市中の山居

オーストラリアの市民権を得て第三の人生を送る年金暮らしのおじさんのQOLを追求するサイトです。

古き良き時代を偲ぶ

アメリカの中学時代

ハワイを出てから、父の知り合いの生物学者を訪ねる為、ロサンジェルス、サンタバーバラを周り、それからシカゴに行った。 シカゴには当時医者である母方の叔父が滞在していたので立ち寄ったのである。
シカゴは、私が最近柳田家のミッシング・リンクであると思い始めた、叔父であり、宗教学者の堀 一郎氏が滞在していた場所でもあり、私にとっては昔から親しみのある名前だった。
その叔父のお世話になった日系人の方ともお会いした記憶がある。

私達が最後に着いたのが、シカゴのあるイリノイ州の隣に位置するオハイオ州の、五大湖の一つエリー湖に面した工業都市のクリーヴランドという所で、現在でも、アメリカ人に言うと、「へええ」と馬鹿にしたりする位田舎である。 
その頃のアメリカは未だ人種差別が残っていて、日本人がなかなか住めない地区もあった。 たまに医者をやってたりすると、受け入れられていたみたいで、そういう人はもう鼻高々であった。 幾つかの地区に別れていて、一番高級なのがシェイカー・ハイツ、二番目がクリーヴランド・ハイツ、ユニヴァーティー・ハイツと、順繰りに下がって行き、ハイツと付いていれば一応高級住宅地と言われていた。
リトルイタリーと呼ばれているイタリア人街やストリート番号で呼ばれている地区は少し低く見られ、ダウンタウンに近付く程下がってい行くのは他の都市と一緒である。  
何年か前にイタリアで遇ったアメリカ人が、クリーヴランドから来たと言ったので、中学の頃一年間住んだ事があると言うと、「シェイカーハイツか」と聞いたので、「私の居た頃は未だ人種差別があって日本人はあそこにはなかなか住めなかったんだよ」と答えると彼はしゅんとなってしまい、「それは申し訳ない事を聞いた」と、神妙になってしまった事があった。
いくらアメリカ人でも、三十六、七年前の事を言われても、知らなくて当然のことかも知れない。
彼としては、冗談の積りで高級住宅地の名前を挙げただけだったのだが、却って可哀相な事をしてしまった。
面白いもので、上の住宅街に住んでいる人間程体格が良く、中学三年生位からつまり九年生位から、どんどん差が拡がっていっていたみたいであった。
今から考えれば、あれがいわゆるワスプと言われている人種だったのだろう。

私が最初に住んだのは、イースト何番地だか忘れてしまったが、低所得者層の住んでいた場所であった。 その時通っていた学校は、イタリア人街の真中にある、ホーリー・ロザリー・スクールというカトリックの教会で経営している学校だった。
一クラスに何学年も一緒に勉強していて、シスターが体育以外は全て一人でこなしている様な小さい学校である。よく映画等に出て来る寄宿学校みたいな雰囲気だった。 最初の頃は、便所に行けという合図も分らず戸惑った。
シスターは長い定規をいつも持っていて、怒ると生徒の手を机の上に出させ、その定規で叩いていた。 私も一度廊下に立たされた事があったが、未だにその原因は分らずじまいである。 そこには長くは居なかった。それは、シスターが私の母を如何にも開発途上国から来た人間みたいに扱ったからである。
母は、私をもう少し良い学校に入れる為に、父の事を招聘した教授に掛合って、市の教育委員会と交渉し、坂の上のクリーヴランド・ハイツのアパートに引っ越す手配をした。 面白いもので、こう書いていると良く理解出来るのだが、私の父は、日常の俗な事に関してはからきし駄目で、交渉事は全て母の役割だったのである。
母は、父が、マサチューセッツ州にある、ケープ・コッドの臨海実験所に夏に教授と一緒に行くと言えば、四十三歳という年令にもめげず、車の免許をとってしまい、自分の目がハンドルの下に来てしまいそうな位大きな五十六年型のフォード・ステーション・ワゴンを平気で運転してしまう様なタフな人間なのである。 その頃はアメリカでも未だフォード・ファルコンとか、シボレー・コルベアーとかのコンパクトカーが出たばかりで値段が高く、父がその当時向うで貰っていた給料ではなかなか買えなかったのである。(続く)

古き良き時代を偲ぶ

殺伐としたツイッターの喧騒を離れて、古き良き時代を偲ぶのも又乙なもの、団塊の世代叩き、中高一貫校叩き、東京生まれ東京育ち叩き、いつになったらその恨み辛みの世界から脱却するのさ、墓場まで持って行く気か。

てな訳で俺が初めてアメリカの土を踏んだ時の様子を自伝から抜粋してみよう。

アメリカの中学時代

初めて私がアメリカの土を踏んだのは、祖父が亡くなり四十九日が済んだ、私が中学二年生の時の秋だから、丁度私が十四になったばかりの頃で、未だ外貨持ち出しも制限されて居り、一ドルが三百六十円だった時代である。 飛行機も未だDC8で、確かホノルル迄はパンナムでそれから先はJALだったと思う。 隣の金髪の御婦人がネグリジェみたいな服に着替えていたのに驚かされた記憶が残っている。

パンナムはJALに比べてサービスも悪く、日本人には矢張りJALがいいと感じた。 あの頃は未だ日付変更線を越えた記念に、或いはJALだけのサービスだったのかも知れないし、正式な名称は忘れてしまったが、確か、日付変更線通過記念証とかいう物を発行していた時代である。
座席は日本の柄をあしらった西陣織り風の豪華な生地で出来ていて、同じ生地のパスポート入れを客に配っていて、至れり尽くせりの感じだった。 その頃JALのスチュワーデスは途中で和服に着替え、客に愛想を振りまいていて、父が喜んで熱心に写真を撮っていたのを覚えている。

その頃のホノルル空港は未だ空港ビルが無く、原っぱの真中にテーブルを出して通関手続きをするという様な感じだった。 草いきれがムッとするという感じの第一印象を受けた。 その時空港で出迎えて呉れたのが、丁度その頃ハワイ大学東西センターの招きでハワイに滞在していた、あの、民俗学研究所の解散の引き金となる重大な発言をした、文化人類学者の石田英一郎氏御夫妻である。
これは、民俗学に対する批判的な発言に対し、民俗学研究所の人間が誰も抗議しなかった事を祖父が悲観して、民俗学研究所の解散を決めたという有名な話である。 石田氏は祖父の長兄の孫娘と結婚し、言わば姻戚関係にあった。 当時は、海外渡航が未だ珍しい時代で、知り合いを頼りにするのが極普通だったと見え、私も行く先々で、私の知らない父の知り合いの世話になったのを覚えている。
或いは日本も未だその頃は、昔の大家族主義が残っていて、特に慣れない海外に行ったりするとお互いに助け合っていた古き良き時代だったのかも知れない。

ハワイでは未だその頃皆道を裸足で歩いている方が普通で、却って靴を履いている方が珍しいという時代であった。 私も父にビーチに連れて行って貰い、ビーチボーイから、当時は未だ長かったサーフボードで生れて初めてサーフィンの手ほどきを受けた記憶がある。 私は運動神経が発達していなかったので、ボードの上に立つ事も出来ず、只波に揉まれて海水パンツに砂が入り、じゃりじゃりした思い出だけが残った。 それ以後現在に至迄サーフィンはやった事が無い。(続く)

All of me, why not take all of me!

"日本人に普遍主義を理解させるのは、イスラム教徒にクリスチャンになれと言ってるのと同じで無理だ、聖俗を分離する事で科学ひいては近代文明を発展させた西欧、聖俗一致を唱え普遍主義を拒絶するイスラム、聖俗未分離の前近代中世社会のまま残ってしまった日本、人為とは思えない程次元を超えている。"

ってツイッターでも幾度となく呟いたし、エッセイにも書いたし、それをアマゾンから出版もしたてな訳で、日本人の文明化は天地がひっくり返りでもしなけりゃ無理なので、わしは当面は専らQOLのアップだけを考えて行きたい。

50の時に人格統合を図り自伝をしたためたが、そろそろ終活期に入る、マヌ法典で言や遊行期って言うのか、もう飽きたよウヨサヨごっこは、愛する女房に尽くして生きるわ。

日本の特異体質は考え尽くしたから残るのは国籍離脱への道のりと、WMサバイバーとしての記録だけだ。 後は愛する女房に尽くすだけ、女房が居てくれたお陰で本当に救われたもんな、これだけは幾ら感謝してもし切れないね。

謀痛Ыの全てってのが欲しいんよね、all of me, why not take al of meってやっちゃな、
以前人間はダイアモンドの正52面体みたいなもんだから、一つの切子見て判断してはいけないとか言ってたのが懐かしい、ミクシーのコミュでも同じ、国際結婚だとかなりの人数の仲間がいるけどそれが年の差婚で減り、主夫で更に減る、人格の切り売りって奴よな、そんなもんだよな、だから全人格的なものが欲しいわけ詰まる所が詰まると便秘だけど、詰まる所、快食、快便、快眠こそがベストだって事になるのよね。

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皆御説ごもっともです、もう頭が上がりません、あんたらの建前論にはほとほと呆れました、あの国会の醜態があんたらの本音だという事もはっきりしました。 ♪これで心が晴れました、貴方なしで生きることに決めました♪沖を走る潮の流れ見つめながら、私ぼんやり南半球昼下がり♪
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