年金おじさんの会

オーストラリアの市民権を得て第三の人生を送る年金暮らしのおじさんのQOLを追求するサイトです。

WMサバイバル記録

BR治療サイクル3

2016年9月15日

血液採取、毎週血液検査はきつい、10年来使っていた左腕の血管は針を刺しても血が出て来ない様になってしまったので、仕方がなく右腕を使用する様にした。

2016年9月16日

10時からリツキサンの点滴を開始する、100ml、から400ml迄30分毎にスピードを上げて12時で無事終了し、12時30分からベンダムスチンの点滴を開始し、2時40分終了。

2016年9月17日

11時ベンダムスチン点滴開始1時終了。

8月に引き続き、吐き気と怠さに苛まれる、抗がん剤投与後2週間はどうしようもない。

2016年9月30日

2時30分医師面談、結果良し、IgM 5700-3600、ヘモグロビン9.8-12
8年前の状況まで戻る。
医師がIgMはこれ以上下がらないかも知れないが自分としてはハッピーだと言うので、先生がハッピーな限り自分もハッピーですと握手。
当初このままリツキサンの点滴だけ月一で続けるかと先生が言ったが結局10月の4サイクル目を済ませてから結果を見て協議する事に落ち着いた。
血液採取も毎週はしないで良い事になった。

BR治療サイクル4

2016年10月13日

血液採取

2016年10月14日

9:00リツキサン点滴、12:00 ベンダムスチン

2016年10月15日

11:30 ベンダムスチン点滴
看護婦が血管をなかなか探せずステロイドで押した為液漏れで腕に染みが残ってしまった。

2016年11月3日、16日
血液採取

2016年11月17日
2時医師面談

残念ながらIgMの結果が出ていない、どうもテストは高額な為キャンサーセンター依頼じゃないと割愛されるみたいだ。
他の数値からIgMも順調に下がっていると推察される。
因みにヘモグロビンは通常の最低ライン13まで回復。
11月12月と月末にIgMの検査をして一月に再度医師と相談する事に決定した。
来年にはオーストラリアでもイブリティニブが認可されるので見通しは明るい。

WMサバイバル記録

2016年8月4日

9時血液採取9時45分終了

2016年8月5日

2時半に病院に到着したが、手違いで予定がキャンセルされていたが説明して割り込む。
ステロイド点滴。
可愛い韓国人の担当医に蕁麻疹の事を告げ、強い抗生物質から解放される。

2016年8月11日

9時45分血液採取10時10分終了。

2016年8月12日

8時病院到着8時半より治療開始するも、血管が見つからず難儀、10時頃リツキサン(こっちではリタックスと呼ばれている)が到着したのでやっと点滴を開始する。
30分毎にバイタルをチェックするが、血圧が88/44に下がったので中断する。
ステロイドを注入する、看護婦が5時半に済むように点滴速度を計算したが度々の中断で、ベンダムスチンの点滴は日曜日に延期になった。
不幸にも鼻水が出るようになり、鼻の下にも蕁麻疹が出たので再び中断する。
点滴液を増やし少しの間水分だけ点滴、便所に頻繁に行く事になった。
血圧も戻り、蕁麻疹も消えたので点滴再開し6時15分頃終了した。

2016年8月13日

今回も針で神経を痛め腕が痛い。

便秘気味

11時病院到着

ベンダムスチン点滴

2016年8月14日

8時より点滴開始の予定だったが血圧が低過ぎるので開始出来ず点滴液のスピードを上げる。
ようやく開始するも、何れにせよ血圧が少なくとも95に上がる迄帰宅させて貰えない。
ピネイの看護婦から抗がん剤治療中は1日3リットル水を飲まなきゃ駄目だと説教される。
点滴後点滴液のみ点滴し再度血圧を計り、99迄上がったので解放される。
便秘解消の為プルーンジュースを飲み、30分後に解消する。
3日続けての抗がん剤治療で疲労困憊し2度も昼寝してしまった。

2016年8月15~16日

軽度の吐き気を模様すが薬の服用する程ではない。
胃散を服用。

看護婦に少しは歩いた方が良いと言われたので散歩する事に決めた。

2016年8月17日〜20日(土)

矢張り抗がん剤点滴後1週間は副作用の吐き気と怠さに苛まれる。
又点滴後は1時的に体重が増加し、夜中便所に起きる回数が増える。

WMサバイバル記録

2016年7月7日

10時にガンセンターで骨髄穿刺及び血液採取をする。
若いインド人の女医だった、後に韓国人の若くて可愛い女医が回り持ちでラボに異動になったので担当になる。

2016年7月12日

10時にガンセンターで医師の説明を受け、28日x4サイクルの治療を受ける事に決定、そのままキモテラピーのオリエンテーションを受ける。

2016年7月15日

1サイクル治療開始

3時 ガンセンター
初日
ステロイド点滴に続きベンダムスチン(こっちではベンダマスチンと呼ばれている)点滴、5時半終了。
韓国人の看護婦が言うに副作用は2、3日後だそうだ。
血管が中々見付からず針で神経を痛めた為腕が痛い。
抗がん剤点滴はなるべく手の甲に針を刺した方が良いらしい、それも出来れば太い針で。
太い針は青色になっていて、駄目な時は黄色の細い針にして呉れる。
その日は何も無く痛風予防、帯状疱疹予防の薬等を服用して終わる。
体重減少、寝汗。

2016年7月16日

1サイクル2日目

朝から便秘。
件の韓国人看護婦曰く、便秘にはプルーンかプルーンジュースが効くという。

11時半 ガンセンター
ステロイド点滴、ベンダムスチン点滴。
件の韓国人の可愛い女医に腕の痛みを告げるが、数日で無くなると言われ取り敢えず安心。

1週間毎にステロイド点滴を受け、前日に血液採取をする事になる。

2016年7月19~21日

吐き気予防薬服用

2016年7月21日

吐き気予防薬服用

血液採取

2016年7月22日

一時病院に行きステロイド点滴、3時半終了、帰宅後下痢。

2016年7月26日

前夜就寝時寒気を感じる。
午後一時50分頃寒気を感じ、オリエンテーションで貰った体温計で計る。
38度5分から下がらないのでオリエンテーションで言われた通り、救急に行きそのまま入院。
身体中に電極を貼られ点滴、黄色い針にして呉れと言うリクエストも、「我々が一番適切な針を選ぶ」と意地悪そうな看護婦により敢え無く却下。
血圧が88/44迄下がる、好中球減少症の恐れありと言われ、検査する。
それがある限り空きベッドが無いらしい。
結局血圧が戻る迄3泊する羽目になる。
病院飯は不味くはない。
最初のフロアーはホームレスみたいの迄収容されている6人部屋で、翌日血液内科のフロアーに移される。
主治医の回診の時に29日はステロイド点滴の予定になっていると告げると、1週間先延ばしになった。
抗生物質の点滴を続ける限り実際の症状が分からないので退院出来ない、主治医に相談して点滴をやめ、錠剤服用に変更して貰う。
珍しい事に日本人の看護婦に会った、滞豪15年看護婦歴10年だそうだ、英語しか喋らないのでこちらも英語で対応、レバノン系の若い看護婦が仕切ってたのでそれ以上話す機会は無かった。
抗生物質の副作用か、腕に蕁麻疹が出る、ピネイ看護婦に相談するが痒くなる迄様子見になる。

WMサバイバル記録

2016年6月

日本からシドニーに戻ってすっかり疲れきっちまって、ちょっと駅前まで行くにも極度の疲労感で横にならないと回復しなくなった、心拍数も1キロ歩くと100近くなる普段から70台で参る。
何せヘモグロビン10.4でCRP6.8じゃな身動き取れない、ちょっと落ち着いたから主治医の予約しようと思ったら忙しい先生で6月末迄空きがないらしい、一応6月30日に予約を入れた。

主治医は5月は休暇か学会らしい、直接血液内科に直訴すれば割り込めると言われ、日本からの紹介状は開けられないので、主要項目を英訳してスプレッドシートに纏めてfaxしようかとも思ったが、相手に勘違いされて俺が恰も治療を望んでるように取られ、弟子あたりに投薬開始されても困るし保留にした。

資料を送れば順番を割り込めると言うので、日本からの紹介状を開封して送ろうとしたら、大部分が日本語のままの資料で、名前が折角振りがながヤナギタになっているのにわざわざyanagidaに変更してあるし、宛先がnorth sydneyになっているのに、俺がニュージーランドに移住すると書かれていてその上2月25日の結果が結果が悪かったのを俺がマルクを断ったからだみたいに書いてあった。
それでも一応自分で主要項目を英訳した分も含めてファックスしてみたが、結局最初に相談したクリニックの検査内容が十分で無いと却下され、日本語の資料は読めないと却下された。

結局近所のクリニックで検査項目も精査して再度紹介状を書いて貰ったが予約日を覆す事は出来なかった。

2016年6月30日

遂に待ちに待った面談日が来た、先生は此処まで粘ったんだからもう観念した方が良いと言った。
治療を始めない限り悪化するばかりだし、治療を始めれば少なくとも10年間は取り戻せるとも言った。

治療内容を説明し始めた主治医に、シクロフォスファミドは嫌だからベンダムスチン、リツキサンで行けないかと言うと、今説明するから焦るなとたしなめられた。
結局ベンダムスチン、リツキサン治療、所謂BRに決定した。

治療をするに当たって骨髄穿刺をして今までの診断が間違っていない事を確認してから、先に進む事になった。

今の俺に何が出来るか

今国籍離脱者として何が出来るか、WM(血液がんの一つ)サバイバーとして何が出来るか考えているが。

図らずも俺が賞賛するオーストラリアの教育システムも医療システムも哲学が科学に反映している良い例なのである。

俺が日本の特異体質を追求する切っ掛けになったのは、日本では真善美が衣食住に反映していない事である、詰まり哲学が生活に反映していない事だ。

思想と社会が全く関係ない、それは思想が外来だからである。

学校で習った事が社会で通用しない、何故か、教育は建前であり本音が苛めだからである。

日本人は美意識先行型なので真善美も勝手に美善真に並べ替えて真を最後に持って来てしまい、自ら美しい国と自画自賛する。

「日本人はどうしてか教科書に出ている事しか信じない傾向がある、筆者の様に教科書に出ていない事を追求している人間とは自ずと接点すら無い。
日本の心は輸入の学問では解けないと言いつつ、輸入の手法でしか解けないジレンマ、その割には近代文明を構築する普遍主義の普の字も理解していない日本人。」

これはアマゾンから出した『左様ならニッポン』から引用したものだが何せ教科書が無いので自分の文章を引用するしか無いのだ。

今教育に近代文明学総論(俺が造語した)、個人学(俺が造語した)ひいては近代文明、科学を構築する普遍主義を盛り込む事は必須である、先ずは相手を知る事である。

造語しなければ説明すら出来ない翻訳文化の弊害を何とかするべきなのだ。

何故必要なのか、それは日本が近代文明を導入した時に日本語取り扱い説明書(取説)が付いて来なかったからである。

関東と関西で発電機の周波数が違ったり、日立と東芝で原発で使用するパイプの口径が違ったり様々な不具合を生じているではないか。

日本の事は諦めました

又図らずも日本の事を考えてしまったが、下の呟きを見ても既に結論は出てる事に気が付いた。

"日本はどう見てももう一度鎖国時代に戻ってそれこそ国際社会から痛い目に遭わされないと目が覚めないみたいだし、俺はそれに付き合っている時間も無いし、嫌ならやめるという方針から見ても俺が日本人をやめるのが一番だ。"

"補足するが日本人でいる限りこの論も個もない前近代社会、中世の癒着談合隠蔽の世界を見ている限り自分を傷付けるだけだし、移住すれば良いなんて甘い考えで、移民それも市民権獲得、国籍離脱届け提出までしなければ人生を完結出来ないのだ。"

"海外移住にも色々ある、難民、移民、政治亡命等だが、日本の場合難民、政治亡命には当て嵌まらないが、政府から迫害を受けないまでも充分世間から受ける、日本人は警察が要らない程お互いに干渉しあって生きている不思議。"

"今迄「嫌ならやめろ」を座右の銘として生きて来た自分にとってイデオロギーが相容れない国民でいる事に忍びない、既に30年の考察から日本人の文明化は無理だと結論付けた今、最後に残されたものは国籍離脱しかない、日本人でいる限り傷付きまくるからだ。"

"俺としてはオーストラリアに移住するだけでは俺のセオリーは完結しないのだ、日本人である事をやめない限りこの苦痛は付き纏う、矢張り国籍離脱を目指すのが俺の人生を完結出来る唯一の途だと思う。"

日本の事は諦めました。
日本が良くならないなら俺が去るって事で日本を離れた訳で、関係なくなった訳で、正直言って俺に取ってはどうでも良いのよ。

古き良き時代を偲ぶ

中学時代

私は自分からは、柳田國男の孫である事を滅多に言わない。 それでも、どう言う訳か知らない内に何処からとも無く判ってしまうものである。
中学に入学した時、或日担任の教師が近付いて来て、「君は柳田國男の孫なんだってな」と言うので、私は否定する訳にも行かず「はい、そうです」と答えた。
只それだけの事なのであり、会話がそれ以上続く訳でも無いのだ。
小学生の時、祖父の隠居所を訪ねた或日、丁度新しい東京書籍の国語の教科書が出来上がって来ていて、それを欲しがった私に祖母が、「学校に持って行って自慢しちゃ駄目よ」ときつく言った記憶があり、それが耳に焼き付いていたのかも知れない。

渡米

中学の二年生の時、父が交換研究生として米国に一年と少しの間行っていた事があり、末っ子の私を、留守を任された手伝いの人が、甘ったれだった私の面倒を看る事を拒否した為に、アメリカに連れて行かれた事がある。
連れて行かれたと言うのは、当時私は学園生活を満喫して居り、アメリカに一年居た為に、留年するのがいやだったのである。 その事を母に言うと、母は校長にその旨伝えてくれ、校長も快く承諾してくれたのである。
私の当時通っていた麻布学園は昔から一高に入れなかった生徒を受入れていたという事で評判の学校であり、その点は実に自由な良い学校であったと思う。  
これは後で友人に聞いた話だが、その時も私が去った後に、担任の教師が国語の授業で、丁度祖父の「たんぽぽ」だったと思うが教科書の祖父の文を説明しながら、「アメリカに行った柳田は、この柳田國男の孫にあたる」と言ったそうである。
担任の教師も他の生徒に言えない位、私はこの事実に触れない様にしていたのである。
それから一年経って、両親はアメリカにもう少し滞在する事になり、私は単独で帰国する事になった。

復帰

帰国して、学校に報告に行くと、教頭が、「一年もアメリカに行っていたら一年遅れるのが当然だ」と私を又中二のクラスに戻してしまったのである。
今から考えれば教頭として当然の処置をした迄である。
教頭の厳しい処置に憤慨した私は、急いで当時マイアミの研究所に居た両親に手紙を書き、約束が違うとクレームを付けた処、その時も母が早速校長宛てに手紙を書いてくれ、その途端いとも簡単に中三に昇級したのである。
今で言えば帰国子女であるが、アメリカ帰りだけに英語だけは出来た、と言うよりも私に出来る科目は当時英語だけだったのである。
中学、高校の英語の教師の程度は実に低く、例えばレシートのスペルのPを抜かしたり、高校の教師でも、クライシスをクリシスと平気で読んだりする人はざらだったのである。
その度に私は指摘して反感を買った。
教師達は、皆同じ様にむきになってしまい、自分の間違いを認めようとしなかった。
私が前に座っている生徒に、「辞書見せてやんな」と言う迄、逆らって来るのである。
中には、「ウィークリーは柳田の担当だ」と言って、毎回私に読ませる、好意的な先生も居て「柳田、マネージャーの発音やって呉れ」と言って無邪気に喜ぶ先生も居た事には居たが、クリシスと言った新任の教師は、プライドを傷付けられたらしく、「柳田君は、毎回当てますから、良く勉強しておくように」と嫌みを言ったのである。
その時私は「光栄です、お蔭で勉強になります」と嫌みっぽく返した覚えがある。 私は、本当に生意気な嫌な生徒だったのである。

古き良き時代を偲ぶ

アメリカの中学生時代

クリーヴランドの冬は雪が降って、非常にに寒かった。 私達親子が移ったアパートは「レイクビュー・アパートメンツ」という名のごとく、高台の端に湖の方角に向けて建てられた、れんが造りの四階建てか五階建てのビルだった。
前の道は「オーバールック・ロード」という位であるから、湖からの風が吹き付け、配達される牛乳も早く取り込まないと、寒さで瓶が割れてしまう程であった。
一度大事にしていた、小さい頃母からクリスマスに貰ったマフラーを何処かで落としてしまった事があったが、春になって道を歩いていた時、凍り付いた歩道に見覚えのある柄を見付け、掘り出して凄く喜んだのを覚えている。
最初の頃は英語が解らない為にヒステリックになり、家に帰ると大学で同じ様な苦労をしていた父親とよく衝突した。 特に私も父もお互いに、それ迄そんなに年がら年中一緒に生活した事も無かったので、三人の中で一番英語が出来て頼りになる母の取り合いにすぐなってしまった。
狭いアパートで逃げ場も無く、その上私のベッドは居間に置かれていたので、慣れる迄が大変だった。 その頃からパイプを始めていた父は、神経質そうに音を立てながらパイプを吸い、その音がたまらなく気になって、すぐ喧嘩したりもした。 友達が出来る迄は、家ではテレビ位しか楽しみも無くしょっちゅうテレビを観ていた。
父の居た大学の人が私の事を心配して、私をしょっちゅう家に招待してくれ、私と一緒の学校に通っていたその人の娘とその弟達とよく遊んだ。 その人はヨーロッパからの移民で、戦争の時は岩手に駐屯していたらしく、会う度に、「私の知っている日本人は牛と一緒に生活をしていた」と言っていた。
親切な人で、私が郊外のディスカウント・ストアーで買って貰った自転車の組み立てが出来ず困っていれば、工具を持って家迄来て呉れ、あっという間に組立てて呉れたりした、皆とても優しい家族だった。

日本から来ていた先生方も家族で来ている方は、たまに集まってパーティーを開いたりしていた。
大部分が父より若い方ばかりだったので、父も積極的に仲間に入れて貰う感じではなかった。
特に医者の先生は、御実家がお金持ちの方が多く、父とは合わないみたいだった。
日本人は自分が苦労して学んだノウハウを秘密にして、後から来た人間に教えない傾向があり、両親はいつもその事で苦労していたみたいであった。
或時等は、父がある医者の先生に健康保険の加入の仕方を教えて貰おうとして話を伺っていた時、その先生が、自分が如何に要領良くやったか自慢ばかりするので、カッとなって怒るという一幕もあった。

夏休みに入ってから、母の運転するフォードのステーション・ワゴンで色々な所に寄りながら、マサチューセッツ州に向った。 ナイアガラの滝以外は、父の学校関係だったので左程興味は引かれなかったが、お蔭で、コーネル大学とか普通ではなかなか行かない場所にも行く事が出来た。
ボストンに行った時はその古さと暗い重々しい雰囲気に驚かされた。
途中ラウンドアップレイクという湖で釣りをさせて貰った事があった。 ブルーギルとか入れぐいである、その時、向うの人間は釣ってもすぐ返す、所謂、キャッチアンドリリースというのを知った。

ケープコッドの夏は実にのんびりしていて、大西洋の海岸が独特の雰囲気を醸し出していた。夜、防波堤の上から海を見ていると、兜ガニが居たりして実に幻想的な海だった。
昼間は昼間で、フェリーの接岸する桟橋で釣りをしていると、アメリカのお上りさんが寄って来て、私の釣り上げたフグを見て、「食べられるのか」と聞いたりした。 日本人がフグを食べる事を知っていた様子も無かったから、単に見た事が無かったのだろうと思う。
アメリカは広いんだなとその時思った覚えがある。 一度は珍しく、ヒラメを釣り母に刺身にして貰って食べたりもした。 余りにのんびりしてしまったので、帰国する為にニューヨークに向っている時、革靴を忘れた事に気付き、ニューヨークに着いてから慌てて買った程である。 ニューヨークは未だその頃は古くて汚い印象が強く、今から考えればローリング・トウェンティーの様な危険な感じをを彷佛とさせていた。 ニューヨークではエンパイヤステートビル、自由の女神と今でこそ珍しくもないが、当時の中学生としては、格別な思いをさせて貰った思い出がある。

帰りは、ニューヨークから一人で、各地の知り合いの家に泊めて貰い、見物しながらクリーヴランド、ロサンジェルス、ホノルル、ヒロと飛行機を乗り継ぎながら帰路に着いた。 ディズニーランドにも連れて行って貰ったし、ハリウッドも見せて貰い、キラウエア火山ではジープの上から野生のイノシシを見たり、当時としては最高の経験だった。
又、餓鬼が一人で飛行機に乗っていると、綺麗なスチュワーデスがおもちゃはくれるわ、何はくれるわ、挙げ句に五本入りの煙草迄貰って羽田に着く迄実に良い気分だった。
帰りの飛行機にはミスユニヴァースの児島明子さんが乗っていたりした事から見ても、今となっては大昔の事の様である。 只ひとつ残念だったのは、私が気に入っていた一人のスチュワーデスが気象を担当している人間と抱き合っているのを見てしまい、
子供心を傷付けられ、後になってそのスチュワーデスを小田急線の下北沢の駅で偶然見掛ける迄は、航空機事故はスチュワーデスと操縦士がコックピットでいちゃいちゃしている時に起きるのではないかと真剣に考えていた事である。
私の描いていたスチュワーデス像は下北沢の駅のイメージとは掛け離れていたのである。

古き良き時代を偲ぶ

アメリカの中学時代

次に私の入った学校は、クリーヴランド・ハイツにあるロックスボロ・ジュニア・ハイスクールというパブリック・スクールである。 その学校は前のと違い、未だ新しく、近代的で典型的なアメリカの中学校だった。 私はそこでは本来は八年生に入るべき所、英語力が無いという理由で七年生に入れられてしまい、多少プライドは傷付いたが、自分は英語も出来ないので仕方なく諦めた。
ホーム・ルームの教師、所謂担任は器楽の先生で別に習っていた訳では無いので成績発表の時位しか関係無くて良かったが、神経質で意地悪で実に不愉快な人だった。
後の先生達は英語、つまり国語の教師を除いて大方良い先生ばかりだった。
授業は当然皆英語だった為に理解出来ず難儀した。只数学だけは数・を除き、アメリカは遅れているし、英語が出来なくても解ける問題ばかりだったので助かった。
その代わり、英語の教師にだけは嫌がられた。ヒステリーのオールド・ミスでどうしようもないと思った。 英語の出来ない私は、好きな女の子の背中をめがけて消しゴムをちぎって投げる事位しかする事が無く、先生に言い付けられてよく注意された。
いつもドイツ系の厳しい教頭がボートのオール形の板を片手に教室を巡回していて、悪い生徒の尻を叩いて回っていた。 幸いな事に私は特別扱いだったと見え、叩かれた事は無かった。

生徒達は大部分は良い人間ばかりだったが、中にはすれ違い様「ジャップ」と罵るのも居た。
その兄弟は私より遅れて転向して来たのだが、兄も弟も品が無く、他の生徒と比べても質が悪かった。 弟は、たまたま工作の時間が一緒で、私の作品を見て、「見せてくれ」と言われて、こちらが見せると、「テリブル」と一言言って去った。
私の作品も、確か皮のベルトに模様をパンチした物だったと思うが、お世辞にも誉められない、自分でもひどい出来だと思った位の物だから、仕方が無いだろう。
その生徒と後数人の悪だけが、中一のくせに、校庭の隅で煙草を吸っていた。 学校での只一つの楽しみは、食事時間と隣のロッカーのKという女の子が可愛いかった事だけである。
私が入学した時は、男子のロッカーに空きが無く私のだけ女子のロッカーと一緒だったのである。 これももしかしたら差別だったのかも知れないと言うのは、考え過ぎだろう。
今だったら、さしずめセクハラと思ったかも知れない。

食事は、ハンバーガーにピクルス、フライド・ポテトにトマトケチャップやマッシュ・ポテトにグレイビー・ソース、と言った、典型的なアメリカの食事だった。
それ以来、私はアメリカのカフェテリアが好きになってしまった。 前にいた学校では、皆サンドイッチを家で作って持って来ていたので、大違いで、まさにアメリカという感じであった。 一度面白い事があった。食事時間にそばかすだらけの金髪の女の子が寄って来て、一寸指で私を触って、「一寸触ってみたかったの」と言ったのである。
彼女には、余程日本人が珍しかったのだろう。 その学校には、黒人が一人、日系人が一人が居て、私を除いて後は白人ばかりだった。 これは、人種差別はしていないという事を意識的に表示していたのだと思われた。 最近の日本で言えば、女性の課長や部長をわざと一人ずつ置く様なものである。
町に日系人が居なかった訳では無い。 日本人の店も一軒あったし、日本食もどうやら食べられた。

学校には近所に住んでいた同級生と毎日時間を合わせて自転車で通った。
行き掛けのドーナツ屋でドーナツを頬張り、キャンディーを買って、ポケットにそのまま突っ込んで行くのが日課だった。 ある時、市の教育委員会から連絡が来て、イスラエル人の移民ばかり居た、ルーズベルト・ジュニア・ハイスクールという学校に移れと言われ、一時ヘブライ語を喋る連中の中に突っ込まれた事があった。
その時はさすがに難儀した。皆私を、「日本のプロッフェッサーの息子だ」と好意的に迎えてくれたのは良かったのだが、何せ英語の勉強にも何もなりやしなかった。(続く)

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アメリカの中学時代

ハワイを出てから、父の知り合いの生物学者を訪ねる為、ロサンジェルス、サンタバーバラを周り、それからシカゴに行った。 シカゴには当時医者である母方の叔父が滞在していたので立ち寄ったのである。
シカゴは、私が最近柳田家のミッシング・リンクであると思い始めた、叔父であり、宗教学者の堀 一郎氏が滞在していた場所でもあり、私にとっては昔から親しみのある名前だった。
その叔父のお世話になった日系人の方ともお会いした記憶がある。

私達が最後に着いたのが、シカゴのあるイリノイ州の隣に位置するオハイオ州の、五大湖の一つエリー湖に面した工業都市のクリーヴランドという所で、現在でも、アメリカ人に言うと、「へええ」と馬鹿にしたりする位田舎である。 
その頃のアメリカは未だ人種差別が残っていて、日本人がなかなか住めない地区もあった。 たまに医者をやってたりすると、受け入れられていたみたいで、そういう人はもう鼻高々であった。 幾つかの地区に別れていて、一番高級なのがシェイカー・ハイツ、二番目がクリーヴランド・ハイツ、ユニヴァーティー・ハイツと、順繰りに下がって行き、ハイツと付いていれば一応高級住宅地と言われていた。
リトルイタリーと呼ばれているイタリア人街やストリート番号で呼ばれている地区は少し低く見られ、ダウンタウンに近付く程下がってい行くのは他の都市と一緒である。  
何年か前にイタリアで遇ったアメリカ人が、クリーヴランドから来たと言ったので、中学の頃一年間住んだ事があると言うと、「シェイカーハイツか」と聞いたので、「私の居た頃は未だ人種差別があって日本人はあそこにはなかなか住めなかったんだよ」と答えると彼はしゅんとなってしまい、「それは申し訳ない事を聞いた」と、神妙になってしまった事があった。
いくらアメリカ人でも、三十六、七年前の事を言われても、知らなくて当然のことかも知れない。
彼としては、冗談の積りで高級住宅地の名前を挙げただけだったのだが、却って可哀相な事をしてしまった。
面白いもので、上の住宅街に住んでいる人間程体格が良く、中学三年生位からつまり九年生位から、どんどん差が拡がっていっていたみたいであった。
今から考えれば、あれがいわゆるワスプと言われている人種だったのだろう。

私が最初に住んだのは、イースト何番地だか忘れてしまったが、低所得者層の住んでいた場所であった。 その時通っていた学校は、イタリア人街の真中にある、ホーリー・ロザリー・スクールというカトリックの教会で経営している学校だった。
一クラスに何学年も一緒に勉強していて、シスターが体育以外は全て一人でこなしている様な小さい学校である。よく映画等に出て来る寄宿学校みたいな雰囲気だった。 最初の頃は、便所に行けという合図も分らず戸惑った。
シスターは長い定規をいつも持っていて、怒ると生徒の手を机の上に出させ、その定規で叩いていた。 私も一度廊下に立たされた事があったが、未だにその原因は分らずじまいである。 そこには長くは居なかった。それは、シスターが私の母を如何にも開発途上国から来た人間みたいに扱ったからである。
母は、私をもう少し良い学校に入れる為に、父の事を招聘した教授に掛合って、市の教育委員会と交渉し、坂の上のクリーヴランド・ハイツのアパートに引っ越す手配をした。 面白いもので、こう書いていると良く理解出来るのだが、私の父は、日常の俗な事に関してはからきし駄目で、交渉事は全て母の役割だったのである。
母は、父が、マサチューセッツ州にある、ケープ・コッドの臨海実験所に夏に教授と一緒に行くと言えば、四十三歳という年令にもめげず、車の免許をとってしまい、自分の目がハンドルの下に来てしまいそうな位大きな五十六年型のフォード・ステーション・ワゴンを平気で運転してしまう様なタフな人間なのである。 その頃はアメリカでも未だフォード・ファルコンとか、シボレー・コルベアーとかのコンパクトカーが出たばかりで値段が高く、父がその当時向うで貰っていた給料ではなかなか買えなかったのである。(続く)
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日本の特異体質の大部分は、全と無の間を行ったり来たりする聖俗未分離の未開性に起因する。 このオールオアナンの二分法を防ぐには個の確立が必須である、全面勝利か玉砕の二分法、美化か自虐の二分法、ネットウヨかリベサヨかの二分法皆同じだ、本音と建前の戦いとも言える、リベサヨが建前で攻めて来ればネットウヨは本音で応戦する。
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