カフェと本なしでは一日もいられない。

カフェ通いと読書に明け暮れる日々。 ⓒatelier.sumire.gingetsu

人生が完成する日

夕暮れ
子午線のある街の夕暮れ


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庭のミモザが満開になりつつある。






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『ふたりからひとり ときをためる暮らし それから』(自然食通信社)




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かつての私と今の私を比べてみると、いちばんの違いは(外見は横に置いて)食生活だと思う。デザートバイキングには行かなくなったし、あれこれ手をかけるよりも、素材そのものの味をいかしたものの方がおいしいと思うようになった。最近の食生活のベースに玄米菜食の食事があることも影響しているのだろう、時に破目ははずすものの、バターたっぷりのこってりしたものを口に入れたいとは思わなくなった。豪勢な食事に誘われると、以前は、よしッ! と腕まくりをせんばかりに意気込んだものだが、最近は、どうしようか、とむしろ悩んでしまう。食いしん坊には変わりないが、コテコテしたもの、ギラギラしたものには食指が動かなくなってしまったのだ。
もしかするとこの傾向は、読書にも影響を与えているかもしれない。最近の私は、早春の陽射しのようでありながら、滋味あふれる本に心惹かれる傾向がある。

『ふたりからひとり ときをためる暮らし それから』(自然食通信社)を読み終わった。
つばたしゅういちさん、英子さんのことは雑誌に掲載された記事で知り、こういう暮らしっていいなぁ、と思った記憶があるが、この度の『人生フルーツ』でお二人の暮らしに再会したことがきっかけで、ゆるやかに読み始めた一冊である。
以下はこの本の内容紹介。

「70種の野菜と50種の果樹に囲まれたキッチンガーデン。老いていく身体への負担を工夫した道具たち。山を削った造成地に丸太小屋を建てて木を植え、土を耕し、自分流に手間ひまをかけて、ていねいに生きてきたつばた英子さんとしゅうちさん。ふたりの積み重ねた歳月は、いつしか65年のときをためて、ひとり暮らしへと踏み出した英子さんをやさしく見守ります。『ききがたり ときをためる暮らし』から4年。その後のふたりの日々と、しゅういちさん亡き後の英子さんの暮らし―。愛らしくも潔い89歳の心豊かな日々をお届けします」。

プロローグ「人生が完成する日━━しゅういち」で、「私はいつも未来に向かって生きてきたので、未来が短くなったいまも、その習慣から抜け出せないでいます」、自分の死とは「私の目論んだ人生模様が、完成する日」といったサマセット・モームの言葉をしゅういちさんが引用しているのだが、そうした言葉がお二人の人生に重なり、こんな風にひとつずつ、時をためるようにして仕上げてゆく人生時間のことを思った。
どんなに心穏やかに暮らしていても、人生にはさまざまな変化が否応なしに起こる。だが、そのときどきの流れにあらがわず、ゆるやかに乗り換え、つきあってゆく。だが、自身の軸はぶれない。静かだが骨太。そんな二人の姿がそこにある。

◎ときをためるって、つないでいくということですものね。自分たちの世代より、次の世代が豊かな暮らしができるよう、つないでいかないと。(英子さんのことば)

◎ときをためて集めてきたものには、ストーリーがあるから、あとの人へとつないでいってほしい。(英子さんのことば)

◎「いつも一の矢、二の矢、三の矢を持っていて、一がダメなら二を、二がダメだったら三の矢を放て」(しゅういちさんの上司のことば)

◎「女房にほれろ、仕事にほれろ、地域にほれろ」(しゅういちさんの先輩のことば)

◎未来は大事だけど、いまを大事に生きることのほうが大事。(英子さんのことば)

◎老いたら老いたなりに、道具とうまくつきあっていく。体力があった頃と比較しないことですよ。 (しゅういちさんのことば)

◎長い時間をためたひとつのストーリーを届けられれば……、それが年寄りの仕事かなと思っているんです、僕たちの生き方を。ひとり、ひとり、暮らしていくうえでの何かの知恵のような、次の世代に何かを伝えるためのそういうストーリーをと。(しゅういちさんのことば)

☆3月の「すみれ図書室」は、3月26日(日)の午後2時からです。

2017.2.26 すみれ図書室の記録

20160926_170116DSC_03803DSC_0427福岡カルメル会お菓子DSC_0428オレンジケーキ材料名








左上:すみれ図書室 
左真中:すみれ図書室通信Vol.3 
真中右:修道院のおやつ 
左下:福岡カルメル会修道院のオレンジケーキの材料。マーガリンやショートニングは使われていません。



2017.2.26 すみれ図書室の記録

寒かった冬も終わり、やっと春の兆しが感じられるようになった。たったそれだけのことなのに、気持ちが妙にウキウキする。
薄田泣菫の「詩は良剤」という随筆の中に、こんな一文がある。

「私ひとりにとつて詩と同じやうに、ことによつたらそれ以上に治病の効果があつたのは、自然の観察━━とりわけ草木の、どちらかといへば、静寂で、むしろ単純極まるその生活を凝視することであつた」

どんなに寒くても、どんなに暑くても、天気のいい日には陽当たりのいい庭先に出て、草木の本然の姿を見るのが楽しみだった。草木は健康そのものの有難ささえ知らぬかのように長生きし、また再生する。高い空のもとにひとりぼっちで立っている━━。
泣菫は、健康そのもの、再生してゆく草木の姿に自らの憧れを重ねていたのかもしれない。

「明るい日光の中で、さうした草木の種々相を凝視してゐることによつて、私はなにほどか私の持病を忘れ、その苦しみを軽くすることができるのだ」

自然観察が「自分の病によく利く合薬(あいぐすり)」であり、泣菫はそれを調合して服用していたのである。
春の兆しを感じ、明るい陽射しを浴びることが出来る今頃の季節になると、心は妙に弾み、寒さにかたくなっていたからだも、細胞も、ゆるやかにほどけていくような気持ちになる。泣菫ならずとも、自然を感じることは、気持ちを明るくする合薬なのだと思う。
この日はチップルソンに立ち寄って、最近のお気に入りである塩パンとトーストパンを買い、すみれ図書室に向かう。
まず部屋の窓を全開にして空気を入れ替えながら掃除に取りかかったものの、陽射しがあまりにキラキラしているので、掃除を中断して窓辺の椅子に座り、しばし瞑想をする。だが、時間やスケジュールを気にしている今日の私は雑念だらけ。瞑想をあきらめて、小林健先生の『波動薬供戮CDを流しながら、掃除をする。隣の部屋も、キッチンも、トイレも、頑張ってキレイにする。朝起きたら、ハッピーバースデーと自分に言う。大きなお便りがあったら、サンキュー! と言う。I’m super good! と声に出す。そんなメッセージが波動薬のCDから聴こえて来る。
今日の修道院のおやつは、福岡カルメル会修道院のオレンジケーキ、チョコレートケーキ、フルーツケーキとクッキー。どのケーキも、箱を開けるといい匂い。修道院のハーブ園や果樹園の景色を思い出させる匂い。
仕入れることは可能ですか、と尋ねたところ、「ギリギリでやっているので値引きは出来ないので、お売りになるときは送料分を少し上乗せしてくださいね、儲けにならなくてごめんなさいね」と謝って下さったのだが、送料はこちらで負担することにして、購入価格のままで販売することにする。
修道院から届いた荷物を開けると、手作りのメッセージカードが入っていた。すみれ図書室に参加させてくださってありがとうございます、というお礼と、私が取材で訪ねたとき、クッキーを焼いていたシスターが現在は90歳になり、修道院長様になられたという報告、そして、神のお恵みがありますように、という祈りの言葉が書かれていた。読みながら、心に光がさす。
ひと通りの準備が終わったところでお昼ごはん。黒豆入り玄米、あずきカボチャ、大根と白菜と油揚げの煮物、たくあん、梅干し、というシンプルな献立。『食べ物を変えると、からだも、運命も変わります』の著者である岡田恭子先生から、「おかずの量がご飯をこえないように気をつけてね」と言われているので、ご飯とおかずの量はだいたい6対4位を守っている。だが、私は半端じゃない量のお米を食べるので、今日は7対3位だったかもしれない。それなのに、誘惑に勝てず、チップルソンの塩パンを一個、追加で食べてしまう。
時計を見ると、一時半を過ぎていたので、ヨシッ、と腕まくりをするような気持ちで準備の続き。今日のお茶、福岡カルメル会修道院製のハーブティーのためのお湯を沸かしながら、部屋の黒板にメッセージを書く。この日は田辺聖子さんの「ロマンチックとは」を書く。ロマンチックとは泣くかわりに微笑むこと……大好きな言葉だ。
お茶の準備をしながら、ハーブティーの袋に書かれていたメッセージを読む。「修院の丘に植えられたハーブは薬樹と共に今津湾を渡る潮風や小鳥の囀りを聴き、美しい夜空の星星を眺めて育ち、明るい陽ざしを浴びた自然育ちの薬香草です」。読んでいるだけでいい気持ちになる。修道院のお菓子や手紙に添えられているメッセージはどれもこれも本当にすてきで、私の魂をやさしい言葉で包んでくれる。お土産用に用意したハーブソルトを手に取ると、ハーブの粉末かと思うくらいの深緑色。たっぷりのハーブが配合されているのだと思う。
いつものように、あっという間に2時になったので、慌てて外に看板を出しにゆく。空が青い。雲は白い。風は心地いい。マザーグースの歌みたいな気分になる。
来て下さった方々からたくさんのことを教えていただき、いつものようにものすごく祝福に満ちた時間でした。本当に、返す返す、訪ねて来て下さったみなさまのおかげです。ありがとうございました。
☆来月のすみれ図書室は、3月26日(日)の午後2時からです。

「キュッとやめよう、前向きのことを考えよう、歩きだそう」

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左:春近し。銀月アパートメント 右:チップルソンの塩味パン







「キュッとやめよう、前向きのことを考えよう、歩きだそう」
これは『91歳の人生塾』(清川妙著 小学館)で出合った言葉。
幼い頃、悲しいことがあって泣いていると、お母さんからこんな風に言われたそうだ。
「かしこい子はキュッとやめなさい」
キュッとやめるっていい言葉だな、と思う。”キュッ”という言葉には楽しい響きもあるし、清川妙さんのエッセイではおなじみのクイックアクションにも通じるものがある。ボトルのキャップをキュッと締めるように、悲しい気持ち、暗い気持ちにキュッと蓋をして、キュッと明るいイメージに切り替えよう、そんなイメージが自分の中で出来上がる。

先週書いていた文庫の解説で「天職」という言葉を使ったので、しばし天職とは何だろう、どのようにして人は天職に巡り合うのだろうとぼんやり考えていた。そして、ある日、ふいに出合うのではないかと思い至った。啓示のように。
多分、私たちは、天職らしきものには、その時は気がつかないかもしれないが、ぼんやりと出合っているのだと思う。授業で何かを習ったとき、何かを見たとき、何かを読んだとき、人それぞれ、そのときは違うだろうが、ぼんやりと「こういうことがしたい」とか、「これが好き」とか思い始める。そして、そのときから、知らず知らず、未来でその確信に出合うための用意、条件づくりをするようになる。そして、ある日、ときが満ちて「天職」に巡り合うのだ。ただし、とき満ちて、巡り合うためには、知的預金というか、したいこと、なりたいこと、そういう思いの壺にさまざまなものが満ちていないといけない。
とにかく、長い時間をかけて満ちるものがあり、天職に巡り合ったとする。そして、これをやってゆこうと決めたとする。だが、一筋縄ではいかないのが天職である。さまざまなお試しがやって来る。好きなことやしたいこととずっと一緒にいるってことにはかなりのエネルギーと覚悟がいるものなのだ。
お試しによって覚悟を問われたとき、するべきことは、どうやってそれを乗り越えようかな、というバネを心に持つことである。「向いていないんじゃないかな」とか「やめようかな」と自分に言い訳をすることではない。そう言い訳をするということは、ふり出しに戻ることであり、せっかくのチャンスは取り上げられてしまう。サイコロの目で言うと、乗り越えようと思うことは「進む」ことを意味し、弱気になったり、くじけてしまったりすることは、「戻る」ことを意味するのだと私は思う。
こんな風に書いてはいるものの、私自身、お試しに負けそうなことはしょっちゅうある。そんなとき、「キュッとやめよう」という言葉が魔法の呪文になる。そうだ、キュッとやめよう、歩きだそう。キュッとクイックアクションで。キュッときっぱり。有り難い言葉をもらったと思う。
最後に、先の清川妙さんの本の中から、心がキュッとなる言葉を。

夢や願いを思い続けることは、とても大事なことだが、思っただけではだめなのだ。すこしでも形になるように行動していく努力が必要なのだ…

苦い経験こそ、人生のばねなのだと思う。

「いつかやってみたいわ」「そのうちに時期が来たら」と言っているうちは、何も始まらない。「いつか」「そのうち」は、永遠に引き延ばされていくものだ。
 もし、今、したいということがあるのなら、引き延ばさずに、すぐに挑戦してみることをお勧めする。
 いくつになっても挑戦する気持ちに、ちょっとした決意。それがあなたの世界を、思いもしないかたちで広げてくれるのである。




発酵ランチと無人販売のテンペ

発酵ランチ@ワトト発酵ランチ@ワトト
画像が暗いのですが、1月30日の発酵ランチと発酵スイーツ@cafe watoto.


発酵ランチ。この言葉の響きはとても私の心をひきつける。
発酵……。目に見えない世界のイキモノたちと食べ物がつながり、私がつながる。敵じゃなく、味方としてつながっている。このイメージが私をしあわせな気分にしてくれる。
以前から気にはなっていたのだが、この度、cafe watotoの発酵ランチを味わってみようと最終日を予約し、出かけた。去年の秋にも「発酵ランチ」が提供されていたのだが、その時は叶わなかったので。
到着すると、平日だというのに駐車場は満杯状態で、店内もお客様で一杯! ちなみに、cafe watotoはかなりな山の中にあり、途中に看板も出ていない。それなのにこの満席状態……すごい。
さて、この日の発酵Lunch メニュー

・蕪と白菜の糀漬け 豆乳味噌グラタン
・野菜サラダ 自家製甘酒ドレッシング
・テンペのニラ醤油糀ダレ
・梅ととろろ昆布のお吸い物
・島光の無農薬・無化学肥料のお米
・デザート(甘糀とサツマイモのクリームブリュレ風・酒粕のチーズケーキ)
・飲み物 

食事をしていると、隣のテーブルの人たちの会話が聞こえてくる。聞き耳を立てているわけではないので断片的にだが、「波動」とか「量子」といった単語が。何気なく見ると、女性の二人連れ。ふ〜む、興味深い。
ところで、この日のメニューにあるテンペは、「滋賀県でインドネシア人のLustonoさんが作っている本場のテンペ」と説明がある。多分、大津市の葛川というところで作られているのだと思う。一度チエックしなければ、と思いつつ、通り過ぎてしまっているのだが、山間の小さな集落にテンペの無人販売の冷蔵庫があると聞いたことがあるのだ。場所のあたりはついているので、近いうちに行ってみよう。そして、今年は島光さんの糀で味噌を作るつもりで何キロも買い込んでいる。使う糀の分量を調整して、甘酒と塩麹も作ろうと思っている。


百年の梅仕事

DSC_0308銀月アパートメントの枝垂桜の冬芽







DSC_0323『百年の梅仕事』(
乗松祥子 塩野米松聞き書き 筑摩書房)







梅干しは一度だけ漬けたことがある。
初めての梅干し作りに挑戦したその年、身内が入院していた。カビをはやすと縁起が悪いと、梅干し作りをスタートさせてから知った私は、祈るような思いで、一生懸命、細心の注意を払いながら作業を進めた。白状すると、どうしてこんな時に梅干しを漬けようと思い立ってしまったのだろう、と後悔していた。家族が入院中の梅干し作りは、とにかくリスクが高すぎた。
それでも何とか無事に梅仕事を終えたものの、ドッと疲れてしまった。以来、梅干しには一度も挑戦していないが、このときに漬けた梅干しは今でも少しだけ甕に残っている。梅酢はゼリー状に固まり、薬効も高そうに思える。残り少ないその梅干しを一粒ずつ、ありがたく薬のように味わっている。
先日、『百年の梅仕事』(筑摩書房)という本を知り、早速取り寄せてみた。
梅仕事に没頭して40年という著者の乗松祥子さんは、奈良の医院、神戸、東京の会社勤めの後、辻嘉一の茶懐石料理「辻留」銀座店に勤め、さまざまな人に会い、学ぶ中、100年を超える梅干しがあることを知り、梅仕事に目覚めた方。そしてこの本は、100年を超える梅干に出会ったために、その後の人生を梅仕事にかけてしまった乗松祥子さんの半生の記録でもある。
乗松さんは、この本の中でこう話している。
「梅干しを漬けようという人間の心映えといいますかね。こういうふうに漬けたいという思いが、できあがった梅干しに出るんじゃないでしょうか」
「やっぱりせっかちにモノを作るというのは無理な話なんですよ。だから人間もそれに沿って少し戻るべきだと思いますねぇ」
「一番大切なのは太陽に当てられるかどうかっていうことです。マンションに住んでいらっしゃるんだったら、もうそれこそシートを敷いて、太陽の力を借りて干してください。太陽はお金掛かりませんからね。
 (中 略)
 太陽の恩恵ってのは計り知れないなと思うんですよ。それなのに現代は、何故この太陽という恩恵をわすれて、空調で乾かして、一日も太陽で干さないモノを高価な値段で、売らなきゃいけないかって思いますよ。これはとっても悲しいことです」
梅仕事にまつわるたくさんの智慧と共に、辻留の店主・辻嘉一の興味深いエピソードや、三島由紀夫、白洲正子、谷川徹三、幸田文の名前も。
梅仕事と乗松祥子さんの人生━━その道を極めた人の話は実に興味深く、人には天職というものがあり、それは天から呼ばれる、選ばれるのだと改めて思ったことだった。
「ある梅おばさんの人生、辻嘉一の知られざる一面、昭和という時代の断面が、この本から垣間見えてくれば幸いです」(聞き書き者あとがきより)


すみれ図書室 2017.1.29日の記録

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堀川紫明の交差点。夕方近くになって雨が降り出した。


DSC_0315宝塚から足を運んでくださったTさんといつものように『ひよこ』で、おばあの田舎飯を。ハンバーグかししゃもの天ぷらかを選べたので、私はししゃもの天ぷらを。

すみれ図書室通信2すみれ図書室通信Vol.2




2017.1.29日のすみれ図書室の記録
(とりとめもなく書いておく)。

今年初めての「すみれ図書室」は1月29日(日)だった。
いつ頃スタートさせたのかなぁ。すみれ図書室に来て下さった方々に、簡単な文面だが、お礼の気持ちを込めて、手書きの手紙を書いていた。だが、書き足りない思いがあり、というか、お知らせしたことがたくさんあることに気づき、先月から「すみれ図書室通信」を手作りすることにした。今月の詩、今月の随筆、今月の言葉、今月の絵、鞍馬口通りMAPを掲載したA4サイズ、4pから6pの簡単なものだ。*体裁は変えてゆくかもしれない。12月のテーマは「クリスマス」、1月のテーマは「虹を織る」だったが、今後は作家を特集したりしてみたい。だんだん雑誌になってしまわないだろうか、という懸念あり。
この日の朝は晴れていた。夕方から雨になる予報だが、このまま晴れていて欲しいと思う。家族を銀月アパートメントまで送ってゆくと、入口の三角屋根の西側の部屋の「銀月サロン」では春節のお茶会が開かれるらしく、テーブルが美しくセッティングされていた。窓や部屋の雰囲気というのは不思議なもので、ウクレレ教室を開いている角部屋と三角屋根のそばの部屋では光の入り具合が全く違う。丸窓、吹き出し窓の角部屋はゆるゆると光が入り込むのだが、四角い窓のお茶会の部屋はやわらかい光がテーブルの上に後光のように射し込んでいる。
銀月アパートメントを後にして、さまざまな用事を済ませ、途中、「雨の日も風の日も」に寄って玄米吟醸パンを買う。いつもなら途中、玄武神社にお参りするのだが、今の私は喪中なので、鳥居をくぐることが出来ない。鳥居の前で一礼だけして「すみれ図書室」に向かう。
途中の路地のあちこちに雪が残っていたが、空は晴れて、白い雲がいくつも浮かんでいる。私は森茉莉さんの「市井俗事」というエッセイが好きなのだが、こんな空に出合うと、その中の一文を思い出す。

「淺草での私の生活は、生涯忘れる事の出来ない、樂しい生活であった。嘘のない、美しい生活であった。窓から見る淺草の空は、いつも青く晴れていた」。

いい文章です!
部屋に入ると、まずするのは窓を開けること。窓を全開にして風を入れ、持参した小林健先生の波動薬CDをかける。この波動薬CD2について、小林健先生のブログから引用してみる。
「このCDを聞いているとき、またはバッググラウンドミュージックのように流しているだけで、除霊や各種機能の調整、環境の改善として量子エネルギーとして受け取って頂けることができます」
ならば、とかけてみた次第。
続いて部屋を掃除し、庭から摘んできた水仙を飾る。すごく強烈でフレッシュな香りが部屋を包み始める。水仙の香りの中で、相川圭子さんの「太陽への感謝の祈り」をする。雨の予報だが、室内には、太陽の光がたっぷり届いている。
「すみれ図書室」では、毎回、さまざまな修道院のお菓子を用意しているのだが、今回用意したのは、十勝カルメル会修道院のチョコレート菓子。ホワイトチョコレートとブラックチョコレートのパウンドケーキ、アーモンドをチョコレートコーティングしたアマンド、トリュフチョコ、板チョコ、アーモンドダイスとシリアルをイチゴチョコとホワイトチョコで固めたサクサク、そして、ラムレーズンのクッキー。全部、おいしい! いつか京都で修道院のお店を開きたい、そんな思いもムクムクと。でも、「仕事がいっぱいたまっているじゃない!」という心の声が聞こえてきたりもして。いつか、西へ向かい、どこか森の中、あるいは海辺のまちに住んで、本を作ったり、修道院のお店を開いたり、そんな生活をしてみたい気がする。夢としてキープしておこう。
部屋にある「今月の黒板」。どの詩、どの言葉、と迷ったが、部屋の水色の黒板には、新川和江さんの詩を書く。
気が付いたら1時をまわっていたので、急ぎランチ。用意してきたお弁当を食べる。中身は、黒豆入り玄米、小豆かぼちゃ、ひじきレンコン、水菜のごまよごし、たくあん、大豆ハンバーグ。ランチを食べながらお湯を沸かし、お茶の用意をする。今日のお茶は、静原のハーブティー。本当は宇治の小さな農園のほうじ茶のつもりだったのだが、持ってくるのを忘れてしまった。いつもならご神水を神社でくむのだが、今は境内に入れないので、お寺の湧水を使う。
写真を撮り忘れたが、新たに小さな看板を作った。食事のあと、その看板といつもの看板をビルの角に出しに行く。空は変わらず晴れていた。
予定通り、2時にオープン。次々にお客様が来て下さった。こんなに小さな場所なのに、と本当にありがたい。何時間もかけて遠くから足を運んでくださった方も何人か。こうして足を運んでくださる方々のためにも、「何かすてきなこと」を用意したいと思うのだが、何が出来るのか、今は手探り状態だ。
実は去年から、いや、一昨年からか、不思議な人たちに巡り会う。さまざまなパワーを持った人たちだ。私にもそのパワーが宿らないものか、と時々強く思う。会う人を癒すパワー、会う人を元気にするパワー、のようなもの。もし得られたとしても、そのパワーを仕事とする気はないが━自分なりの天職に巡り合っているので━発光体のように(こういう使い方で合っているのかな)さりげなくそうしたパワーを出会う人たちに放ちたい。
それはともかく、本をゆっくり読んでほしいと思いつつ、ついついお喋りに夢中になってしまい、反省。でも、ちょっとしたサロンのような雰囲気にもなって来ていて、来てくださった方々との情報交換も楽しい。いつも新しいことを知り、新しい感動をもらっている。『紅茶と薔薇の日々』と『贅沢貧乏のお洒落帖』用の手作りのすてきな栞もいただいた。
ほぼ毎朝のように米村春美先生のおみくじについてTweetしているのだが、米村先生のおみくじの本を2冊持参で来て下さった方もあった。私の周辺で、おみくじの本がこうして少しずつ広がりを見せているのはとても嬉しいことだ。
いつも宝塚から2時間以上かけて来て下さるTさんから、「今日は『源氏物語』のお当番で行けそうにないのよ。残念だわ」と前日に連絡をもらっていたのだが、4時頃、電話があった。「今終わったから、これからうかがうわね」。「来月もありますから、無理なさらないで」と伝えたのだが、「いいの、いいの。あなたと会って、お喋りするのが楽しみなんだから」とTさん。お天気はどうだろう、と思い、外を見ると、しとしとと雨が降り出していた。
いづれにしても、いつものように、あれこれうれしいことばかりの一日となった。
☆2月の「すみれ図書室」は、2月26日(日)の午後2時からです。

『病を根本から治す 量子医学 ─古くて新しい魔法の健康法━』

DSC_0110DSC_0109『病を根本から治す 量子医学 ─古くて新しい魔法の健康法━』(小林健 キラジェンヌ刊)





『病を根本から治す 量子医学 ─古くて新しい魔法の健康法━』(小林健 キラジェンヌ刊)を読んだ。
冒頭の「なぜ、これからは量子医学なのか?」というメッセージの一部を書き出してみる。

「私たちの身体には、元々は「病気」というものは存在していません。だからみなさんが一般的に「病気」と呼んでいるものは、ただ身体が警告として出しているサインのひとつに過ぎません。
(中 略)
量子医学とは、アーユルヴェーダやチベット医学、ホメオパシー、アロマテラピーなどと同じ原理で、最新の医療機器には頼らずに、ただ「人の生命の根源に立ち返って病気を改善していく」という種類の医療になります。
     (中 略)
私がこの本でみなさんにお伝えしていくことは、多分どなたにとっても初めて聞く内容ばかりかもしれません。末期ガンですら、数日で消えてしまう”魔法のような医療”が現実にあるとは信じ難いでしょうが、私がこれから本の中で語ることは紛れもない真実なのです」

そして、ここから続く七章の中で、さまざまなことが語られていくのだが、読んでみて思い出したのは、メーテルリンクの『しあわせの青い鳥』だった。
しあわせになる青い鳥を探すために遠くまで旅をし、様々な事件や出来事があったが、実は、青い鳥は近くにいた。本当のしあわせは、遠くではなく、すぐ傍にあったことに気づくのだが、気づいたとたん、青い鳥は去ってゆく──というストーリー。読み返していないのでうろ覚えだが、しあわせというのは、何処かにあるものでもなく、与えられるものでもなく、モノのように手に入れるのではなく、自分の内面から作り出すもの、ということか。気づいたとたんに去ってゆくというのは、自分の内面に青い鳥の存在を置くことが出来たからではないだろうか。
さて、私たちは病気になればお医者さんに、と思うし、自分で出来る処方で簡単に治るような症状であっても、すぐに薬や注射に頼ってしまいがちだ。私自身、薬のCMをみるたび、ある症状があると安易に「はい、薬」となってしまうような気がして、ため息が出てしまう。どうしても薬が必要な場合はもちろんあるだろうが、そうじゃない場合、その前に自分で出来る手立てはあるんじゃないか、まずそれを試してからでもいいんじゃないか、とおせっかいにも思ってしまう私がいる。

「現代医学の病院では、患者さんの身体に病気を発見すると、すぐに薬の服用や手術を勧めます。
 何百年も前の日本では、薬や手術なしで身体を治すことができましたが、実際には、今でもその方法が可能です。
 ただし、薬を使った方が早く症状が抑えられますし、お金も受けするためにも、放置すれば治るような病気でさえも薬を処方しています。
(中 略)
そこで、みなさんに思い出していただきたいのは、「病気を治すための薬は元から体の中に備わっている」ということです」

病院で処方される薬に頼るのではなく、自分自身の力で身体の欲求を知る。私たちに本来備わっているこうした野生の本能を取り戻す方法の説明として、この本では、ターザンが行っている自然療法が紹介されている。
野生の森に住んでいるターザンは、身体の調子が悪くても病院に行くことはない。そのかわり、ふかふかの草の上にゴロンと横になって、身体が回復するのをじっと待つ。その間、野生にリスやサルがやってきて、ナッツやバナナを食べ、その残りをターザンの口に落とす。やがてターザンはすっかり元気になったと感じたところで、再び木のツルにぶら下がり、「アーアアー」と声をあげてジャングルを駆け回るようになる──。
この一連のプロセスが、シンプルに「身体の欲求を知る」治癒のプロセス。そういえば、昔の人は重病になれば草の上に寝かしたものだと若杉友子さんの本で読んだことがある。 
この本には、「病院で処方された薬を飲まなくても、身の回りには薬となるものがたくさん存在しているのです」とあるが、なるほどその通りで、土や砂、野草、野菜、果物、空気、光、気持ち、愛情、からだ、手、唾液……身近にあるすべてのものは薬として活用出来るし、また、それらは実際、薬として作用してくれる。
先に「しあわせの青い鳥」を思い出したと書いたのは、遠くに出かけ、お金を払って手に入れなくても、自分の中に、自分のそばに、「薬」となるものがたくさんあることを再確認したからだ。
私たちは自然界の一生物なのだから、病気と同質の存在としてそれを得ている。だから、ことさら病気のことばかり考えるのではなく、何も変えないでおいて安易に薬や注射に頼るのではなく、こちら側、つまり、食べるものやライフスタイル、自分自身を変えてゆくことで、今ある病気とは異質の存在になってゆけばいいのだと思う。そういう方法もあるのだと思う。
自分のライフスタイルや食生活、感情の持ち方を変えれば、病気とは異質になり、いつしか病気は離れてゆく。そんなシンプルな法則に気づくことが出来た。ありがとうございます、小林健先生。
*小林先生のブログによると、「もう一度読むときには声をだしてお読みください。みなさんの声と私の言霊が同調しあい、みなさまの全身に528hzの波動が起こり、なんか言葉には表しにくいですが、不思議な幸せ感を得ていただけると思います」だそうです。

☆今月の「すみれ図書室」は、1月29日(日)の午後2時からです。

まず、ゴールを決めなさい。

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上左右:下鴨神社 手水舎 おじいちゃんとお孫さんらしき微笑ましい光景 下左:今宮神社 手水舎 下右:今宮神社 阿保賢さん




旅先で知り合った人に、去年のクリスマスに京都で再会した。
その人は不思議な力を授かった方で、この日、天からおりてきたメッセージを教えて下さった。
さまざまなことを教えてもらう中で、とても心に残った、いや心に響いたことがある。
それは、どんなことでも、まずゴールを決めてしまいなさいということ。そうすれば、道にそれてしまったように思えることがあったとしても、遠回りしているように思えることがあったとしても、必ずいつかゴールにたどり着ける。なかなかゴールにたどり着けないという人は、迷ったり、不安や不満を持ったりして、自分で決めたゴールをそのたびに変えているからなのだ、とも教えてもらった。
そしてもう一つ教えてもらったのは、決めたことに対しては、必ずお試しがあるということ。つまり、覚悟を問われることが必ずあり、そこで自分の思いを、自分の本気度を問われるらしい。そのお試しがあったとき、それでも大丈夫、と自分に言う。笑顔でそう言う。そうすれば、「天からのサポート」がどんどん得られて、ゴールにスムーズに着くことが出来る。だが、そこでくじけたり、ゴール地点を変えたりするようであれば、あなたの決心とはこの程度のものだったのかと、受けられるはずのサポートはえられないということも教えてもらった。
ナビで行き先を設定すると、そこへ行くにはさまざまな方法があり、それぞれの所要時間や乗り換え時間は違う。だが、どんな方法を選択するにせよ、行先を変えなければ、必ずそこにはたどりつける。話をききながら、そうイメージし、そう確信した。軌道修正はあるだろうが、ブレナイでそこに向かってゆく。乗り換えはあっても、切符の行き先にはいつか必ずたどり着ける。「ここがゴール」と目的地にまず旗をさし、そこへむかって歩き始めればいいのだ。
未来の到着点がまずあり、その未来から見た過去の私は、そこへ向かって歩いている。「未来」の私は到着することを知っている。「過去」の私が道に迷いそうになったり、途方にくれたりしていても、「未来」の私は到着することを知っているから、大丈夫、と見守り、サポートしてくれる。
別に人生相談をしたわけではないのだが、話を聞きながら、そう思い、そう確信し、そう深く納得した。
まず、ゴールを決めなさい。2017年の私自身の言葉にしました。

☆2017年1月の「すみれ図書室」は、1月29日(日)の午後2時からです。


2016年12月23日 すみれ図書室の記録

すみれ図書室すみれ図書室すみれ図書室すみれ図書室上左:すみれ図書室 上右:すみれ図書室通信Vol.1 中左:夕陽を浴びた銀月アパートメント 中右:ラ・パンセの宝石缶クッキー 

すみれ図書室すみれ図書室 
『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)とそのPOP 『食べものを変えると、からだも、運命も変わります』(岡田恭子著 河出書房新社) 家庭に一冊、薬箱のように常備しておいて欲しい本です。




●2016年12月23日 すみれ図書室の記録

雨の予報だったが、この日は降ったり、突然晴れたり、のいわゆる冬型の天気だった。
いつものように玄武神社にお参りしてから「すみれ図書室」に向かう。クリスマス前なので、通りではたくさんのクリスマスライトやデコレーションを見かけた。街中、祝福ムード。
窓を開けると、空が透き通っている。クリスマスの頃になると空が近くなる気がする。多分気のせいだとは思うが、天使が降りやすくなっているんじゃないだろうか、と思ったりもする。
窓を開けたまま部屋を掃除し、自分なりの方法で部屋に氣を送ってみる。短い時間であっても、この部屋で心地よく過ごして欲しいと思うので、いつもそうしている。
掃除を終えてから、You tubeでクリスマスソングを聴きながらお昼ご飯。「すみれ図書室」の日は時間がないのでお弁当を持参している。この日のメニューは、黒豆入り三分づきご飯、ゴマ塩、キンピラ、小豆かぼちゃ、ひじきレンコン、白菜と厚揚げの炊いたの、梅干し。
お昼ご飯を食べていると、ドアフォンが鳴った。修道院からのお菓子が届いたのだ。
今回用意したのは、大分トラピスト修道院のクッキー、安心院の聖母修道院のクッキー、十勝カルメル会のチョコレート、ベルギーのトラピスト修道院のビール三種(ホワイト・レッド・ブルー)。
食事を終えてから荷解きをし、値段付けをしてからテーブルに並べる。
『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)、『食べものを変えると、からだも、運命も変わります』(岡田恭子著 河出書房新社)が今月刊行になったので、それらの本も数冊ずつだが用意しておく。
いつもは、2時までの時間を使って、来て下さる方々への手紙を一通ずつ書くのだが、今月は「すみれ図書室通信」を作ったので、それを手渡すことにした。手作りの6ページものの冊子。遠くから来られる方々に周辺のお店情報を訊かれることが多いので、鞍馬口通マップも手描きで入れておいた。大徳寺、船岡山のあたりまでをざっくりとカバー。毎月、この通信を発行出来たらいいな、と思っている。
気がつくと1時半を回っていたので、部屋の黒板に今月の詩(この日は北園克衛の詩)を書いてから、外に看板を出しに行く。そして、部屋に戻ってから2時までのわずかな時間をお茶を飲みながらぼんやりと過ごす。
お茶を飲みながら、長田弘さんの「ときどきハイネのことばを思いだす」という詩を思い出したので、書棚からその詩が掲載されている『ミラクル』(みすず書房)を取り出し、その詩を味わう。
大きな戸棚に向き合い、熱いストーブの後ろに静かに腰をかけているひどく歳をとったおばあさんの姿。おばあさんの足元に座っている曾孫の少年。おばあさんは母親の花嫁衣裳だったスカートをはいている。少年はその花模様のスカートの花の数を数えている。
おばあさんは少年にいろいろな話をする。
やがてその少年もまたひどく歳をとった老人になり、おばあさんと同じように、熱いストーブの後ろに静かに座っている。そして、孫たちに言葉を手渡すように、古い物語をゆっくりと話す。
そして、この詩はこんな風に締めくくられる。

「小さな神が宿っているのだ、
 人の記憶や習慣やことばのなかには」 

記憶や習慣やことばには小さな神が宿っているのだ、記憶や習慣や言葉というのは、こんな風に手渡されるのだ、とハッとする。それこそ奇跡、ミラクルではないか。
そんなことを思っていたらドアフォンがなり、慌ててドアを開ける。2時になったのに、ドアをロックしたままだった。
この日の最初のお客様はTさん。「すみれ図書室」のオープン以来、毎月欠かさず足を運んで下さる方だ。二人だけの10分程の時間の中でいろいろな話をし、しみじみとした気持ちになる。
自分で言うのもなんだが、「すみれ図書室」に足を運んで下さる方々は本当にすてきな人ばかり。言葉だったり、情報だったり、笑顔だったり……、私はいつもたくさんの無形の贈り物をもらっている。そしてそのたびに、「こういうところに棲んでいましたか」という茨木のり子さんの詩の一節を思い出して自分の居場所を確認し、嬉しい気持ちになる。

☆次回の「すみれ図書室」は来年の1月29日(日)の午後2時からです。
今年一年間、本当にありがとうございました。感謝申し上げます。


『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)

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『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)とそのPOP





森茉莉コレクション2『贅沢貧乏のお洒落帖』(ちくま文庫)が出来上がった。
『紅茶と薔薇の日々』と同様、カバーデザインは名久井直子さん、カバー作品は山下陽子さんである。
表4のカバーのコピーを拾ってみる。

「鴎外見立ての独特の色みの帯や晴れ着、シベリア鉄道で届いたドイツ製の子供服、夫から贈られた結婚指輪に刻まれていた言葉やダイヤモンドにエメラルド、巴里の香水や手袋のお店。もちろん、テレビに出てくる芸能人のファッションチェックの目も冴える。どんな日でもお金さえあれば、好きな洋服を買いに出かけた貧乏ファッションマニア森茉莉の目にも彩なるお洒落の宝石箱」

記憶とか、経験というものは、その人にとってすばらしい財産になるのだ、と森茉莉のエッセイを読むたびに思う。
どれだけ愛されたか、どんなものを見たのか、どんな本を読んだのか、どんなものを食べたのか……そうしたことがその人の人生の財産になり、大人になってからもその人の支えになる。その人を支え続ける。
収録している「贅沢なお洒落」にすてきな一文があるので、長いが引用してみる。

「贅沢というものはお金では買えない。幼い時からの食物(食べ物)、お茶レモン湯の類、体を洗ってきた石鹸の種類、わずかの間着ては着すててきた下着の数、夏、かけ流しにしてきた麻の半襟の数、香(か)いで育った煙草がどんな煙草か、見た絵本の種類、その紙の質、母親の箪笥の中にあった着物宝石の品質、それらの条件で贅沢ができる人か、しようと思ってもできない人かが定(き)まる。
 私はたった一つずつしか持っていなかったが、白鳩(ピジョン・ブラン)のルビイとロマノフ王室の誰かがつけていたダイヤモンドの指輪を嵌めたことのある手で、キャベツを買い人参を買い、品のいい味の肉汁(スープ)をつくり、楽しい生活の歌を歌っている」

興味深いのは、「贅沢というもの」「贅沢ができる人」についての記述が客観的な事柄ではなく、すべて森茉莉自身が経験し、身に着けていたもので占められていることである。それだけ、どの経験も、どの思い出も、大切な記憶となって心に滴り続けていたのだろう。
実際、そこにある現実の背後にある見えない部分というのは、見えている部分よりもはるかに大きく、深い。森茉莉の場合も、「長い長い幸福な日々」の一日一日、一瞬一瞬が宝石のひと粒となって結晶し、心にあり続けたのだと思う。だから、どんな現実だったとしても、それは森茉莉にとってほんの一部のことでしかなかった。森茉莉という人の幹には、贅のエッセンスがたっぷり詰まっていたのだと思う。

「私は、茉莉さんが生きていらっしゃるとき、わからなかった。でも、いま私は、あの部屋に住みながら、トビキリのイメージで、優雅で美しいものを書いた茉莉さんを天才だったのだ、と思う。茉莉さんは、別に何も、物なんか要らなかった。見えているものは、どうでもよかった。
 私は、そういう作家に逢えたことを、とても幸福に思っている」(解説「三分だけ!」黒柳徹子より)


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