アメリカの中学時代

次に私の入った学校は、クリーヴランド・ハイツにあるロックスボロ・ジュニア・ハイスクールというパブリック・スクールである。 その学校は前のと違い、未だ新しく、近代的で典型的なアメリカの中学校だった。 私はそこでは本来は八年生に入るべき所、英語力が無いという理由で七年生に入れられてしまい、多少プライドは傷付いたが、自分は英語も出来ないので仕方なく諦めた。
ホーム・ルームの教師、所謂担任は器楽の先生で別に習っていた訳では無いので成績発表の時位しか関係無くて良かったが、神経質で意地悪で実に不愉快な人だった。
後の先生達は英語、つまり国語の教師を除いて大方良い先生ばかりだった。
授業は当然皆英語だった為に理解出来ず難儀した。只数学だけは数・を除き、アメリカは遅れているし、英語が出来なくても解ける問題ばかりだったので助かった。
その代わり、英語の教師にだけは嫌がられた。ヒステリーのオールド・ミスでどうしようもないと思った。 英語の出来ない私は、好きな女の子の背中をめがけて消しゴムをちぎって投げる事位しかする事が無く、先生に言い付けられてよく注意された。
いつもドイツ系の厳しい教頭がボートのオール形の板を片手に教室を巡回していて、悪い生徒の尻を叩いて回っていた。 幸いな事に私は特別扱いだったと見え、叩かれた事は無かった。

生徒達は大部分は良い人間ばかりだったが、中にはすれ違い様「ジャップ」と罵るのも居た。
その兄弟は私より遅れて転向して来たのだが、兄も弟も品が無く、他の生徒と比べても質が悪かった。 弟は、たまたま工作の時間が一緒で、私の作品を見て、「見せてくれ」と言われて、こちらが見せると、「テリブル」と一言言って去った。
私の作品も、確か皮のベルトに模様をパンチした物だったと思うが、お世辞にも誉められない、自分でもひどい出来だと思った位の物だから、仕方が無いだろう。
その生徒と後数人の悪だけが、中一のくせに、校庭の隅で煙草を吸っていた。 学校での只一つの楽しみは、食事時間と隣のロッカーのKという女の子が可愛いかった事だけである。
私が入学した時は、男子のロッカーに空きが無く私のだけ女子のロッカーと一緒だったのである。 これももしかしたら差別だったのかも知れないと言うのは、考え過ぎだろう。
今だったら、さしずめセクハラと思ったかも知れない。

食事は、ハンバーガーにピクルス、フライド・ポテトにトマトケチャップやマッシュ・ポテトにグレイビー・ソース、と言った、典型的なアメリカの食事だった。
それ以来、私はアメリカのカフェテリアが好きになってしまった。 前にいた学校では、皆サンドイッチを家で作って持って来ていたので、大違いで、まさにアメリカという感じであった。 一度面白い事があった。食事時間にそばかすだらけの金髪の女の子が寄って来て、一寸指で私を触って、「一寸触ってみたかったの」と言ったのである。
彼女には、余程日本人が珍しかったのだろう。 その学校には、黒人が一人、日系人が一人が居て、私を除いて後は白人ばかりだった。 これは、人種差別はしていないという事を意識的に表示していたのだと思われた。 最近の日本で言えば、女性の課長や部長をわざと一人ずつ置く様なものである。
町に日系人が居なかった訳では無い。 日本人の店も一軒あったし、日本食もどうやら食べられた。

学校には近所に住んでいた同級生と毎日時間を合わせて自転車で通った。
行き掛けのドーナツ屋でドーナツを頬張り、キャンディーを買って、ポケットにそのまま突っ込んで行くのが日課だった。 ある時、市の教育委員会から連絡が来て、イスラエル人の移民ばかり居た、ルーズベルト・ジュニア・ハイスクールという学校に移れと言われ、一時ヘブライ語を喋る連中の中に突っ込まれた事があった。
その時はさすがに難儀した。皆私を、「日本のプロッフェッサーの息子だ」と好意的に迎えてくれたのは良かったのだが、何せ英語の勉強にも何もなりやしなかった。(続く)