理解していない日本人。」

これはアマゾンから出した『左様ならニッポン』から引用したものだが何せ教科書が無いので自分の文章を引用するしか無いのだ。

今教育に近代文明学総論(俺が造語した)、個人学(俺が造語した)ひいては近代文明、科学を構築する普遍主義を盛り込む事は必須である、先ずは相手を知る事である。

造語しなければ説明すら出来ない翻訳文化の弊害を何とかするべきなのだ。

何故必要なのか、それは日本が近代文明を導入した時に日本語取り扱い説明書(取説)が付いて来なかったからである。

関東と関西で発電機の周波数が違ったり、日立と東芝で原発で使用するパイプの口径が違ったり様々な不具合を生じているではないか。

日本の事は諦めました

又図らずも日本の事を考えてしまったが、下の呟きを見ても既に結論は出てる事に気が付いた。

"日本はどう見てももう一度鎖国時代に戻ってそれこそ国際社会から痛い目に遭わされないと目が覚めないみたいだし、俺はそれに付き合っている時間も無いし、嫌ならやめるという方針から見ても俺が日本人をやめるのが一番だ。"

"補足するが日本人でいる限りこの論も個もない前近代社会、中世の癒着談合隠蔽の世界を見ている限り自分を傷付けるだけだし、移住すれば良いなんて甘い考えで、移民それも市民権獲得、国籍離脱届け提出までしなければ人生を完結出来ないのだ。"

"海外移住にも色々ある、難民、移民、政治亡命等だが、日本の場合難民、政治亡命には当て嵌まらないが、政府から迫害を受けないまでも充分世間から受ける、日本人は警察が要らない程お互いに干渉しあって生きている不思議。"

"今迄「嫌ならやめろ」を座右の銘として生きて来た自分にとってイデオロギーが相容れない国民でいる事に忍びない、既に30年の考察から日本人の文明化は無理だと結論付けた今、最後に残されたものは国籍離脱しかない、日本人でいる限り傷付きまくるからだ。"

"俺としてはオーストラリアに移住するだけでは俺のセオリーは完結しないのだ、日本人である事をやめない限りこの苦痛は付き纏う、矢張り国籍離脱を目指すのが俺の人生を完結出来る唯一の途だと思う。"

日本の事は諦めました。
日本が良くならないなら俺が去るって事で日本を離れた訳で、関係なくなった訳で、正直言って俺に取ってはどうでも良いのよ。

古き良き時代を偲ぶ

中学時代

私は自分からは、柳田國男の孫である事を滅多に言わない。 それでも、どう言う訳か知らない内に何処からとも無く判ってしまうものである。
中学に入学した時、或日担任の教師が近付いて来て、「君は柳田國男の孫なんだってな」と言うので、私は否定する訳にも行かず「はい、そうです」と答えた。
只それだけの事なのであり、会話がそれ以上続く訳でも無いのだ。
小学生の時、祖父の隠居所を訪ねた或日、丁度新しい東京書籍の国語の教科書が出来上がって来ていて、それを欲しがった私に祖母が、「学校に持って行って自慢しちゃ駄目よ」ときつく言った記憶があり、それが耳に焼き付いていたのかも知れない。

渡米

中学の二年生の時、父が交換研究生として米国に一年と少しの間行っていた事があり、末っ子の私を、留守を任された手伝いの人が、甘ったれだった私の面倒を看る事を拒否した為に、アメリカに連れて行かれた事がある。
連れて行かれたと言うのは、当時私は学園生活を満喫して居り、アメリカに一年居た為に、留年するのがいやだったのである。 その事を母に言うと、母は校長にその旨伝えてくれ、校長も快く承諾してくれたのである。
私の当時通っていた麻布学園は昔から一高に入れなかった生徒を受入れていたという事で評判の学校であり、その点は実に自由な良い学校であったと思う。  
これは後で友人に聞いた話だが、その時も私が去った後に、担任の教師が国語の授業で、丁度祖父の「たんぽぽ」だったと思うが教科書の祖父の文を説明しながら、「アメリカに行った柳田は、この柳田國男の孫にあたる」と言ったそうである。
担任の教師も他の生徒に言えない位、私はこの事実に触れない様にしていたのである。
それから一年経って、両親はアメリカにもう少し滞在する事になり、私は単独で帰国する事になった。

復帰

帰国して、学校に報告に行くと、教頭が、「一年もアメリカに行っていたら一年遅れるのが当然だ」と私を又中二のクラスに戻してしまったのである。
今から考えれば教頭として当然の処置をした迄である。
教頭の厳しい処置に憤慨した私は、急いで当時マイアミの研究所に居た両親に手紙を書き、約束が違うとクレームを付けた処、その時も母が早速校長宛てに手紙を書いてくれ、その途端いとも簡単に中三に昇級したのである。
今で言えば帰国子女であるが、アメリカ帰りだけに英語だけは出来た、と言うよりも私に出来る科目は当時英語だけだったのである。
中学、高校の英語の教師の程度は実に低く、例えばレシートのスペルのPを抜かしたり、高校の教師でも、クライシスをクリシスと平気で読んだりする人はざらだったのである。
その度に私は指摘して反感を買った。
教師達は、皆同じ様にむきになってしまい、自分の間違いを認めようとしなかった。
私が前に座っている生徒に、「辞書見せてやんな」と言う迄、逆らって来るのである。
中には、「ウィークリーは柳田の担当だ」と言って、毎回私に読ませる、好意的な先生も居て「柳田、マネージャーの発音やって呉れ」と言って無邪気に喜ぶ先生も居た事には居たが、クリシスと言った新任の教師は、プライドを傷付けられたらしく、「柳田君は、毎回当てますから、良く勉強しておくように」と嫌みを言ったのである。
その時私は「光栄です、お蔭で勉強になります」と嫌みっぽく返した覚えがある。 私は、本当に生意気な嫌な生徒だったのである。
livedoor プロフィール

狂四郎

国籍を超え、年齢を超え、性別(ジェンダー)を超えるをモットーに、南半球で第二の人生を送っています。
最近抗がん剤で血液がんを克服し第三の人生に突入しました。

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皆御説ごもっともです、もう頭が上がりません、あんたらの建前論にはほとほと呆れました、あの国会の醜態があんたらの本音だという事もはっきりしました。 ♪これで心が晴れました、貴方なしで生きることに決めました♪沖を走る潮の流れ見つめながら、私ぼんやり南半球昼下がり♪
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