2005年04月03日
共同売店の思い出 その2の続き
前回の、I.Mさんの田港共同売店(大宜味村)の思い出の続きです。
――共同売店の店主のことを「主任」と呼ぶようですね。
「確かに私も主任と呼んでました。それも普通の店とは違うところですよね」
――主任はどうやって選んでいたのですか?
「当時私はまだ小さかったから、そういう運営に関することまでは覚えていないなあ。でも、主任になる人は、きちんとした人ですよね。その地域で信頼されている人でないとなれなかった。
戦後の共同売店は、配給所から始まっているから。公平に間違いなく配給を分けられるような学問もある人でなければできない」
――どなたがされていたか覚えてますか。
「よく覚えているのは、福栄おじさん。おじさんが長いこと主任をしていた。やはり部落の名士のような人でした。小学校に上がる時、教科書が買えなくて、借りてきた本を福栄おじさんに写してもらったのをよく覚えています。
その後、次第に売店は、元々の共同組合制から個人請負制に変わっていく。
年間いくら、という風に部落に納めることによって売店の経営権を入札する。
それもだんだん安くなっていって、年に五万円でも引き合わない、ということになって、誰も引き受ける人がいなくなってしまった」
――田港共同売店はなくなってしまいましたね
「もう2、3年になる。ダムが川の上流にできたおかげで公民館は立派になったけど。今、田港部落には小さな個人商店があるだけ」
――共同売店の店主のことを「主任」と呼ぶようですね。
「確かに私も主任と呼んでました。それも普通の店とは違うところですよね」
――主任はどうやって選んでいたのですか?
「当時私はまだ小さかったから、そういう運営に関することまでは覚えていないなあ。でも、主任になる人は、きちんとした人ですよね。その地域で信頼されている人でないとなれなかった。
戦後の共同売店は、配給所から始まっているから。公平に間違いなく配給を分けられるような学問もある人でなければできない」
――どなたがされていたか覚えてますか。
「よく覚えているのは、福栄おじさん。おじさんが長いこと主任をしていた。やはり部落の名士のような人でした。小学校に上がる時、教科書が買えなくて、借りてきた本を福栄おじさんに写してもらったのをよく覚えています。
その後、次第に売店は、元々の共同組合制から個人請負制に変わっていく。
年間いくら、という風に部落に納めることによって売店の経営権を入札する。
それもだんだん安くなっていって、年に五万円でも引き合わない、ということになって、誰も引き受ける人がいなくなってしまった」
――田港共同売店はなくなってしまいましたね
「もう2、3年になる。ダムが川の上流にできたおかげで公民館は立派になったけど。今、田港部落には小さな個人商店があるだけ」
I.Mさんは、高校を卒業する昭和35年までを田港で過ごし、その後は那覇市周辺で生活されています。
現在、大宜味村出身者で作る郷友会「一心会」の会長をしています。
来る4月10日(日)には、年に一回の郷友会の総会があるということです。
現在、大宜味村出身者で作る郷友会「一心会」の会長をしています。
来る4月10日(日)には、年に一回の郷友会の総会があるということです。