カフェと本なしでは一日もいられない。

カフェ通いと読書に明け暮れる日々。 ⓒatelier.sumire.gingetsu

『病を根本から治す 量子医学 ─古くて新しい魔法の健康法━』

DSC_0110DSC_0109『病を根本から治す 量子医学 ─古くて新しい魔法の健康法━』(小林健 キラジェンヌ刊)





『病を根本から治す 量子医学 ─古くて新しい魔法の健康法━』(小林健 キラジェンヌ刊)を読んだ。
冒頭の「なぜ、これからは量子医学なのか?」というメッセージの一部を書き出してみる。

「私たちの身体には、元々は「病気」というものは存在していません。だからみなさんが一般的に「病気」と呼んでいるものは、ただ身体が警告として出しているサインのひとつに過ぎません。
(中 略)
量子医学とは、アーユルヴェーダやチベット医学、ホメオパシー、アロマテラピーなどと同じ原理で、最新の医療機器には頼らずに、ただ「人の生命の根源に立ち返って病気を改善していく」という種類の医療になります。
     (中 略)
私がこの本でみなさんにお伝えしていくことは、多分どなたにとっても初めて聞く内容ばかりかもしれません。末期ガンですら、数日で消えてしまう”魔法のような医療”が現実にあるとは信じ難いでしょうが、私がこれから本の中で語ることは紛れもない真実なのです」

そして、ここから続く七章の中で、さまざまなことが語られていくのだが、読んでみて思い出したのは、メーテルリンクの『しあわせの青い鳥』だった。
しあわせになる青い鳥を探すために遠くまで旅をし、様々な事件や出来事があったが、実は、青い鳥は近くにいた。本当のしあわせは、遠くではなく、すぐ傍にあったことに気づくのだが、気づいたとたん、青い鳥は去ってゆく──というストーリー。読み返していないのでうろ覚えだが、しあわせというのは、何処かにあるものでもなく、与えられるものでもなく、モノのように手に入れるのではなく、自分の内面から作り出すもの、ということか。気づいたとたんに去ってゆくというのは、自分の内面に青い鳥の存在を置くことが出来たからではないだろうか。
さて、私たちは病気になればお医者さんに、と思うし、自分で出来る処方で簡単に治るような症状であっても、すぐに薬や注射に頼ってしまいがちだ。私自身、薬のCMをみるたび、ある症状があると安易に「はい、薬」となってしまうような気がして、ため息が出てしまう。どうしても薬が必要な場合はもちろんあるだろうが、そうじゃない場合、その前に自分で出来る手立てはあるんじゃないか、まずそれを試してからでもいいんじゃないか、とおせっかいにも思ってしまう私がいる。

「現代医学の病院では、患者さんの身体に病気を発見すると、すぐに薬の服用や手術を勧めます。
 何百年も前の日本では、薬や手術なしで身体を治すことができましたが、実際には、今でもその方法が可能です。
 ただし、薬を使った方が早く症状が抑えられますし、お金も受けするためにも、放置すれば治るような病気でさえも薬を処方しています。
(中 略)
そこで、みなさんに思い出していただきたいのは、「病気を治すための薬は元から体の中に備わっている」ということです」

病院で処方される薬に頼るのではなく、自分自身の力で身体の欲求を知る。私たちに本来備わっているこうした野生の本能を取り戻す方法の説明として、この本では、ターザンが行っている自然療法が紹介されている。
野生の森に住んでいるターザンは、身体の調子が悪くても病院に行くことはない。そのかわり、ふかふかの草の上にゴロンと横になって、身体が回復するのをじっと待つ。その間、野生にリスやサルがやってきて、ナッツやバナナを食べ、その残りをターザンの口に落とす。やがてターザンはすっかり元気になったと感じたところで、再び木のツルにぶら下がり、「アーアアー」と声をあげてジャングルを駆け回るようになる──。
この一連のプロセスが、シンプルに「身体の欲求を知る」治癒のプロセス。そういえば、昔の人は重病になれば草の上に寝かしたものだと若杉友子さんの本で読んだことがある。 
この本には、「病院で処方された薬を飲まなくても、身の回りには薬となるものがたくさん存在しているのです」とあるが、なるほどその通りで、土や砂、野草、野菜、果物、空気、光、気持ち、愛情、からだ、手、唾液……身近にあるすべてのものは薬として活用出来るし、また、それらは実際、薬として作用してくれる。
先に「しあわせの青い鳥」を思い出したと書いたのは、遠くに出かけ、お金を払って手に入れなくても、自分の中に、自分のそばに、「薬」となるものがたくさんあることを再確認したからだ。
私たちは自然界の一生物なのだから、病気と同質の存在としてそれを得ている。だから、ことさら病気のことばかり考えるのではなく、何も変えないでおいて安易に薬や注射に頼るのではなく、こちら側、つまり、食べるものやライフスタイル、自分自身を変えてゆくことで、今ある病気とは異質の存在になってゆけばいいのだと思う。そういう方法もあるのだと思う。
自分のライフスタイルや食生活、感情の持ち方を変えれば、病気とは異質になり、いつしか病気は離れてゆく。そんなシンプルな法則に気づくことが出来た。ありがとうございます、小林健先生。
*小林先生のブログによると、「もう一度読むときには声をだしてお読みください。みなさんの声と私の言霊が同調しあい、みなさまの全身に528hzの波動が起こり、なんか言葉には表しにくいですが、不思議な幸せ感を得ていただけると思います」だそうです。

☆今月の「すみれ図書室」は、1月29日(日)の午後2時からです。

まず、ゴールを決めなさい。

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上左右:下鴨神社 手水舎 おじいちゃんとお孫さんらしき微笑ましい光景 下左:今宮神社 手水舎 下右:今宮神社 阿保賢さん




旅先で知り合った人に、去年のクリスマスに京都で再会した。
その人は不思議な力を授かった方で、この日、天からおりてきたメッセージを教えて下さった。
さまざまなことを教えてもらう中で、とても心に残った、いや心に響いたことがある。
それは、どんなことでも、まずゴールを決めてしまいなさいということ。そうすれば、道にそれてしまったように思えることがあったとしても、遠回りしているように思えることがあったとしても、必ずいつかゴールにたどり着ける。なかなかゴールにたどり着けないという人は、迷ったり、不安や不満を持ったりして、自分で決めたゴールをそのたびに変えているからなのだ、とも教えてもらった。
そしてもう一つ教えてもらったのは、決めたことに対しては、必ずお試しがあるということ。つまり、覚悟を問われることが必ずあり、そこで自分の思いを、自分の本気度を問われるらしい。そのお試しがあったとき、それでも大丈夫、と自分に言う。笑顔でそう言う。そうすれば、「天からのサポート」がどんどん得られて、ゴールにスムーズに着くことが出来る。だが、そこでくじけたり、ゴール地点を変えたりするようであれば、あなたの決心とはこの程度のものだったのかと、受けられるはずのサポートはえられないということも教えてもらった。
ナビで行き先を設定すると、そこへ行くにはさまざまな方法があり、それぞれの所要時間や乗り換え時間は違う。だが、どんな方法を選択するにせよ、行先を変えなければ、必ずそこにはたどりつける。話をききながら、そうイメージし、そう確信した。軌道修正はあるだろうが、ブレナイでそこに向かってゆく。乗り換えはあっても、切符の行き先にはいつか必ずたどり着ける。「ここがゴール」と目的地にまず旗をさし、そこへむかって歩き始めればいいのだ。
未来の到着点がまずあり、その未来から見た過去の私は、そこへ向かって歩いている。「未来」の私は到着することを知っている。「過去」の私が道に迷いそうになったり、途方にくれたりしていても、「未来」の私は到着することを知っているから、大丈夫、と見守り、サポートしてくれる。
別に人生相談をしたわけではないのだが、話を聞きながら、そう思い、そう確信し、そう深く納得した。
まず、ゴールを決めなさい。2017年の私自身の言葉にしました。

☆2017年1月の「すみれ図書室」は、1月29日(日)の午後2時からです。


2016年12月23日 すみれ図書室の記録

すみれ図書室すみれ図書室すみれ図書室すみれ図書室上左:すみれ図書室 上右:すみれ図書室通信Vol.1 中左:夕陽を浴びた銀月アパートメント 中右:ラ・パンセの宝石缶クッキー 

すみれ図書室すみれ図書室 
『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)とそのPOP 『食べものを変えると、からだも、運命も変わります』(岡田恭子著 河出書房新社) 家庭に一冊、薬箱のように常備しておいて欲しい本です。




●2016年12月23日 すみれ図書室の記録

雨の予報だったが、この日は降ったり、突然晴れたり、のいわゆる冬型の天気だった。
いつものように玄武神社にお参りしてから「すみれ図書室」に向かう。クリスマス前なので、通りではたくさんのクリスマスライトやデコレーションを見かけた。街中、祝福ムード。
窓を開けると、空が透き通っている。クリスマスの頃になると空が近くなる気がする。多分気のせいだとは思うが、天使が降りやすくなっているんじゃないだろうか、と思ったりもする。
窓を開けたまま部屋を掃除し、自分なりの方法で部屋に氣を送ってみる。短い時間であっても、この部屋で心地よく過ごして欲しいと思うので、いつもそうしている。
掃除を終えてから、You tubeでクリスマスソングを聴きながらお昼ご飯。「すみれ図書室」の日は時間がないのでお弁当を持参している。この日のメニューは、黒豆入り三分づきご飯、ゴマ塩、キンピラ、小豆かぼちゃ、ひじきレンコン、白菜と厚揚げの炊いたの、梅干し。
お昼ご飯を食べていると、ドアフォンが鳴った。修道院からのお菓子が届いたのだ。
今回用意したのは、大分トラピスト修道院のクッキー、安心院の聖母修道院のクッキー、十勝カルメル会のチョコレート、ベルギーのトラピスト修道院のビール三種(ホワイト・レッド・ブルー)。
食事を終えてから荷解きをし、値段付けをしてからテーブルに並べる。
『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)、『食べものを変えると、からだも、運命も変わります』(岡田恭子著 河出書房新社)が今月刊行になったので、それらの本も数冊ずつだが用意しておく。
いつもは、2時までの時間を使って、来て下さる方々への手紙を一通ずつ書くのだが、今月は「すみれ図書室通信」を作ったので、それを手渡すことにした。手作りの6ページものの冊子。遠くから来られる方々に周辺のお店情報を訊かれることが多いので、鞍馬口通マップも手描きで入れておいた。大徳寺、船岡山のあたりまでをざっくりとカバー。毎月、この通信を発行出来たらいいな、と思っている。
気がつくと1時半を回っていたので、部屋の黒板に今月の詩(この日は北園克衛の詩)を書いてから、外に看板を出しに行く。そして、部屋に戻ってから2時までのわずかな時間をお茶を飲みながらぼんやりと過ごす。
お茶を飲みながら、長田弘さんの「ときどきハイネのことばを思いだす」という詩を思い出したので、書棚からその詩が掲載されている『ミラクル』(みすず書房)を取り出し、その詩を味わう。
大きな戸棚に向き合い、熱いストーブの後ろに静かに腰をかけているひどく歳をとったおばあさんの姿。おばあさんの足元に座っている曾孫の少年。おばあさんは母親の花嫁衣裳だったスカートをはいている。少年はその花模様のスカートの花の数を数えている。
おばあさんは少年にいろいろな話をする。
やがてその少年もまたひどく歳をとった老人になり、おばあさんと同じように、熱いストーブの後ろに静かに座っている。そして、孫たちに言葉を手渡すように、古い物語をゆっくりと話す。
そして、この詩はこんな風に締めくくられる。

「小さな神が宿っているのだ、
 人の記憶や習慣やことばのなかには」 

記憶や習慣やことばには小さな神が宿っているのだ、記憶や習慣や言葉というのは、こんな風に手渡されるのだ、とハッとする。それこそ奇跡、ミラクルではないか。
そんなことを思っていたらドアフォンがなり、慌ててドアを開ける。2時になったのに、ドアをロックしたままだった。
この日の最初のお客様はTさん。「すみれ図書室」のオープン以来、毎月欠かさず足を運んで下さる方だ。二人だけの10分程の時間の中でいろいろな話をし、しみじみとした気持ちになる。
自分で言うのもなんだが、「すみれ図書室」に足を運んで下さる方々は本当にすてきな人ばかり。言葉だったり、情報だったり、笑顔だったり……、私はいつもたくさんの無形の贈り物をもらっている。そしてそのたびに、「こういうところに棲んでいましたか」という茨木のり子さんの詩の一節を思い出して自分の居場所を確認し、嬉しい気持ちになる。

☆次回の「すみれ図書室」は来年の1月29日(日)の午後2時からです。
今年一年間、本当にありがとうございました。感謝申し上げます。


『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)

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『贅沢貧乏のお洒落帖』(森茉莉著 ちくま文庫)とそのPOP





森茉莉コレクション2『贅沢貧乏のお洒落帖』(ちくま文庫)が出来上がった。
『紅茶と薔薇の日々』と同様、カバーデザインは名久井直子さん、カバー作品は山下陽子さんである。
表4のカバーのコピーを拾ってみる。

「鴎外見立ての独特の色みの帯や晴れ着、シベリア鉄道で届いたドイツ製の子供服、夫から贈られた結婚指輪に刻まれていた言葉やダイヤモンドにエメラルド、巴里の香水や手袋のお店。もちろん、テレビに出てくる芸能人のファッションチェックの目も冴える。どんな日でもお金さえあれば、好きな洋服を買いに出かけた貧乏ファッションマニア森茉莉の目にも彩なるお洒落の宝石箱」

記憶とか、経験というものは、その人にとってすばらしい財産になるのだ、と森茉莉のエッセイを読むたびに思う。
どれだけ愛されたか、どんなものを見たのか、どんな本を読んだのか、どんなものを食べたのか……そうしたことがその人の人生の財産になり、大人になってからもその人の支えになる。その人を支え続ける。
収録している「贅沢なお洒落」にすてきな一文があるので、長いが引用してみる。

「贅沢というものはお金では買えない。幼い時からの食物(食べ物)、お茶レモン湯の類、体を洗ってきた石鹸の種類、わずかの間着ては着すててきた下着の数、夏、かけ流しにしてきた麻の半襟の数、香(か)いで育った煙草がどんな煙草か、見た絵本の種類、その紙の質、母親の箪笥の中にあった着物宝石の品質、それらの条件で贅沢ができる人か、しようと思ってもできない人かが定(き)まる。
 私はたった一つずつしか持っていなかったが、白鳩(ピジョン・ブラン)のルビイとロマノフ王室の誰かがつけていたダイヤモンドの指輪を嵌めたことのある手で、キャベツを買い人参を買い、品のいい味の肉汁(スープ)をつくり、楽しい生活の歌を歌っている」

興味深いのは、「贅沢というもの」「贅沢ができる人」についての記述が客観的な事柄ではなく、すべて森茉莉自身が経験し、身に着けていたもので占められていることである。それだけ、どの経験も、どの思い出も、大切な記憶となって心に滴り続けていたのだろう。
実際、そこにある現実の背後にある見えない部分というのは、見えている部分よりもはるかに大きく、深い。森茉莉の場合も、「長い長い幸福な日々」の一日一日、一瞬一瞬が宝石のひと粒となって結晶し、心にあり続けたのだと思う。だから、どんな現実だったとしても、それは森茉莉にとってほんの一部のことでしかなかった。森茉莉という人の幹には、贅のエッセンスがたっぷり詰まっていたのだと思う。

「私は、茉莉さんが生きていらっしゃるとき、わからなかった。でも、いま私は、あの部屋に住みながら、トビキリのイメージで、優雅で美しいものを書いた茉莉さんを天才だったのだ、と思う。茉莉さんは、別に何も、物なんか要らなかった。見えているものは、どうでもよかった。
 私は、そういう作家に逢えたことを、とても幸福に思っている」(解説「三分だけ!」黒柳徹子より)


冬の星座と魔女の12カ月

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『魔女の12カ月』(飯島都陽子著・絵 山と渓谷社)






年内刊行の2冊の本がやっと手から離れ、7日(『贅沢貧乏のお洒落帖』森茉莉著 ちくま文庫)と19日(『食べものを変えると、からだも、運命も変わります』岡田恭子著 河出書房新社)の発売を待つばかりとなりました。
「喜びと苦しみは同じ泉なのだ」と中里恒子さんはエッセイの中に書いていらっしゃいますが、本が出来上がる頃になると、ここまでの道のりの大変さと、よろこびのプロポーションというのはどんどん変化してきて、心の中にはいつしか喜びの泉が湧いていることを実感します。あとは、この本を必要としてる人たちのもとに届きますように、と星のように願うばかり。

早いもので今日はもう12月2日。5時前にはもう日も暮れてしまう冬の日々です。
夜空を見上げ、星が見える夜には、空も、星も冴え冴えとしていて、小学校の頃習った『冬の星座』という歌を思い出します。口ずさむと、自分だけのプラネタリウムが脳裏に広がり、自分が宇宙の一分子であること、自分の中にも小さな小さな宇宙が存在すること、そんなことを思わずにはいられません。
そして、木枯らし、くすしき光、ものみないこえる、星座はめぐる、流るる銀河、オリオン舞い立ち、スバルはさざめく、無窮をゆびさす北斗の針……など、この歌は言葉も美しく、こうした言葉を星座に重ねると、宇宙船に乗って星と星の間を旅しているような気分になり、12月の夜がちょっぴりすてきになります。

先日『魔女の12カ月』(飯島都陽子著・絵 山と渓谷社)を読みました。この本には、魔女の暦を通しての1月から12月までの魔女の暮らしと知恵がイラストと文章で紹介されています。
☆季(とき)のことば
☆祭り
☆とっておきのハーブ
☆おいしい魔女のレシピ
☆魔女の手仕事
☆魔女のお茶の時間
たとえば、12月の「季のことば」は、光 希望 約束 冬至 かがり火 
冬を鎮める 冬の星座 ユールの祭り。とっておきのハーブは、クリスマスローズ。魔女のレシピは、クリスマスプティング、ユールドールクッキー。魔女の手仕事は、魔除けのリース。魔女のお茶時間は、ミルク酒。
この本を読んだら「もしかして、あなたは明日、魔女かもしれません」

2016年11月27日の「すみれ図書室」の記録

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左から「チップルソンの麺麭」「銀月アパートメントのワゴン」「鴨東幼稚園のクリスマスイルミネーション」「玉の輿リップを売っているお店のクリーム、京つるつるりん」

●2016年11月27日(日) すみれ図書室の記録

晩秋になった。
いつもなら絶好の紅葉シーズンだが、今年は色づくのが早く、もう木々は霜降り状態である。
雨模様の日曜日の朝。家族を銀月アパートメントまで送って行く。
門を入り、いつものように東側の庭に目をやると、庭の柿の木には柿がまだたわわになっている。椿の木は花をいっぱいつけている。銀月アパートメントの晩秋の物語の最終章だ。
二階から「おはよう!」と声をかけられたので、見上げると銀月サロンのSさんだった。この日は「紅葉茶会」が開かれる予定なのだった。
ドアを開けると、ワゴンの上にもいだ柿がいくつか並べられていて「お庭の柿です。皆様どうぞ。虫の有無は自己責任。でもおいしいです」というメッセージが。季節の実りをみんなでシェアするすてきなシステム。
「すみれ図書室」用の荷物がたくさんあって、しかも雨降りだったので、この日は玄武神社へのお参りは省略。途中、チップルソンに立ち寄り、塩麺麭やトースト麺麭を。千恵さんに「久しぶりですね」と声をかけられ、「ほんと、ほんと」と言いながら、すみれ図書室に足を運んで下さる方たちの多くがこのあたりの三角形を形成していて、それが、のばら珈琲、チップルソンだということなどを話す。日曜日のアップルパイを買うつもりだったが、残念ながら、焼き上がりは2時以降とのことだった。
部屋に着き、窓を開けて空気を入れ替えながら掃除。その後、この日一日のことを祈り、朝、バタバタしていて出来なかった「太陽瞑想」をする。不思議だが、太陽瞑想を始めると、いつも太陽が雲間から顔を出したり、天使のはしごをのように光が差し込んだりする。瞑想を終えてから、部屋の黒板にメッセージを書き、足を運んで下さる方々へのメッセージを葉書にしたためる。
おおまかな準備を終えてお茶を飲んでいたら、山口カルメル会からのシフォンケーキとスリッパが届く。私は、ケーキを焼く現場も、スリッパを作る現場も見せていただいたことがあるので、これらが何台もの中の数台のシフォンケーキだったとしても、何足ものスリッパの内の数足だったとしても、作り手であるシスターたちにとっては、そのひとつひとつが天使のような存在だったに違いない、と思う。だから、祈るような気持ちでその箱を開ける。あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す!
その後、お昼ご飯を食べたり、シフォンケーキを切り分けたりしていると、あっという間に2時になり、急いで看板を出しに行く。
池袋カルチャーの田村セツコさんとの講座でお目にかかった方、キャピキャピした若さいっぱいの4人組、神戸から足を運んで下さった方、ピアノの演奏旅行のオフだったからと足を運んだくださった方、毎月足を運んで下さる方など、雨だったが、さまざまな出会いがあった。こちらが意図したり、計画したりしたことではなく、この日の雨みたいに何かがふってきて、それがいやおうなく心にしみてしまう。人との出会いを思うとき、私はいつもこんなことを考える。そしてそれは私の小さな光になる。
図書室と言いながら、私はいつも、ついついあれこれ喋ってしまう。最近見つけたお気に入りのお店のこととか、見つけたおいしいもののこととか、小さな鞍馬口周辺情報とか。そうえいば、今宮神社に参拝したという4人組の女の子たちに「玉の輿リップ」の話をしたら、「それ、ガチで欲しいです」と言っていたな(笑)
ところで、次に山口カルメル会のシフォンケーキを用意出来るのはいつになるだろう。今回は特別に土曜日に焼いたものを送ってもらったが、普段は月曜日に焼きあがるケーキなので、タイミングが難しい。でも、日曜日のアップルパイとか、月曜日のシフォンケーキとか、そういう特別感っていいな、と思う。
12月の「すみれ図書室」では、足を運んで下さる方々へのクリスマスプレゼントとして、紫野マップ、すみれ図書室周辺マップでも作ろうかしら。

★12月のすみれ図書室は、12月23日(金)の午後2時〜です。



山口カルメル会の思い出

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写真左上:スリッパを作るシスター 写真右上:山口カルメル会のスリッパ 写真左下:山口カルメル会の畑でとれた野菜たち 写真右下:山口カルメル会でご馳走になった心づくしの昼食


山口カルメル会のシスターがシフォンケーキを焼くのは、毎週月曜日。すみれ図書室がオープンするのは土曜日か日曜日。シフォンケーキの日持ちは3日位だとのことなので、すみれ図書室で用意するのは難しいなぁ、と思っていました。
ところが、今月は26日の土曜日に焼いて下さるとのこと。焼き上がりをすぐ発送してもらうと、27日のすみれ図書室のオープン日に到着しますので、3台分お願いしました。いつか、山口カルメル会の素朴な味わいのパンもご用意出来たらいいな、と思っています。
初めて山口カルメル会を訪ねたのは何年前のことだったでしょうか。晩秋の頃、新幹線とローカル線を乗り継いで、最寄の駅からタクシーに乗って訪ねたことを覚えています。玄関には、あたたかな色合いの手作りのスリッパが並べられていたことも。
その日は修道院で作られているスリッパ取材のつもりだったのですが、シフォンケーキを焼いていることを教えてもらい、朝から夕方まで、お菓子作りの現場、スリッパの制作現場、畑仕事の現場などを取材させていただき、お昼ご飯もご馳走になりました。かぼちゃのスープと麺麭とバターとオムレツ、付け合わせのインゲン豆とトマト、畑でとれた野菜スティック、食後には紅茶とシフォンケーキという献立でした。
また、ミサにも参加させていただきました。
取材メモが今手元にないので、たくさんのことを忘れてしまっていますが、山口カルメル会は大らかな雰囲気が漂う修道院で、心地いい時間が流れていました。また、シスターたちが食事をするダイニングルームなど、普段、立ち入ることの出来ない部屋にも案内していただいたことも有り難い思い出です。また、案内していただいたどの部屋にも、どの廊下にも、どの空間にも、やわらかな光が差し込んでいました。
昼食の前に果樹園に向って歩き、その静かな静かな時間と風景の中で、「閑雅な午後」という三好達治の詩を思い出していたことも懐かしく思い出されることのひとつです。

 ああげに季節のかういふのどかな時、かういふ閑雅な午前にあつて考へる
 ──人生よ ながくそこにあれ!

余談ですが、個人的に心惹かれたのは、シスターたちが身につけていたスモックのような割烹着でした。シスターたちが手作りしたものだということでした。スリッパだけではなく、その割烹着も販売用に作って下さるなら欲しいなぁ、などと無粋なことを思ったことも覚えています。

★11月のすみれ図書室は、27日(日)の午後2時からです。山口カルメル会のシフォンケーキと伊万里の聖母トラピスチヌ修道院のマドレーヌをご用意します。また、修道院雑貨として、伊万里の聖母トラピスチヌ修道院の陶芸品、クリスマス3点セット、小マリア像なども。


人生は自分の手でつかむのです。恋も同じです。

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『Treasury of poetry(詩の宝物)』(Hilda Boswell’s)のカバー、目次など




熊井明子先生の本で知り、憧れていた一冊の絵本を、キンモクセイ文庫さんに見せていただいた。そのときに、「触ると縁が生まれると言いますから、よかったら」、と言っていただき、その絵本を触らせてもらった。そのときに、私の掌のひらと本とが見えない糸でつながったのかもしれない。それから数ヵ月たったある日、まるで天から投函された手紙のように、私はその絵本に巡り合った。
この時、そうか、欲しいものには手で触れるといいんだ、と思った。そして多分、夢とか願いといった、実際にこの手で触ることのできないものは、言葉にする、書く、強く思い描けばいいのだと思った。それが、その「もの」に触れる方法。それがその縁をつないでくれる。
こう書きながら思い出したことがある。
昔、一緒に仕事をしていたカメラマンのスタジオを訪ねた時のことである。スタジオに入ると、壁一面に同じようなテーマの写真が貼ってあった。どうして? と尋ねた私に彼は、「今度撮影に行きたいと思っている場所の写真なんだけど(外国だった)、こうして毎日見ていると、だんだんそこに近づいてゆくんだ」と教えてくれた。なるほど、これは壁を使ってするスクラップブックだな、と思った。そして、ひとそれぞれ方法は違うのだろうが、ひとそれぞれ、そこに近づくための方法を持っているのだ、ということを知った。
昔、自分で作っていた雑誌でオードリー・ヘプバーンを特集したときに、映画『麗しのサブリナ』を取り上げ、
「お前は運転手の娘だ。月に手はとどかん」
「違うわ。月に手をさしのべるのよ」
という父と娘の会話、そして、
「生涯最良の二年間をパリで過ごし、多くのことを学びました。いろいろなお料理の作り方だけでなく、もっと大切なことを。人生の過ごし方を。生き甲斐のある生涯を送るには、傍観者ではいけないことを。人生は自分の手でつかむのです。恋も同じです」
という娘から父親に宛てた手紙を紹介したことがある。
常識ある人たちは「月に手はとどかない」と諭すかもしれないが、月に手はとどかないなんて思ってはいけない。サブリナが自分で人生の扉を開けたように、傍観者であることをやめて、自分の足で立ち、真直ぐに手を伸ばせば、そこから辿り着きたいゴールや手に入れたいものにリンクし、いつか時がやってきたら「月に手は届く」のだ。欲しいものやつかみたいものがあるのなら、天に思いっきりその夢や希望を広げてみればいい。月に手をのばせばいい。そう思う。
一冊の本との出合いを書くつもりが大げさなことになってしまったが、その本というのは、『Treasury of poetry(詩の宝物)』(Hilda Boswell’s)というアンソロジー絵本。デ・ラ・メア、ロセッティ、キングズリー、ルイス・キャロル、ワーズワース等の詩にヒルダさんの絵が描かれている。ヒルダさんはデ・ラ・メアがよほどお好きだったのだろうか。この本にはデ・ラ・メアの詩が五編も収録されており、その中には『Somewhere』という詩も!
熊井明子さんの「ボズウェルさんの愛の世界」(『風の香り 愛のたより』に収録)によると、
「私が、やっと思い通りの仕事をスタートした時は、五十歳を過ぎていました。それが『詩の宝物』をはじめとするアンソロジーの絵本作りで、今七冊目にかかっています」とある。月に手が届いたのは、ヒルダさんの場合、五十歳を過ぎてからだったのだ。
今夜は、月に手をのばし、月に触れてみる夜にしようと思う。


台所に神様をお招きする─『神様ごはん』

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左:大徳寺近くにある穀物菜食のお店『壺沙─Cosha─』でテイクアウトしたお弁当の掛け紙。
場所は、大徳寺レモン館、小川豆腐から徒歩2分位のところにあります。



私の家族の実家は古いしきたりを今も守り続けていて、はじめの頃はいちいち驚いたものだ。
たとえば、何か行事があると、蔵からものすごく値打ちがありそうな漆器が次々に取り出され、使い終わると、何人もの女性たちが並ぶようにしてそれを乾拭きし、書道の練習用紙らしき和紙でひとつひとつていねいに包み、また木箱に入れて蔵にしまう。また、年中行事も、ひとつずつ、旧暦でていねいに行う。
義父は「○○してあげよう」ではなく、「○○してしんぜよう」と口癖のように言い(昭和生まれであるにもかかわらず)、そうした風習などとも相俟って、知らない時代にタイムスリップしたような気持ちになったものだ。
私が家族の一員になった頃にはもうその習慣はなくなっていたが、食事の前には必ず「箸取らば天地御代の御恵み 父母や祖先の恩を味わい いただきます」と感謝の言葉を唱えてから食べていたということも知った。また、お茶漬けは食べないという家訓(?)のようなものもあったという。何故なら、お茶漬けサラサラでは、ご飯に感謝出来ないからだ。
こんなことを思い出しているのは、『運を呼び込む 神様ごはん』(ちこ著 サンクチュアリ出版)を読んだからである。
このところ、食べものについての本の編集作業をしているのだが(手前みそですが、とってもいい本です。編集しながら感動しました。著者は岡田恭子さん)、その本作りを通して、食べものがいかに大切であるかということを─いわゆる血となり、エネルギーとなるということだけではなく、料理をするということ、感謝して味わうということの大切さ、食べる物で人生が変わるということなどを─実感していたので、「神様ごはん」というものに自然、興味が湧いたのだ。
この本の中からメッセージを拾ってみる。

「台所という場所は、いわば、家一軒一軒に存在する、小さな神社のようなものなのです」

「台所に神様をお招きすることは 難しいことではありません。
 やるべきことは、たった三つ、
一、 台所を、神社のように見立てる
二、 台所に入る前に、自分をお清めする
三、 台所を、きれいに整理整頓する
たったこれだけです」

「お箸という名前は、「端」からきていて、両端のうち、口に運ぶ先は人が使い、もう片方の先は神様が使うもの、という言い伝えがあります。
   (中 略)
お箸はまさに神具で、手によくなじんだお箸を使えば、自然に心持ちと所作が変わります」

著者のちこさんが、食べ物に宿るたくさんの恵みに感謝しながら心を込めてお食事を作っている姿は、さながら祈りのよう。佐藤初女さんが祈るようにおむすびを結んでいた姿が、そこに重なる。
この本にはこうしたたくさんのメッセージと共に、「いのちのごはん」の炊き方、「いのちのお味噌汁」の作り方、「いのちのおむすび」の作り方なども紹介されている。
帯に「ごはんの魔法を教えます」とあるが、この本を読んでいると、本当に魔法にかかったように、キッチンをきれいに磨き上げ、感謝の気持ちでていねいに、ていねいに、おいしいご飯を作り、味わいたくなって来る。


古本屋めぐり

DSC_0608DSC_0609久しぶりに再制作した『鴨居羊子のピンクの言葉』。恵文社一乗寺店、ジュンク堂書店池袋本店に納品しました。



ピアノを弾く先生来日したばかりの彼女に英語を教わりました。アメリカでは毎日3時間ピアノを弾いていたということで、レッスンの前にピアノの腕を披露してもらいました。



「一日に本を一冊読んだとして、一年で365冊になるよ」
学生時代、近現代文学の講義での先生の言葉だ。その先生は講義の中で神田の古本屋の話も何度もしてくれた。「新幹線に乗れば東京なんかすぐなんだから、行ってみるといいよ」とも。そのたびに、神田の古本屋街を訪ねることを夢みたものだ。
学生時代の私がどっぷりと古書の世界にひたるために気軽に行ける場所というのは、丸太町通の古本屋さんか梅田のかっぱ横丁くらいだったので、時間を見つけては丸太町通を歩き、かっぱ横丁をぶらついた。
丸太町通では「マキムラ書店」がお気に入りで、ここで大橋歩さんが表紙を描いていた頃の『平凡パンチ』をたくさん見つけたことがある。
かっぱ横丁では、書店名は忘れたが、ある古書店のショーウィンドウに、田辺聖子さんが女学生の頃に手作りしたという『乙女草』(合ってるかな?)などの雑誌が何冊か飾られていて、欲しいなぁ、買いたいなぁ、と行くたびに眺めていた。確か25000円位だったと思う。本に関してなら、私の願いを何でもきいてくれる魔法の杖の持ち主である父親の顔が何度も浮んだが言い出せず(今、思えば、欲しいのならアルバイトでもしてお金を貯めればよかったのだ)、いつしか、その雑誌はショーウィンドウから姿を消してしまった。だが、実際にその手作り本を見ることが出来たことは収穫だった。
こうした経験もあって、古本屋に行くと、何かに出合える、私を待っていてくれる本がある、ときに欲しいものは向うからやって来る、ということを実感する。タイトルに惹かれて手に取った本や、パラフィン紙で包まれて静かに書棚に収まっていた本、100円均一の箱に無造作に入っていた本、どの本とも虹のように偶然のすてきな出合いだった。
熊井明子さんの本の中で、
「八年ほど前、私は古本屋の片すみに積まれたホコリまみれの本の中に、『詩の宝物』と題したイギリスの絵本をみつけた。(中略)それは単なる絵本ではなく、キングズリー、デ・ラ・メア、ワーズワース、テニソン、リア、ルイス・キャロル等の詩と、絵を組み合わせた、ユニークなアンソロジーだった」(『風の香り 愛のたより』より)
というくだりを読み、森茉莉さんの本の中で、
「今から三十六、七年前、神田の古本屋で私は薔薇色の表紙の本を発見した。牧場の柵のようなものに腰かけている、どこか変な少女の画と、『マドゥモァゼル・ルウルウ(Madempoiselle Loulou)』という題は面白い小説を想像させた。買って来て読むとものすごく面白いので」(「『マドゥモァゼル・ルウルウ』あとがき」より)
というくだりを読むと、ますます古書店通いに熱が入った。
アリゲルの「旅にある人へ」の詩の一節のように、「多くの中のあなたを見分けた私」があり、「どこにいても私に出会う」。そんな思いがあるので、電車やバスに乗って少しだけ遠出をし、古本屋から古本屋をはしごして歩くことは、今も大きなよろこびだ。そして、歩きながら気持ちのいい風に吹かれたり、買ったばかりの本を、友を見つけたような気持ちでカフェや電車のシートでおごそかに開き、読むことの幸せは、なにものにもかえがたいものだと思う。





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