カフェと本なしでは一日もいられない。

カフェ通いと読書に明け暮れる日々。 ⓒatelier.sumire.gingetsu

星野道夫

あるとき、ふっと魔法が見つかった。それは、星野道夫さんのこんな言葉だった。



DSC_22203月29日の「修道院カフェ」は無事終了。修道院カフェを開催したU空間の森の先には「ハチハチインフィニティカフェ」があります。






DSC_2226修道院カフェ、スタート前の静かな時間。3月29日は、福岡カルメル会修道院のお菓子を用意しました。



20150329_131046この日のメニューは、カップケーキ(バナナ又は檸檬)、薄焼きクッキー2枚、小さなマカロン2個、珈琲(この日は、ゴディバのチョコレートトリュフ)又は紅茶(林檎とシナモン)、抹茶のお菓子2個、さくら湯、ポストカード。

DSC_2203福岡カルメル会修道院のカップケーキ(檸檬)と薄焼きクッキー





空を見上げるのが好きだ。
自宅でも、仕事先でも、カフェでも、そして旅先でも、空を見上げてしまう。夜、眠りにつく前も、必ず空を見上げる。満月の夜は、外に出て空を見上げ、星に祈り、月に祈る。
人には、いや、私には「自分の空」が必要なんだと思う。それは、満天の星空だったり、窓から小さく切り取った空だったりする。そんな自分の空を見上げるたびに、空と私はつながっているのだ、と実感する。
幼かった頃の私はおばあちゃんっこで、祖母と過ごす時間が長かった。その祖母は星が好きな人で、いちばん星が瞬く頃になると私を誘い、人が亡くなったら星になるのだ、ということや、空の星を指差しながら、あの星は誰々で、という話を繰り返し私に聞かせてくれた。だから、私にとって星は「他人事ではない」。常に自分自身や大切な誰かとつながっている存在であり、その星を「置いている空」もまた、大きく広くつながった存在である。
時々、自分のことを魔女みたいだなと思う。動物みたいだなと思う。満月の夜にハーブを摘みに庭に出たり、心やからだが疲れているときは、犬やネコがどんな風に自身をいたわっていたかを思い出し、その真似をしたりする、そんなときどきに。

空や星だけじゃなく、自分にとっての「北極星」のような作家や本がある。どんなに環境や年齢、嗜好が変っても、ゆるぐことなく心の指針であり続け、その存在そのものが私を支えてくれる作家や本たち──。
街に出れば情報があふれ、書店をのぞけばまた森の木々のようにたくさんの本が並んでいる。だが、私の空、私の木のようなものが必ずそこにはあり、「私たち」は巡り合う。そして、かけがえのない友人やパートナーのような存在になるのだ。
何度も書いたことがあるのにまた書いてしまうが、巡り合ってしまい、どうしようもなく好きになり、何度も何度も読み返し、そのたびに生きる力をもらったのが、星野道夫さんの書いたものである。
分けても星野道夫さんの著作の中で出合った、

──ある時ふっとその答が見つかった。何でもないことだった。それは「好きなことをやってゆこう」という強い思いだった。  (『星野道夫著作集3』新潮社「歳月」)より

という一文。この言葉は私の「北極星」になった。この言葉を空に置くと、何故か「ぼくらが旅に出る理由」という歌を思い出し、好きなことに向かって歩いてゆく人の姿を思う。その人の姿は、星野道夫さんでもあるし、夢に向かって歩いている友人の姿でもあるし、自分の姿でもある。
星野道夫さんの言葉は、北極星のように「私の空」にいつも変らずにある。ふと立ち止まり、その言葉を見つめると、心が開かれ、新しい景色が見えてくる。そして、私自身がそのたびに更新されてゆくような気持ちになる。








ある時ふっとその答が見つかった。何でもないことだった。それは「好きなことをやってゆこう」という強い思いだった。─星野道夫

修道院&お手紙カフェ表修道院&お手紙カフェ裏








「世界をも支配することのできる文字のアルファベットです。それには大きな力がひそんでいます。ただどこに場所を占めるか、その命令を待つばかりです。それは生命を与えることも奪うことも、喜ばすことも、悲しませることもできます」
───アンデルセン『ABCの本』より

これは、1月25日に開く「修道院&お手紙カフェ」のフライヤーの中で引用したフレーズなのだが、読みながら、言葉というのはすごいのだな、と改めて思った。誰でも等しく自由に使える言葉の一文字一文字、それをどう並べるか、どう組み合わせるか、どう使うかによって、「生命を与えることも奪うことも、喜ばすことも、悲しませることも」できる。何かを生み出すこともできる。すごいじゃないか、と思う。
誰かが書きのこしてくれた言葉、そこに並ぶ文字の連なりは、支えや希望にもなり得る。
「北極星」のようにいつも見上げた先にあり、支え続けてくれている言葉が私にはある。それはたとえば、星野道夫さんのこんな言葉だ。

ある時ふっとその答が見つかった。何でもないことだった。それは「好きなことをやってゆこう」という強い思いだった。 (『星野道夫著作集3』新潮社「歳月」)より

この言葉について書いた『PHPスペシャル』(2014年6月号)の中で、私はこんな風に書いている。

「道に迷いそうになった時はこの言葉を思い出し、遙か遠くの風景の中を行く旅人を見つめるような視線で自分に向き合い、好きなことをやってゆこうという強い思いがあるのか、と問いかけてみる。そして、中(うち)なる強い思いを再確認すると、好きなことをやってゆけばいい、というシンプルだが深いメッセージを私の空に置いてみる。こうすれば、この言葉を道標(みちしるべ)にして再び歩いて行くことが出来るのだ。遠くまで旅する人のように」。

多分、本というのは、多くの読者に宛てて書かれたものであると同時に、それを手にするたった一人のために書かれている。だから、届く人には届くし、届かない人には届かない。同じ文字が書かれたものであっても、その文字が並ぶページから受け取るものは人によって違うし、著者や編集者が隠し種のように細部にひそませた贈り物に気づき、それを心の庭に(無意識であったとしても)埋め込む人もあれば、その種に気づかず本を閉じる人もある。だが、それでいいのだと思う。空が何を教えてくれるのか、星がどんな言葉をささやくのか、それが人それぞれで違っているように。











「できたてのおでんがぐつぐついいながらそのページから匂いを発していた。」─『星野道夫著作集1』(新潮社)より

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お正月に出かけた倉敷。カフェ・エルグレコは閉まっていました。
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久しぶりに「よる日杳」へ。チャイをオーダーして巴里のガイドブックなど。一人で過ごす夜時間に「よる日杳」はおすすめです。
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ビルの八階のカフェから比叡山を眺めたら、雲の間にぽっかりと青空の窓。
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「おおきにや」でオーダーしたクリームチーズコロッケはブルーベリーソースで。これはなかなかの相性。
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「おおきにや」でオーダーした大根の炊いたの。からだがあたたまりました。
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「おおきにや」のお品書きの文字に惚れ惚れ。こっそり持ち帰りたかった!
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『京都のシェフにならうお料理教室』(行司千絵著・青幻舎)
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マンダリンロールのページ。


本を読んでいても、映画やテレビをみていても、食べ物のシーンに食指が動く。どうしようもなく。
年が明けてから、雑誌『ひまわり』(私が持っているのは国書刊行会から出ていた復刻版)を机に山のように積んで、資料集めに没頭していたのだが、ここでもやっぱり黒田初子さんのお料理ページや「女学生 秋の食慾」といったページを読み耽ってしまう。そして、しみじみと幸福な気分になるのである。
余談だが、『ひまわり』によると、かつては教科の中に「お割烹の時間」があったらしい。いわゆる調理実習のようである。

◎今日は午後からお割烹の時間である。一週一度のこの時間はあたし達の楽しみの一つなのである。おしゃべりが出来て、面白くて美味しいものが出来上るでしょう。
(中略)
今日は松茸御飯にお豆腐のお清汁に栗の茶巾しぼりである。あたし達のお料理にしては豪華なのよ。先生が仰言つた時、ワーイシーイと机をたたいて大よろこび。このシーイと云うのはあたし達獨特のうれしい時の表現法なのよ。◎

読みながら、私も一緒に松茸ご飯や栗の茶巾絞りを作っているような気分になり、そのメニューが並んだ食卓が私の脳裏に出現した。それは、食べ物の名前が煙のような気体となって私の中に入り込み、細胞の中をどんどん進んでゆき、味の記憶や経験、それを囲むもろもろのことにたどりついて、食卓がパッと現れたという感じ。
そういえばと、マッキンレー山をバックにしてオーロラを撮るために厳冬期のアラスカ山脈に入った時の氏の何冊かの所持品の中に、日本の雑誌が一冊あったという星野道夫さんのエッセイを思い出した。
「この雑誌の中に、何度見ても飽きないページがあった。紀文のおでんの広告ページである。できたてのおでんがぐつぐついいながらそのページから匂いを発していた。人間の想像力というのはたいしたもので、ぼくはほとんどおでんを食べたような気持ちになっていた。」
ここの部分を妙に覚えているのは、星野道夫さんの言葉のすごさ、そして、そのページからもおでんの匂いがしたからだ。天空からの光が雪面を照らし、幻想的に浮かび上がるマッキンレー山を背景に、キーンと冷たく、冴え冴えとした空気に立ち上る白い湯気が見えたからだ。
おでんといえば、先日、あるテレビ番組であっと驚くレシピが紹介されていた。おでんにへたを取り皮を剥いた柿も加えて煮るというもの。こうすると長時間煮たような「なれ味」を出してくれるという。さらに、みかんの皮も加えて煮る。そうするとからだもあったまるおでんになるそうだ。(今夜作ってみる)。
みかんといえば(まるで連想ゲームのような文章をお許し頂きたい)、『京都のシェフにならう お料理教室』(行司千絵著・青幻舎)に収録されているレシピのひとつにマンダリンロールがあった。これは、ジャムを丸ごとゆでて作ったジャムを使ったロールケーキ。我が家には、無農薬で化学肥料もまったく使っていないみかんがどっさりあるので、この丸ごと煮る方法を、ロールケーキ用だけじゃなく、保存用のみかんジャムにも応用させていただいた。
この本の嬉しい点は、京都を代表する名店のシェフによる味わい深い料理解説とコツの伝授に加えて、文字数たっぷりの丁寧な作り方が載っていること。そして、実際に著者が作ってみての「作ってみました」のコメントやワンポイントアドバイスが織り込まれていることだ。実に親切でわかりやすい料理本である。
例えばマンダリンロールならば、「生地手前3cm部分をナイフの背で軽く押してください。クリームとジャムを塗ったら、3cm部分を軽く折り曲げて芯にし、その後は紙を持ち上げていくと、自然に丸まります」といったシェフ直伝のロールケーキの巻き方やジャムや水玉模様のように散らすと味の変化が楽しめるといったことなどが図解入りで丁寧に説明されているので、ロールケーキを失敗なく巻くことができるようになった。
もちろん、こうしたスイーツだけではない。
「本書はあこがれのお店のシェフに、おうちで作ることのできるレシピを考案してもらいました。和食、イタリアン、フレンチ、中華料理の4分野のおかずと、洋菓子、和菓子のおやつで構成しています。お店の技術を惜しみなく披露してくれた「おうちごはん」と「おうちおやつ」。基本の「き」にあたる48レシピです。どうぞおうちの味にしてください」(「はじめに」より)
もちろん、我が家の味にしつつありますよ、行司さん!





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「私たちはある風景に魅かれ、特別な思いを持ち、時にはその一生すらかけてしまう」 星野道夫『アフリカ旅日記 ゴンベの森へ』より

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『アフリカ旅日記 ゴンベの森へ』星野道夫著・メディアファクトリー刊
「本書の原稿は、星野道夫氏がカムチャッカ撮影行に旅立つ前日、一九六九年七月二十一日に脱稿されました」とありました。それは、カムチャッカ半島でヒグマに襲われて亡くなる前の月。



「誰にも、思い出を作らなければならない「人生のとき」があるような気がする。わずか十日ばかりにすぎない旅だが、一日一日が珠玉のような大切な時間なのだ」
こうして訪ねたゴンベの森の旅日記、それが『アフリカ旅日記 ゴンベの森へ』である。

「ザイールの空が赤く染まってきた。やがて木の葉のすれあう音と共に、樹上の寝床から目を覚ました森の隣人たちは、影絵のように枝から枝へと伝って地上に降りてくる」

「毎日のように夕立ちが来て、またうそのように晴れ上がった。タンガニーカ湖対岸のはるかなザイールの上に光る稲妻は美しかった。あまりに遠いので音は聞こえず、ただ閃光だけが暗い空に舞っていた。ゆっくりと雨期が近づいているのだ」

こうした星野道夫さんの文章の美しさ。切なくなってしまうくらいだ。
美しいだけではなく、文章に音がある。匂いがある。動きがある。静けさがある。読む私の中に、まだ見ぬアフリカの風景が広がってゆく──。
その風景を心に抱きしめながら、人はたとえ同じ場所に立っていたとしても、視線の先に広がる景色は、それぞれ違っているのではないだろうか。風景というものは心の領域とつながっていて、人はその景色に自分というものを重ねるのではないだろうか。こんな風に、何度も「風景」ということを思い、考えてしまった。この本の中には「風景」という言葉が何度も何度も出て来て、その「風景」それぞれが、まるで3D映像のように臨場感を持って私の中に迫って来たのである。
星野道夫さんはこんな風に書いている。

「風景とは言いかえれば、人の思い出の歴史のような気もする。風景を眺めているようで、多くの場合、私たちは自分自身をも含めた誰かを思い出しているのではないか。誰だって、他人の人生を分かち合うことなんでできはしないように、それぞれの人間にとって、同じ風景がどれほど違って映るものなのだろうか。
   (中略)
私たちは、誰しもいつの間にか風景さえ背負い込んで生きているのだろう」

とてもすきな一文がある。それは、滝のような汗をかいたあと、タンガニーカ湖で泳いだときの言葉だ。

「素っ裸で湖面をゆっくり泳いでいると、アフリカが体にしみ込んでくるような気がした」

風景の中に入ってゆくときのこの感じ、これをこんな風に書きあらした表現、というのはちょっと他に思いつかないのだが、この「アフリカが体にしみ込んでくるような気がした」という文章を反芻しながら、忽然と気づかされた。「しみ込んでくるような」感じ、これが私にとっての星野道夫さんの文章の魅力なのだ。

本当は限りなくあるのだが、この本の中で心ひかれたフレーズのいくつかを。

●人が旅をして、新しい土地の風景を自分のものにするためには、誰かが介在する必要があるのではないだろうか。どれだけ多くの国に出かけても、地球を何周使用と、それだけでは私たちは世界の広さを感じることはできない。いやそれどころか、さまざまな土地を訪れ、速く動けば動くほど、かつて無限の広がりを持っていた世界が有限なものになってゆく。誰かと出合い、その人間を好きになった時、風景は初めて広がりと深さを持つのかもしれない。

●ひとりの人間の一生の記憶の中で、光を放ち続ける風景とは、一体何なのだろう。忘れ難い思い出がうそのように遠く去り、何でもない一瞬がいつまでも記憶の中で行き続けることが、きっとある。

●人と人が出合うということは、限りない不思議さを秘めている。あの時あの人に出合わなかったら、と人生をさかのぼってゆけば、合わせ鏡に映った自分の姿を見るように、限りなく無数の偶然が続いてゆくだけである。が、その偶然を一笑に付するか、何か意味を見出すかで、世界は大きく違って見えてくる。
             ──『アフリカ旅日記 ゴンベの森へ』より



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