カフェと本なしでは一日もいられない。

カフェ通いと読書に明け暮れる日々。 ⓒatelier.sumire.gingetsu

宇宙には絶対的な法則(原因と結果の法則)がある。

長く書棚の奥にしまったままだった本がある。何年か前、京都に施術に来られた市川氏に会ったという家族からプレゼントしてもらった『宇宙心気』(市川毅一著 文芸社)である。
一度読み、そのまま忘れてしまっていたのだが、探し物をしていた時に目にとまり、改めて読み直してみると、書いてあるさまざまなことが、今の私にはストンと腑に落ちた。
著者の市川氏は、占星術や天文現象における人体におよぼす影響、神様について研究し、1986年から手当治療を始め、長崎県で今も、手当治療、セラピスト&アドバイザーとして活躍していらっしゃるようである。
この本の中で市川氏は、宇宙には絶対的な法則(原因と結果の法則)があること、私たちが知らないその宇宙の法則を分かりやすい言葉で説明しながら、日常生活の中で、この本に書いてあることを陽気に実践して行けば、さまざまな問題がスムーズに好転してゆくこと、病気も自然に治って行くことを教えてくれる。貫かれているのは、愉快に、陽気に、ランラランと生きるという姿勢の大切さである。
*余談だが、病気を治す実践の第一歩として、この本を左手に持って行う方法について書かれているのだが、それはつまり、この本そのものにパワーがあるということなのだろうか?
本の中にはまた、瞑想の方法や呼吸法、祈りの方法などが具体的に記されているのだが、エッ、そうだったの!? と思ったのは、寝ているときに自分の手のひらをからだにくっつけてはいけないということ、特に胸に手を置くのがいちばんよくないということだ。何故よくないのかは書かれていなかったが、この本の中で、市川氏は、さまざまなこと、さまざまな方法を具体的に記している。
章立ては以下の通り。

第1章 病気の原因は宇宙の法則にあり
第2章 病気を治す実践
第3章 愛がないと幸せはこない
第4章 寂しくなくなるには
第5章 心に留めておきたいこと

この中からいくつかの言葉をピックアップしてみます。

・自然を愛し、宇宙に向かってお祈りする心を覚え、深呼吸をして、頭呑気、心素直、ランラランとみんなを好きになって暮らしましょう。

・祈りは願いの叶うことを信じ念ずることです。この信念こそが、自分の内にある意識に素晴らしい力を発揮させます。

・自分の胸にいる魂を信じて、「愛している」をどれだけ言えるか、これが魂を不動のものにするかどうかの分かれ道です。

・宇宙の法則を信じて、敬い、祈り、深呼吸をゆっくりとするならば、魂が、大きく不動になっていき、わだかまりがなくなり、未来を見つめて、勇気と自信がみなぎります。周りの変化に対応する力が備わり、先のことが見通せるようになります。
頭=呑気、心=素直、魂=不動
人を好きになり、毎日を感謝し、ランランラランと暮らすなら、陽気に、愉快に、心が裕福になり、幸せになる一番の早道です。

★今月のすみれ図書室は、5月29日(日)の午後2時からです。修道院のお菓子は、大分トラピスト修道院のバタークッキーと鹿児島の修道院のレターレとショートブレードをご用意します。


あの人がいた京都。あの人が見た京都。『京都好き』(PHP研究所 京都しあわせ倶楽部)

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『京都好き あの人が見た、食べたモノ・コト』(PHP研究所 京都しあわせ倶楽部刊)の見本が出来上がった。
この本は、29人による「京都」のいわゆる実用アンソロジー。
解説にも書いたのだが、京都というのは、どれだけ暮らしても、どれだけ時間を過ごしても、知らないことばかりだ。京都を特集した雑誌を読んだり、テレビ番組をみたりするたびに、知らない京都がいっぱいあって、愕然とする。そこに広がっているのは、私の知らない場所、私の知らない暮し、私の知らない人生……、たくさんのことが、たくさんの襞の中に隠れている。富士山の樹海(行ったことはないが)に分け入ったような感じ、いや、竹林を彷徨う、そんな感じかもしれない。季節や時間によって、光や風の角度がとらえるものが違い、そのときどきでキラリと光る何ものかを発見するように、そこで出合うたくさんのことは一期一会なのだなぁ、と大げさに思ったりもする。
でも、そんな風に思い、ため息をついた後で、ぼんやりと思う。知らないことがたくさんあるって、とてつもなくすてきなことなんじゃないだろうか。驚いたり、感動したり、発見したり、しみじみ嬉しくなったりすることが、そのたびにあるって、とてつもなくすごいことなんじゃないだろうか。
また、これも解説に書いたことなのだが、周囲を山に囲まれ、歴史遺産が数多く遺されている京都は、宝箱のようである。大切な思い出をしまい、時にそれを取り出して味わうにはうってつけの街だと思う。
このアンソロジーの中には、『しあんくれーる』や『八百卯』『十三月書房』といった、今はもうないお店や場所もいくつか登場するが、それらを知る人たちの心の中には、今も存在し続けているのだと思う。また、長田弘さんが賀茂川の葵橋の上で立ち止まって眺めた風景、考えたこと、好きだった人に会うために久坂葉子が歩いた京都、梶井基次郎が「あ、そうだそうだ」と袂の中の檸檬を憶い出した丸善の画本の棚の前の風景、「四条まで出かけるんだったら、『いづう』のお寿司を頼もうよ」という谷崎純一郎の声、素白先生が着物姿で宿の部屋の真ん中に据えた小机に端坐して、静かな雨の音を愉しんだ京の宿……。そうした京都時間も、本の中には確かに存在する。
白状すると、ページ数や諸々の事情で、この本の中のエッセイ・詩・小説の倍近い作品の収録を見送った。心残りではあるが、人生と同じで、それもまたたくさんの可能性である。この本をきっかけに、読者の方々がいつかまた、それぞれの時に、それぞれの京都に出合って下さるかもしれない、と思ったりする。
余談だが、山本精一さんの「京洛幻想縁起」と私の「エイギョウシテイマス。のばら珈琲」は書き下ろしです。また、巻末付録として、MAP&紹介スポットリストを掲載しているので、収録した読み物と併せてお楽しみいただけたらと思う。


すみれ図書室の記録 2016.4.24

DSC_0998銀月アパートメントDSC_0997銀月20160424_銀月DSC_0999DSC_1000上の三点 若葉の頃の銀月アパートメント 下左:『りんごの絵本』を入れるためのハンドメイドバッグ 下右:きさら堂での晩御飯


4月のすみれ図書室の記録 2016.4.24

晴れていてよかったと思いつつ、午前中、恵文社一乗寺店に『黒板本立て』や紙ものを納品し、その後、銀月アパートメントに。
枝垂れ桜はすっかり葉桜になり、隣の部屋で開催されていた中国茶会の春の部も今日が最終日だとか。前庭の地面はフキで埋め尽くされ、柿の木も若葉でおおわれている。こうして春が終わり、季節は初夏に向かって進んで行く。
諸々の用事を済ませてからすみれ図書室へ。窓を開けて風を入れ、大きく深呼吸。隣のカフェの珈琲豆を焙煎する香ばしい香りが部屋に流れて来る。
まずはお昼ご飯。玄米・小豆・ハト麦・タカキビのご飯にすりゴマをかけたご飯。小豆かぼちゃ、ひじきレンコン、けんちん汁というマクロビメニュー。最低でも50回噛みたい私は、食べるのに時間がかかってしまうので、時々、時計をチェックしながらの食事。
食事を終えてから部屋の掃除。続いて、部屋の黒板や看板の文字を書こうと思ったら、チョークを持って来なかったことに気づく。朝からあれほど、チョーク、チョーク、と心に言い聞かせていたのに…。仕方がないので、部屋と外の黒板は前回のものをそのまま使用し、来月の予定だけだけを2ミリ程残っていたチョークでかろうじて書き込む。
この日、用意した修道院のお菓子は、大分トラピスト修道院のバタークッキー、安心院の修道院のクッキー数種類、函館トラピスチヌ修道院のバター飴。
震災後の状況についても知りたくて大分の修道院へ電話したところ、「かなり揺れ、高速道路も不通になったりしたものの、大丈夫です。お菓子の発送も可能ですよ」とのことだったので注文したもの。到着までの日数も予定通りだった。
来て下さる方に手渡すためのメッセージを書き終わったところで、PHP研究所からの書籍見本が届いた。5月7日発売の『京都好き』(PHP研究所 京都しあわせ倶楽部刊)である。
出来上がったばかりの本を手にし、ゆっくりとページを開いてみる。鴨居羊子が「私は驢馬に乗って下着を売りに行きたい」(『鴨居コレクション機戞々饅餞行会刊に収録)の中で書いているように、本だって、出来立ての新鮮さで、「ヘイ、出来立ての一冊をどうぞ!」と、果物のような新鮮さで売りたいものだ、といつも思う。驢馬に乗ってとはいかなくても、犬好きの私としては、柴犬と一緒に売り歩く、あるいは柴犬と一緒に野原の屋台で売りたいと思ったりする。
そんなことを思っていたら、あっと言う間にオープン時間の2時近くになり、慌てて看板を出しに行く。
晴れているが、風が強く、少し肌寒かったので、部屋に戻ってから、セルフサービスのお茶用にジンジャーティーを用意する。
お茶が沸いたところで、ドアフォンがなり、次々にお客様が来て下さる。近所の方もいらっしゃれば大阪からという方も。こうしてわざわざ来て下さることに、感謝の気持ちがわき上がって来る。
すみれ図書室は、飲み食い、お喋りは自由なので、思い思いに過ごしていただく。質問があればそれに答えたりもする。
『京都好き』、すみれ図書室のことを紹介して下さった『図書館へ行こう!!』(洋泉社ムッ)は閲覧用に置いておいた。
りてん堂さんの個展「白ヲ読む、」のポストカードも閲覧用に用意したのだが、皆さん、文字の雰囲気や文字色、レイアウトに「やっぱり活版印刷はいいですね」と。りてん堂さんについての質問もあったので、you tubeで『恋するフォーチュンクッキー』まいまい京都バージョンをみていただく。この中には銀月アパートメントもりてん堂さんも登場するのだ。
京都のカフェ話をしたり、本の話をしたり、前回、高柳佐知子さんの『りんごの絵本』を入れるための(いや、持ち歩くための)ハンドメイドのバッグを見せてくれた女性が再び来て下さったので、そのバッグを写メールで撮らせて頂いたりしながら時間が流れてゆく。
夕刻、いつのように、年配の友人・Tさんが宝塚から2時間かけて来て下さった。私の母親よりも年上だなんて信じられないくらい元気で、明るくて、私は彼女が大好きだ。彼女が今読んでいるという本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』について教えてもらう。勉強不足で未読の書だが、何故「小櫛」なのかが腑に落ちた。
6時前に店仕舞いをして左京区に移動し、Tさんときさら堂で夕食を食べながら、お喋りの続きをたっぷりと楽しんだ。
年上でも、年下でも、うんと年の違う人とお喋りするのは楽しい。その人の上にだけ天から降って来て、その人だけが受け止め、大切にあたためたもの、その結晶のキラキラとしたカケラを分けてもらっているような気持ちになる。
5月のすみれ図書室は、5月29日(日)の午後2時オープン予定です。





生きる支えとなる物語ー民話

さまざまな試練に合うたびに、民話を思い出す。地震の被害を伝えるニュースをみながらも、民話を思い出す。
二十代のはじめの頃、民話を勉強していたことがあったのだが、知ることすべてが「あぁ…!」と思うことばかりだった。
ご先祖様というのは仏壇の中にいる人たちではなく、自分の両親、祖父母とたどってゆく人たちだということも実感したのも、民話によってだったと思う。
バイブルのようにして読んでいたのは『民話の世界』(松谷みよこ著 講談社新書)だった。
「一つの民話が、時代や年代、性別で、受けとめ方がちがうということは面白いことだと思う。掌にのるような小さな物語が聞く人によってさまざまの面から光を当てられる。それなのに、その物語はやっぱりその物語でそこにある。民話というのはそういう不思議な力を持っているのではないだろうか」(『民話の世界』より)
たとえば、ひとつの民話を、耐える話と受け止める人がいる。愛の物語と受け止める人がいる。受け止め方は人それぞれであっても、その物語はその物語としてそこにある。
たとえば『鶴女房』の話を読み返すとき、鶴のように白く美しい手でありたいと願いながらも、実際はグローブのような手をしている自分への嘆きとして読む人があるかもしれない。のぞいてはいけない、という禁忌を、人には決して踏み込んではならない一線がある、そんな思いを重ねて読む人があるかもしれない。光の当て方は、ひとそれぞれなのである。
また、『やまなし取り』の話。兄弟三人が三人とも病気の母親を助けたい一心で山に向かうのに、三番目の息子だけが事をなし得たのは何故なのか。それは、水の音を聴き、風の音を聴くことが出来ないものは山に入ってはならない、という山に入るものの掟として読むことができる。
さらには『こぶとり爺さん』の話。いいお爺さんだからこぶを取ってもらえ、悪いお爺さんだからこぶをとってもらえなかった、という単純な話ではなく、それは、今の自分を肯定できるかどうか、まわりの人を楽しませることができるかどうか、楽しみの輪に入ってゆけるかどうか、そんな気持ちのあり方の物語として読むことができる。
くだくだしい説明や心理描写はなくても、一冊の本にもなりうる可能性を持った物語のエッセンスだけをパッと差し出してくれる、それが民話であり、どう読むか、どう受け止めるかもその人に委ねられている、それが民話なのだと思う。
松谷みよ子さんは『夕鶴』について、こんな風に書いている。
「幼い子供たちは、この話をどう受けとめるだろうか。美しい話だと思う、かわいそうだと思う。たとえその程度のたどたどしい感想しか洩らさなかったにせよ、二十代のある日、三十代のある日、突然、あざやかに日が差しこむように、ああ、と思うかもしれない。民話などという分類はぬきにして、思い出す日があるかもしれない。民話とはそうしたものではないかと思う。語り伝えられ、語り伝えられていく間に、出会う人々の心の奥底に小石のように沈んで、生きる重みともなり、支えともなってきたのではないだろうか」

洪水や災害と戦った人々の物語もまた日本全国に数多く残されている。
「それに気がつくかどうか、大切に思うか見過ごすかは、私たちのなかに、その目があるかどうかであろう」




私たちは古代に通じる世界を持っている。

DSC_0842若狭彦神社DSC_0848若狭姫神社左:若狭彦神社 右:若狭姫神社 本殿脇には千年杉がそびえている。






「現代でありながら古代に通じる世界を持つ我々は幸せである。どんなに喧噪の中にいても、一歩この森に足をふみ入れると、不思議に古代が生きていることを感じる」
これは、神々の在(い)ます森、糺の森についての志村ふくみさんの一文である(『雪月花の日々』淡交社刊)。
最近、神社に参拝する機会が多くあるので、古代に通じる世界を持つ、古代が生きていることを感じる、という文章に共感しつつ、私自身、そのことを、わずかながらも臨場感を持って実感できる気がする。
鳥居をくぐり、参道に一歩足を踏み入れると、風が変わり、時間の流れが変わる。古代への転調というのだろうか、空間と時間の軸が瞬時に変わるのだ。結界という言葉の意味を実感し、日本人が持つ「共生」の姿をそこに見る気がする。
こうして参道を歩いてみよう、と思いつつ、まだ試せていないのだが、『神道 見えないものの力』(葉室頼昭著 春秋社)の中に、浜美枝さんとの対談でのエピソードが紹介されている。
浜美枝さんは、参道に立ったらまず靴を脱ぐのだという。
「裸足で参道に立ちます。そうすると、神さまのお恵みが足から入ってくるということが実感できるのです。それで、心からありがたいという思いに包まれます」
この言葉を受けて、著者の葉室頼昭氏は書いている。
「天からだけではなく、地からも神さまのエネルギーが入ってくるわけです。そういうことを実感できるというのはすごいと思うんですね」
しかも、神社というのは、地下からのエネルギーが噴き出す場所に建てられているのだ。
葉室氏はまた、こんな風に書いている。
樹木は地中深く根を張って、地のエネルギーを取り入れる一方、葉を茂らせて日光、天のエネルギーを得て生きているので、千年、二千年を越えて生き続ける木がたくさんある。われわれは地中に足を突っ込んでおらず、上からだけだから百年足らずしか生きないが、地中からエネルギーをもらったら、もっと長生きできるのではないか、と。
だが、現代に生きる私たちに思いを巡らせてみると、私たちは、地中に足を突っ込むどころか、裸足で歩くこともなく、大地と直接つながらない生活をしている。
アーシングという言葉がある。私自身、このことについては不勉強だが、裸足で土の上を歩くだけでも、私たちは地のエネルギーをチャージ出来るのではないだろうか。
神さまとつながり、古代とつながり、天と地とつながれる場所を身近に持っていることは、何という恵みであり、幸せだろう。そんなことをしみじみと思うこの頃の日々である。

★お知らせ:四月の『すみれ図書室』は、4月24日(日)の午後二時からです。








おばあさんがのこしたものは、山小屋のお店と「いらっしゃいませー」の言葉。田村セツコ『いらっしゃいませ』

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『いらっしゃいませ』田村セツコ・作 トムズボックス 800円+税


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左:庭の匂い菫 どんどん咲いてきた。中:林檎の木に新芽を発見! 右:もう綿毛になっているタンポポ


絵本『いらっしゃいませ』は、ある絵本CAFEではたらいている女のひとが、歌うように、「いらっしゃいませ」と言うのをきいていて浮んだお話とか。その女のひとは、お店に入って来ない、通りすがりの人影にも「いらっしゃいませ」と言っていたそうです。
さて、この絵本です。
山小屋のお店では、おばあさんがいなくなって、少女がひとりぽっちでのこされました。
おばあさんがのこしたものは、山小屋のお店と「いらっしゃいませー」の言葉。少女は、おばあさんに教わったように、毎日スープを作り、パンを焼きます。
お腹をすかせた旅人がやって来た日には、「いらっしゃいませー」の言葉とともに、あったかいスープとパンを。誰も来ない日も、スープを作り、パンを焼き、「いらっしゃいませー、いらっしゃいませー」。そして、朝になると、昨日作ったお料理を庭に並べます。小鳥や動物たちが集まって食べるのです。
さびしいときは、森の泉に顔をうつしてにっこり笑います。泉にうつる顔は「あんたのともだちさ。泣いたら、ともだちも泣いてしまうよ」。これがおばあさんの教えなのです。
やがて冬がやって来て、草や木に氷のシャンデリアがさがり、動物たちは冬眠に入り、「ともだち」の顔をうつす泉も凍ってしまいます。ひとりぽっちの世界、もう何日も、誰にも会っていないような冬の日々でも、少女は「いらっしゃいませー」と言います。

何だか泣きそうになってしまいました。少女が作るあったかいスープを飲んだみたいに、心がじんわり、あたかかくなってゆきます。
いらっしゃいませー、いらっしゃいませー。
誰も来ない日があったって、その声を必要とする誰かに届くときがあるかもしれません。
いらっしゃいませー、いらっしゃいませー。
今日も少女は、スープを作り、パンを焼き、いらっしゃいませー、と言っていることでしょう。



『清川妙が少女小説を読む 「なりたい自分」を夢みて』(ちくま文庫)

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銀月アパートメントの枝垂れ桜。2016年4月3日








「名作のおもしろさというものは、読み直すたびに、こちらの心の成長に合わせて、主人公のほうも変わってくることにある。自分と等身大の気持ちで読むので、向こうも姿を変えてくるのである」
これは、『清川妙が少女小説を読む 「なりたい自分」を夢みて』(ちくま文庫)の『赤毛のアン』の章の一文である。この場合の少女小説とは、『赤毛のアン』『若草物語』『あじながおじさん』『大草原の小さな家』であり、主人公とは、アン、ジョー、ジル―ジャ、ローラである。
江國香織さんによる文庫解説「びっくりする読書」に、こんなくだりがある。
「この人、物語の内と外を自在に往き来している! この人、五歳だったり十七歳だったり五十歳だったり七十歳だったりする!」
だが、それだけではない。清川妙さんは、どんな時代とだって自在に往き来している。このエッセイの中には『更級日記』『枕草子』などが登場するが、時代だけじゃなく、洋の東西とだって自在に往き来しているのだ。過去の自分、現在の自分、未来の自分と往き来も自在だ。
さらには、「どんな小さな発見でも、読者に伝えたいと、私は願いながら加筆した」という著者の発見による人生の肯定という光が、潔く、明るく、貫かれている。
アンは、自分を試し、明日に向って挑戦するという心の種子を持ち、ジョーは、自分の生き方を自分流にデザインし、自分の納得の行く人生を選び、ジル―ジャは、生来のサニー・ソウル魂の中に持ち続け、ローラは、ていねいに、心をこめてものごとを見つめる。この文庫の中に登場する主人公たちは、一人一人がこうして自分の人生を切り開いてゆく。そして読者は、その姿に自分を重ねながら、「なりたい自分」に向かって、自分を磨き育ててゆくことが出来る。
私たちはもう清川妙さんの講義を直接きくことはかなわない。だが、ページを開きさえすれば、活字によるていねいな講義を ─細部をすくいあげ、そこに様々な人生をからめながらの─ いつでも受けることが出来るのだなぁ。そう思うと、しみじみとしてしまった。





『力なく悲しいときは、小さ事、特に励めと御霊(みたま)いう』

修道院 鎌倉 東京 268銀月アパートメント 022銀月アパートメント 枝垂れ桜の見える二つの窓。*以前に撮影したものです。





もう何年も前のことです。とあるホテルでのイベントに参加したことがあります。そのとき、同じテーブルだった年配の女性と言葉を交わし、「モットーはバッグひとつで気軽に出かけるということ」だと教えてもらいました。このことを習慣にしてから、出かける回数も増え、旦那様もいろいろなところに誘ってくれるようになったそうです。
「ほら、せっかく誘ってくれたのに、あれを準備して、これもしなきゃ、と言っていると、出かけること自体が大げさなものになってしまって、だったらもういいよ、って、次から誘ってくれなくなるでしょ。だから、誘ってもらったら、バッグ一つで、ありがとう、って気軽に出かけられるようにしているんです。自分が出かけようと思ったときも同じ。ですから今夜もね、バッグ一つでサッと出かけて来ました」
サッと出かける。すてきな習慣だな、と思いました。
行動的で、いつも明るい、私の母の世代の友人がいます。彼女のモットーは、「楽しそう、と思ったら、あれこれ考えないでどんどん出かけて行くの。いい波には乗ってゆかないとね」というもの。月に一度の『すみれ図書室』にも宝塚から二時間かけて、毎回顔を出してくれます。「道中にもね、愉しいこと、いっぱいなの」、明るく、そう言って。清川妙さんの言葉を借りるなら、クイック・アクションの人なのです。
「クヨクヨしたって仕方ないじゃない」というのも、彼女の口癖です。そして、彼女の場合、落ち込むことがあっても、とにかく出かけること、歩くことが心のエクササイズにもなり、自分を仕立て直せることになっているのだとか。
そんな彼女の姿に、『私の部屋のポプリ』(熊井明子著 河出書房新社)の中で出合った「遠縁の老婦人に聞いた話」が重なります。
「若い頃、わたいは悩みに押しひしがれそうになると、無理にでもお洒落をして、しゃんと身じまいを整え、ガラス磨きや洗濯など身体を動かす仕事を一生懸命やりました。自由学園を創立された羽仁もと子さんは、『力なく悲しいときは、小さ事、特に励めと御霊(みたま)いう』と、歌のように口ずさみながら、悩みがある時はことさら小まめに働いたとか。
 だまされたと思ってやってごらんなさい。涙なんて、回転の早いコマのように振りとばしてしまうつもりで。そうしているうちに、どんな苦しい時も、必ず過ぎて行くものよ」

★明日は銀月アパートメントの部屋を開けています。花見ウクレレのワークショップがメインですが、アトリエ・すみれ・銀月の紙ものや黒板本立てなどの木工、修道院のおやつも少しですが置いています。私は打ち合わせがあったりで、出たり入ったりですが、よろしければお花見がてらお出かけ下さい。
ウクレレワークショップは、一人1000円(飲み物付)です。





舌の上のプルースト

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写真は二点とも去年の春に撮影した銀月アパートメントの枝垂れ桜





「プルースト文学を旅する

カフェ・オ・レ、舌びらめ、マドレーヌ……。
プルーストの慈しんだ数々の味覚を手がかりに、
不朽の名作『失われた時を求めて』を読み解く。
やさしい文章で綴る最良のガイダンス」─帯のコピーより

もう二十年近く前、梅田の紀伊國屋書店で買った本と書棚の中で再会した。本とは『舌の上のプルースト』(木下長宏著 NTT出版)。随分前にこのブログでも紹介したことがあると思うが、プルースト文学を味わうにあたってのとても大切な秘密の扉を開いてくれる鍵──美食と想像力との深い関係へ誘う鍵──を手渡してくれる一冊である。


「プルースト文学に罹れた食べ物のなかで、いちばん好きなものはなにか、と問われたら、ちょっとためらったあとで(中略)、しかし、きっぱりとこう言おう。
いちばん好きなのは──、「苺をフロマージュ・ア・ラ・クレームでまぜてつぶしたやつ」と」
「熟した苺をつぶし、蜂蜜と砂糖を半分ずつ加えた白いフロマージュ・ア・ラ・クレームを入れてスプーンでまぜ合わせてゆく。すると、苺の濃い赤色が、マーブル模様を描きながら、鮮やかで明るい薔薇色に変わっていき、野原の香りが甘く鼻を打つ。美しい薔薇色に染め上がったところで、まぜる手をとめスプーンをひとくち口へ運ぶ。つつましい薔薇色のクリームとなった苺は、少しばかり泡立ちながら口の中へ甘美な匂いと冷んやり優しい味をしみわたらせてくれる。思わず、言葉にならない喜びの声が喉の奥からつきあげてくるというものだ。
そして、頭の中では、『失われた時を求めて』のさんざしを描いた情景が、さあっとひろがってくるのもこのときだ」

著者は、プルーストが書き遺した味覚を訪ねて、パリ、イリエ=コンブレー、ノルマンディー地方の海辺の街、カブールなど、小説の舞台を旅する。その旅の中で出合うカフェ・オ・レ、マドレーヌ、舌びらめのムニエル、アスパラガスのオムレツなど、プルーストが愛した味覚を細やかに描き、『失われた時を求めて』からの引用文をそこにからめてゆく。それは、おいしく整えられた食卓のようであり、登場する味覚のひとつひとつの舌触り、匂い、味わいが、読むものの脳裏に再現されてゆく。
「プルーストが<描写>した味覚は、読者であるわれわれの「拡大鏡」となって、『失われた時を求めて』という作品を読む手段を提供してくれる」と結びの文にあるが、読みながら、私たちはプルースト作品と細やかに出合い、そのディテールを味わうことが出来るのである。
『失われた時を求めて』を読み通していない読者にとって、いや、未読の読者にとっても、充分すぎるほどの魅力がたくさん詰まっていて、今すぐにでも『失われた時を求めて』を読みたくなって来るではないか。

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