Symphony Fantastique Proving Ground



一色強兵の憂鬱

毎年、陽気が春めいてくると、ダイエット関係の健康食品とか医薬品、フィットネスクラブなんかの売上がぐ〜んと伸びるという現象がある。
さらす素肌の量が増える夏に向け、身体のシルエットを気にせざるをえない方がたくさんいらっしゃるということらしい。
で、この日本独特の習慣が観光案内などを通じて海外に広く広まったのか、あるいはもっと好意的に考えれば、日本の肥満者が諸外国に比べ著しく少ないことに気がつき、その原因理由としてこういう習慣が発見されたのか、日本で和食を求めるだけではなく、ダイエット関係の健康食品や医薬品を買い求める外国人が増えているらしい。何しろ世界人口の三分の一は肥満だという話も出てきているくらいだし、アメリカなんかもう大半が肥満カテゴリーに入る人間であることにまず疑いは無い状況である。

だとすると、やがて彼らは気がつくのだろうか。ジャパニーズSMのダイエット効果にも。
日本のSMプレイではもはや定番と言っていいのが浣腸、エネマプレイである。もちろん海外にもあるようだが、だが日本ほどメジャーな感じではないようだ。
まあ日本の住宅事情の条件ではあんまり派手な責めはできないから、という理由があったのだろうけど、狭い空間で準備も大してかからずお手軽だからということで蝋燭責めと並ぶ、日本SMの代表プレイみたいな感じに見える。
腸は、消化された食物から栄養や水分を吸収する場所だ。
浣腸プレイは、そこを大量浣腸でほぼ素通りさせるのだから、サナダムシ並みに吸収阻害することは間違いない。いやM女さんの心情的には、浣腸責めで自分が大量の排便をするのを見られると思うだけで、食が細くなるとも考えられるから、それ以上の効果があるのかもしれない。
そういう心理面のことを考えるなら、縄による縛りというのも、人並み以上に自分のプロポーションを気にせざるをえなくさせるだろう。何しろ、日本のSMというのは、絵的に悲壮感が漂ってこそなのである。
それがボンレスハムを輪ゴムでくくったような絵しか思い浮かばないような状況だったりしたら、SMで絆を確認なんて誰もしようと思わないだろう。
もし万が一、それでもプレイをした結果、うっかりソレ見て笑ったりしたら、絆を深めるどころか、後で刺されるかもしれないしね。



総理が2020年という期限をつけたことで一度沈静化しつつあった改憲論議がまた活発になった。
たぶん山が動くときは、一気に動くような気がする。そしておそらくそれはある意味、民意とはちょっと違うのかもしれないが、避けられないものなのではないだろうか。

現在の日本国憲法が規定している日本の姿は、一見すれば「無謀」なものである。
非武装独立で世界的に豊かな国でいられる、理想論としては美しいが、残念ながらそんな存在を許してくれるほどこの世界は甘くない。
この70年、世界中で戦火は絶えることは無く、力の行使による事実上の国境の変更は当たり前のように起こっている。その度に難民が大量に発生し、その救済が問題になるものの、不幸な連鎖はいつも止められない。これが一つのパターンである。

結局世界は本質的には二〇〇〇年前の三国志の時代とそう大きく変わっていないのだ。
力が無ければ何をされても文句は言えない……昔ほど大っぴらでは無くなったが、表面にこそ現われていないが、これが今でも大手を振ってまかり通っているのが実態だ。

日本と日本の周囲がそういう世界からこの70年間隔離された存在でいられたのは憲法の前文や9条の存在ではなく、世界有数のアメリカ軍がそこに存在していたからだ。
で、当初は日本が軍事的に無力な存在であることを欲したアメリカがこの日本の地位を認めてくれていたのでよかったのだが、何しろ国防という莫大な金のかかる問題をアメリカに肩代わりしてもらい、その分を殖産興業に生かせられる日本の旨みは大きく、憲法制定時には誰も考えなかった、GDP世界第2位(今は中国に抜かれて第3位)なんていうポジションに入ってしまった。

こうなると日本は誰がトップに立つとしてもアメリカの有権者の心情を考えないわけにはいかなくなる。
「アメリカよりも豊かな国をなんでアメリカ人が身体を張って守ってやらなければならないのか」

事実、憲法を棚上げして再軍備を図ったのは、常に「対米外交」のため、と言って良かった。
今、アメリカはかつてのような世界随一という存在では無くなり、経済的にはかなり普通の国になってきている。そうなった一因は、アメリカ以外のすべての軍事費を足してもまだそれを超える存在である、巨大な軍事力の維持だ。世界の警察官になるというのはさすがのアメリカにとっても重荷に過ぎたのである。
そういう状態のところで、中国が経済的な躍進を武器に国際舞台で自国の国益を声高に主張するようになり、このままいけば空文になるかもしれなかった憲法ににわかに関心が集まることになった、というのが今までのだいたいのあらすじということになろう。

小説としてこの先の展開を描くとするなら、手に汗握るハラハラドキドキの展開を望むならば「改憲阻止」を貫徹し、ついでに憲法の初志貫徹で在日米軍を撤収させ、自衛隊も全部やめて、素っ裸で世界の面前に立つ、強姦覚悟でパンツを脱ぐ、ってのが一番だろう。

そこまでのハラハラはいらないなら、軍国主義が復活し、大東亜共栄圏を今度こそってやるシナリオだろうか。
昔の夢よもう一度って人気があるからね。

小説の原案として持ち込んだ場合、出版社の受けが最も悪そうな、つまりもっとも地味で波風がたたないのは、身の丈にあった防衛力の整備ってのを念頭に、基本現状をみんな追認し、余計なことは一切しないっていうシナリオだろう。編集が怒りを抑えた口調で冷たく言うのが目に浮かぶ。
「それってどこが面白いんですか? 説明して頂けませんか?」と。

まあこれは小説では無くリアル世界のお話なので無用な争いは持ち込みたくないのが嘘偽りのない私の心情なのだが、どういうわけか、小説ではないリアルの話だと分かった上で、「ハラハラドキドキ」シナリオが好きな人が多いらしい。いったい何を望んでいるんだろう、あの人達は。

以前、日本のSMというのはマルキドサドから始まるSM文化とは結構異なっていて、サドの作品をそのまま翻訳して日本に持ち込んでも大した反響は無かったのは、そもそも女性の生き方の認識が異なるせいで、それを察した団鬼六は、犯罪という舞台設定を与えることで日本人にも理解できる形でSMを構築し直したのだ、てなことを書いた。

別にだからどうこうというものではないのだが、一度こういうふうに文にしてしまうと結構頭に残るもので、関係のありそうな情報に出会うとついついいろいろと考えてしまう。

実はユーチューブで日本の江戸時代の治安状態はどうだったのか、みたいなテーマの動画を見ていた時のことである。
この動画の説明によると時代劇なんかは嘘八百で、事実は人類史上空前絶後と言っていいぐらい犯罪が少なかったそうである。殺人事件なんて年に1件あるかないか、強盗を含めても凶悪犯罪などほとんど皆無と言ってよかったらしい。
だから江戸は北町奉行所、南町奉行所のわずか二つの、たった職員総数36人で人口百万の大都市江戸の治安を守れたとのこと。まあこんなに少ないとなると、そもそも犯罪の摘発能力が低すぎで、事件にならない、っていう側面もあるんだろうが、それでも無法都市になったりしなかったのだから、民度的にかなりいい線にあったと見て間違いない。

さてそんな安全で平和な江戸では、どんな事件が問題視されていたのかと言うと、いわゆるDV、家庭内暴力だったらしい。ただし、今の世と違うのは、酒に酔った主人が暴力を振るうというのではなく、継母による娘いじめとか、姑による嫁いびりとか、妻妾間の争いとか、圧倒的に女がらみだったらしい。
で、この状態を指して生れた言葉が「事件の影に女あり」なんだそうだ。とにかく、誰も予想していなかったこの事態には幕府も驚き、慌てて婦女に対する教育制度をいろいろと整備することになったのだそうだ。

明治の時代、日本の女性は他の国よりも、いろいろと抑圧されていると見た外国人は多いようだが、それは意図的にそうなっていたのかと妙に納得した次第である。

で、犯罪者として女性の割合が異常に増えたということは、それは当然、女性に対する刑罰というものを発展させることになる。刑を人道的になんていうやさしい考え方よりも、当然、犯罪を起こしたらこうなる、という見せしめとしての効果が重視される時代である。見た目で十分インパクトのある刑が選ばれていった。

なるほど、日本のSMシーンで女性が責められるシーンが妙に絵的に完成していたり、縄で身体を縛る技術が芸術の領域まで高まっているのも偶然では無かったわけである。

団鬼六がここまで考えてSMと犯罪を結びつけたのかは分からないが、結果的に日本の独自の文化に日を当てたことだけは間違いないだろう。

辛ラーメンがいくらなんでもあの味ってことは無いだろうと、改めてフクロのレシピを見直してみると、なかなか興味深い記述があるのに気がついた。
つまり、日本のインスタントラーメンのいまや常識とも言える二つの鉄則が全否定されているのである。

鉄則その1
麺とスープは別々に準備すべき。つまりスープはスープだけでお湯に溶かし、麺を茹でるお湯とは一緒にしない。
手間を省くことを最優先にする場合とチキンラーメンを除き、おいしいラーメンを作ろうとする場合の鉄則だ。

鉄則その2
調味料、特に香辛料は最後の最後、つまり食べる直前に入れること。香辛料の多くは加熱でそのスパイシーさが失われやすいのである。だから余計な熱は加えないのが洋の東西を問わず、常識だと私は信じていた。

当然前回コラムで紹介した辛ラーメンはこの鉄則を守って作ったのだが、それがああいう有様になってしまった。
となると、この鉄則はきっと辛ラーメンにとっては余計なことなんだ、と考えるべきではないのか。
こういうふうに考え直したのである。

そこで二食目は、私的には極めて異例なことに、フクロに記載されているレシピ通りに作ることにしたのだ。
レシピと言っても至って簡単なものだ。要するに、フクロの中に入っている、麺、粉末スープ、乾燥かやくの三つを一緒に煮立てたお湯550CCに放り込み、そのまま4分30秒煮込めというのである。
日本のラーメンでこれをやって、おいしいものになると予想する人間はまずいないだろうと思うが、とにかくやってみた。

結果は一食目のものとは全く別物が出来上がった。
まず、全体的に、お湯が見事に蒸発し、一食目よりもずっと少ない量のやたら濃いスープの中に大量の麺が泳ぐおよそラーメンとは言いがたい印象のものが出来上がった。
で、そのスープの味なのだが、おそらく煮込むことで香辛料の新鮮さが失われること、さらに麺のグルテンとかデンプンとかが溶け込む影響なのだろう、見た目よりもずっとマイルドなものに変わっていた。そして麺の方も、たっぷりとスープを吸収し、やたらとモチモチしたかなり腰の強い太麺へと変化し、さらに麺内部にもスープが入り込み麺自体もかなり味を持つものに変わっていた。

標準装備のかやくの他に、二食目にはきざみねぎとボローニャソーセージの薄切り、そしてゴーダチーズをスライスしたものを用意し、特別な下ごしらえなどは一切しないでそのままトッピングとした。
もとから結構個性のある強い味の食材ばかりだから当然と言えば当然だが、スープが一食目の時よりもマイルドになったおかげで、全体の中で割とまともに役どころを果たせていたように見えた。というわけで一応及第点には達した観はあった。

なるほど、これが「辛ラーメン」ね。これなら多くの人に支持されてもおかしくはないと納得した次第である。

ただ、完成形としては納得できても、その道筋というか、味を作るメカニズムにはあんまり感心しない。食材の風味を楽しむための料理=ラーメンという考え方からは大きく逸脱しているからだ。
日本ラーメンのしょうゆ、みそ、しお、とんこつ、といったスープは基本的に食材の味を引き立てる脇役的存在なのだが、この辛ラーメンではスープが主役でチーズのような強い味のものですらも脇役におしやってしまう。
結果、具材との味のハーモニーみたいなものを期待できる領域が少なすぎて面白みに欠ける気がする。

具なしで食べるものと割り切って食べるのが正しいのだとしたら、これはもう日本ラーメンとは全く別の食べ物だと考えるべきだろう。
しかし、ありきたりの中華麺にこういう楽しみ方があったということを教えてくれているという意味において存在価値はあると思うのである。



先日、若い中国人女性に韓国の辛ラーメンがおいしいとかなりふっかけられて、遂に買ってみた。
いかにも辛そうな真っ赤なパッケージの三食入りのインスタントラーメンである。
当方、インスタントラーメン作りにはかなりの手練れなので、いつも通りに、素直にフクロ記載のレシピ通りに作るなんてことはせずに、ありあわせの具材を調理するところから早速作り始める。
で、それらが完了し、お湯も沸いたところで、麺を茹でるべく、フクロを開封する。
なんだこりゃ、麺が異様にデカイ。グラム数は、なんと120g。こりゃ茹で時間かかるだろうな、とフクロの説明を確認。やっぱり、4分30秒ときた。で、ついでにその先の説明にも目を通すと、こんな文言に出くわした。
「お好みにより、きざみねぎ、スライスチーズ、カレールウ、たまご等を加えてもおいしくいただけます」
おいおい、きざみねぎとたまごは分かるけど、あとの二つは普通はラーメンに入れるもんじゃないだろ、そりゃ、具材っていうより、調味料じゃん。そんなんいれたら、ラーメンの味消すことになるんじゃね、と一人ツッコミを入れたりする。当方の用意したのはいつものラーメンに普通にいれるような野菜類と薄肉だ。
で、具材もじっくりと調理し、スープと合わせ、最後に茹で上がった麺を入れて完成。

予想外の事態その1。
ラーメン椀に入りきらない。麺が多すぎ、スープが椀から溢れる事態発生。そう言えば、韓国人って、鍋のままラーメン食うっていう話があったな。もともとラーメン椀は器として適切な選択とは言えないらしい。
予想外の事態その2。
辛い、予想をはるかに超える辛さ。それも辛味以外の味をほとんど感じない、純粋に唐辛子の辛味だけって感じの暴力的な辛さだ。
予想外の事態その3。
いろいろ個性鮮やかな具材を入れていたのだが、アスパラ、カリフラワー、しめじという、いつものラーメンでは中々の役回りを担っていた野菜たちが、全く活躍していない。それぞれの味が辛味に負けてしまい、何がなんだかわからないのである。さすがに肉の方は、ボローニャソーセージというかなり味の濃いものを入れていたので、この辛味にも負けずに自分の味を守っていた。が、トッピングにたっぷりと入れたきざみねぎを始め、野菜類はこの強烈なスープの前にあえなく役処を奪われた感じだ。
通常のラーメンに比べ、麺は少なくとも三割増しという感じなので、満腹感はすごい。それに強烈な辛味から逃れるように麺を口に入れてしまうので、文字通り格闘しながら食べる感じである。
で、量の割りには完食までの時間はいつもよりも短めだったんだが、これって、少なくとも味を楽しむラーメンの食べ方とは言えないよね。

改めてフクロの説明を見直してみると、さらにこんな説明を発見。
「〆にご飯を入れてお召し上がりになれば、さらにおいしい一食になります」

どんだけ炭水化物ばっかり喰わせようっていうんだ? そりゃ空腹を満たすにはいいかもだけど、基本調味料ばっかりで飯食ってるようなもんだぞ。食育って言葉を知らないヤツが考えたメニューみたいだな。

というわけで、かの中国人女子は辛さ以外の味覚音痴と断定せざるをえなかった。まあ若いんだからしょうがないか。しかし、将来どこに嫁ぐつもりか知らないが、あんな味覚で大丈夫なんだろうかとは密かに心配になったりする。

ところでその後、近所のスーパーで辛ラーメンの新商品というのを見かけた。
「辛ラーメンキムチ味」だそうである。
いや、もう十分キムチ状態だと思うんだが。

それにしても世界は広い。


いわゆる「水と油」という比喩表現ほど、現実離れした表現はないのではないだろうか。
つまり、全く妥協の余地なく、反発しあう間柄という比喩で用いられることの多い言葉だが、現実には、油と水は親和することの方が多いのである。
もっとも、「油」っていう表現がそもそも曖昧で、いろいろ考えてみると結局水ではない液体全部を油と表現したのではと私は疑っているのだが。

まあそれはともかく、試験管の中ではっきりと分離した水と油を見たら、まあこの比喩の言わんとするところはよくわかる。ただここで見落としてはいけないのは、それがある一定の条件下でのみ成立していることだ。
油は別の条件下では水によく溶ける。油の定義を「脂肪酸」としておくならこれは断言できる。なにしろ「酸」とくっついているぐらいだから、イオン化しやすい。ただし、温度条件が存在する。
生物ってのはほとんどの場合、水と油が入り交じった物体で作られているものだが、高等な生物になると体温を一定に保てないと生命を維持できなくなるのはこのためだ。
また、体温の維持というのとはちょっと違うが。低温でもやたら強い植物があったりする一方、熱帯でないと生きていけないような植物があるのもこの理由からだ。利用している油の種類が違うのである。
ちょうど氷点下でも固まらないサラダ油がある一方で、ちょっと寒い朝だったりすると固まってしまうオリーブオイルというものがあるのと同じ理由である。

世の中の大抵のコトは、こういうもんなんだろうなと、最近思うようになった。ちょっと条件が違うだけで反発しあったり、融和したりする。
瞬間瞬間を見れば、それは未来永劫変わらないもののように見えるのだが、ほんのちょっと条件が変わるだけで劇的にすべてが変わる。
「水と油」という表現というか格言、こういう意味に捉えるべきなんだと最近強く感じるのである。

先日パチンコとルーレットの比較でギャンブルの本質を歪めている法制度を指摘したが、似たようなことは株式市場にもある。
いわゆるIPOというやつだ。英語のInitial Public Offeringの頭字語だがいわゆる新規株のことである。
小さなビジネスを育て、ようやくある程度の大きさになり、次の飛躍を求め、借金ではなく、市場から一般投資者を募る形で株券を売り資本調達を図る……実業家としての晴れの舞台そのものである。
明るい門出ということで結構な高値がつくことが多く、それに晴れて「上場企業」への仲間入りということで、知名度、認知度、信用などなど社会の中での自社の地位がいろいろと跳ね上がる瞬間でもある。
創業から上場までこぎ着けてきたお歴々にはこの世の春という瞬間に間違いないのだが、どうも日本の場合、これが作られすぎていて、その後の運命がしょぼいものになっているケースが多々ありすぎるような気がしてならない。
日本でのIPOというとイメージで言うと予想される値よりも何割か高い初値がつくが、その後はダダ下がりで以下ずっと変わらずみたいな道を歩くものが多い。たぶん仲介の証券会社の顔が潰れないように互助会のような証券会社同士のやりとりがあるんだろう。だから最初の予想株価はちゃんとクリアするけど、その後は鳴かず飛ばずとなるのだ。
一方、いまやアメリカ経済をひっぱるグーグルやアマゾンを輩出したNASDAQ市場あたりだと初値の予想なんてそもそもあるんだか無いんだか全然わからない。どんな値が出てもおかしくないという感じだ。そしてその株価の勢いに任されるように盛んに企業が売却されたり合併されたりする。それも短期間のうちに。
新興企業の実力なんて未知数なんだからある意味当然なのだ。それが日本では全然そういう扱いをされていなくて最後の実取引がいつだったのか結構古い実績価格にずっと引っ張られていたりするものすらある。
しょせんは投資家と経営者の思惑や相互理解が奈辺にあるかあたりで決まったことなんだが、一つだけ無視しえない問題がある。それは日本の場合は、「株価頼み経営」なる怪しい存在が浮上しやすいということだ。
作られた株価に誰が一番踊らされるのか。考えるまでもなく経営者である。
晴れの舞台で初値に有頂天になった経営者が株価の呪いに縛られるのである。

会社の経営状態をいかに把握すべきかはそれ自体簡単なことではないし、それをどうやるかどのように変えるかこそが経営者の能力そのものに強く依存するものなのだが、単純な経営者さんはついついこう考えてしまうのである。株価は経営の上手さを表しているのだと。
本来株価と経営は全く別物なのだが、まあこういうことが言える場合もありえるので話はやっかいだ。それに株主と揉め事を抱えたくない経営者からしたら、株価は高いに超したことはないのだ。かくして一般株主並みの頭の経営者が経営の舵取りを行うとんでもない事態が生れることになる。
このような経営者はいわゆる株主サービスに熱心になるのでいよいよ事業の中身には興味の薄い、株価だけに興味を持つような株主ばかりがいよいよ集うことになる。こうなると年に一度の株主総会は株主サービスが十分だったかどうかを検討するだけの総会みたいなものだ。事業の飛躍的発展なんて絶対あるわけがない。

こうして初値に縛られリスクをとれなくなった新興会社がバイタリティを発揮できるわけもなく、企業の買収とか売却といったようなダイナミックな動きにつながることはまずなく、小さくまとまるか、雲散霧消してしまうのである。

一方NASDAQのようなIPO=ジャンク債みたいな扱いの感じのところではずっと気が楽だ。経営者は延び延びと株価なんか気にせずに純粋に将来のために必要となることに集中できる。そのかわり裏ではペテン師、詐欺師と、ありとあらゆる呪いの言葉を吐きかけられたりもするらしいが。

この差は大きい。
日本ではもうかなり前から資本と経営の分離が不完全だと言われているのになかなかそれが実現できないが、NASDAQだったらあっと言う間に資本と経営が分離していく。

よいビジネスモデルを他に先駆けて実現した新興企業が最新の経営技術を持ったプロの人々に経営される
これなら世界で大成功する企業が次々と出てきてもちっともおかしくない。

いやその前に、アメリカ伝統の企業が軒を備えるニューヨーク証券取引所(NYSE)の銘柄でいまもアメリカを代表する企業を探す方が難しくなってきた、というぐらい会社の顔ぶれが大きく入れ替わった。
一方、日本ではトヨタ、本田とかはともかく、いつまでも三井三菱住友系とか日立や東芝ではないだろうと思うのだが、新興会社でそれを超えている存在に見えるものは見当たらない。
本当の意味での資本主義を日本はまだ学習できていないのかも。

まあギャンブルと同じような結論になるのだが、IPOに興味があるならNASDAQから選ぶべき。日本のものはつまらんし、何の社会貢献になるとも思えないのである。ちなみにamazonはおよそ10年前いつも一株50セントを切るような典型的なジャンクボンドだった。昨日は一株855ドルだそうである。実際には何度も株主分割があったはずだから実際のゲインはみかけよりもさらに大きい。ま、こんな大当たりは滅多にないわけだが。


明治維新後、日本も一夫一婦制になり、晴れて先進国に肩を並べた、ということになっているのだが、じゃあなんでそれ以前は一夫一婦制になっていなかったのか、ということを今日は考えてみよう。

一番の理由は多産多死社会だった、てことがある。また同時に平均寿命が五十未満という早死社会でもあった。

これは大きい。産業革命以前、動力=人力または畜力という時代、人口は国力そのものである。
しかも日本は自然の資源に乏しく、多すぎる降水のため、土地も豊かとは言えない。ただでさえ、食料確保が難しい土地で子育てをするというのは並大抵ではなかっただろう。
さらに、こどもは簡単に死ぬし、大人になるまでには時間もかかる。
が、食い扶持を削る結果になるとしてもこどもを増やさないと将来はもっとない。
だから、なんとしても一人でも多くこどもを大人に育て上げろというのがコミュニティ全体の生存戦略だったのだ。
その課題に答える一つの解決策が一夫多妻だ。
女性が複数の夫を持っても、産める子の数が劇的に増えるということはありえないので、当然男が複数の妻を持つ形に落ち着いたわけだ。決して女性蔑視の結果ということではあるまい。それに女性が出産のリスクで耐えきれず死亡ということもちょいちょい起こるということも考えるべきだろう。
貧弱な医療技術の時代、死産や産後の経過が悪くて褥婦が後日死亡なんてことは相当発生していたはずだから、一夫一婦制にこだわっていたら、家系の維持そのものが危うくなるのだ。

逆に言えば、一夫一婦制を早期に導入できた国というのは産業や医療などが相当発達した社会だったと見てまず間違いあるまい。
生産力に乏しく、医療技術だって大したことの無かった江戸期以前、一夫一婦制を導入していなかったのは至極まともな判断だったと思うのである。

が一夫多妻にはさらに経済的な均衡をコミュニティ内部で形作るという役割もあったはずだ。
経済学の教えるところによれば完全な自由競争化では必ず淘汰が起こり、強者がより強くなる社会になる。こういう状態が何世代も続き、しかも早期に一夫一婦制を導入していたイギリスはどうなったか。
1%の国民が国富の99%を所有するうという超がつくような格差社会を生み出すことになった。
もし、彼の国が一夫多妻制を認めていたらおそらくここまで極端にはならなかっただろう。そう、当主が死ぬ度に細かく財産が分与されるから、冨が適当に再分配されやすくなるのである。
将軍が大奥を作ったり、殿様が妾を何人も囲ったりするのは将来にわたり、一部の人間に冨が集中するのを避ける効果もあるのである。

イスラム教を守る国の一部では、今も4人までの妻帯を認めているが、そのファミリーの実態を見ると絶句ものである。一人の奥さんが自分の産んだ子を2人持っていたとしてもこどもは8人、4人の奥さんと主人で、二世代だけでも13人という数の「一世帯」になるのだ。
サウジやクウェートとかオイル成金の多い国が一夫多妻制をとっていたことを、多分世界は神に感謝すべきなんだろうと思う。いくら世界中から金をかき集めても、それがずっとそこに留まることはまずないからだ。

さて翻って今日の日本を見る。
多少、明るい見通しが立つ部分もあるものの、全体としては「閉塞感」がやっぱり強い。
全ては少子高齢化に根を持ち、格差社会とか、ブラック企業とか、将来の夢が描けない若者とかいろいろある。
なかでも深刻なのは、若者が結婚したがらないということだ。
男は自分が喰っていくのが精一杯なのに家族を増やす自信がないからと結婚を躊躇い、
女はいろいろ探したけど、まともに将来を託せそうな男は見つからないからと結婚を躊躇う。
世の中全体が、かつてのように若者に寛容ではなくなった。年寄りも自分のことで精一杯なのだ。
結局適当に分散されていた冨が一部に集中するようになって世の中全体の余裕が失われてきているのだと思う。
こうなると元気な金持ちのエロじーさんは、積極的に若い娘を何人でも囲って、じゃんじゃんこどもを産ませた方がお国のためになると思うのだが。

そこの総理、いい娘いるんですけど二号さんとか三号さんにいかがですか?



明けましておめでとう
というわけで本年最初のお題は、今結構あちこちで人々の耳目を集めている存在となっているカジノとパチンコのお話だ。
私はパチンコの方は全然やらない。全然パチンコ屋に入ったことはない、というわけではないが、最後に入ったのがいつなのか、少なくともこの10年以内でないことは確かだ。というわけでパチンコがどうなろうと知ったことではなかったのだが、年が明けて身近な知り合いの中から相次いで二人もパチンコで数十万円の大負けをしたというのが出てきて、興味を向けることになった。そして近所のパチンコ屋の一軒が、いつの間にか空きビルのように中身がスッカラカンのビルに様変わりしていて、入り口に「システム変更のためしばらくお休み」みたいな意味不明の張り紙を出しているのを見つけた。
一体何が起きているの? とまあ何か異変らしきものが起きているのを初めて知った次第である。
その後、情報をいろいろあさってみると、どうも年末にリゾート法なる新法審議が国会で行われていた際、ギャンブル是非論争がパチンコに飛び火して、ギャンブル度の高いパチンコ機を撤去するというどこかの決定がなされたとかで、駆け込み需要を狙ったボッタクリ商法が瞬間的に蔓延し、私の知人二名がその犠牲者として名を連ねたらしい。で、ギャンブル度の高いマシンばかりを揃えていた店は店を閉じざるをえず、普通のマシンの数が出揃うまで営業休止ということになった、というのが真相らしい。
パチンコはギャンブルではなく娯楽だ、というのが所轄官庁の警察庁の見解で、いわばこんな二枚舌を駆使していたから生れた騒動ということもできる。そう、私が思うにはギャンブルはれっきとした娯楽であり、楽しいからやるのである。仮にギャンブルにのめり込んで人生を棒に振るのが出てきても、それは個人の問題であり、社会がそれを禁止すればいいという手法論がそもそもこどもじみているのだ。そういうことは教育とか、社会福祉で解決すべき問題であって、ギャンブルは悪と定義したこと自体、ムリがあったと思う。
その上で、パチンコなのだが、私はギャンブルが嫌いではないが、全然パチンコをやらない理由を語ろうと思う。
第一の理由は店がうるさい。とても長いこといられない。これが一番大きい。よく長時間あんな雑音だらけの空間にいられるもんだと、常連客と思しき方々には感心する。
次の理由はもっと本質的なものだ。パチンコのシステムが気に入らないのである。ギャンブルは勝負であり、勝ち負けがある。それを予測するところに面白みがある。そういう楽しみがほとんどない。さらに言えば、明らかにパチンコはその勝負自体が「管理」されており、誰かの手のひらの上で踊らされている感じがするのだ。
どういうことかと言うと、パチンコ経営者の説明によると現代のパチンコ屋のシステムはもちろんコンピューターで管理されていて、経営者の意図で、出玉率というのは自由自在に設定できるというのだ。で、この自由自在が曲者で、かつては日本全国に数え切れないほどあったパチンコ屋の業者がいまや片手の指に収まるほどすくなくなったのは、この「出玉率をどれだけ上げるか競争」の淘汰の結果だというのである。つまり出玉率を渋ったところはすぐに客離れを起こし、廃業倒産となり、より出玉率の高い業者にその客が流れるという状態が起きていたわけだ。ということは、ここまで業者が寡占状態を作ったら、もはや競争相手の心配なんかせずに好き放題の利益率を設定可能な状態になっているとも言える。こんな馬鹿げたギャンブルはもはやギャンブルとは言えない、負け確定が仕込まれたイカサマ勝負と同じだ。
さらに言えば、人為的に人間がオッズを決めるような競馬や競輪などを別にすれば、他のギャンブルの多くは自然の運というものを基盤に置いている。これは当然人知を超えたところのものだから、胴元が大損するリスクを常に負っている。
ところが今のパチンコのように出玉率は経営者が自由自在に設定できるなんて言うのでは、パチンコ屋が他店との競争という理由以外で倒産する可能性がほぼ皆無ということになる。こんなボッタクリ商売が許されているという方がどうかしている。海外で言うところのギャンブルなら、経営者はビジネスの上で常に客と勝負をしているようなものであり、その結果で倒産したり所有者が変わるのが当たり前のシロモノなのだ。

かつて国外に住んでいた時、近隣の街にカジノがあった。週末、このカジノに遊びに行くのが私の習慣になったのだが、いろいろなゲームにチャレンジはしたが、結局一番面白いと思ったのはルーレットだった。
出目のデータを書き留め、そこに出現パターンがないかを常に監視し、次の出目を予測、掛けていく。
無論、いくら見ていても全然出現パターンが読めない時が多いが、時には面白いようにこちらの予測が嵌まる時もある。そんな時のディーラーの焦ったような表情、同じテーブルに座る他の客達の反応など、まるでスポーツの試合でもやっているかのような感覚を味わえたものだ。
そう、自分が勝つための戦略を脳漿を絞り切って編み出し、目の前の事実にただひたすら向き合い、次の手を打つ。これぞギャンブルの醍醐味だと思うのである。
まあ、カジノじゃなくても株式市場とかFXでも似たようなことはできると言えば出来るが、短い時間で結果を出せるという意味ではカジノにはかなわない。こういう娯楽ができる空間が日本にもできればいいなと切に思う次第である。

団鬼六が今で言うSM小説を書き始めていた時、マルキドサドの作品は既に邦訳紹介されていたはずなので、当然団鬼六もSMという概念は知っていて書いたはずだ。が、海外のSM小説は日常の何もない普通の生活の中で何かのきっかけてSMプレイがエスカレートしていくという形のものが多いのに対し、団鬼六作品では、もっとずっと理屈っぽい。そもそもSMプレイという呼び方がまず適当ではない。なんらかの犯罪行為がまず発生し、その過程においてSMプレイっぽい行為が行われるのが初期作品共通のパターンだ。
これはどう考えたらいいだろう。
前回、ご紹介した通り、欧州のSMは「有閑マダム」の存在が生み出した副産物という可能性が高い。が、日本では歴史的にそんなものはほとんど存在していなかった。
まずここに大きな差がある。
そしてさらに女性の地位の差もある。無論、欧州も日本も過去において女性の地位が男性より低かったことは間違いないが、そこにさらに共同体意識の強弱も絡む。共同体意識の異常に強い日本では、これが側面からの圧力になり、女性に異常な圧迫を加えていると、指摘したのは、「菊と刀」のルースベネディクトだったか。
ただ彼女が指摘したのは明治から大正期の日本であり、これは明らかに江戸期以前は武士だった氏族の家を「典型的な日本の家」と捉えている。まあこの本はあくまでも日本軍の軍事的能力を分析するために描かれた研究書だから、この選択はこの目的から見れば妥当だろう。
が、庶民レベルまで全部「菊と刀」に紹介された日本と同じというわけではない。
江戸期以前、日本人の庶民は非常に性については解放的だったらしい。混浴なんて当たり前だったし、もともとの家屋がそもそもプライバシーの配慮なんてものとは無縁の構造だから、隣家をのぞくぐらいいつでもできた。つまり現実社会において、女性だからと区別されている場面は少なかったとも言える。
さらに大きいのが名字の制限だ。この侍以外に名字が持てないというのは、いろいろと深い意味がある。要するに今で言う戸籍、つまり寺の人別帳を見ない限り、誰と誰が夫婦で誰の子が誰だというのが判断できない社会という意味だ。つまり外見的に夫婦とか親子とか兄弟姉妹とかを判断しにくいのが名字のない世界なのだ。
そんな状態で長屋暮らしなんかしていたら、プライバシーなんか全然無いような建物構造から考えて、すぐに男女の仲が深まることは容易に想像できる。実際、そういういわば不義の子は結構いたらしいが、夫婦の代わりに大家を主体にした長屋コミュニティ全体がそういう子の面倒をみるといった「原始共産主義」的な制度がこれをカバーしていた。もちろんそうしなければ生きていけないという事情があったのだろうが。
つまるところ、男女が互いに互いを気にするのは、相手の身体の構造が珍しいからと説明した御仁がいたが、いくら珍しくても見慣れることはある。そして見慣れればだんだんどうでもよくなるというのはたぶん間違いなく、性の喜びを追求しましょうなんてことにはあんまりエネルギーが向かわなかったようだ。子作りならコミュニティ全体でも容認できるが、それ以上の変な遊びに走り出したら、コミュニティも黙っていない、ってな事情もひょっとしたらあったかもしれない。とにかく、こどもが出来たらとりあえず終わり的な感覚と言えばいいのだろうか。
江戸期なら遊女という手もある。が、こっちの世界もまたいろんなしきたり、ルールに縛られた世界で、よほどの金持ちでもない限り、SMっぽい遊びができたとは思えない。
一方、ヒエラルキー最上位の武士の方も事情はあんまり違わない。こっちは名字を今以上に意識させられる地位である。すべては家名のため、お家のためとなる。なので女性の役割も子孫繁栄に集中する。

上も下も結局「余暇の楽しみ方」に「性の喜び」を加えるということとは無縁なのが日本だったのだ。
澁澤龍彦がマルキドサドの作品を邦訳紹介した時にはさざ波程度のインパクトも日本に与えられなかったのは日本人にはSMは全く理解できなかったからだと思う。いわば新しい伝道師が必要だったのだ。

となればと、団鬼六は考えたのだろう。本来なら「有閑マダムの余暇」から生まれたSMを日本人に理解させるにはどうしたらよいかと。
その結果が犯罪とのパッケージ化だったのだろう。深窓の令嬢とか上流階級の奥様(但し子なし)とか本来の日本には非常に稀な存在をM役として登場させる一方、S役には、札付きの悪人である上に異常性欲の持ち主が選ばれ、犯罪行為によって両者の交わりが生まれる。これが彼の編み出した答えだ。

大多数の庶民から見て、団鬼六のこの手法は分かりやすかった。結局人は自分が理解できるものしか理解しないのだから。結果的にその後長く日本人にとってSMと言えば、この犯罪パッケージ型変態行為というが定義のようになってしまった。

まあ団鬼六がホントにこんなふうに考えたのか、実は私は知らない。全ては私の一方的な推測である。ただ単に自分の妄想を書き連ねたというだけではあれほどの作品を残せはしなかっただろうなと思うのである。

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