Symphony Fantastique Proving Ground



一色強兵の憂鬱

誰の発明かは知らないが、実に言いえて妙の言葉である。
具体的な案件には一切言及せず、それでいて、なんか、胸の奥のつかえが一気に取れる表現だ。
まあ、もともと外国人との交流は大なり小なり価値観の不一致ってのは起こって当たり前なのだが、そこに「基本的」なんていう言葉を付け加えるだけでこれだけインパクトが変わることを発見した御仁には改めて祝意を申し上げたい。
異文化の理解ということほど難物なものはない。実際、これほど世界のあらゆる情報がネットを駆け回っていてもわからんものはわからんのだ。
その端的な例は料理である。
自分の周りの人間、ほぼ全員が喜んで食べている中、なんで、これが食べられるの?という疑念を抱え、目の前に出されたものの処分をどうしようかと悩んだ経験を積んだ私からすると、世界の人と必ずわかりあえるなんて言っている人は世界を知らないに違いないと断定せざるをえないのだ。
ネット上では結構ちやほやされているかのように見える寿司だって、食べられない、いや嫌いな外国人は多い。生理的に受け付けないらしい。同様に、南西アジアのスパイス多用料理や塩分マックスの北欧料理などは平凡な日本人には絶対耐えられないはずだ。まあ、日本国内にだって、新島のくさやとかいろいろ物議をかもす食材があるんだから。
いや言葉を変えよう。世界から見て日本ほど食材がトチ狂っているように見える国はあるまい。
何しろ猛毒のフグですら食材にした国である。外国では売買だけでも重罪になりかねないシロモノだ。
ま、もともと国、いや人ごとに価値観なんて違っていて当たり前なのさ、ということが分かっていればいいのである。
ところで気になることがある。それは料理を題材にしたアニメの中で、劇中で料理を審査する審査員の反応の描き方があまりにも一様すぎるということだ。実際には、Aさんーうまい、Bさんーうまい、Cさんーうまい、Dさんー激マズってな状態がしょっちゅう起こるのに、アニメの世界ではいっつも全員同じ評価だったりする。
まあ、アニメ作品に出てくるような料理がもし現実にあったとしても、そんなにおいしくはなさそうだから、もうこれはフィクションと割り切るべきなのかもしれないのだが。
肉はね、A5肉がおいしいっていうよりも、A5肉は誰でもできる簡単な調理でおいしく食べられますってだけなんだけどね。A5肉じゃない肉を使ったおいしい料理なんていくらでもあるよ。

私はスマホ使いではなく、PC派、それもバリバリのデスクトップ派だ。大画面、複数画面バンザイ、椅子に座りキーボードがあってこそのPCという、今の世ではもう旧世代型の人間である。
目下、私がプライベートで使っているPCは二台あり、一つはもう、PCと言うよりもホームオーディオ、つまりネットラジオやユーチューブをレイドミュージックとして流すためのものになっている。
こちらはもともと秋葉原で安く売っていた32ビット2コアの中古のメーカー機をあれやこれやと改造を加えた上でOSをwindows7に入れ替えたものだ。低コストの手抜き品の割りに、すこぶる調子が良く、音楽以外にも結構重宝している。
で、もう一機の方は、2013年に完全にゼロから自作したフルタワーケースに入った大型の、64ビット4コアにwindows7を組み込んだものでPCを使うほとんどの作業は基本はこちらを使っていた。
ところがである。両方とも同じwindows7と言いながら、使い勝手が全然違うのである。それも手間暇かけた64ビット機の方が何かとトラブルを起こし、何をやらしても妙に遅く、さらには時折りマイクロソフトから半ば無理矢理強制されるアップデートに至っては、いつまで立ってもアップデートが終わらないというぐらい長い時間がかかる。さらには起動時間がものすごく長い。まあ、これは搭載しているデバイスの量が違うから仕方ない面もあるのだが。
とにかく32ビット機はイライラするようなことはまずないのに、64ビット機はもうイライラ製造器になり果てていたのである。
無論、OSが同じwindows7と言っても、32ビットバージョンと64ビットバージョンは、操作する上で外見が同じとは言え、本来は別物である。32ビットと64ビットではマシン語が全然違っている以上、その性能差があってもちっともおかしくはない。つまり私の僅かな体験で大胆に言い切ってしまうと、windows7は32ビット版は名作かもしれないが、64ビット版の方は駄作もいいところなのだ。

で、例によってイライラを募らせていたある日、遂に切れて、windows10に変えることにした。windows10がどんなOSか分かったもんじゃないが、今の状態よりはマシなはずだろうと勝手に信じることにしたのである。当然32ビット機の方は手をつけない。変える理由が今のところ無いからだ。まあ、64ビット機のwindows10が快調で、両機の操作性の差が気になり出したら変えてもいいとは思うがとりあえずは64ビット機を何とかするのが最優先課題だったワケだ。

だいたいOSを変えていい思いをしたという記憶はあまりない。ずっと昔のXPを導入した時ぐらいのものか。動かなくデバイスが出る、ソフトが出る、ファイルが無くなっている、お気に入りの機能が消滅している、プログラムを新OSに適応させるために出費が増える、作業が増える……とロクな目に遭っていない。それでもOSを入れ替えないとどうにもならないという瞬間はあるのである。で、今回はその時だと判断したわけだ。というか、いろんなリスクをまるごと受け入れる覚悟を決めたと言うべきか。

で、その結果である。windows10の64ビットは名作のようだ。ストレスメーカーの汚名を見事にはらしてくれた。やはり64ビットマシン語に対する習熟度ははるかに改善されているようだ。別に私はwindows10のウリの一つである、画面タッチなんかは使っていないし、その為にモニターを入れ替えてもいないのだが。今までのキーボード、今までのハード環境を維持している状態では、windows10の方がずっとスムーズだし、反応も格段に早いし、ストレスも無い。
懸念だったOS変更によるハードやソフトの無効化は今のところ実害と言えるものはない。プログラムは動くものの、挙動が同じにならないというものが一つ見つかった。どうも画面タッチ制御の関係で表示関係のコントロールが同じではなくなっているらしい。今まで問題があり対応を迫られたのは、ウィルスバスターとATOK、それにビデオプログラムの一部ぐらいだ。この程度なら予測を大幅に下回ったと言っていいだろう。

入れてみて初めて分かったことで驚いたのが、winnyと同じ技術が使われていること。winny、そう、あの物議を醸したファイル交換ソフトである。但し、交換されるファイルはwindowsのアップデートパッチのみだ。つまり、膨大な数のウィンドウズ機のアップデート対応に、さすがのマイクロソフトも音を上げているということのようだ。そのため、アップデートを提供するサーバーの数を増やす代わりに、windows10インストールマシン同士をノードとしてファイル交換ソフトでつなぎ、新しいアップデートファイルをノード間で横流しさせるというやり方を取ったようだ。逆に言えば、この機能があったからwindows10の普及速度を速める必要があり、そのためのwindows10の無償提供ということのようだ。windows10のマシン数が増えてくれないとアップデートサーバーの負荷は下がらないのだから。なろほどね、こういう使い方もあるのかとちょっと感心した。もっとも何か悪用されないかという懸念は残るものの、OS組み込みのアクセスキーならちょっとやそっとで解析できるもんじゃなさそうな感じはするから、あんまり神経質になる必要もないだろうが。

トイレが借りられなくなったという恨みは深い。
というわけでイスラム国を何とかしようと考えることになった。
まあ、厨二病なら原爆だ! 無差別爆撃だ!となるんだろうが、ここはやはり戦国大名にならい、孫子の兵法といきたい。敵の矛盾を突き、相手の結束をガタガタにしたいところだ。

宗教の世界では時々、エキセントリックで過激な進歩派が現われ、まわりを阿鼻叫喚に陥れるということはよくある。イスラム国もそれに近い。問題なのはイスラム教がオウム真理教なんかと違って、やたら巨大な存在だということだ。つまり全部を敵に回すとなると世界最終戦争を覚悟しないといけなくなる。
しかし、当方としてもイスラム国とは無縁の一般のイスラム教徒とコトを構えたいなんていう思いも全く無い。
要するに区別が付かないのが問題なのだ。
キリストは生まれた時はユダヤ教徒だったはずで、信じた神もユダヤの神だったはずである。が、それまでのユダヤ教にないことを神が言ったなんて言い出したために、旧体制側の人間は慌て、恐れた。で、どうしたかというと、異端認定したわけだ。つまりキリストが言ってるのはもうユダヤ教とは無関係の宗教だと決別を宣言したわけである。いわゆる破門ってゆうやつだ。キリストの居た時代、このユダヤ教の破門がどの程度の威力があったかと言えば、実のところ大した不利益はなかっただろう。ユダヤ教の寺院に出入りできなくなるとか、せいぜいそんなもんだったはずである。なんしろユダヤ教自体、ローマ帝国内の地方のマイナー宗教の一つに過ぎなかったわけで、帝国全土からみたらほんにとるに足らないコップの中の争いだったはずだ。
だがそれでもユダヤ人コミュニティの中で、言わば村八分にするぐらいの威力はあったはずである。このコミュニケーション遮断が、後にキリストを犯罪者として告発する上で有効に働いたはずだ。
まあ、中世ヨーロッパでの異端審問に比べれば遙かにカワイイもんだが、それでもいろいろと使い勝手はいい戦術である、
で、イスラム国の話に戻す。イスラム国が一般のイスラム教徒にテロを呼びかける。一部の判断力の弱いヤツがこれにそそのかされ、事件を起こす。これが今のイスラム国の戦法だ。イスラム国はイスラムではない。と、公認されれば、この呼びかけの威力はぐっと弱まることは間違いない。
問題は、このイスラム国を破門にできる存在がイスラム社会に存在しないことである。ローマ法王的な存在がイスラム社会にはいないのだ。ここが一番厄介である。
が、キリスト教徒やユダヤ教徒とは違う弱みをイスラム教徒は抱えている。それは「メッカ」の存在だ。
サウジアラビアのメッカ市にはあのカーバ神殿ってのがあり、イスラム教世界で最高の権威を持つ特別な場所とされている。故に毎年、サウジには世界中からこのメッカに巡礼者が訪れ、サウジを治めるサウド王家はその守護者としてイスラム社会では一目置かれた存在になっている。現状、メッカへ巡礼するイスラム教徒をサウド家は保護しているが、その一方で、イスラム教徒でない者のメッカ市内への侵入は一切認めず、イスラム教の守護者であることをアピールしているという面もある。
ならばである。サウド家がイスラム国はイスラム教徒ではない、と宣言したらどうなるだろう。
おそらくこれだけでイスラム国は相当影響力を失うと思うのだが。
問題は、サウド王家がイスラム国をどう見てるのかイマイチ、よくわからんということだ。ひょっとしたら裏で通じているじゃないだろうかと疑いたくなる情報もある。であれば、イスラム国の前にサウジアラビアの真意を暴くことが最優先課題ということになろう。

またイスラム国のテロの犠牲者が出た。日本人を標的に、と堂々と宣言しているのだから、狙われていることは間違いないのだろう。日本国内では幸い今までは何事もなかったわけだが、いつまでもこれが続く保証はどこにもない。日本って言ったって、もう回り中外国人がたくさんいて当たり前の普通の国になってるのだ。どんな人間が紛れ込んでいたってちっともおかしくはない。

実はアメリカの911があってから始まったテロとの戦いで、東京首都圏ではずっと厳戒態勢が取られているらしい。

とはいえ、日常生活でそれと知れることはごくわずかなものばっかりなのだが。
ヘリコプターが上空を二四時間常時飛んでるとか、電車や駅に厳戒態勢だと示す広告が出てるとか、公共スペースに置かれているゴミ箱が大きなものが入れられないような入り口の小さいものになった、とか、トイレを貸してくれる店が極端に減ったなどだ。

まあ、個人の経験としての実害として言えば、最後のトイレの問題が一番大きいような気がする。
レストランならともかく、一般の商店ではトイレを貸してくれるところはほとんど無くなった。
もともとトイレってのは防犯カメラを設置しにくい場所だし、海外の例で言えば、殺人、強盗、強姦などの凶悪犯罪の現場になりやすい場所なんだから当然と言えば当然なんだろうが。
ソフトターゲットなんていう、被害者が出るのなら誰でもいいというテロリストからすれば、これほどおいしい場所もないわけで、警備担当にとってはもう世知辛いなんて言ってられる余裕は全然ないというのが実情ということなんだろう。
そういえば靖国神社じゃ、公衆トイレに爆弾も仕掛けられてたっけな。
トイレ貸して、爆弾仕掛けられたじゃ、そりゃトイレ貸すヤツもいなくなって当然である。

ここは改めて交番の重要性を認識した次第である。なにしろ警官である。司法警察官である。相手に少しでも疑いがあれば、公務で質問もできるし、持ち物検査もできる特権を持ってる。そういう人間が管理しているトイレならまあ貸すこともそれほど難しくなさそうだからだ。つまり交番は公衆トイレとしての機能も期待される存在になったわけだ。

まったく困ったご時世である。あのイスラム国、どうにかできないもんなのかね。

イギリスのEU離脱国民投票が世界中に波紋を呼んでいる。何よりイギリス国内が大揺れだ。報道を見ているとひょっとしたら、「連合王国」の解体ということもありえそうな感じである。
もっともイギリスは国名通りの、ブリテン島の連合王国っていうような存在ではない。今なお、世界各地にある旧植民地から独立を果たした国々、英連邦諸国(The Commonwealth)の名目上の元首を英王室が束ねる盟主だ。イギリスと英連邦諸国の間は、普通の外国同士の関係では無く、いろいろな意味で「国内の延長」扱いがされているから、元々共通市場の体裁は結構整っていたのである。それ以外にも世界最古の英ーポルトガル同盟を維持し、そういう明文化された関係ではないと言いつつも、英米・英仏などの関係の深さは普通の国家間のつながりと同等とはとても言えるものではない。
つまり三行半を突きつけられた格好のEUの方が実害は大きいという感じはする。

ヨーロッパというところは歴史的には中国同様、離合と集散を繰り返してきた所だから、所詮は歴史の波動の一つというだけなのかもしれない。落ち着いた頃に見直したら、実際に変わったところというのは顕微鏡で見て初めて分かるレベルぐらいの差しか無いような気がする。
ヨーロッパはそもそも、どこもたいていは国民が頑固で、どこの国も政府の言うことを国民がすんなりと聞くようなところではない。そういうところだから、国家戦略のぶつかり合いがどうこう言っても、すぐに国民にはしごを外される危険が元々高いのである。アメリカだったら草の根民主主義と呼ばれるのだろうが、ヨーロッパの場合は、そういうもんじゃなくて、まず郷土愛というか郷土閥・門閥ありきという感じがする。至るところに階級社会の名残があり、その階級社会の名残は郷土に深く根ざしている。で、閉鎖的で自由が無くて、で、逃げ出した人達がアメリカで新世界を作ったわけだから、ヨーロッパ=旧世界という所は、もともと保守に馴染んだ人達が残っている地なのだ。こんなだから、郷土のシステムが壊れないなら、どこの国に属してもいいよみたいな考えの土地はかなり多い感じがするのである。

ところでヨーロッパはイギリスを含む地理的領域を指す言葉であることは間違いないのだが、英語の報道などのニュアンスから言うと、元々イギリス国内ではヨーロッパという単語を「大陸」という意味で使うことが多い。
つまりブリテン島と大陸という分け方である。だからそもそもEU=Europe Unionという名称自体が、イギリス人の目から見ると、意識的に合っていなかったという可能性もありそうである。

イギリス人の場合は、こういう細かなこだわりは元々かなり多いんだけどね。
因みにforeignは「外国の」という意味だが、それはイギリスと英連邦以外の外国に限定する意味で使う場合があり、同様にoverseasは「海外の」という意味だが、それはブリテン島以外の英連邦と限定した意味で使う場合もある。つまりドイツやフランスはa foreign countryで、オーストラリアやカナダはan overseas countryなのである。
こんなメンタリティの連中がそもそもEUに参加するって言ったという方が、今から考えるとよっぽどの驚きだったんじゃないかと。

一昔前、同性愛っつー分野は、SMと双璧をなす一大変態分野みたいな扱いだったものだが、今や時代は変わり、多くの先進国が同性婚を合法化しつつある。SMがどこの国でもいまだに変態の王道であるのに対し、同性愛の方はもう全然そんな目で見られるものではなくなった。

大きな流れで言えば、「性による区別」も「差別」と結局大差なく、あらゆる場面での差別撤廃を「正義」とする現代社会では婚姻ですらも聖域ではないということのようだ。
日本ではこういう海外の本流の動きとはやや異なり、医者がなかば無理矢理に「性同一性障害」なる病名を発明もしくは発見して、この道に天下の道筋をつけたものだから、同性婚=障害者救済みたいな意味づけで見られていることが多い。でも海外での同性愛/同性婚の扱いは決してそんな障害者救済に限定される意味ではない。

たとえばナノマシンと人工細胞によって、どんな場所のどんな怪我でも修復でき、そしてどんな細菌でもどんなウィルスでも確実に駆除できるとなったら、誰もが自殺みたいなバカをやらない限り確実に天寿を全う、つまり予め予定されていた細胞分裂回数の上限値に達することで起こる体細胞の更新完了による死を迎えられるはずだ。
ま、すぐにはムリだが、なんかそんなに遠くない将来、こうなる可能性はかなり高そうだ。
さて、そんな世の中で寿命ってのがどれぐらいになって、それに伴って当然見直されるであろう、労働力としての現役世代の定義がどんなものになるかは、ちと気にはなる。仮に寿命が150年ともなれば、きっと130才ぐらいまでは現役でいてもらわないと社会的にはいろいろと不都合なことが起こるんだろう。
もちろん五体満足であるということは必須条件であるとして。
超超高齢化社会である。

つまり我々は高齢化社会のまだ入り口に立っているだけなのである。本当に何が起こるのかはまだまだ何もわかっていないに等しい。そんな手探りの状態ですらこの問題を少なくとも上手に扱えているとはまだ言えない。

そんな中で少子化の助長につながると誰かが考えているのか、同性婚の正式立法化に政府は抵抗しているらしい。国レベルでそんな状態なので、自治体が勝手に結婚と同等の権利を認めるとか、かなりイレギュラーな事態も起こっている。だが大幅に寿命が延びる世界で考えたら、生殖育児が人生に占める時間は相対的に短くならざるを得ず、むしろ一生連れ添うとは言わないまでも、誰と一番長く一緒に暮らしたいかという選択肢を広げる意味で同性婚というのは新しい可能性ではないだろうか。
つまり初婚で異性と結婚し仮にこどもをつくり育てあげたとしても、子が独り立ちした後、何を頼りに夫婦のつながりを維持するのかと言えば、結局お互いに一緒にいたいという思いだけだからだ。当然、社会面、経済面でも、いろいろなリスクもある。常に円満に生活が続けられる保証なんてどこにもない。むしろ異性であるが故に分かりづらい面も多い。それでも自分を抑圧しながらパートナーとの生活を維持したいとしても、今以上に長い「老後」の時間があるとしたら、その困難さは今までの経験的知見の予想の範囲を超えるものになるだろう。

結局、同性婚の否定は一人暮らしの老人を大量に作り出し、かえって高齢化社会の負の局面を増大化させることにつながるような気がするのである。

ラーメンは好きなのだが、実は外食でラーメンというのはほとんど食べない。長いこと西日本で過ごしていたので、舌が完全に西に染まってしまい、東京では店に入る気がおきない。
ずっと以前、入った経験から言えばがっかりするばかりだった。
九州、中国地方でラーメンといえばまず豚骨味である。そしてそれを反映しているから、当然スーパーのラーメン売り場でも圧倒的に豚骨味のものが多い。
なかでもチャンピオンと呼んでいいのがハウスの「うまかっちゃん」だ。売り場の見た目のシェアで言えばもう五割を超しているんじゃないだろうか。これだけ存在が巨大になると、当然バリエーションが出せる余地が生まれる。で、今現在は、博多味、熊本味、久留米味、鹿児島味などなど、本来のうまかっちゃん以外にもバリエーションモデルが売られている。
で、西に戻ると私としてはこのうまかっちゃんを買って帰京することになる。あるいは家族が上京する際には、持ってきてもらっている。東京でもうまかっちゃん以外の豚骨味のインスタントラーメンなら買えるのだが、うまかっちゃんの豚臭い豚骨味とはかなり異なり、塩味のきついものばかりなのだ。
ずいぶん前だが、うまかっちゃんが東京で売られていた時代もあった。だが、一過性のブームだったらしく、すぐに市場から姿を消した。やはり東京は、ラーメンと言えば、醤油、しお、みそと言った塩味御三家が本流の場所なのだ。なので塩味のほとんどない豚骨は肩身が狭かったのだろう。
だからハウスはうまかっちゃんを西専用商品と位置づけたようだ。
もちろんネットを使えば買えるわけだが、送料込みの値段で見るとかなりの割高なものになる。まあ、あれだけかさばるものならそれも仕方がない。
しかし日本ってのは狭いようで家庭での食事に関しては広さを実感することが多い。そしてたぶん歴史の厚みと調理技術というのは比例するらしく、完成形の料理として評価するとおいしいものは西に多い。調理技術よりもむしろ材料の鮮度なんかを重視する料理では東も西に負けてはいないが、多彩な材料と調理技術に施された工夫の多さでは西に一長があるように思う。
面白いのはミシュランのランキングだ。東京はミシュランにレーティングされた店がかなり多い街でもあるのだが、ランキングに登場する店はどちらかというとギチギチの東京味の店では無い店が多いようだ。たぶんミシュランのスタッフは東京人の舌の傾向を読み取って、非東京人にも勧められる店をあえて選んでいるのだろう。まあ西日本人というよりも外国人を意識していることは間違いないだろうが。あんまりこれを分かっていないのは根っからの東京人で、「ミシュランに載っていたって聞くけど味が薄くてイマイチ」なんてコメントを聞くと、ああ、この人は正真正銘の東京人だねと私は感じてしまうのである。

ここのところ再び燃費にまつわる不祥事が次々と発覚している。試験方法を変えたとか、都合のいいデータを選んだとか、悪事の内容として見れば、いずれもこどものいたずらレベルの簡単なものばかりだ。
本気で担当者が世の中全体を騙すっていう強い決意があるんだったら、エンジンそのものをすり替え、排気量をいじるぐらいのことならいくらでもできるんだから、そういう強い意思はまず無かったんだろう。
となると、まさしく報道の通り、経営者の意思に現場が応えられなくなった結果、こういうことが起こったと理解するのがもっとも妥当ということになる。
ところで、この10年余りの間に、燃費を取り巻く技術メニューは激変していた。
かつては一定の性能のエンジンがあって、それをクルマに搭載した場合、クルマのアピールしたい性能をどこに置くかという議論がまずあって、たとえば運動性能や静粛性なんかと並べて比較性能されるパラメーターの一つとして経済性指標としての燃費があるというような認識だった。早い話がギア比を高めに取り、固めのタイヤとサスを与えて転がり抵抗を減らせば燃費は上がり、運動性能や静粛性は悪化する、どこを大事にしますか、という感じで味付けしていたのだ。その後、省エネの進展で燃費が法律で規制されるようになっても、そうは言っても消費者が気にもしていないのなら、あんまり意味がないんじゃない? なんていう意見もあったようだ。そう肝心の消費者が燃費を気にしていないなんていう市場調査結果が過去、実際にあったのである。
たぶん、不祥事を起こした経営トップの燃費問題に対するイメージはこんな「常識」に縛られていたのだろう。
だから達成困難な燃費目標を現場に課した。他社ができるのならうちにだって必ずできるはずだ、という論理で。
だが世の中は変わっていた。もはや燃費の競争レベルは、元々のエンジンの発生エネルギーを性能に振るか燃費に振るかで済まされるレベルではなく、そもそもの燃料の持つエネルギーをどれだけ運動エネルギーに変換しているかという熱効率の高さを競うレベルへと変わっていたのだ。机上計算上、熱効率が高くなければ、何をどう細工しても燃費が高まるわけがない。が、熱効率がいいというエンジンには、それなりの理論的根拠とそれを実現できる技術が備わっていなければならないのは当然で、そのことを理解していたかいなかったかで、当然投資のスケールも変わり、結果も明白になる。そのことに経営者が気がついていた会社とそうでない会社がまともに競争できるわけがない。
だから今回の問題は経営者が無知だからこそ発生した不祥事ということになる。
現状、熱効率を高め、制御することに手慣れてきた感じのあるのはマツダで、ミラーサイクルを市場導入した経験がきっかけになったのだろうが、おそらくこれからも内燃機関にかけていくという決意があるんだろう。トヨタはそのマツダと戦略的に技術提携したというのは、内燃機関という札への保険であり、それを補うハイブリッドや燃料電池を自らの主力に考えているという意味か。ホンダは常にトヨタのミラーというストーカーだ。常にトヨタと同じ戦略を採用する。そして日産はマツダの対極でいずれは内燃機関からは完全撤退し電気モーターに完全移行することを考えていたのかもしれない。だから三菱への委託外注なんかをやっていたのだろう。
その外注先を傘下に収めた日産。いったい三菱にこれからどんな役割を担わせるのだろう。

国号っていうのは国の正式名のことだ。当然、日本は日本なのだが、この名前が正式と呼べるような法律的根拠を持ったのはたぶん今の憲法制定時だから意外に歴史は浅いということになる。明治維新近辺で日本としておけば良かったのだが、何故か、どっかの厨二病みたいな夢を見た明治の元勲が「大日本帝国」なんていうめっちゃイタイ名前を作ったもんだからまともになるまで随分と時間がかかることになった。ま、帝国の部分は実際に帝政だったんだからまだ許せるが、「大」はもうイタイとしか言いようがない。当時も一部では議論があったらしい。ところがこの真っ当な反論は、次の弁明で打ち砕かれたらしい。
「だって大英帝国ってあるじゃん」
確かにある。日本語では。が、この大英帝国という訳語が実は勘違いで生まれたものだったのだが、当時は誰もそれに気がつかなかったのが惜しかった。大英帝国の大は英語のグレートブリテンのグレートの翻訳のつもりだったらしいのだが、その意味するところは、少なくとも大帝国という意味とは全然違っていたのだ。
今日でもイギリスを表す英語の言葉はややこしい。ユナイテッドキングダム、イングランド、グレートブリテン、あるいはイングリッシュとかブリティッシュとか、事情を知らないとかなり混乱する。
イギリスの正式名称を正確に日本語化すると「グレートブリテンおよび北アイルランドの連合王国」となる。最後の連合王国の部分は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドのことだ。
この元々は王政だったそれぞれ別の国の王様を全部兼任しているのが今の英王室ということになるので、「連合王国」になる。で、その連合の中心になるのがイングランドで、その「イングランドの」という形容詞がイングリッシュという言葉だ。では、グレートブリテンとは何かと言うと、ヨーロッパ大陸から離れた島の名前なのである。ロンドンのある島がグレートブリテン島、つまり大ブリテン島。その左隣にあるアイルランド共和国のある島がスモールブリテン島、つまり小ブリテン島となる。ブリティッシュという言葉は「ブリテン島の」という意味だ。だからイギリス人は、グレートブリテン島にある連合王国だよと言ってるだけで、うちは大帝国なんだという厨二病患者では無かったのである。そのことに元勲達は気がつかなかった。
というわけで「大日本帝国」って国号は、めっちゃイタイもんだった、と確定したわけだが、なんやかんや紆余曲折があったものの、とにかくこのイタイ名前から脱却できたのは、日本にとって僥倖とすべきだろう。
ところがである。勘違いってのは意外なところで伝染するものらしい。
そう、日本の勘違いは他にも広がってしまったのだ。
世界史に一瞬だけ登場した「大韓帝国」だ。すぐに「大日本帝国」に併合となって黒歴史を延々と作らなくて良かったねと思ったら、なんと「大日本帝国」が消えた後、「大韓民国」という勘違い亡霊として甦ってしまっていたのである。
いや、うちの元勲の勘違いがここまで尾を引いちゃって、なんか申し訳ないって、この国号を聞く度にいつも思うんだよね。

時の総理大臣が議論を活発にしましょう、って折角言ってくれてるんだから、やっぱりここはそれに乗らないと、モノカキとしての矜持にもとるなんて思うのである。
とにかく、この70年、まるでSM小説並みにタブー視されていた憲法改正を真っ正面から取り上げた阿部さんの功績は大きい。
前に進めばいいな、とは思うものの、現実にはなかなか進まないんだろう、こういうことは。
ま、そっちの中身は枝葉末梢に至るまで隅から隅までケチをつけないと気が済まない人達が大勢いるところで決めていくんだろうから私などが口を差し挟めるようなもんじゃないんだろうけどね。

私は、そんな細かいことには興味は無い。もっと大きい話をここではしてみたい。もしかしたらファンタジーと感じられるかもしれないが、私個人としては結構大まじめである。

まず最初に、参議院の位置づけの見直しである。前にもこのブログで冗談半分で書いたことがあるが、やっぱり今の参議院は機能的にムダだと思う。アナザー衆議院なんてコストと時間を無駄遣いしているだけだ。
国民が選挙で選ぶ議員が構成する議会なら衆議院だけがあれば十分だ。

ただし、だから参議院を廃止しろなんてことは私は言わない。要は衆議院とは全く次元の違う議論を行える場として参議院を作りかえたいのである。で、どういう人間がそのメンバーであるべきか、いろいろな分野のその人で無ければ言えないだろうというような意見を期待できるキャリアを積んだ人物ということになる。具体的には閣僚経験者、都道府県知事経験者、将官クラス以上の退役自衛官、公益法人代表経験者、その他ノーベル賞などを受賞した研究者、学者などだ。要は日本の各界のトップ経験者の作る議会に変えたい。
そしてさらにどうしても付け加えたい人達がいる。それは天皇、皇后など皇室関係者だ。

私は何でもかんでも「天皇陛下ばんざい」っていうような皇室シンパではないつもりだが、かと言って、天皇制を廃止して共和制にという共和主義者にも組みしない。私は、皇室を中心にまとまってできたコミュニティが発展拡大して出来上がった国が日本なのだと理解している。今更そういう歴史の流れを否定はできないし、もしそれを否定したらもはやそれは日本という国では無くなってしまうのだろうと考えている。
さてそういう第三者的視点から現状を俯瞰した時、明治憲法の天皇主権を否定し、象徴天皇へポジションを移動したことはともかく、天皇は国事行為以外一切政治的活動ができない、というのも異様な状況に見える。完全に行き過ぎだ。つまり天皇はどう考えているのか国民は知ることができないというのが当たり前というのはやっぱおかしいと思うのである。
実際に議席があってもはたして出席してもらえるのかは現状では甚だ疑わしいが、少なくとも政権の内部から離れたポジションから自由に意見が言える場というのを確保するべきだとは思うのだ。
そうは言っても皇室関係が天皇だけじゃ1票にしかならないわけだし、それで三権分立の構造そのものがガタガタになる心配もないだろう。ただ天皇が一人だけ皇室代表とかになると妙なシンパが妙な反応を示す危険性が増大しそうだ。だから天皇一人ではなく、皇后も加えたのだ。いや皇太子、皇太子妃も加えて全部で4票ぐらいあった方がいいかもしれない。
総理大臣に野次を飛ばす皇太子とか、ちょっと見てみたいし。野次を飛ばされた首相の反応とかも見物だし。

それとこの問題はもう一つ全く別なテーマとも絡む話になっている。
では早速もう一つの話題へと移ろう。
国防関係の話となると必ず9条の話で終始しておしまいってのがたいていのパターンなのだが、私はちょっと違うんだよね。私が気にしているのは、例えば東京に核ミサイルが落ちちゃって、内閣、議会、最高裁が揃って機能停止したら、日本っていう国家は単純に消えてしまうということだ。この後誰が何をしようともう自動的に内戦状態へ移行し無秩序が日本全国を覆うことになる。実際にそうなるかどうかはともかく、法律的にはそうなる。
誰が何をやっても法的根拠はない。
民主主義の制度ってのは本質的に危機管理上非常に脆いのである。その脆いところに来て、現憲法はことさら危機管理に対する対応が皆無なのだ。これが問題である。
三権分立の三権が消滅したら、普通に考えれば三権以前の状態に一旦戻るというのがスジだろう。民主主義を実行できる環境が存在しなくなったら、王政が発動するという発想があってもおかしくない。そう、国家非常事態で存亡の危機となった時、選挙などの手続きを経ずに天皇が首相を指名任命できるとすれば混乱の早期収拾が可能になるだろう。またこういう視点から、皇居と政府が同じ場所にある現状はあまり好ましくあるまい。京都がいいのか大阪がいいのかとにかく皇居は東京ではない方がいいのではないだろうか。そして東宮、つまり皇太子の住居も皇居と政府から離れた別の場所にして置く方が、何かあった時、日本国の存続を相当強力に担保てきると思うのである。

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