Symphony Fantastique Proving Ground



一色強兵の憂鬱

先日パチンコとルーレットの比較でギャンブルの本質を歪めている法制度を指摘したが、似たようなことは株式市場にもある。
いわゆるIPOというやつだ。英語のInitial Public Offeringの頭字語だがいわゆる新規株のことである。
小さなビジネスを育て、ようやくある程度の大きさになり、次の飛躍を求め、借金ではなく、市場から一般投資者を募る形で株券を売り資本調達を図る……実業家としての晴れの舞台そのものである。
明るい門出ということで結構な高値がつくことが多く、それに晴れて「上場企業」への仲間入りということで、知名度、認知度、信用などなど社会の中での自社の地位がいろいろと跳ね上がる瞬間でもある。
創業から上場までこぎ着けてきたお歴々にはこの世の春という瞬間に間違いないのだが、どうも日本の場合、これが作られすぎていて、その後の運命がしょぼいものになっているケースが多々ありすぎるような気がしてならない。
日本でのIPOというとイメージで言うと予想される値よりも何割か高い初値がつくが、その後はダダ下がりで以下ずっと変わらずみたいな道を歩くものが多い。たぶん仲介の証券会社の顔が潰れないように互助会のような証券会社同士のやりとりがあるんだろう。だから最初の予想株価はちゃんとクリアするけど、その後は鳴かず飛ばずとなるのだ。
一方、いまやアメリカ経済をひっぱるグーグルやアマゾンを輩出したNASDAQ市場あたりだと初値の予想なんてそもそもあるんだか無いんだか全然わからない。どんな値が出てもおかしくないという感じだ。そしてその株価の勢いに任されるように盛んに企業が売却されたり合併されたりする。それも短期間のうちに。
新興企業の実力なんて未知数なんだからある意味当然なのだ。それが日本では全然そういう扱いをされていなくて最後の実取引がいつだったのか結構古い実績価格にずっと引っ張られていたりするものすらある。
しょせんは投資家と経営者の思惑や相互理解が奈辺にあるかあたりで決まったことなんだが、一つだけ無視しえない問題がある。それは日本の場合は、「株価頼み経営」なる怪しい存在が浮上しやすいということだ。
作られた株価に誰が一番踊らされるのか。考えるまでもなく経営者である。
晴れの舞台で初値に有頂天になった経営者が株価の呪いに縛られるのである。

会社の経営状態をいかに把握すべきかはそれ自体簡単なことではないし、それをどうやるかどのように変えるかこそが経営者の能力そのものに強く依存するものなのだが、単純な経営者さんはついついこう考えてしまうのである。株価は経営の上手さを表しているのだと。
本来株価と経営は全く別物なのだが、まあこういうことが言える場合もありえるので話はやっかいだ。それに株主と揉め事を抱えたくない経営者からしたら、株価は高いに超したことはないのだ。かくして一般株主並みの頭の経営者が経営の舵取りを行うとんでもない事態が生れることになる。
このような経営者はいわゆる株主サービスに熱心になるのでいよいよ事業の中身には興味の薄い、株価だけに興味を持つような株主ばかりがいよいよ集うことになる。こうなると年に一度の株主総会は株主サービスが十分だったかどうかを検討するだけの総会みたいなものだ。事業の飛躍的発展なんて絶対あるわけがない。

こうして初値に縛られリスクをとれなくなった新興会社がバイタリティを発揮できるわけもなく、企業の買収とか売却といったようなダイナミックな動きにつながることはまずなく、小さくまとまるか、雲散霧消してしまうのである。

一方NASDAQのようなIPO=ジャンク債みたいな扱いの感じのところではずっと気が楽だ。経営者は延び延びと株価なんか気にせずに純粋に将来のために必要となることに集中できる。そのかわり裏ではペテン師、詐欺師と、ありとあらゆる呪いの言葉を吐きかけられたりもするらしいが。

この差は大きい。
日本ではもうかなり前から資本と経営の分離が不完全だと言われているのになかなかそれが実現できないが、NASDAQだったらあっと言う間に資本と経営が分離していく。

よいビジネスモデルを他に先駆けて実現した新興企業が最新の経営技術を持ったプロの人々に経営される
これなら世界で大成功する企業が次々と出てきてもちっともおかしくない。

いやその前に、アメリカ伝統の企業が軒を備えるニューヨーク証券取引所(NYSE)の銘柄でいまもアメリカを代表する企業を探す方が難しくなってきた、というぐらい会社の顔ぶれが大きく入れ替わった。
一方、日本ではトヨタ、本田とかはともかく、いつまでも三井三菱住友系とか日立や東芝ではないだろうと思うのだが、新興会社でそれを超えている存在に見えるものは見当たらない。
本当の意味での資本主義を日本はまだ学習できていないのかも。

まあギャンブルと同じような結論になるのだが、IPOに興味があるならNASDAQから選ぶべき。日本のものはつまらんし、何の社会貢献になるとも思えないのである。ちなみにamazonはおよそ10年前いつも一株50セントを切るような典型的なジャンクボンドだった。昨日は一株855ドルだそうである。実際には何度も株主分割があったはずだから実際のゲインはみかけよりもさらに大きい。ま、こんな大当たりは滅多にないわけだが。


明治維新後、日本も一夫一婦制になり、晴れて先進国に肩を並べた、ということになっているのだが、じゃあなんでそれ以前は一夫一婦制になっていなかったのか、ということを今日は考えてみよう。

一番の理由は多産多死社会だった、てことがある。また同時に平均寿命が五十未満という早死社会でもあった。

これは大きい。産業革命以前、動力=人力または畜力という時代、人口は国力そのものである。
しかも日本は自然の資源に乏しく、多すぎる降水のため、土地も豊かとは言えない。ただでさえ、食料確保が難しい土地で子育てをするというのは並大抵ではなかっただろう。
さらに、こどもは簡単に死ぬし、大人になるまでには時間もかかる。
が、食い扶持を削る結果になるとしてもこどもを増やさないと将来はもっとない。
だから、なんとしても一人でも多くこどもを大人に育て上げろというのがコミュニティ全体の生存戦略だったのだ。
その課題に答える一つの解決策が一夫多妻だ。
女性が複数の夫を持っても、産める子の数が劇的に増えるということはありえないので、当然男が複数の妻を持つ形に落ち着いたわけだ。決して女性蔑視の結果ということではあるまい。それに女性が出産のリスクで耐えきれず死亡ということもちょいちょい起こるということも考えるべきだろう。
貧弱な医療技術の時代、死産や産後の経過が悪くて褥婦が後日死亡なんてことは相当発生していたはずだから、一夫一婦制にこだわっていたら、家系の維持そのものが危うくなるのだ。

逆に言えば、一夫一婦制を早期に導入できた国というのは産業や医療などが相当発達した社会だったと見てまず間違いあるまい。
生産力に乏しく、医療技術だって大したことの無かった江戸期以前、一夫一婦制を導入していなかったのは至極まともな判断だったと思うのである。

が一夫多妻にはさらに経済的な均衡をコミュニティ内部で形作るという役割もあったはずだ。
経済学の教えるところによれば完全な自由競争化では必ず淘汰が起こり、強者がより強くなる社会になる。こういう状態が何世代も続き、しかも早期に一夫一婦制を導入していたイギリスはどうなったか。
1%の国民が国富の99%を所有するうという超がつくような格差社会を生み出すことになった。
もし、彼の国が一夫多妻制を認めていたらおそらくここまで極端にはならなかっただろう。そう、当主が死ぬ度に細かく財産が分与されるから、冨が適当に再分配されやすくなるのである。
将軍が大奥を作ったり、殿様が妾を何人も囲ったりするのは将来にわたり、一部の人間に冨が集中するのを避ける効果もあるのである。

イスラム教を守る国の一部では、今も4人までの妻帯を認めているが、そのファミリーの実態を見ると絶句ものである。一人の奥さんが自分の産んだ子を2人持っていたとしてもこどもは8人、4人の奥さんと主人で、二世代だけでも13人という数の「一世帯」になるのだ。
サウジやクウェートとかオイル成金の多い国が一夫多妻制をとっていたことを、多分世界は神に感謝すべきなんだろうと思う。いくら世界中から金をかき集めても、それがずっとそこに留まることはまずないからだ。

さて翻って今日の日本を見る。
多少、明るい見通しが立つ部分もあるものの、全体としては「閉塞感」がやっぱり強い。
全ては少子高齢化に根を持ち、格差社会とか、ブラック企業とか、将来の夢が描けない若者とかいろいろある。
なかでも深刻なのは、若者が結婚したがらないということだ。
男は自分が喰っていくのが精一杯なのに家族を増やす自信がないからと結婚を躊躇い、
女はいろいろ探したけど、まともに将来を託せそうな男は見つからないからと結婚を躊躇う。
世の中全体が、かつてのように若者に寛容ではなくなった。年寄りも自分のことで精一杯なのだ。
結局適当に分散されていた冨が一部に集中するようになって世の中全体の余裕が失われてきているのだと思う。
こうなると元気な金持ちのエロじーさんは、積極的に若い娘を何人でも囲って、じゃんじゃんこどもを産ませた方がお国のためになると思うのだが。

そこの総理、いい娘いるんですけど二号さんとか三号さんにいかがですか?



明けましておめでとう
というわけで本年最初のお題は、今結構あちこちで人々の耳目を集めている存在となっているカジノとパチンコのお話だ。
私はパチンコの方は全然やらない。全然パチンコ屋に入ったことはない、というわけではないが、最後に入ったのがいつなのか、少なくともこの10年以内でないことは確かだ。というわけでパチンコがどうなろうと知ったことではなかったのだが、年が明けて身近な知り合いの中から相次いで二人もパチンコで数十万円の大負けをしたというのが出てきて、興味を向けることになった。そして近所のパチンコ屋の一軒が、いつの間にか空きビルのように中身がスッカラカンのビルに様変わりしていて、入り口に「システム変更のためしばらくお休み」みたいな意味不明の張り紙を出しているのを見つけた。
一体何が起きているの? とまあ何か異変らしきものが起きているのを初めて知った次第である。
その後、情報をいろいろあさってみると、どうも年末にリゾート法なる新法審議が国会で行われていた際、ギャンブル是非論争がパチンコに飛び火して、ギャンブル度の高いパチンコ機を撤去するというどこかの決定がなされたとかで、駆け込み需要を狙ったボッタクリ商法が瞬間的に蔓延し、私の知人二名がその犠牲者として名を連ねたらしい。で、ギャンブル度の高いマシンばかりを揃えていた店は店を閉じざるをえず、普通のマシンの数が出揃うまで営業休止ということになった、というのが真相らしい。
パチンコはギャンブルではなく娯楽だ、というのが所轄官庁の警察庁の見解で、いわばこんな二枚舌を駆使していたから生れた騒動ということもできる。そう、私が思うにはギャンブルはれっきとした娯楽であり、楽しいからやるのである。仮にギャンブルにのめり込んで人生を棒に振るのが出てきても、それは個人の問題であり、社会がそれを禁止すればいいという手法論がそもそもこどもじみているのだ。そういうことは教育とか、社会福祉で解決すべき問題であって、ギャンブルは悪と定義したこと自体、ムリがあったと思う。
その上で、パチンコなのだが、私はギャンブルが嫌いではないが、全然パチンコをやらない理由を語ろうと思う。
第一の理由は店がうるさい。とても長いこといられない。これが一番大きい。よく長時間あんな雑音だらけの空間にいられるもんだと、常連客と思しき方々には感心する。
次の理由はもっと本質的なものだ。パチンコのシステムが気に入らないのである。ギャンブルは勝負であり、勝ち負けがある。それを予測するところに面白みがある。そういう楽しみがほとんどない。さらに言えば、明らかにパチンコはその勝負自体が「管理」されており、誰かの手のひらの上で踊らされている感じがするのだ。
どういうことかと言うと、パチンコ経営者の説明によると現代のパチンコ屋のシステムはもちろんコンピューターで管理されていて、経営者の意図で、出玉率というのは自由自在に設定できるというのだ。で、この自由自在が曲者で、かつては日本全国に数え切れないほどあったパチンコ屋の業者がいまや片手の指に収まるほどすくなくなったのは、この「出玉率をどれだけ上げるか競争」の淘汰の結果だというのである。つまり出玉率を渋ったところはすぐに客離れを起こし、廃業倒産となり、より出玉率の高い業者にその客が流れるという状態が起きていたわけだ。ということは、ここまで業者が寡占状態を作ったら、もはや競争相手の心配なんかせずに好き放題の利益率を設定可能な状態になっているとも言える。こんな馬鹿げたギャンブルはもはやギャンブルとは言えない、負け確定が仕込まれたイカサマ勝負と同じだ。
さらに言えば、人為的に人間がオッズを決めるような競馬や競輪などを別にすれば、他のギャンブルの多くは自然の運というものを基盤に置いている。これは当然人知を超えたところのものだから、胴元が大損するリスクを常に負っている。
ところが今のパチンコのように出玉率は経営者が自由自在に設定できるなんて言うのでは、パチンコ屋が他店との競争という理由以外で倒産する可能性がほぼ皆無ということになる。こんなボッタクリ商売が許されているという方がどうかしている。海外で言うところのギャンブルなら、経営者はビジネスの上で常に客と勝負をしているようなものであり、その結果で倒産したり所有者が変わるのが当たり前のシロモノなのだ。

かつて国外に住んでいた時、近隣の街にカジノがあった。週末、このカジノに遊びに行くのが私の習慣になったのだが、いろいろなゲームにチャレンジはしたが、結局一番面白いと思ったのはルーレットだった。
出目のデータを書き留め、そこに出現パターンがないかを常に監視し、次の出目を予測、掛けていく。
無論、いくら見ていても全然出現パターンが読めない時が多いが、時には面白いようにこちらの予測が嵌まる時もある。そんな時のディーラーの焦ったような表情、同じテーブルに座る他の客達の反応など、まるでスポーツの試合でもやっているかのような感覚を味わえたものだ。
そう、自分が勝つための戦略を脳漿を絞り切って編み出し、目の前の事実にただひたすら向き合い、次の手を打つ。これぞギャンブルの醍醐味だと思うのである。
まあ、カジノじゃなくても株式市場とかFXでも似たようなことはできると言えば出来るが、短い時間で結果を出せるという意味ではカジノにはかなわない。こういう娯楽ができる空間が日本にもできればいいなと切に思う次第である。

団鬼六が今で言うSM小説を書き始めていた時、マルキドサドの作品は既に邦訳紹介されていたはずなので、当然団鬼六もSMという概念は知っていて書いたはずだ。が、海外のSM小説は日常の何もない普通の生活の中で何かのきっかけてSMプレイがエスカレートしていくという形のものが多いのに対し、団鬼六作品では、もっとずっと理屈っぽい。そもそもSMプレイという呼び方がまず適当ではない。なんらかの犯罪行為がまず発生し、その過程においてSMプレイっぽい行為が行われるのが初期作品共通のパターンだ。
これはどう考えたらいいだろう。
前回、ご紹介した通り、欧州のSMは「有閑マダム」の存在が生み出した副産物という可能性が高い。が、日本では歴史的にそんなものはほとんど存在していなかった。
まずここに大きな差がある。
そしてさらに女性の地位の差もある。無論、欧州も日本も過去において女性の地位が男性より低かったことは間違いないが、そこにさらに共同体意識の強弱も絡む。共同体意識の異常に強い日本では、これが側面からの圧力になり、女性に異常な圧迫を加えていると、指摘したのは、「菊と刀」のルースベネディクトだったか。
ただ彼女が指摘したのは明治から大正期の日本であり、これは明らかに江戸期以前は武士だった氏族の家を「典型的な日本の家」と捉えている。まあこの本はあくまでも日本軍の軍事的能力を分析するために描かれた研究書だから、この選択はこの目的から見れば妥当だろう。
が、庶民レベルまで全部「菊と刀」に紹介された日本と同じというわけではない。
江戸期以前、日本人の庶民は非常に性については解放的だったらしい。混浴なんて当たり前だったし、もともとの家屋がそもそもプライバシーの配慮なんてものとは無縁の構造だから、隣家をのぞくぐらいいつでもできた。つまり現実社会において、女性だからと区別されている場面は少なかったとも言える。
さらに大きいのが名字の制限だ。この侍以外に名字が持てないというのは、いろいろと深い意味がある。要するに今で言う戸籍、つまり寺の人別帳を見ない限り、誰と誰が夫婦で誰の子が誰だというのが判断できない社会という意味だ。つまり外見的に夫婦とか親子とか兄弟姉妹とかを判断しにくいのが名字のない世界なのだ。
そんな状態で長屋暮らしなんかしていたら、プライバシーなんか全然無いような建物構造から考えて、すぐに男女の仲が深まることは容易に想像できる。実際、そういういわば不義の子は結構いたらしいが、夫婦の代わりに大家を主体にした長屋コミュニティ全体がそういう子の面倒をみるといった「原始共産主義」的な制度がこれをカバーしていた。もちろんそうしなければ生きていけないという事情があったのだろうが。
つまるところ、男女が互いに互いを気にするのは、相手の身体の構造が珍しいからと説明した御仁がいたが、いくら珍しくても見慣れることはある。そして見慣れればだんだんどうでもよくなるというのはたぶん間違いなく、性の喜びを追求しましょうなんてことにはあんまりエネルギーが向かわなかったようだ。子作りならコミュニティ全体でも容認できるが、それ以上の変な遊びに走り出したら、コミュニティも黙っていない、ってな事情もひょっとしたらあったかもしれない。とにかく、こどもが出来たらとりあえず終わり的な感覚と言えばいいのだろうか。
江戸期なら遊女という手もある。が、こっちの世界もまたいろんなしきたり、ルールに縛られた世界で、よほどの金持ちでもない限り、SMっぽい遊びができたとは思えない。
一方、ヒエラルキー最上位の武士の方も事情はあんまり違わない。こっちは名字を今以上に意識させられる地位である。すべては家名のため、お家のためとなる。なので女性の役割も子孫繁栄に集中する。

上も下も結局「余暇の楽しみ方」に「性の喜び」を加えるということとは無縁なのが日本だったのだ。
澁澤龍彦がマルキドサドの作品を邦訳紹介した時にはさざ波程度のインパクトも日本に与えられなかったのは日本人にはSMは全く理解できなかったからだと思う。いわば新しい伝道師が必要だったのだ。

となればと、団鬼六は考えたのだろう。本来なら「有閑マダムの余暇」から生まれたSMを日本人に理解させるにはどうしたらよいかと。
その結果が犯罪とのパッケージ化だったのだろう。深窓の令嬢とか上流階級の奥様(但し子なし)とか本来の日本には非常に稀な存在をM役として登場させる一方、S役には、札付きの悪人である上に異常性欲の持ち主が選ばれ、犯罪行為によって両者の交わりが生まれる。これが彼の編み出した答えだ。

大多数の庶民から見て、団鬼六のこの手法は分かりやすかった。結局人は自分が理解できるものしか理解しないのだから。結果的にその後長く日本人にとってSMと言えば、この犯罪パッケージ型変態行為というが定義のようになってしまった。

まあ団鬼六がホントにこんなふうに考えたのか、実は私は知らない。全ては私の一方的な推測である。ただ単に自分の妄想を書き連ねたというだけではあれほどの作品を残せはしなかっただろうなと思うのである。

SMプレイの起源はどこか、なんて話は寡聞にして聞いたことはないが、まあおそらくローマ帝国とかそのあたりのどっかだろうとは思う。なにしろSにしろMにしろ女性が相当のめり込んでくれないと成立しない遊びなだけに、要するに生活するだけで精一杯状態ということではまずそんな境地に辿り着くことはできないだろうし、さらに言えば、家庭内でこどもがウロウロしているとか育児が大変とかでもやっぱりダメってことになるからだ。
つまり日本の場合は、貴族はかなり昔から居たものの、まずこどもを女親が手元に置いて育てるっていう習慣があったので、そういう方への関心は高まりにくかっただろうってのは容易に想像がつくし、さらに言えば、貴族と言ったところで、何しろ生産力の乏しい日本列島でのことだから、庶民と貴族の差は少なくとも欧州のそれとは比較にならないほど小さく、個人が密かな楽しみを十二分に満喫できるなんていう環境は無かったと考えていいだろう。逆にローマ帝国とその派生国家においては、元々の農業生産力が日本とは比較にならないほど高く、貴族と庶民の経済力の差は開く一方という歴史があり、(だから貴族の私兵同士の戦争とかもあったし、市民革命なんてものも起こったわけだが)そういう余暇の楽しみ方の追求ってのが極限まで行くそもそもの下地があった。
さらに貴族の教養が高まるにつれ、身分の高い女性の生き方として、自分で子育てはしなくなるということもさらにこれに拍車をかける。
近世以前のフランスあたりの貴族の女性ってのは、未婚時代は箱入り娘として陰に隠れた存在だが、一度資力のある貴族に嫁ぎ、子をなすと、こどもは乳母とか寄宿制の学校へと預け、自分が子育てに関わることはなく、社交界デビューをするのが常識だったらしい。当然有閑マダムなので、不倫事件もしょっちゅう起きるのだが、ここは貴族の嗜みとして、婦人のそのような振る舞いには夫は目をつむるものというのがローマ以来の考え方だったようだ。
こんだけ女性が活性化される条件が揃えば、そりゃSMも発達するでしょうよ、と納得せざるを得ない。
源氏物語なんかを読んでいても、貴族の話の割りには、困窮話もちょくちょく出てきて、同じ頃、地球の裏側にいた金で雇った傭兵の軍隊を動かし、実戦将棋のような戦争をゲームとして楽しんでいた貴族とはエライ差だなと思ったのである。
なんでこんな話を思いついたのかと言うと、とある所で、「S女性にはシャネル好きが多い」という話を聞き込んだのである。シャネルというのは例のココ・シャネル創始のブランドのことだが、ココ・シャネルと言えば貧しい出ながら、運を掴み、パトロンを乗り換え、一大シャネル王国を作った、まさに美貌と資力を備えたパワーウーマンとして、なるほどS女性に信奉者が多そうだなと納得したからである。
そしてそういう女性が生まれる社会ってのはどういう社会なんだろうと疑問を持ったので、こんな考えに辿り着いたというわけだ。
シャネルブランドに格別なこだわりを持っているかどうか、女性の正体を知るのにチェックしておいてもいい項目かもしれない。

ネットで流れてきた話によるとあの民進党の蓮舫さんのご家庭が、結構femdom化しているらしい。
ま、美人だし、弁は立つし、女王さまキャラとしては申し分なさそうな資質だし、鞭とかローソクとか持たせてアイマスクにボンデージファッションとか着せたらすごく似合いそうだし、それならそれでいいんじゃない、と思ったのだけれど。

が、ネットでの主たる風評は私のように好意的ではないようだ。
ダンナをないがしろにしすぎとか、なんとか、よその家庭の内部の話によくぞここまで首を突っ込めるもんだと呆れるようなコメントが多いようだ。
別に本人たちが納得して生活してるんだし、幼児虐待とか犯罪性のある話でもなし、個人の嗜好が合致し合意され行われているもんなら、激しくSMプレイが行われていても私は全然問題ないと思うのだが。

それに外国人が言うところの日本人同士の夫婦関係って、よく奥さんが黙ってるもんだっていう感想をよく聞くから、本質的にはかなり男性優位と考えた方がいい。すると純血日本人とは言えない蓮舫さんのところはそういう意味では日本のスタンダードと比較すること自体がおかしいのだ、とも言える。
まあ、外国人の知り合いの夫連中の感想からいうと、「ワイフがやさしい」という評価はなかなか聞けないものみたいなので、純血日本人の奥さんがいる人はたぶん世界標準から言えばやはり恵まれていると考えるべきなのだろう。一部マゾの人は除いて。そっち系の人は、いわゆる「うらやまけしからん」という立場から蓮舫さん批判に回る可能性が高そうではあるが。

女性が今まで以上に活躍するようになる、ってことは当然femdom化も全体としては多くなって当然なんだからこんなことに目くじらを立てていたら、女性が活躍する社会の実現なんていよいよムリだ。当然大人の態度としては寛容さを示すべきなのだが、それにもかかわらず、これだけ批判が湧いたってことは、世の中全体の本音の部分では、女性に活躍されるのは非常に困るって人が結構いるってことのようにも見える。
でもまさか、femdomを実践している人が政治家やってたら、マゾ男向けエロコミックにありがちな「完全女性上位社会」にされてしまうとか本気で恐れてたりはしませんよね?

まあそんな大それた杞憂はともかく、蓮舫さんの職業が政治家だから、是が非でもスキャンダル化したいっていう勢力があるってことは大きいだろう。
だいたい蓮舫さん自身、これに近いことを与党幹部にしかけていたこともあるから、まあ自業自得というか、それが政治家の宿命みたいなものと理解すべきかもしれない。

私としては、もしどっかのマスコミさんが蓮舫さんがダンナの顔の上にフェースシッティングでもしてる写真でもリークでもしてくれたら、いろいろ政策については納得はしていないものの、支持者になってもいいかなと思っているのだが。(←めちゃノンポリで申し訳ない)

ネット+BBCラジオ特番でずっとこれを聞いた。もちろん何を言っても、まだ憶測の域を出ない話だが、トランプ大統領の政策の基本は、経済的には米国一国主義、軍事的には先進国エリアでの軍事力を後退(まだ世界の警察官を下りる、とまでは言っていないらしい。先進国エリアについては派兵が金銭的利益を生むなら傭兵業として請け負う的なスタンスのようだ。)するという見通しのようだ。
アメリカ国内の問題はおそらく、そこまで逼迫しているから、トランプ大統領になったと考えるしかないだろう。
とはいえアメリカの国内問題の方にどんな政策を持っているのかということについては、上記二つの対外政策に比べるともっと曖昧で、本当のところ何をやりたいのかさっぱり分からないが、それだけに上記二つだけは確実にやりそうという迫力は感じる。
で、来年からの、少なくとも4年、長くて8年、日本はどういう姿勢でアメリカと付き合うべきかというのが現下喫緊の課題となったわけだ。
やはり防衛面は見直さないとダメだろう。防衛整備計画の大前提、常に米軍の「打撃力」が使える、がひっくり返ることはまず間違いないのだから。同様のことは韓国にもあり、こちらは朝鮮戦争が再発する危険が差し迫ったとみるべきだろう。つまり最悪の場合、中国の影響下にあるランドパワー(陸上戦力)が釜山あたりまで進出してくる可能性が高まったわけで、シーパワー(海上戦力)で優位を保っているとはいえ、敵攻撃基地を攻撃できない今の日本は、特に沖縄九州中国関西地方は無防備状態になるに等しい。
これって、何を夢みたいなことを、と考えないで欲しい。現代の戦争なんて、機械力総動員だから、とにかく局面推移する時間は早いのである。朝鮮半島の国境が書き換わるのに1週間はかからない。そうなってからの対応では間に合わないのだ。

これは国民のコンセンサスを得てから憲法改正なんていう余裕をぶっこいてられる時代は去ったと考えるべきだ。そしてその上での防衛整備計画の早急な見直しが必要だろう。

TPPはこうなると環太平洋経済圏の創設じゃなくて、日本が活きていくためのレーベンスラウム(生存圏)みたいなもの、つまりかつての大東亜共栄圏構想に近いものへと変わらざるをえないのかも。

おかげさまで、キンドル本にした作品たちは、少なくとも自サイトに置いている時よりもずっと読まれているようである。無料だった時より有料化した方がよく読まれるって、いかに底辺ゴミサイトは無力な存在か思い知らされた感じもあるけど、まあ、いっか。
てなわけで、読まれていると分かった以上、こっちも襟を正してもっと新作に意欲的に取り組まねばなどと思い、目下準備中である。
準備中って何? 書いてないの? という疑問の空耳が聞こえた。そう、まだ書けないのだ。
私はスーパーマンでも超能力者でもないので、構想を思いついたらすぐ文にできるというほどの能力は無いのである。と自慢して言うもんでもないが。というわけで、目下のところは言わばお勉強中だ。つまり情報収集中だ。
何しろこっちも人間なので毎度毎度同じようなものなんて書きたくないのだ。常に新しいものにチャレンジしたい。となれば、未知のものを既知に変える努力無しには創作そのものを維持できないのだ。

というわけで新作の方はもう暫くお待ち頂くことにして、今日はキンドルサイトを使う読者へのアドバイスである。
以前、アマゾンの戦略としてご紹介した通り、アマゾンの作家に対する扱いは戦略的である。
まあ他の出版社と違い、アマゾンにすり寄ったからと言ってプロモーションに一肌脱いだり、積極的に中身をよくするために助言をくれるというようなことはまずないが、その反面、よほど反社会的なものでない限り、なんでも出版できるというのが最大の魅力だ。そして、kindleUnlimitedのサービスは作家側から見ると、無名新人にもいろいろな可能性を与えてくれるオプションだが、これを適用してもらうためには、その作品に対する独占販売権をアマゾンに与えなければならないという条件がある。
その一方で他の出版社の作品については独占販売権をよこせ、なんてもちろん言わないが、かと言って出版社あるいはその傘下にある作者がkindleUnlimitedの対象となることを了承しても、最終的な適用判断はアマゾン側に留保されているようだ。

これは例えて言えば、
1)親藩:アマゾン直参の作品=独占販売権を与えられ、アマゾン以外では購入不可能作品
2)傭兵:他サイトでも売っているkindleUnlimitedの対象作品
3)外様:他サイトでも売っているkindleUnlimitedの対象外作品
という作品区分があるということだ。

で、kindle本の売り場ページを見て回ってなるほどと分かったのだが、作品の表紙の横に時折り現われるマークがどうやらこのことを表しているらしい。
「プライム」マーク付き=1)親藩
kindleUnlimitedマーク付き=2)傭兵
無印=3)外様

別に私自身はどっか特定の出版社に特別な意趣があるとかいうことは無いのだが、結果として見れば、ほとんどの作品がアマゾン親藩ということになったわけだ。こういうのを戦略的利益の一致と言うんだろうけど。

アマゾンの戦略として見るならば、最終的には売上の相当部分がプライムマーク付きになることを目標にしているんだろう。つまり私のような草の根底辺作家の頑張りにかかっている? それは光栄だなあ……

補足:10月31日
この記事をアップした後に気がついたのだが、ここで紹介した「プライム」表示はプライム会員が会員としてアクセスした時のみの表示となる模様。プライム会員でないビジターでのアクセスではプライムマークではなく全てkindleUnlimitedのマークが表示され、従って1)と2)の見分けがつかなくなる。




日本人的感覚から言えば、よくぞここまでやるもんだ、という感想しか持てないのが、最近のアメリカ大統領選の演説会、いや、日本語には適切な言葉がないのでここはやはりディベートと言わせてもらうのが適切だな、である。
日本というか、東洋では、言葉または「文」というのは文化的なものという観念に強く支配されているためか、その価値を尊重するとなった場合、その文化的側面に注目することが多い。こういう風土が影響しているせいか、むやみに他者を攻撃する言葉を使うことは、発言者の徳を貶めることにつながると信じられているせいで、憚られるものである。その弊害ということになるのだろうが、言葉による争い経験があんまり多くなかったせいか、ディベートで相手をやり込めるという手法になじめず、海外で苦渋をかこつ日本人は多い。いや、もう最初から話にならないんだよね。なにしろディベートで一番言っちゃいけないのが謝罪の言葉なのに、真っ先にそれを言っちゃうのが日本人なのだから。

一方、良い政治家、優れた将軍の典型として、必ずユリウス・カエサルの名を挙げるローマの歴史世界を共有している文化圏での常識では、言葉、文の持つ第一の価値は、人を動かす力にあると見ている。つまり政治家にもっとも必要な能力は他人を説得し、納得させる弁舌の能力であり、軍事的指導者においても、戦闘能力などよりも兵士を鼓舞する弁舌能力を第一と見る。つまり文武両道、どちらにおいても弁舌こそ第一に重視されるべき能力だというのだ。
ユリウス・カエサルほどのマルチタレントになるど、どうしても弁舌能力なんて軍事的才能や作家としてのモノカキとしての才能、政策立案者としての才能、同僚の元老院議員の妻たちをのきなみ口説き落とす才能(リアル光源氏)などに比べ、装飾程度にしか見えなくなるのだが、彼らの見方からすれば、そういう才能も高い弁舌能力があったから可能になったのだ、となる。
言葉では誰も勝てない、戦でも勝てない、で、暗殺で終了となったわけだが、当然の帰結として暗殺者は公敵とみなされ、ことごとく殺されたのも、元をただせばカエサルの弁舌能力がまいた技だったとみることができる。
というのも女達にも市民にも兵士にもカエサルは愛されていたのだ。そしてカエサルに妻を寝取られた元老院議員ですら、政敵であってもこの件については、ものの見事にダンマリを決め込んだのである。
それでいてカエサルの方は、自分の妻に浮気の嫌疑がかけられた途端、さっさと妻を離婚してしまう。事実かどうかまだ分からないじゃないか、と指摘されると、「カエサルの妻たるもの、浮気の疑いをかけられるだけで十分離婚の理由になる」と言ってのけた。で、さらにこの件で妻もまたカエサルに抗議一つしなかったのである。
なおこれほどまでに敵を作らなかった一つの秘訣は気前が良かったということもあった。つまり社交に関しては金を惜しまなかったのだ。で、得意の弁舌で借金を重ね、すべて成功させ、一個人の借金額としては古今東西の歴史上、前代未聞、空前絶後の額を残している。それでいて金を貸した側もカエサルに金を返せと言わせないのだから恐れ入る。
もうここまでくると宇宙人クラスの弁舌家だったと理解するしかなかろう。

こういう弁舌というものが示す潜在的可能性を認めているから重職者の選挙に一対一のディベートは必要不可欠なプロセスとされるのである。
それにしても今回の大統領選のようにテレビカメラの前で個人攻撃のディベートをとことんやり抜けるってのは、自分にはとてもできそうにない、という諦観めいた感想と、よくぞここまでやれるものだという呆れた感じの感想しか持てないのが正直なところだ。

まあ、そういうことは別にして、相手のあらゆる攻撃ポイントを探り、それをどんどんオモテに出すこのディベートで揉まれ込んだら、日本のようにスキャンダル発覚→辞任という流れはおそらく完全に無くなるのではないかと思うのだが。

ディベート文化、もっと日本で普及させた方がいいのかも。まず、口げんかはけんかではないので、どんどんやりなさいと、こどもたちに教育すべきかもしれない。


実は前回の記事を書いた時、この話をしようかな、と迷ったのだが、ま、長くなるからやめとこ、と話を切った。
ところがである。その記事を書き上げ、ブログにアップしてすぐに目に入ったのがこのニュースだ。


(Huffington Post ニュースより)
講談社が10月3日、ネット通販大手Amazonの日本法人「アマゾンジャパン」への抗議文を発表した。Amazonが8月から提供している電子書籍読み放題サービス「Kindle Unlimited(キンドル・アンリミテッド)」で、講談社の書籍約1000冊を一方的に配信停止したことへの抗議だという。

講談社以外にも、作品の配信を停止された出版社や作家がおり、Amazonに対して善処を求めて訴えている。

■Kindle Unlimitedとは?

Kindle Unlimitedは、月額980円(税込み)で、和書12万冊以上、洋書120万冊以上のKindle電子書籍が読み放題になるサービスで日本版では8月3日にスタートした。講談社もこのサービスに1000以上のタイトルを提供したという。

■スタートから1週間で作品が削除され始めていた

講談社の担当者はハフポスト日本版に対し、Amazonは8月、Kindle Unlimitedで配信ランキング上位に並んでいた写真集など「17作品を、連絡なく一方的に削除した」などと話した。『中島知子写真集 幕間 MAKUAI』『今井メロ写真集 Mellow Style』などが、この時に外されたという。

これについて講談社はAmazon側と交渉したが、9月30日夜以降には、文芸、ラノベ、児童書、実用書など、講談社の提供したタイトル全てが、Kindle Unlimitedで配信停止された。

朝日新聞デジタルによると、Amazonは一部の出版社と結んだKindle Unlimitedの契約について、次のように解説している。

複数の出版社によると、アマゾンは一部の出版社を対象に、年内に限って規定の配分に上乗せして利用料を支払う契約を結び、書籍の提供を促したという。ところが、サービス開始から1週間ほどで漫画やグラビア系の写真集など人気の高い本が読み放題サービスのラインアップから外れ始め、アマゾン側から「想定以上のダウンロードがあり、出版社に支払う予算が不足した」「このままではビジネスの継続が困難」などの説明があったとしている。アマゾン側は会員数を公表していない。
 
(アマゾン読み放題、人気本消える 利用者多すぎが原因?:朝日新聞デジタルより 2016年8月31日05時03分)

さらに、Amazonは9月に入りこの上乗せ料金をやめると、出版社に説明していたという。

ある大手出版社によると、さらにアマゾンは、9月で上乗せをやめ、「了解が得られない場合は人気のあるタイトルから、ラインアップから外していく」と通告したという。
 
(アマゾン読み放題、講談社などの全タイトル消える:朝日新聞デジタルより 2016年10月3日20時56分)

講談社はAmazon側に対し、「大変困惑し、憤っております。弊社はこの一連の事態に遺憾の意を示すとともに、アマゾン社の配信の一方的な停止に対して強く抗議いたします」などと、声明で訴えた。

Kindle Unlimitedについては、講談社だけでなく光文社も、提供していた全550作品の配信が停止されていた。

■「海猿」の佐藤秀峰氏も賠償を求める意向
なお、8月末に、それまで全巻販売されていた「特攻の島」「海猿」「新ブラックジャックによろしく」の4巻目以降がKindle Unlimited対象から外されたとする漫画家の佐藤秀峰氏は9月1日、「事前に承諾をしておらず、Amazonの独断によるもの」などとFacebookに投稿。9月30日には、アマゾン側に対し、賠償などを求める内容証明を送付したと発表した。

引用終わり

まあ、事実として特に問題にすべき齟齬は無いだろう。Kindle Unlimitedのシステムからすれば、たくさん人気作品を取りそろえたかったからその参加を促したものの、いざ蓋を開けてみると、それらの言わば、馬前のニンジンのような作品にばかり人気が集中し、肝心のKindle Unlimitedの仕組みを維持するためのバランスが大きく崩れた。とまあ、これだけの話である。……と、日本のマスコミもそして出版社も考えているんだろう。
ただ、問題はそれだけか? とあえて言えば、そもそもその人気殺到した理由は、既存出版社が作品の価格を馬鹿高く維持していたからで、まあ、会費以外が無料となれば潜在的需要が一時期に殺到するのは理の当然だ。そしてここでアマゾンの下した判断が面白い。会費を上げるあるいは無料をやめ値引きにするとか代替案ならいくらでもあったはずなのに、あっさりと、そして思いっきりバッサリとそういう人気作品を落としたことだ。当然ニュースにもなるし、こうなれば、Kindle Unlimitedの加入者の増加ペースも大幅に落ちるだろう。だがまるでそんな心配はどこにもありません、みたいな感じでばっさり、そしてあっさり、そして間髪を入れずにやってのけた。たぶん講談社などが心情的にムカっときたのはこっちだろう。自分たちが資産として持っているものの価値をいとも簡単に切り捨てたというそういうアマゾンの態度に腹が立ったのだ。
が、アマゾンの方は、いかにもこの会社らしく、全く悪びれた感じはない。いつもここはこうなのである。アメリカでも日本でも。何故そうなるのか。答えはそれが戦略だからだ、としか言いようがない。これが現代最先端のアメリカ式経営の姿だ。戦略、すなわち市場で勝ち残るための策略に則っていればOK、そうでなければ撤退。至って簡単、かつ合理的な意思決定だ。
では、アマゾンは本を売る、ということをどう見ているのだろう。以下は私の私見である。
現代のマーケティングで本、すなわちパッケージ化された情報を売る、というのは、ジャンル的に言えば、ブランド戦略という範疇に入る。というかもっともブランド戦略に特化した商品が本なのだ。モノとしての実態はもともとと希薄な存在である情報をいかに売るか、そのための方策がブランド戦略ということになる。
で、現代的に言えば、ブランドアソシエーションと呼べる、関連領域にまつわる情報の要素一つ一つに価値を設定し、それを公知にしていく、というのが本の出版ビジネスの常道だ。これは洋の東西を問わずである。
具体的にはその本のエッセンス的内容、著者、評者の評論、そして受賞歴、そういう本自体の周辺情報を濃く太く流すことで消費者の関心を喚起するのである。
そしてアマゾンの創設者ジェフ・ベソスはこのことをもっとも深く考えた人間の一人であると言って間違いあるまい。たぶん直感からなのだろうが、情報の塊であるところの本を売るのに、インターネットはもっとも理想的なメディアだと夢見た彼は、その理想に向かってひたすら突き進んだ。その様は少なくとも株式市場に上場されていた株価を見ていた限りはちょっと恐ろしいほどだった。ほとんどジャンク債並みの株価が延々と続いていたのだから。とにかくそんな無茶を続けながら、おそらく彼は従来の本とその本の売り方はネット時代の本流にはならないと見切ったのだろうと思う。そして同時にビジネスになる本というのは常に新作、つまり情報は新しいものほど価値があるという原則の上に立った独自の売り方を構築したのだ。
従来のやり方では、新作を売るには莫大な初期投資を行わないとダメだった。が、初期投資無しで広汎に広められるインターネットを使えばその大きな壁を越えられるのではないか、おそらくKindle Unlimitedの原点にある発想はこんなものだったはずである。

引用した記事には触れられていないが、二つの点には留意する必要がある。
まず私のような無名作者がKindle Unlimitedに参加する場合、アマゾンに独占販売権を与えることが条件とされる。もちろん記事にあるような出版社にはこの条件は最初から適用されていない。
そして現在のアマゾンの本の販売方法を見る限り、従来の出版社が熱心に行ってきた販促活動的なもの、いわゆる評論家の起用とか、賞の創設や運営などそして既存の賞についても異常なほど冷淡に見える。
これらは先述の基本的な戦略の違いと理解すると非常によくわかる。決してアマゾン本体は自分からそんなことを言うようなことは無いだろうが、全ての出版社はビジネスパートナーであると同時に、倒すべき競争相手と認識していることは間違いない。そのための戦略なのだ。

その言わば底辺にある意識がたまたま露骨に現われたのが今回の事件の本質だ。つまり著名な既存作品をKindle Unlimitedの目玉にするつもりはアマゾンには元々無かったのである。まあこれは先行しているアメリカ市場のことを考えれば一目瞭然の話だが。彼の地ではこの戦略はほぼ狙い通りの結果を出していると言っても言い過ぎではあるまい。電子本から ベストセラー作家が次々と生まれるとなれば、既存の著名作品を優遇する必要はないし、出版社は出版支援サービスという立場に引きこもるしかなくなるのである。
因みにこういう結果を生んだ直接の原因は何だったか、と考えると、要するに著者と出版社を分けることにあると言っていいだろう。出版社ってのはしょせん仲介者であり、仲介者が組んだら利得は減るのは当たり前だ。エンドユーザーと作家が直接コンタクトされると困るのは常に仲介者なのだ。仲介者の勝率は低いのである。もちろんごく一部には既存の出版社と組んだ方がいいという作家もいるのだろうが、大半はアマゾンと組んだ方が得となるはずだ。つまり人気のある作家もいずれアマゾンへ移動することになる。

こういう認識に立つと、日本の出版社のこれまでのビジネススタイル、賞を運営し、評論家を押さえ、新刊をハードカバーで売り、それを文庫化して売り、さらに関連商品にライセンスを供与して売るというスタイルはかなり難しくなると思って間違いないだろう。出版社の生き残り策を考えると企画自体から自社で作り取材し検証するメディア的存在とか、周辺情報管理とその発信に特化した広告代理店的存在とか、第三者的格付け機関的存在ぐらいしか思いつかない。少なくとも従来のようなビジネススタイルをあえて貫こうとすれば、作家をどれだけ出版社は各種サービスで納得させられるのか、に相当依存することになるだろう。となれば、今までのつきあいが相当深かった大物ならともかく、これから登場する、あるいは未来の新人にそれを期待するのはかなり難しいとなりそうである。

私としては、作家が「書きたいものを書かせてもらえない」という嘆きが100%消滅することはほぼ間違いないのでアマゾン側を応援したいと考えている。
そういうことは出版社が決めることじゃなくて、もともと作家か読者が決めることなんだよね。



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