Symphony Fantastique Proving Ground



一色強兵の憂鬱

Symphony Fantastiqueを立ち上げた当初は、自分同様自作の小説をネットで公開している人の小説を結構読み漁ったものだが、そこにはあんまりマーケッティング的な関心はなく、もっぱら楽しむためか、あるいは自分の小説づくりの力量を上げるための勉強的な意味あいで読んでいたものだ。
で、時は流れ、いつの間にかそういうふうに他のアマ作家さんの作品を読み歩くこともなくなってしまったのだが、アマゾンサイトにそういうアマ作家さんの作品が集結しているのを目の当たりにし、また読んでみようという気持ちがよみがえった。ただし、今度はいささか動機が違う。もっとマーケティング的な関心からだ。つまりライバル社の偵察って感じである。
まあ、こちらの関心はS女さんメインのSMものというところにあるので、もっぱらそういう作品ばかりを選んで読むことになったのだが、結果からいうと拍子抜けするほど、自作品とは作風が違うものばかりで、これなら全然自作品の個性が埋もれるということは無さそうだとひとまず安心した次第である。

まあ読めたのはほんの数作品だし、それこそ氷山の一角だけしか読んでいなくて断定するのも時期尚早なのだが、同じS女ものとはいえ、他の人の作品は一言で言えば「マニア向けのもの」であり、私のものはそうではないというぐらいの差が感じられたのである。

これはキャラの設定を眺めればだいたいわかる。このジャンルに登場するヒロインは美人で背が高く、聡明、万能な能力や権力を有すると、「理想の女王様」を体現した存在として描かれ、そしてヒーロー(こう呼ぶべきかは疑問があるが主人公を張るM男のことだ)は、体は小さく、目立つ要素は何もなし、ひどい場合には社会的落伍者そのものという設定ばかりなのである。
一方、私の描く小説ではこんな設定は使ったことがない。まあ「涼子のリョウくん」がそれに近いといえば近いが、それだってリョウくんが落伍者的に見えるようには書いていない。いや私からすればそんな風にはとても書けない。一つには私はSMってのはラブロマンスの一形態だという立場をはずしたくないというのがあるし、犯罪行為こそがSMだという立場をよしとしていないということがあるだろう。
たぶんマニア受けしないのだ。
設定にこういう差があるとなれば、中身も当然それに対応するように、初めから終わりまで責めの連続だ。それ以外の人生はどこへ行ったというぐらい何もない。いやいくらなんでもSMプレイばっかりで人生は過ごせないだろ、少しは人生を書けよなどと私は思うのだが、そういう無駄はどこにも無いようになっているらしい。さすがマニア向けだ。

で、こういうことは今から十年前とあんまり変わっていないともいえる。
これだけSMに対する社会認識が緩くなり、子供でも知っているような知識になったのに、いまだにSM=犯罪という作品ばかりであることが、私にはよほど予想外のことだった。
とはいえ、しょせんは他人の趣味の話である。私はそれがけしからんなんてことを言うつもりはないし、言える立場でもないことは重々承知している。が、あえて言えば、非常に寂しいなという感じもする。ライバルいや仲間不在の寂しさってことかな。

だから、私としては、私同様、いわばマニアではない普通の人向けのSM小説を書こうとしている人を応援したいぐらいだ。

因みに英語の方のキンドル本で同じようなチェックをすると、事情は全く違う。たぶんリアルにS女さんがS女さんらしく生活していることが頻繁にあるからなのか、S女さんの生活実態が見事に描かれた作品が少なくない。
日本語小説ではマニア向けの妄想のSM小説が支配的なのに対し、英語小説ではSMも一般小説のラブロマンスの一分野にちゃんとなっているぐらいの差があるようだ。

アマゾンのようなサイトで様々なエロ小説がずらっと並んでいるのを見ていて、自分の作品がどう見えるのかを検証すると、結局のところ「表紙」ってもんが相当重要なんではないかと思い至った。まあ、当たり前っちゃ当たり前だが、この電子本にとっての表紙、紙の本の表紙と同じように考えていいのだろうか、とふと疑問に思った。

アマゾンサイトで売られている本はキンドル本ばかりでなく、もちろん紙の本の販売もしている。だから紙の本が本体として存在し、その電子本版だからという例で表紙絵も紙の本のものがそのまま使われる。たぶんこれが一番ベースにある考え方なんだと思う。
なので、一応紙の本での表紙とは何かを考えておこう。

紙の本では、表紙っつうのは、情報伝達以外の機能、つまり人間の所有欲に密接に関わるような「価値」ってのが絶対必要だと思うのだ。つまりセンスや色遣い、あるいは手触り、風合いとか、本来の情報とは直接関係無いところでの冗長的要素が不可欠なのだ。特にそれが小説とか文化に関わるものならば。
それはたぶん本という物質的存在に対し、人が認める価値を正しく認識させるためにそういう屋上屋みたいなものが絶対必要だ、と誰かが考えたのだろう。それが具体化したものが装丁であり、その中に表紙というパーツが生まれたんだと思う。
装丁全体が表現する価値、すなわちそういうところに懸けられた目に見える形に整えられた手間暇こそが、未知の本の価値を人に推し量らしめる、こんなことに先人達は気がついていたのだろうと思う。

そんな暗黙の知を悪用した例もある。
一昔前、政治家もどき、あるいは非合法的生業に特化した団体の資金集め手段の一つとして「本の出版」ってのがあった。つまり本を作りそれを売ることでお金を稼ぐというものだが、これ自体が言わば法律をかいくぐるための方便で、奥付にありそうな情報以外、さしたる内容のあるページはなく、中にはほとんど白紙ってのだってあったようだ。重要なのは価格が明示されていたこと。そこに600万円なんて印刷されていれば、それは600万円のエビデンス付きの領収書と同等の価値を持つものとして、税務署は処理せざるを得なかったわけだ。どんな中身であれ、それを買うのはおかしいとは、誰にも言えないのだから。しかも図書購入費ってのはだいたいの場合、経費として正当に処理できるのである。それこそがこの本の存在した理由だ。つまり金づるに金を出しやすくする工夫というわけだ。
で、この手の本に中身などあるわけもなく、どっかに申し訳ないという気持ちが誰かにあったのか、見た目だけは豪華本みたいな装丁がされているのが当たり前だった。もっともこんな本は、本屋や図書館にあるわけもなく、金づるにされた団体や会社の総務部の倉庫に税務監査の時に見せるためだけに保管されていたはずだからほんとハッタリもいいところである。まあ中には役員室のインテリアとして本棚に並べられるケースってのもあったかもしれないから、まあそういう場合には、装丁に金をかけるってのは結構合理的なことだったのかもしれない。
いずれにせよ、経営を資産効率で評価する時代になり、こんな馬鹿なことに乗っかる企業はもうほとんど無くなっただろうとは思う。(いや、100%とは言い切らないけどね)

さて紙の本の表紙が本という情報の価値自体とはやや離れた価値観で考えられたものであるのに対し、電子本の方の表紙はもっと宣伝的、広告的、アイコン的存在である。
そもそもインターフェースとして存在するのは視覚情報だけ。手触りや材質なんて見た目要素でしか表現できないし、金箔をどんだけ使いましたなんて話もできない。さらに大きさはサイト指定の大きさに限定されるようなものである。まあ、無理矢理拡大して見るってこともできなくはないが、普通やる人はいないだろう。
そして表示範囲も他の本との横並び枠の中だけだ。このことはつまり、人間の可読できる範囲を極端に制限することになる。だからこの点で言えば、紙の本とその電子本バージョンの両方が存在している場合、紙の本の表紙を電子本にもそのまま採用するのは情報伝達技術から言えば、愚の骨頂ってことになる。表紙に盛られた大半の情報はモニターの上ではごく僅かしか読めないはずだからだ。ただ、例えば紙の本を売るために大量に広告が投下され、そのキービジュアルとしてその表紙が使われている、なんて場合なら、電子本にも同じ表紙を与える合理的な理由とはなりうる。
そう、電子本にとっての表紙は、アイコンなのだ。その本の内蔵している価値観が分かる、そしてどういう名前でそれは呼ばれたいのかという名札(タイトル)がついたアイコンそのものなのだ。たとえばグラフィックデザインで紙の本をデザインして、それがかなりいいものだったとしても、それをこの特定の視覚領域に限定される電子本の表紙にしたら、デザイナーが観察者に伝えたいと思ったことの半分も伝わらないってことになるだろう。紙の本では読者がそれを観察するための工夫をする余地がいくらでもあるが、電子本の表紙ではこれがほとんど無いのだ。故に、表紙に載せる情報を相当厳選し、小さくてもどれだけ判読ができるかをかなりシビアに見ておかなければならないようだ。
てなわけで、私自身も結構気にして表紙を差し替えたりしているわけだが。まだまだいろいろ甘いんだろうなって自覚しているところでもある。
まあ、世の中わかっちゃいるけど、ってのが世の常で、古い作品なんかは紙の本の電子本化で、表紙を変えるなんて言い出したら、それこそ、著作権利者の調整をもう一回やり直しなんて話が出そうだから、コトはそんなに簡単に進められるわけはないのだが。プロ作家、出版社の世界はかなり面倒くさそうである。



こんなメールが来た。


「Kindle ダイレクト・パブリッシングをご利用いただきありがとうございます。

KDP セレクト グローバル基金の 8 月の金額は 16 億 1,797 万円となりました。

この 8 月も、米国、英国、およびドイツで最も本が読まれた著者の皆様、および最も読まれた本を "KDP セレクト オールスター" として表彰いたします。すべてのボーナスは、該当する月に読まれた Kindle 版の本の合計ページ数を標準化した値に基づいて支払われます。さらに、子供向け絵本のボーナスを新たに追加します。米国で最も多く読まれた上位 100 冊と、英国での上位 25 冊にボーナスが支給されます。」

日頃国内だけでのランキングに終始している世界にいきなり現われた黒船みたいな話である。
なんかとんでもないもんに関わっちゃったなー、って感じ。まあ、グローバル展開をしている方からすると、どこで売れてもいいわけで、プロモーションに国境を設ける方が遅れてるってことなんだろうけど。
日本語の本が日本以外でどれほど売れるのか、なんて悩むのも馬鹿らしいが、こういうのを見せつけられると、やっぱ英語で本書けるってのはすごい強みだよなーなんて思ったりする。

もっとも言語別の人口で言えば、中国語には誰も勝てないはずなんだが、アマゾンの世界では全く存在感を感じない。中国人ってのは本読まないのかね。

ま、こんなはるか天の上のような話はともかく、こちらとしては、同じページにその道のプロ作家さんたちの作品が並んでいる中に自分の作品が並んでいるのを見るだけでお腹いっぱいなんですけど。

アダルトの小説コーナーに並んでいるものの大半はどうやら私のようなアマ作家さんの作品のようだ。それも何故か大半がSM絡み。最近はアダルト小説ってのはSMじゃなきゃいけないのだろうか。もはや純愛はいかに中身がエッチでもアダルトではなく普通の小説になってしまうのかい? なんか奇妙な気もするが。まあ何にしても昔だったらネットサーフィンを繰り返しながら好みの小説を探したものだが、プロアマ入り乱れ、そして有償・無償入り乱れている様はいろいろな意味で感慨深い。なかでも価格情報ってのは斬新だ。アマゾンのシステムでは価格もある意味変動相場制なのだ。つまりタダの時もあったりするのである。それはいろいろなタイプの条件があっての話だが、その昔、有償と無償の作品の間にはすごく大きなギャップがあって当たり前と考えていた時代を思い浮かべると、何をやっていたんだかと呆れてしまう。値段なんてその程度の話だったんだって。

いかに自分が日本の本屋さんたちの作り出していた常識に縛られていたのか、改めて思い知らされた次第。

前にもちょっと書いたことがあるが、欧州を中心としたサッカービジネス市場にとって4年に一度開かれるワールドカップっていうのは、いわばセリが行われる前の大品評会みたいなものである。資本力に優れたビッグクラブがその後の四年間の主力選手を入札するための大事なイベントと言えばいいだろう。
セリにかけられる選手の目玉はやはり南米を中心とした国々から次から次へと出てくる若手だ。10代もたくさん居る。というか、セリで押さえるべき選手はワールドカップ後の四年間の活躍を期待されているのだから、極端な話若ければ若いほどいいことは間違いない。年齢を重ねた選手ならわざわざワールドカップを待つまでもなく、データだって大量にあるし、調子の悪い時とか、契約の端境期にうまく立ち回れば存外簡単に押さえられる。だから国代表という肩書きは、ビッグクラブに入ったらあんまり必要ではなくなるわけだ。そういうふうにお金が回っているのだから。なのでまだ代表入りしていない選手こそが自分の未来と国の威信のダブルブースターを背負って名乗りを上げる場面こそ代表の試合にふさわしいということになる。そういう底辺のハングリーさが無くてはダメな世界だ。
つまりワールドカップというのは新鮮で大化けしそうな才能に恵まれた若い素材が集う場所であるべきなのである。そうでなければウルトラCの結果なんか絶対にない。サッカーに限らず、歴史を見ればハンニバルやアレキサンダーだってものすごく若くして世界デビューを果たしている。
昨日までは無名だった若者が一夜にして世界的大スターになる、これがワールドカップだ。

で、こんなイメージで見た時、ハリルジャパンというのは何と「満足した」選手ばかりを集めたものなのだろう、という感じがしてくる。もしかしたら、日本全体があんまりサッカービジネスには向いていないのかもしれないのだが、とにかくハングリーには全然見えない。そりゃ、もう「成功者」のカテゴリーの選手ばっかりにしか見えないんだもん。なんで、代表初選出の選手が控えなの? なんでJ3とかJ2下位とかから意表をついて抜擢されるような若手が一人もいないの? なんで成長真っ只中にいる若手に賭けないないの? もう自分の地位に満足しきっているような選手ばっかりなんで選ぶの? チームが勝っても負けても自分の問題とは別、みたいにもうなってる選手は代表にはふさわしくない。どんなに技術や体力があったとしても。そういう選手は所属するクラブチームの中でのレギュラー取りの方がずっと大事なはずだからだ。

とまあ、こんな感じで選手選考を見ていた私は、UAE戦のTV中継を、全く見る気も起きなかった。
ま、自分の見方を自慢したいというわけではないんだが、結果はやっぱり想像していた通りだったらしい。
何かと過去のデータ重視で選手を選ぶのって、リスクは小さいかもしれないけど未来もまた大したこと無いんだよね。回りがいろいろ言い過ぎなんだろ、きっと。

ていうことで、テレビを見なかったおかげで、必要な作業ができました。「ドミナのみぞ知るセカイ」もキンドル版へ移行です。


pdf本に替わるキンドル本なのだが、いろいろ試した結果、私が選択した制作方法をご紹介しておくと、一太郎の利用だ。一太郎と言えば、日本語ワープロの老舗ブランドなのだが、この最新版にはなんと、原稿をキンドル本に出力してくれる機能が備わっているのである。
しかももともとの一太郎の優れた日本語表現能力をちゃんとサポートしてくれているのだ。つまり最終草稿を一太郎でくみ上げると縦書きであろうと何だろうとほぼそのままの形でキンドル本に出来るわけだ。
私はもともとはずっとWORD使いだったので、一太郎自体を自由に使いこなすこと自体のハードルの方がキンドル本変換よりもずっと大変だったのだ。
ちなみにアマゾンサイトでお勧めとされるキンドル本の作り方では、WORDを使うことを推奨しているのだが、これ、全然縦書き日本語のことは考慮していないのである。紹介されている変換プロセスが縦書き日本語未対応なのだ。当初手持ちのWORD原稿がそのまま生かせそうということですぐ試したのだが全く満足のいく結果は得られなかった。で、次はテキストエディターなんかで直接制御文をいじったりなんかもしたのだが、作業性が悪すぎて話にならず。そんな時にたまたま一太郎の広告に、キンドル本の出力可能という文字を見つけて思わず購入し、一太郎の使い方をどうにか覚えて出版にこぎ着けたという次第である。
だが、まだまだマスターしたとは言えず、段落の制御なんかいまだによく分からないところがあって、とにかく毎回毎回おっかなびっくりでトライ&エラーを繰り返しながら、なんとかまともそうな体裁が出てきたので出版したわけだが、当然作品毎にその出来上がり具合はバラバラである。何が悪かったのか少しずつ要領が分かってきたところだがやっぱり最初に手がけたものは字の位置なんかがところどころ変だったりする。まあ、WORDにしたって、小説を書き始めた最初の方は、あんまり機能がよく分かっていなくて、結構デタラメをやっていたのが、その後いろいろなことに気がついてで、自由自在に扱えるようになっていったわけだから、買ったばかりの一太郎をすぐに自由自在に使いこなせるわけもないのだが。
幸いというか残念というか、キンドルは日本語フォントの選択がほとんどできないに等しいので、ワープロの一番おいしいところを余すことなく使う必要がないってことに助けられているんだけどね。
というわけで、ジャストシステムの一太郎、これからキンドル本出すんなら絶対コレがお勧めです。

キンドル本の出版手順にまだ慣れていないせいで、アップしてはミスを見つけて手直しをして、というような作業をこの3日ばかり集中して行った。契約の中身やらサイトの構造なんかについては、いままでおつきあいをさせて頂いた電子本販売サイトとの経験があったので、だいたいは分かっていたつもりなのだが、やはり根はアメリカの会社なんだね。表現が日本語になっているだけで中身は完全にアメリカ型契約社会だ。
ま、そっちの方がいろいろ分かりやすいし、ムダな詮索や疑心暗鬼にならずに済むようにも思えるからそれが悪いことだとは思わない。
そして、驚くべきはアクセス数だ。別にアクセスカウンターを仕込んでいるわけではないのだが、ミスに気がついて修正するために再アクセスしたら、もう販売実績が出ている。
うちの本家サイトで無償公開してる時だって、修正段階でカウンターが動くなんてことはそう無かった。巨大サイトの実力を思い知らされた。すげえな、アマゾン。
もっとも、私はアマチュアだし、これでお金をどっさり儲けようなんていう気はさらさらなく、うちのパソコンと通信費関係のコスト分の一部でも回収できたらいいな、程度の期待しかしていないので、ロイヤリティ率は35%、お値段はよそさんから見て迷惑にならない程度の安目設定にした。
ちなみにアマゾンの規定では65%のロイヤリティプランも選べるようになっている。この辺の考え方、日本のサイトでは結構アバウトで、作者に全部お任せのところもあれば、一本しか選べないところ(たいてい50%固定)のどっちかしかなく、何故こういうふうになっているのかちょいと理由を聞いてみたいところだ。
で、ついでにもう一つ値段についてお知らせしておくと、設定価格は基本ドル建てである。ドルの数字を入れると世界各地のアマゾンサイトでの価格が為替レートに応じた価格で表示されるという仕組みだ。これを嫌って日本だけの固定価格にするオプションもあるのだが、私にとってはどうでもよかったので世界同一価格体系に乗っかった。だから円安ドル高になると日本サイトでの本の価格はちょびっと上がるだろうし、円高ドル安に触れれば本の価格はちょびっと下がるはずである。
ところで電子本リーダーでは時々名前の出るkoboを擁する楽天のことにも触れておこう。こちらは楽天がkoboを買収し傘下に収めたわけだが、傍目から見るとアマゾン対策にしか見えない。だからアマゾンのやることをマネしてるんだろうな、と思っていたらさにあらず。どうやら完全日本型出版社の、おそらく最後の牙城のような感じに見える。つまり私のような個人出版なんて絶対に入れないという感じだ。
プロ作家の供給する有名作品だけでみんな必ず満足できるはず、という自負なのか、奢りなのか、はたまた勘違いなのか、よく分からないものがなんとなく透けて見える。だからアマゾンのように、販売されている商品に対するコメントが豊富ということもない。非常に日本的である。一方のアマゾンの方は、もう説明も不要だろうが、アメリカの草の根民主主義的な何でもアリの豊富なコメントが、サイトの看板というか魅力になっている。
はっ、待てよ。ってことはうちの作品にもいろいろ書かれたりするんだろうか? という期待というか不安がある。今まであんまり考えてこなかったのだが、こういうレスがあるのって、多少こっちにメリット的なものはあるんだろうか。まあ「作家でごはん」さんのような突っ込んだコメントが出てくるとも思えないけど。
それに、書いたばかりのものならともかく、もうかなりの時間が経ったものばかりなので、何を言われても自分の記憶がそもそも曖昧になっているという危険の方が大だったりするのだが。

だけど見たいな、コメントが。ってことで、エサ増やしました。
「秘められた絆」三部作も新たにアマゾンへ移行させましたのでよろしく。

Symphony Fantastiqueというサイトと一色強兵を誕生させた当初、世の中ではネットで公開される小説と言えば、ブラウザーでそのまま見るものが当たり前のものだった。
が、この方式は私からすると小説という知的財産物を管理するにはあまりにも無防備に過ぎ、これでは自由自在に盗作して下さいと言っているのに等しいように思えた。さらに、当時のブラウザーが取り扱えるHTMLは横書きだけで、正規の日本語の書式である縦書きをサポートしていない、ということも耐えがたかった。
で、手近にやれる対策として始めたのが、pdfによる電子本化である。電子本と言ったって甚だ不完全なものだ。なにしろ元々はpdfは紙の印刷イメージを残すための電子化フォーマットである。だから画面の大きさや文字の大きさを読み手の都合に合わせて変える度にレイアウトが変わるリフローなんてことはもちろんできない。それでもウィンドウズ機の通常のモニターで使われるフォントに比べれば遙かにしっかりしている印刷イメージのフォントで作られる縦書きの日本語は見た目にも読みやすく、いかにも小説を読んでるっていう空気がしたので、いろいろと批判を受けつつも、今までこれを維持し続けてきた。
だからアマゾンキンドルがアメリカで発売され、それが全米市場を席巻した時、私が次に手がける作品フォーマットは絶対にキンドルになると確信し、その発展を注意深く見守ってきた。
が、これがなかなか思うようなものに育ってくれなかったのである。日本語を取り巻く環境が整う以前に、英語版のキンドルも当初はいろいろと課題、問題だらけだったからだ。それらは単に技術ということだけではなく、様々な規格の乱立と淘汰、そして改良と競争いう時間の掛かるプロセスを経て、ようやく個人が日本語縦書き本を出版できる環境が整ったのである。もっとも最後の最後、実際に一番時間が掛かったのは、他ならぬ私自身がキンドル本出版するために関連するソフトの知識を蓄積し、それらに習熟することだったことは間違いない。
こうして長い時間が経過するうち、世の中も大きく様変わりした。もはや電子本はPCで読むものではなく、スマホを中心とするモバイルデバイスのコンテンツの一つという姿が主流になったわけだ。だからpdfの本はそっちの意味でも時代の流れからは取り残されたものになっていたと言っていいだろう。
テレビがネットの動画中継に押され、存在が希薄になりつつあるのと同じである。
というわけでもうネットでSymphony Fantastiqueを維持しても世の中の基準ではあんまり意味は無いんだろうなとは思っているのだが、これが愛着というかなんというか、やめられないんだよね。リアルワールドだったら、遺構というか遺跡というかそんなものが何かしら残るんだろうが、サイバーワールドでは文字通り跡形も無く消滅しちゃうってのがね、なんかいたたまれないのである。
ホントはキンドル本が出せるようになったらもうやめよ、なんて思っていたのだが。

が、Symphony Fantastiqueの次なる一歩、キンドル本への進出をだからと言ってやめるワケにもいかないのである。ホントは最初っからこういうふうになればいいな、と思っていたのだから。

というわけで、キンドル本として以下の作品をアマゾンから出版してみました。新作ってわけじゃなくてすみません。とりあえず、こっちの習熟目的です。
「奴隷の絆」「ハイエナはブルースをうたう」「涼子のリョウくん」「ご近所づきあい」

フィクション、つまり小説とかアニメとか、実際に無かった架空の物語を描こうとすると、一番手っ取り早い創作手法は現実の一部「ストレッチ」することだ。ストレッチ、つまり拡大とか拡張とかの意味だが、現実を99%描写しつつ、残り1%だけ現実では起こりえないほど、とある部分を拡大、拡張するのである。
格闘があるシーンでは、例えば人間のジャンプ能力を通常の10倍あると設定するだけで、格闘そのものの様相は現実では絶対にありえないものとなる。
そんなファンタジーがあるから小説やアニメは人々を惹きつけるのだが、一方、これも連作とか新展開とかで新キャラ登場のたびに同じ手を使いすぎ、もはや1%どころの話ではなくなると魅力を感じるよりも、ああまたかとマンネリ感に見舞われることになる。
多くのファンに飽きられ、一部の信者からの、ええけげんにせえよ、ワレ、という殺気を感じられない、空気を読む能力に欠けた作者やカントクがいかに多いことか!
まあ、彗星のように現われ彗星のように消えていき、二度と顧みられることのなかった人がいかに多いかと考えを巡らせるだけでこの事実は十分肯定されよう。

この人達に欠けていたのは空気を読む能力だけではなく、根本的なところで人間の感覚を誤解というか、正しく理解していなかったということもあるような気がする。

中庸なんていう仏教の用語があるが、これって結構人間の本質をついてると思うんだよね。
たとえば、かゆみというのは微弱な痛みであり、故に痛みを感じるとかゆみは感じられなくなる。だからかゆいところを噛んで痛みにかえようとする子は後を絶たない。と、このように、人間の感覚ってのは程度案配にものすごく敏感で、ロボットだったら同じ成分の刺激なら全て同じ反応を示しそうなところでも人間ってのは、その程度で反応が真逆になったりする生き物なのだ。
同様に料理アニメの多くはそう描いてはいないが、「うまそうな香り」も濃度が上がると「耐えられないほど臭いニオイ」になるし、旨みだって、濃度がやたらあがれば「刺激が強くてとても口にできたもんじゃない」ってことになる。またいろいろなものが混ざれば特別な味は平凡な味へと変化する。もはや舌の分析能力を超えてしまうからだ。
かように人間が正常な判断、行動を示せるのは、それが可能な環境ってのがあるかないかってのが非常に重要で、そこが大きくぶれると、同じ判断でスタートしたはずなのに、行動が真逆になったりするのは当然なのだ。
たかが感覚の話というだけではない。人間の精神活動ってのはこの頼りない感覚の積み上げの上に成り立っているだけに事実はとてもやっかいなものなのだ。

重度の知的障害者が今のこの日本でどんな日常を送っているか、なんて気に留めたことも無かった。
が、たぶんそこに首をつっこめば、きっと普段の自分が正しいと信じている常識のいくつかは否定されるのだろうということもおぼろげながら感じる。通常の善悪判断なんてたぶんもともとその程度の脆弱なものなんだろう。

今回相模原でおきた事件報道に触れ、彼の障害者を殺傷したいという思いとその行動は、知的障害者の生活を実際に見てそれに触れたせいで感覚がおかしくなり、結果的に正常な判断を失ったのではないかと思うのである。
人道主義とか道徳あるいは一般的な善悪判断を語ることは簡単だ。が、それで全て片付けられるほど、世の中は甘くない。知的障害者の描く絵が多くの人々に高く評価されているとか、パラリンピックなどの価値はまだまだ普遍的に評価されてはいないとかそういうレベルの話ではない。そんなプラスの話だけではなく、この事件は日本社会の見たくないものに目をつむるという悪習ともいうべきものが背後にあることを示唆している。
そう、障害者を学校などや企業のさまざまな場面から隔離していることの弊害の一つだったのかもしれない。

このことは、障害者の生きる価値ってのをつきつめるとそれは健常者の生きる価値と同義になる、ということを世の中はまだ積極的に正しく肯定してはいないことを意味する。
これは障害者に対し必要な保護は「社会的必要悪」というように映りかねず、まさにヒトラーの発想と大同小異になるのではないか。

その行動について全然悪びれていないように伝えられている犯人はいったい何を見たのか。単なる麻薬の中毒妄想患者であって欲しいと思うのは私だけだろうか。

誰の発明かは知らないが、実に言いえて妙の言葉である。
具体的な案件には一切言及せず、それでいて、なんか、胸の奥のつかえが一気に取れる表現だ。
まあ、もともと外国人との交流は大なり小なり価値観の不一致ってのは起こって当たり前なのだが、そこに「基本的」なんていう言葉を付け加えるだけでこれだけインパクトが変わることを発見した御仁には改めて祝意を申し上げたい。
異文化の理解ということほど難物なものはない。実際、これほど世界のあらゆる情報がネットを駆け回っていてもわからんものはわからんのだ。
その端的な例は料理である。
自分の周りの人間、ほぼ全員が喜んで食べている中、なんで、これが食べられるの?という疑念を抱え、目の前に出されたものの処分をどうしようかと悩んだ経験を積んだ私からすると、世界の人と必ずわかりあえるなんて言っている人は世界を知らないに違いないと断定せざるをえないのだ。
ネット上では結構ちやほやされているかのように見える寿司だって、食べられない、いや嫌いな外国人は多い。生理的に受け付けないらしい。同様に、南西アジアのスパイス多用料理や塩分マックスの北欧料理などは平凡な日本人には絶対耐えられないはずだ。まあ、日本国内にだって、新島のくさやとかいろいろ物議をかもす食材があるんだから。
いや言葉を変えよう。世界から見て日本ほど食材がトチ狂っているように見える国はあるまい。
何しろ猛毒のフグですら食材にした国である。外国では売買だけでも重罪になりかねないシロモノだ。
ま、もともと国、いや人ごとに価値観なんて違っていて当たり前なのさ、ということが分かっていればいいのである。
ところで気になることがある。それは料理を題材にしたアニメの中で、劇中で料理を審査する審査員の反応の描き方があまりにも一様すぎるということだ。実際には、Aさんーうまい、Bさんーうまい、Cさんーうまい、Dさんー激マズってな状態がしょっちゅう起こるのに、アニメの世界ではいっつも全員同じ評価だったりする。
まあ、アニメ作品に出てくるような料理がもし現実にあったとしても、そんなにおいしくはなさそうだから、もうこれはフィクションと割り切るべきなのかもしれないのだが。
肉はね、A5肉がおいしいっていうよりも、A5肉は誰でもできる簡単な調理でおいしく食べられますってだけなんだけどね。A5肉じゃない肉を使ったおいしい料理なんていくらでもあるよ。

私はスマホ使いではなく、PC派、それもバリバリのデスクトップ派だ。大画面、複数画面バンザイ、椅子に座りキーボードがあってこそのPCという、今の世ではもう旧世代型の人間である。
目下、私がプライベートで使っているPCは二台あり、一つはもう、PCと言うよりもホームオーディオ、つまりネットラジオやユーチューブをレイドミュージックとして流すためのものになっている。
こちらはもともと秋葉原で安く売っていた32ビット2コアの中古のメーカー機をあれやこれやと改造を加えた上でOSをwindows7に入れ替えたものだ。低コストの手抜き品の割りに、すこぶる調子が良く、音楽以外にも結構重宝している。
で、もう一機の方は、2013年に完全にゼロから自作したフルタワーケースに入った大型の、64ビット4コアにwindows7を組み込んだものでPCを使うほとんどの作業は基本はこちらを使っていた。
ところがである。両方とも同じwindows7と言いながら、使い勝手が全然違うのである。それも手間暇かけた64ビット機の方が何かとトラブルを起こし、何をやらしても妙に遅く、さらには時折りマイクロソフトから半ば無理矢理強制されるアップデートに至っては、いつまで立ってもアップデートが終わらないというぐらい長い時間がかかる。さらには起動時間がものすごく長い。まあ、これは搭載しているデバイスの量が違うから仕方ない面もあるのだが。
とにかく32ビット機はイライラするようなことはまずないのに、64ビット機はもうイライラ製造器になり果てていたのである。
無論、OSが同じwindows7と言っても、32ビットバージョンと64ビットバージョンは、操作する上で外見が同じとは言え、本来は別物である。32ビットと64ビットではマシン語が全然違っている以上、その性能差があってもちっともおかしくはない。つまり私の僅かな体験で大胆に言い切ってしまうと、windows7は32ビット版は名作かもしれないが、64ビット版の方は駄作もいいところなのだ。

で、例によってイライラを募らせていたある日、遂に切れて、windows10に変えることにした。windows10がどんなOSか分かったもんじゃないが、今の状態よりはマシなはずだろうと勝手に信じることにしたのである。当然32ビット機の方は手をつけない。変える理由が今のところ無いからだ。まあ、64ビット機のwindows10が快調で、両機の操作性の差が気になり出したら変えてもいいとは思うがとりあえずは64ビット機を何とかするのが最優先課題だったワケだ。

だいたいOSを変えていい思いをしたという記憶はあまりない。ずっと昔のXPを導入した時ぐらいのものか。動かなくデバイスが出る、ソフトが出る、ファイルが無くなっている、お気に入りの機能が消滅している、プログラムを新OSに適応させるために出費が増える、作業が増える……とロクな目に遭っていない。それでもOSを入れ替えないとどうにもならないという瞬間はあるのである。で、今回はその時だと判断したわけだ。というか、いろんなリスクをまるごと受け入れる覚悟を決めたと言うべきか。

で、その結果である。windows10の64ビットは名作のようだ。ストレスメーカーの汚名を見事にはらしてくれた。やはり64ビットマシン語に対する習熟度ははるかに改善されているようだ。別に私はwindows10のウリの一つである、画面タッチなんかは使っていないし、その為にモニターを入れ替えてもいないのだが。今までのキーボード、今までのハード環境を維持している状態では、windows10の方がずっとスムーズだし、反応も格段に早いし、ストレスも無い。
懸念だったOS変更によるハードやソフトの無効化は今のところ実害と言えるものはない。プログラムは動くものの、挙動が同じにならないというものが一つ見つかった。どうも画面タッチ制御の関係で表示関係のコントロールが同じではなくなっているらしい。今まで問題があり対応を迫られたのは、ウィルスバスターとATOK、それにビデオプログラムの一部ぐらいだ。この程度なら予測を大幅に下回ったと言っていいだろう。

入れてみて初めて分かったことで驚いたのが、winnyと同じ技術が使われていること。winny、そう、あの物議を醸したファイル交換ソフトである。但し、交換されるファイルはwindowsのアップデートパッチのみだ。つまり、膨大な数のウィンドウズ機のアップデート対応に、さすがのマイクロソフトも音を上げているということのようだ。そのため、アップデートを提供するサーバーの数を増やす代わりに、windows10インストールマシン同士をノードとしてファイル交換ソフトでつなぎ、新しいアップデートファイルをノード間で横流しさせるというやり方を取ったようだ。逆に言えば、この機能があったからwindows10の普及速度を速める必要があり、そのためのwindows10の無償提供ということのようだ。windows10のマシン数が増えてくれないとアップデートサーバーの負荷は下がらないのだから。なろほどね、こういう使い方もあるのかとちょっと感心した。もっとも何か悪用されないかという懸念は残るものの、OS組み込みのアクセスキーならちょっとやそっとで解析できるもんじゃなさそうな感じはするから、あんまり神経質になる必要もないだろうが。

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