カフェと本なしでは一日もいられない。

カフェ通いと読書に明け暮れる日々。 ⓒatelier.sumire.gingetsu

新川和江「どこかで」

新川和江さんの「どこかで」(『朝ごとに生まれよ、私』海竜社に収録)
という詩。
改めて味わいながら、いい詩だなぁ、と思う。

コップの バラが ひらきました
ちょうど今
世界のどこかで
子どもが ふふふ と笑ったからです

きれいな 虹が かかりました
和んでいる空
世界のどこかで
子どもが うたを うたったからです

小鳥が ぱっと とび立ちました
ゆれている枝
世界のどこかで
子どもが いきなり かけ出したからです


世界のどこかで、子どもが「ふふふ」と笑った。その波動が誰かの窓辺に伝わり、バラが花開いた。
世界のどこかで、子どもが歌を歌った。その波動で、目の前の空に虹がかかった。
世界のどこかで、子どもがかけ出した。その波動で、誰かの庭の小枝に止まっていた小鳥がとび立った。
場所や距離なんかには関係なく、見えるとか見えないとかには関係なく、私たちは「波動」でつながり、影響し合っている。
私たちが微笑むと、星や月も、ふふふと揺れる。
天までゆかなくても、遠い国へゆかなくても、すべてはつながっている。一篇の詩に「ふふふ」となって心に虹がかかり、気持ちがパッと遠いところにのびていった。そんな朝でした。


希望には羽根が生えていて…魂にとまる…

 "Hope" is the thing with feathers —
 That perches in the soul —
 And sings the tune without the words —
 And never stops — at all —         
           ─Emily Dickinson


カナダ人の友人Pと上海を旅したことがある。と言っても、一緒に旅に出たわけではなく、私はひとり旅、友人Pもたまたま上海旅行を予定していて、その日程が重なったので、2日間ほど一緒に旅をしたのだった。
上海博物館を訪れたとき、小学生と思われるグループの一人の女の子に「日本人ですか」と英語で声をかけられた。イエス、と答えると、自分がどれほどに日本に興味があるのかということ、将来は日本で勉強して、日本にも住んでみたい、ということなどを一生懸命話してくれた。そのうち、彼女のグループの数人も私たちの会話に参加して会話が盛り上がり、別れるときは一緒に写真を撮ったりもした。あとでPに、日本人と中国人なのにどうして英語で会話をしているのかな、と不思議な気がした、と言われた。
あのとき、わたしたちの共通言語は英語だった。多分、私に声をかけてきた女の子は、私がPと英語で話しているのを何となく聞いていて、それで英語で話しかけてきたのだと思う。だが、グループに戻ってから私のことを話すとき、彼女はネイティブの言語で話しただろうし、あのあと、私が彼女たちとの会話をPに伝えたのは英語である。そして今、こうして思い出しながら書いているのは日本語である。

もしかすると、どんなことも、それぞれの言語に変換されるとき、伝言ゲームのように、少しずつ違ったニュアンスを伴い、のようなもの、という曖昧さに包まれてゆくのかもしれない。もっと言えば、私たちの会話自体が、それぞれの思いをきちんと伝え合えたか、ということさえ疑問である。ただ、お互いの思いの気配は伝わっていたと思うし、それでよかったとも思う。

人は、「気配」を伝える共通の言葉を持っていて、それぞれの言語というのはそこから派生した枝葉のようなものなのではないか。そう考えると、言葉にはしなくても伝わるもの、魂の会話のようなものの方が実は大事なんじゃないかと思えてくる。
目には見えなくても存在するもの、それは私たちの想像をはるかに凌ぐ。言語じゃない部分で理解する世界もまた。
あの上海で出会った女の子とも、お互いの存在に気づいた瞬間から、言葉ではない「言語」で会話が始まっていたのかもしれない。
最終的には言葉でまとめるしかないのかもしれないが、言葉に拠らないで開かれる扉、そこから広がってゆくものの存在のようなもの、それを信じてみたい気がする。

西條八十「電車の中で」、そして、直筆生おみくじのこと

生おみくじ生おみくじ22018年にひいたおみくじのメッセージ。








 街を歩いているときや電車に乗っているとき。年配の人を見かけると、憧れを持って、その人をこっそり観察してしまう。そして、その佇まいが美しい人に出会うと、静かに圧倒される。
 十代の頃から、どんなおばあさんになるか、ということを日々考えて生きて来たので、映画を見ても、小説を読んでも、そこに登場するおばあさんがどんな人生、どんな日常を送り、どんなファッションに身を包んでいるのか、そんなことばかりが気になった。昔は、気になる年配の方の情報を知ると、積極的に会いにも行ったが、そのたびに、リラダンが他人に語ったというコント、石の見えざる魂は、悉く宝石だった、というエピソードを思い出したものだ。
 西條八十の詩集『美しい喪失』に収められている「電車の中で」という詩がある。

  釣革に吊(ぶらさ)がっていると、
  眼のまえに白い髭の老人が腰かけている、
  まっ白な、食塩のようにまっ白な、
  なんて美しい髭だ。

  わたしは考える、──
  自分もいつか老人になるだろう、
  あんな髭を持つようになるかもしれない、
  嵐のあとの朝の庭のような
  こころ静かな、懐かしい老年!
  その時、今のわたしを悩ませている
  彼女の思い出はどんな姿になるのだろう。

  釣革にさがりながら
  わたしはしみじみと想う、
  老年のわたしの白い髭のかげに
  雪の中の水仙の花のように
  はっきりと咲き出るであろう
  彼女の美しいおもかげを。──

 西條八十がまだ三十代だった頃の詩である。

「嵐のあとの朝の庭のような/こころ静かな、懐かしい老年!」。
 この詩を読むたびに、私はこの「嵐のあとの朝の庭のような」というところで、何度も立ちどまってしまう。
 そういえば、私が出会った年配の人たちには、朝の庭のような静けさがあった。言葉にも、表情にも、その佇まいにも。あれは嵐のあとのすがすがしさだったのだろうか。

↓ 米村春美先生のおみくじは申し込みを終了させていただきました。

☆お知らせしておりました米村春美先生直筆の「生おみくじ」は、「すみれ図書室」に来られている方に優先的にご案内させていただきましたので残り少なくなりましたが、ご希望の方に「すみれ図書室通信」12月号と共に送らせていただきます(なくなり次第、申し込みを終了します)。また、このおみくじについての短いメッセージ動画も撮らせていただきましたので、おみくじをご希望の方限定で配信させていただきます。おみくじのお問合せ、お申し込みは、sumiretoshoinfoアットgmail.com までお願いいたします。なお、このおみくじは、除夜の鐘をきいてから開封してください。


伊勢の森が発する音なき音。神様の息吹。

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 これまで伊勢神宮には何度か参拝しました。
大学生の頃。社会人になってから。家庭を持ってから。そして、最近の参拝は去年の初夏の頃。
思い出してみると、若い頃の参拝は実にチャラチャラと旅行気分で立ち寄ってみた、そんな感じでしたので、お伊勢参りということを意識して参拝したのは、去年が初めてでした。二日かけてゆっくり参拝したのですが、たくさんの気づきを与えてもらい、文字通りありがたい参拝となりました。

 なぜ、伊勢神宮は人々の心を惹きつけてやまないのでしょうか。
『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』(吉川竜実著 サンマーク出版)のプロローグには、こんな言葉があります。

「平安時代の歌人、西行が伊勢神宮を訪れた際に詠んだ一首が、その答えを示唆しています。

 何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

 どのようなご存在がいらっしゃるかわからないが、ただただありがたさと畏れ多さに涙がこぼれる。はるばると伊勢を訪れた参拝者はみな、このように感銘を受けたのでしょう。そしてその感激が時代時代で語り継がれ、伊勢神宮へと人々を向かわせたのかもしれません」




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  そしてこの本の中には、「何事のおはしますかは知らねども」の答えの一つがありました。それは、伊勢の森は、「癒しの高周波に満ちている」ということです。
 ある調査で、伊勢の森の発する環境音には秘密があることがわかったのです。その秘密を解き明かしたのは、脳科学の研究グループでした。そのグループは、特殊な装置で世界各地の環境音を収録し、分析調査をしており、日本を代表する自然環境音の収録地として、内宮の宮域が選ばれたのだそうです。

「すると、意外なことがわかりました。伊勢の森は、「聞こえない音」であふれていたのです。その「聞こえない音」がもたらす効果は、ハイパーソニック・エフェクトと呼ばれます。人間の耳ではキャッチすることのできない「高周波の環境音」です。
 (中略)
 実験によると、伊勢の森が発している高周波の環境音は、バリやアマゾン並みだということがわかりました」

「私自身、神さまに日々仕えるなかで、この森のもつ神聖さと荘厳さを肌で感じ、ときに圧倒されて来ました。その理由の一端が、この実験結果で理解できたように思います。
 伊勢の「音なき音」は、境内の自然もさることながら、じつは、そこにおはします神々と、長きにわたって人々が捧げてきた祈りの蓄積があるからこそ、醸し出されたのではないか。あくまでも私見ですが、そう思います。

 ハイパーソニック・エフェクトの効果を得るには、すくなくとも二十〜三十分は森の中にいるのが望ましいそうです。
 森が発する「音なき音」を意識してゆったりとたたずみ、全身に染み込ませてみてください。それが、お伊勢参りの第一歩です。そのときすでに、俗世を離れて、神さまの息吹を浴びているのです」

「伊勢の森に足を踏み入れ、たたずむだけで、自然に感謝の思いが湧いてくるでしょう。その感謝とともに、あなたの願いを神々に伝えてください」


 読みながら、あぁ、そうだったのか、と思い、たくさんのことが腑に落ちました。
 この本の中につまっているたくさんの答え、神道の知恵。私の古代の記憶に、DNAに語りかけてもらっているような思いになるメッセージの数々。何度も読み返すだろう一冊となりました。

需要なお知らせ
12月の「すみれ図書室」は、13日の午後2時〜午後3時半過ぎまで(通常とは開室時間が異なります)開室予定でしたが、諸事情により、開催を中止します。米村春美先生の生おみくじについては、ご希望の方に「すみれ図書室通信12月号」と共に、クリスマスまでにお届けします。申し込み方法等につきましては、また改めてご案内いたしますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。










2020.12月のすみれ図書室のお知らせ

 Twitterでも告知しましたが、2020年最後の「すみれ図書室」は、12月13日(日)の午後2時から開きます。この日は、毎年恒例の米村春美先生の「生おみくじ」をお渡ししますが、今年は『愛のおみくじ』『魂のおみくじ』の著者である米村春美先生が図書室に来てくださり、お一人お一人におみくじを渡してくださることになりました。
米村春美先生がどんな方なのか、先生が一枚ずつ筆で書かれるおみくじがどのようなものなのか、ご存知ない方のために、先生の著書から引いてみます。

「私が不思議な力を神様から授かったのは、一九七三年十月、日本大学理工学部薬学科の学生だったときです。
 突然、神がかりのようになる、神様の声が聞こえてきました。そして、「これから癒す力を授けるから、人助けに励むように」といわれたのです。
 それからの私は一変しました。人の心が読めたり、人の病を治したり、さまざまな先祖の方々や亡くなった方々が私の口を通して話をされるようになったり、どこかに苦しんでいる人がいるとそこまで出かけていって楽にしてあげたりといった行動を取るようになったのです。それは常に、「人助けをしなさい」「あの病人を助けてあげなさい」という神様の声に導かれての行動であり、けっして私の意思ではありませんでした。
   (中 略)
「春美会」では毎年お正月に、メンバー全員に私がおみくじを書いて渡します。
 それまでも、私は何十年という長いあいだ、おみくじを書かせていただきました。自分でいうのも恥ずかしいのですが、このおみくじはとても不思議なのです。たとえば、三十人分のおみくじを書き、一から三十まで番号札をつくって、一人ずつ番号札を引いていただきます。一番の札を引いた人に一番のおみくじを、三十番の札を引いた人には三十番のおみくじをお渡しするので、私がその人を見て、「あなたにはこれね」といって差し上げたことは一度もありません。
 ところが、引かれた三十人全員がぴったり合っているというのです。そのときぴったり合っていない方でも、書かれていることが以前に起こったり、またこれから起こることが多いのです。しかも、みなさん、不思議とおみくじを大事に持っているといいます。「おみくじをときどき読ませていただいています」「車の中にずっと入れています」「鞄の中に入れています」「額縁に入れて飾っています」など、いろいろな言葉を頂戴します」─『愛のおみくじ』より

一般的なおみくじとは異なり、エネルギーのある毛筆で書かれたメッセージが封筒の中に入っています。ただし、開封は年末の除夜の鐘を聴いてから。つまり、年明けいちばんに開封して、そのエネルギーとメッセージを受け取り、2021年の指針に、そして、お守りにしてください。

☆12月の「すみれ図書室」は、13日の午後2時〜午後3時半過ぎまで(通常とは開室時間が異なります)。この開室時間の間にお越しください。米村春美先生の著作をお持ちの方はご持参くだされば、サインをお願いできると思います。
場所は上賀茂神社の近くですが、詳しい場所につきましては、このブログのコメント欄(非公開)か、sumiretoshoinfoアットgmail.com までお問合せください。

私はどの星に願えば……

天の川





 生れたとき、私は「宙」という字をもらいました。何故「宙」だったのか、はっきりした理由は分りませんが、「ひろい」という意味がそこにあったことは知っています。
 だからでしょうか。子どもの頃から、空や宇宙にただならぬ興味を持っていました。星の図鑑などはボロボロになるまで読みましたし、死んだ人は星になるということを信じて生きて来ました。悲しいことがあったときに星に祈ることは当たり前のことで、空から答えをもらったこともあります。
 
星といえば片山廣子さんの随筆を思い出し、中里恒子さんの随筆を思い出します。
 たとえば、中里恒子さんの「星」という随筆。

「又、星とは別に、突然ひとに逢いたくなるときがある。いえ、先刻逢ったのはさっきの分、今のは、今が今逢いたい。今の逢いたい心に、今度のときのぶんも合わせて逢うというだましは利かない。しかし今逢いたいと思って今すぐ逢える仕合せは、私に一度もなかった。いつでもいつでも、おとといの分や一週間分十日文まとめて逢う。━━そういう間の切ない日は星が殊更美しく、あんまり自分勝手に輝いているのが憎らしい。あんなに沢山あるのだから、一つ位墜落して来ないものか、私を面白がらせる為に。━━よくそう思っては夜會服を着た夜空を見上げたものだ」

 あぁ、中里恒子さんもさまざまな思いで星を見上げていたのだ、そう思いながら、私のもとにも一つ位墜落して来ないものか、と思ったりしたものです。

『星をさがす』(石井ゆかり著 WAVE出版)という本があります。美しい天体図とタイトル、「星に願いを、かけたいときに」という帯のコピー。星占いの本というより、天体の響きのような石井ゆかりさんの言葉と美しい星の写真によるロマンティックで神秘的な星空案内で、夜空を見上げることが美しい祈りのように思えて来る一冊です。

 「お誕生日」とは、単なる「日付の一致」なのでしょうか。
 実は、誕生日を迎えたとき、生まれた日とほぼ「同じ」になるものがあります。
 それは、星空です。
 あなたが生れた日の星空は、あなたの20歳のお誕生日にも、30歳のお誕生日にも、ほぼ同じ姿をしています。
 (中略)
月や惑星を別にすれば、あなたのお誕生日には、あなたが生れたときと同じ星が輝きます。
 小説やドラマで「あなたは幸運の星のもとに生まれたのね!」などというセリフがあります。こうした「〇〇の星のもとに生まれる」という言い方は、お誕生日というものを考える上で、実にぴったりきます。
 あなたは、その星のもとに生まれたのです。

 ああ、そうなのだ、と思いました。私は「その星のもとに生まれた」のです。
 読み進んでゆくと、星が私に近づいて来ます。微笑むように星がまたたき始めます。思いが星にリンクしてゆくのです。そんなすてきな一冊でした。

☆突然のお知らせですが、来週の日曜日、15日の午後2時から午後5時まで、『すみれ図書室』をオープンします。今回は、修道院のお菓子の用意はありませんが、お時間があればお出かけください。その際、マスクの着用をお願いいたします。
 場所が分からない方は、このブログのコメント欄、或いは、sumiretoshoinfo アットgmail.com までお問い合わせください。

貴船神社へ

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貴船神社本宮への階段。鳥居をくぐると右手には、白髭神社(ご神祭は、猿田彦命)があります。延命長寿のご利益があるそうです。






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貴船神社本宮の手水舎。







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貴船神社 奥宮






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道沿いではさまざまな山野草に出合います。本宮から奥宮に向かう途中には、「神氣満ち満つ奥宮へ あと5分」という案内があります。







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大国主命と少彦名命が祀られている社のそばの千年杉。







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アイルランドならさしずめ妖精の住処。きっとこの幹の中には精霊が住んでいるに違いありません。






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奇跡の水とも呼ばれる貴船神社の御神水と御神前にお供えした御神塩。






 時間を見つけて、駆け足で貴船まで。もっとも、貴船までは十五分もあれば行けるのですが、時期や曜日によっては、狭い道に観光客や車が連なり、何倍もの時間をかけて行ったものの駐車場も満杯ということも珍しくなく、貴船神社への参拝がかなわないまま引き返すことになってしまいます。
 この日は、紅葉前だし、月曜日だし、と思って出かけたのですが、それでも観光客の姿は多く、奥宮の駐車場の空きは、あと一台。何とか参拝がかないました。
 車を降りた途端、水音が大きくなりました。私の目の前には山と澄んだ空気が広がり、すべてを浄化するように流れてゆく川の水があります。景色の中に、水の秋という言葉が溶け込んでいました。
 大きく息を吸い込んで、目を閉じると、この中にはきっと、私たちの目には見えない悠久の時計が掛かっていて、悠久の時間を、ゆっくりと、でも狂うことなく刻み続け、自然はその針音を聞きながら、次の季節を用意しているのではないかしら、そんな貴船の物語を思いました。
 三社参りは、本宮、奥宮、結の社、という順番での参拝だそうですが、どんな順序でお参りいただいてもいいですよ、と、神社の方に以前教えていただいていたので、この日は、奥宮、本宮、大国主命と少彦名命のお社の順序で参拝。本宮では、参拝の後、貴船神社のボトルにご神水を汲ませていただきました。
 十月とは言え、汗ばむほどの陽気の中、再び、奥宮まで。絶えずきこえて来るきよらかなせせらぎの音に浄化され、心も、からだも、透き通ってゆくようでした。
十一月の終わりまでは、午後八時まで参拝が可能です。次は、耿々とした月が空を渡る頃、月光に包まれながらの参拝を果たしてみたいと思っています。

◎月の中透きとほる身をもたずして   桂信子


雑感・何と不思議なこと。

雑感・何とふしぎなこと。

 昔、数年という短い期間だったが、大阪と京都の学校で、文学や民話、書くということを教えていたことがあった。そのとき、ひとつだけ心にとめていたのは、初めて星を見たときのような無垢な心で、視線で、教えることに慣れないでいようということだった。
 だが、今思えば申し訳ないことだが、私も若かったので、教えるというよりお喋りを聞いてもらうというような感じでもあり、一緒に学んでいるという感覚の方が強かったように思う。
 たとえば、書こうとする題材や読みたいと思う本と向かい合ったとき、その先に何が待っているのかわからないことへの期待やときめきがあると同時に、戸惑いのようなものも感じる、と話すと、私もそんな気がします、と共感してくれる学生があり、私も、何なんやろね、この感覚、そんな風に答えながら、不思議の森を一緒に彷徨っているような、そんな感覚である。
 あれから何十年も経ったが、学生たちと交わした会話や教室のレイアウト、彼らの筆跡、着ていた服のことなどを、今もくっきりと覚えていることに驚く。「月夜に妖精を踏んだ」という短編を書いたF君のこと。Hさんが丸太町通りの古書店で『少年は虹を渡る』のパンフレットを見つけたときのこと。Uさんが着ていたまっ赤なAラインのワンピースのこと。言葉、というすてきな名前を持ったMさんのこと。『アンの娘リラ』の最後に登場するリラの言葉が大好きだと教えてくれたNさんのこと。私の仕事を手伝ってくれたF君のこと。月に一度の『すみれ図書室』をスタートさせたことで訪ねて来てくれ、何十年ぶりかで再会したKさんのこと──。 
 果たして私は彼らに何かの種を渡せたのだろうか、と考えると非常に心もとないが、私にとって、出会った学生たちひとりひとりが、今もひとつの星空のようなきらめきであることは確かだ。

 ゲーテは、「詩人のきよらかな手が掬えば、水は水晶の玉となる」とうたい、エミリー・ディキンスンは、

「これが詩人だったのだ
 日常の意味あいから
 驚くべき感覚を蒸留してしまう人――
 年毎に戸口で枯れてゆく

 何気ない草花から
 すばらしい香油をとり出す人――
 以前には私たちだってそれを摘んだのにと
 みんなは不思議がる」(中島完 訳より)

 と詩にしているけれど、あのころに思いえがいていた願いは、もしかすると詩人のようなものだったのかもしれない。実際には、願いながらも、ほら、あそこに、と思うものがあったとしてもなかなか手が届かず、あるときは、つかんだ、と思った途端、それは虹のようにはるか遠くなり、毎回、毎回、はじめてのことのように戸惑っていた。何かを教える(と言うとおこがましいが)ことは、何とふしぎなことだろう。
 書けない原稿を前にして、「時を戻そう」というふと思いつき、そうしたら、はたはたとページがめくれるように、懐かしい時間がよみがえってきた。何とふしぎなことだろう。

「鷗外の子であることの幸福。 鷗外の子であることの不幸。」 鷗外の末子・類の愛すべき生涯。

『類』 朝井まかて著 集英社刊

 主を失い、美しい調和を失った花ざかりの庭からこの物語は始まる。数え年十二歳の類は、両親が仏蘭西から雛形帳を取り寄せて誂えた白地に海軍青の水兵襟(セーラーカラー)の上着を着ている。
その庭で類は、最も愛しい人・パッパを思い、最も大事な言葉を声にする。「お願いです。パッパ、かえってきて」。
 そこには、蜜のようにたっぷりと与えられた愛の記憶、その滴りの中で過ごした子どもの時間、森類とその家族の世界全部、それらがパッパ・鴎外が愛した花のひとつひとつのように、濃密に咲いている。繁る葉にも、咲く花にも、パッパの愛があふれている。
 鷗外の子どもたちが書いた本には、鷗外が種をまいたことによって開いたと思われる花々が、どの本の中にも咲いているが、この物語においても、パッパの時間が流れ、ものすごく大きく、深く、限りなくやさしいパッパの存在が神さまのように存在している。それはもう切なくなってしまうほどだ。
 世界がすべてグレーだったとしても、途方に暮れて立ちつくしたとしても、パッパを思えば、黄金(きん)色の光が降り注ぎ、口角が上がる。読みながら私は、「その人が忘れない限り、その人は死なない」という言葉を、何度も何度も思い出していた。
 鷗外には、於菟、茉莉、不律、杏奴、類の五人の遺児があり、生後半年で夭逝した不律をのぞき、それぞれ父・鴎外の思い出を書いているが、類が書いたものはとりわけ興味深い(『鷗外の子供たち』はとても好き)。母親譲りとも思えるDNAなのだろうか、体裁ではない本音がちょいちょい顔を出す。類ならではの不器用なまでのまっすぐな摘出法、焦点距離、それが、この物語の中の類と重なる。
 繰り返し、繰り返し、読んでしまったのは、類と茉莉の自由で気儘な二人暮らし、「姉弟のパラダイス」のような日々である。それぞれ、背負うものがあり、幸福とは言い切れない境遇だったにせよ、この頃の二人は本当に楽しかったんだろうなぁ、と読みながら思う。
 街でバッタリ出くわしたときの二人の様子やおちゃらけたやり取り。楽しむ才能を持った茉莉の魔法によって、それぞれの心の中にある永遠の宝物のような「巴里」が、そこに出現したかような日々だったのではないだろうか。
 読者として嬉しいのは、細やかに描かれた登場人物たちのディテイルである。白磁に薔薇を描いた砂糖壺、アアル・ヌウボウの草花模様のリキュウルグラス、銀の匙、茉莉が着ていた小さなレエスが巡らされたブラウスの衿、レモン・イエロウの手袋、青い別布で縁取りがしてある杏奴の白いワンピイス、あるいは、キャベツ巻きや皇帝風サラド、シュウ・ア・ラ・クレエム、といったハイカラな食べ物のいろいろ。鴎外の笑顔、茉莉の長い「お散歩」など、朝井まかてさんのペンの魔法によって、お気に入りの映画のワンシーンを反芻するような楽しみに満ちている。
 そして、物語の展開やストーリーだけじゃなく、登場人物がどんなところに住み、どんな服を着て、どんなものを食べ、どんな言葉遣いをするのか。活字を通してそうしたことをトレースしていくことによって、知らず知らずのうちに、その登場人物たちがくっきりと立ち上がり、愛しい人になっていったりするのだということを実感する。

 物語の最後で類は、長女からこんな風に言われる。
「こうもきれいで無邪気な笑顔をする大人っているかしら、と私たちは思うの。で、それを着ているのを見るたび、肘を突き合うのよ。黄色のセーターの神様だ、って」
 胸を張り裂けんばかりにして、懸命にパッパの姿を追った末子は、パッパの年齢をはるかに超えて生きている。あまりにも違う人生、異なる生き方に慣れっこになった類は、かつては「鷗荘」と呼ばれ、「波の音が、天地の脈拍のやうに聞えてゐる」と鷗外が書いた森家の別荘跡地に建てた家にある古い井戸に向かって、パッパ、と呼びかける。

「僕はこの日在の家で、暮らしているよ。
何も望まず、何も達しようとせず、質素に、ひっそりと暮らしている。
ペンは手放していない。波音を聞きながら本を読み、時には随筆を、そして娘たちに手紙を書いている」

 生きることに急ぎ過ぎ、結果を求め過ぎる現代の風潮とは真逆とも思える類の人生。不器用とも思える類の人生。読みながら、知らず知らずいパッパのような視線で見つめていた私は、類が晩年に到達した「境地」にホッと安堵する。
 菜花畑の向こうに春の海がたゆたうラストシーン。「今夜は月も綺麗だろう」、そう思うセーター姿の類を、やがて月が黄金色の光で包む様子を想像し、目を細めてしまうのである。


良い日をたくさん

夏の夕暮れの電車に乗っていました。
岡山駅発の伯備線です。
そのとき、高校生らしき2人の女の子が歌声が聞こえて来ました。
本を読む手をしばし止めて、彼女たちの歌を背中越しに聴いていると、歌を歌いながら、時折、2人で顔を見合わせながらクスッと笑い合って、そんな楽しそうな様子が伝わってきました。
もう何年も前の事なので、歌詞はうろ覚えです。♪○○○○恐竜、その力を見せておやり〜♪ メロディーは覚えているのですが、歌詞についてはそんなあやふやなことしか思い出せません。
やがて電車は駅に着き、女子高校生たちは降りてゆきました。
ほんの数駅の短い時間でしたが、それは、そよ風に吹かれたようなさわやかな時間で、よい日をひとつ貯金したような気持ちになりました。
今も、ローカル電車に乗ると、あの伯備線での時間が蘇って来て、しあわせな気持ちになります。そして、昔読んだエッセイの中に出てきた「良い日をたくさん」という言葉を、ハンカチを折りたたむようにして、心の中にていねいに仕舞うのです。


    静 寂

  今宵
  風が
  魚の形を
  描いたり 消したり
  わたしは笛を吹く
  風土記を讀む

  わたしは原始のをとめになり
  泉の水に月を掬び
  星を汲む

  風の中に誰かが立つてゐる
  どなた?
  黙つて立つていらつしやるのは
  どなた?
     『深尾須磨子詩集 永遠の郷愁』臼井書房刊より



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