Symphony Fantastique Proving Ground



一色強兵の憂鬱

宮崎県は、基本的に私が好む過疎県であり人が少なく、そしていろいろと好奇心をくすぐる伝承やら芸能やら遺跡っぽいものが豊富な面白い場所である。
たとえば、日本海軍発祥の地というのがある。
何でかと言えば、神武天皇が東征の際に船出をした場所だからだそうで、このような話がたくさんあるのだ。
それと宮崎弁って、万葉言葉っぽい表現が結構残っているというのもまた面白い。

で、宮崎県にある古伝承には大きく分けると三つぐらいのシリーズになるようだ。
1つは、神武天皇とそれ以前の国造りの神々絡みのもの。
1つは、百済からの王族難民関係の話。
1つは、壇ノ浦の合戦以後の平家の落人と源氏の追討軍の話。
この他にも、西都市近辺には古墳がたくさん見つかっていたりするから、古代から相当いろいろなことがあった場所なのであろう。

なんで急に宮崎県のことを思い出したのかと言えば、昨今の半島絡みのニュースに触れ、上に上げた二番目のエピソードが頭に浮かんだからである。つまり、唐ー新羅連合対百済、任那ー倭国連合の争いに敗れ、半島から退いた人々が宮崎に逃げ込んだ百済の王族達の話だ。
半島に有事が起こると影響を受けるのは今も千四百年前もあまり変わりないのだろう。

で、実際にその王族達が隠れ住んだところなんてものを見て回った時に、ふと疑問に思ったのだが、地名にその痕跡が全然見られなかったことだ。

これはどういうことかというと、アメリカには変わった地名が結構あって、それの起源を質すと、インディアン語から来たとか、同様にオーストラリアで変な地名の由来を聞くとアボリジニの言葉が使われているとかの説明に合う。
同様に北海道や東北にはアイヌ語由来の地名がたくさんある。言語、特に音声による記憶は地名として残ることが多いのだ。
ところがこの宮崎にはそういう半島由来っぽい音を持つような地名が全然無い。漢字表記ではもともと半島も日本も漢字文化圏なんだから差が出なくて当たり前だろうが、音となると別である。言葉でのコミュニケーション上でも地名は固有音でないと日常上都合が悪いことは間違いない。ならば少しでも何らかの痕跡がありそうなものなのだが、少なくとも今の半島の言葉が思い浮かぶような音を持った地名は私が見た限りは皆無だった。
この状態を考えると、そもそも百済からの難民なんて存在していなかった、と考えるか、または難民達は少なくとも倭国住民と同じ言葉を話す人々だったと考えるかどっちかしかないのだ。

実際には百済難民が持ち込んだ遺品なんてものが保存されているんだから、難民の事実が無かったとは言えないだろう。すると百済という国は当時の日本語、つまり倭国語を使う国だったと考えるしかなくなる。

実際のところ、古代朝鮮のことを文献で当たろうとすると12世紀に新羅で成立した三国史記に頼らざるをえず、新羅が朝鮮語(漢字表記で日本の万葉仮名みたいな漢字の使い方をしたもの)を使っていたことは分かるものの、そこに記載されている百済について、古朝鮮語が使われていた国だと断定することは困難なようだ。むしろ人の交流から考えると倭国語が元々使われていたと考える方が自然なのではないだろうか。

逆に新羅で使われた古朝鮮語は言語学的な広がりから言えば、高句麗どころか、はるか西方、ウズベキスタンとかトルクメニスタンなどにもその痕跡が認められるらしい。つまり朝鮮語を母国語とするグループの元々の居留地は現在よりもはるか大陸中央にあったと考える方が妥当なのだ。
つまり新羅と百済の争いというのは半島内部の内戦ではなく、大陸を母体とする大陸勢力と日本を母体とする海洋勢力の勢力圏争いだったと考えるべきなのだろう。

そう考えてみると、半島と日本で、文化や習慣、考え方がこれほどまでに違い、そして心理的に疎遠な関係になるのはしごく当たり前なのだと納得できるのである。





ふと気がついたどうでもいいことなのだが、一度気に掛かるとどうにも頭から離れなくなっていけない。

数日前のことである。
街中で観光客らしき人間がレジでパスポートを出しているのを見た。緑色のパスポートで、ははあ、外国人が免税扱いのショッピングをしているのかと納得したのだが、どこの国のパスポートなのか目をこらして見ると、英文でRepublic of Koreaという文字と例のハングルが表紙にあるのが見えた。

ハングルなんか読めないのだが、なるほどあれは隣国のパスポートなのかと英文表記で納得した次第である。

で、次の瞬間思ったのは、どこにも漢字での大韓民国とは書いていないということだ。

そう、隣国は漢字を廃止したのだった。するとあそこに書いてあるハングルは大韓民国という音に当たるハングルなのであろう、と推察できる。サッカーの応援で隣国の応援団がしきりと「テハミン」とコールしていたからきっとあのハングルは「テハミン」という音になっているのだろう。

すると日本での隣国表記もそれに合わすのが筋というものだろう。
つまり、もはや大韓民国と表記される国は世界に存在していないのである。アメリカ、フランス、ドイツなどと同様、日本語による現地音表記に合わせ「テハミン」と表記するのが正式とすべきであろう。

日本人が日本語で「カンコク」とか「ダイカンミンコク」とか発音しても当の隣国人はそれを聞いても自分の国のこととは認識できていないのだ。それだったら絶対コミュニケーション上は現地音の表記に変えるべきである。
英文表記を日本語として直訳すると朝鮮共和国となるが、北と区別する上でも紛らわしいし、だいたい「朝鮮」という言葉に反発する人も多いらしいのでこっちの方が無難だろう。もっとも「チョウセン」という音は日本語の発音でも当の隣国人には理解できるようだが。

まあ新聞記事なんかでの国の略号に韓の字を残すのは他の国でも戦前からの漢字表記を使っているから問題ないとは思うけどね。

国籍、性別、年齢を問わず、私の観察によれば人間は2種類の人間に分けられるようだ。

第一には基本的に「一人が一番」を指向する人達。
私もここに含まれる人間、と自覚している。どんなに気の合う人間と言えど、ずっと一緒に生活するというのは結構負担を感じるというのが正直なところだ。
こども時分から「大家族」などと言う世界とは全く無縁な人生を送っていただけに、一人でいることが当たり前になっているのである。だから何をやるのも一人でやるし、情報さえあれば、問題は常に自己解決を図るのが習いとなっている。
なので他人を当てにしないし、そもそも人にお願いをするのが苦手でもある。で、親しい友達なんて必要だとも思っていない。だから社会からのハミダシもの、一匹狼的存在になっていても本人は別にそれを気にすることもない。孤独に強く自己管理に厳しく、病気や怪我に対し最悪を考慮するので健康管理には細心の注意を払うし、食事も自炊が当たり前で他人には依存したくないと考える。
今の日本には結構いそうな感じはあるのだが、私ほどのレベルの人間はそんなに多くは無いようだ。
というのも一見そんな感じに見えても「金で解決する」「誰かに依存している」「ネット上で人気者になりたがる」という人が結構いるからだ。
このタイプの人間が日本よりも絶対多そうなのは、アングロサクソンだ。もともとそういう気質があったから、同胞が一人もいないところへも平気で出て行く人間がたくさんいたので、大航海時代を経て世界を席巻できたに違いない。現代でもアングロサクソンの人達の言うところの「とってもいいところ」という表現の中には「他の人間が誰も居ない場所」という意味が含まれていることが多い。
はるか未来、遠くの星への長時間宇宙飛行が実現する時にもやはりアングロサクソンは必ず一枚噛んでいるはずである。

第二グループは第一の逆である。つまり群れの中にいる方が落ち着くという人達だ。友達、家族、同僚という存在を非常に大事なものと考える。常識的には女性が多そうだが、実態はそうとも言えないようだ。
人間関係を大事に見るというのはいいことだとは思うものの、中身の要求が高そうなので意外と同じグループの人間同士ではうまくいかないことも多いようだ。つまり皮肉なことに、第一グループの人間の方が第二グループの人間にとって「価値あるパートナー」だったりすることも少なくは無い。これが人間の面白いところである。

まあこういう気質的なところがどうであっても、社会的経済的事情からは逃れられないのが人生だから、それぞれがそれなりの妥協を重ね、人生を送っているのがこの世の中というわけなのだが。

さてこういう気質がその人の寿命に与える影響とはどういうものだろうか。
統計がありそうで全く無いようなのだが、私見で言えば、おそらく性別ではっきりとプラスとマイナスが別れそうな感じはする。
つまり第一グループの場合、男性の寿命は延び、女性の場合は縮む。
逆に第二のグループでは、男性の寿命は縮み、女性の場合は伸びる。

なぜそのように思うのか。
多くの方はお気づきだろうが、女性の身体の都合、男性の身体の都合を考慮すると、セックスパートナーほか同居人の数が大きい方が女性の健康維持には有益だろうと言える。
女性は自分自身の身体の状態を把握しにくいのである。多くの婦人病は本人には分からなくてもセックスパートナーにとっては未病の段階で発見可能だ。また女性ホルモンの元締め、視床下部は感情の影響をモロに受けるので、心理的な安心感があるかないかで体調を相当左右されるという事情もある。
一方、男性には女性のような面倒くさい話はないものの、やはり生殖能力を使えば使うほど、そもそも有限である細胞分裂回数の限界に近づくのだからセックスパートナーとの長期にわたる同居というのは寿命的には結構な負担になると思うのである。

ま、精神的な満足は寿命とは無関係とも言えるのでどうでもいい話なのだが。



水害の中継映像を見て、まず目に入ったのが大量の流木だ。
どれもこれもまっすぐに伸びた細い木でところどころに木肌が剥がれ明るい色の肌が露出している。
スギである。
あの色味では既に伐採されたものが流されたのではなく、地面ごと崩落するような形で流されたものに違いない。
あの流木さえなければ、水害がこれほどの威力になることはなかっただろうし、家屋やインフラ被害が拡大することもなかっただろう。

スギという木は、人間にとっては多用途に使える資源と重宝される一方、植物としては、落葉せず、表土を作るチカラが極端に弱い上に、あまり地面の地力には頼ろうとしないため、根の張りが小さく、浅い。故にスギばかりを植えると表皮の薄い、保水力の小さい土地をどんどん増やすことになる。
つまりスギだけで出来上がった林というのは、水害をどんどん拡大する原因になるのである。

スギ林の近所に住むのは、ものすごく大きなリスクがあることなのだ。

見方によっては、水害は確かに天災だが、その被害をここまで拡大させた一因には間違いなくスギ林の無謀な拡大を許した明治以来の山林行政もあげられる。

明治期以前、日本の森というのはその大部分がブナ系の木で占められていたそうである。
スギはわずかしかなく、故に一部の高級な建物にしか使われることはなかった。
今も残る江戸期に建てられた建物を見るとびっくりするような木材の使用法が見られる。スギと違ってひずみや狂いの出やすいブナ系の木を使うため、長期にわたっても建造物としての耐久性が損なわれないような様々な工夫がなされているのだ。おそらく今、そういう技術はもうロストテクノロジーと分類されているに違いない。

今後のこの地域の復興に当たっては、同じ轍を踏まぬよう、スギばかりを植える植生をどうにかする一方、ブナをスギに変わる資源として使えるようにする技術開発などを望みたい。


世界中でマスコミが信頼を失ってきているようだ。

昔から偏向報道とか、プロパガンダだとか、特定の意図に染まったニュースの配信は、独裁国家のみならず、世界中で行われていたが、それが大多数の民衆のマスコミ不信につながるということは無かったと思う。
仮に偏向報道と分かっても、たぶんいろいろ圧力を受けてるんだろうなとマスコミに同情すらする場合だってあったのだから。

ところが今は違う。
そんなマスコミの立場を慮るような意見は皆無だ。
一言で言えばインターネットのせい、ということで片付けられることはできるものの、そこはもっといろいろと丁寧にモノゴトを見ておく必要はあると思う。

マスコミが悪者として見える理由をツラツラと考えるといくつか思い当たることが出てくる。

一つはニュースの視点と一般人の感覚のズレ まあこれは主観の差と言われればそれまでだが、
しかし、
テレビの場合、なぜその人の話を聞く必要があるのか、など肝心な点が曖昧にされたまま、その意見が前面に出てくることや、単なるお笑い芸人の政治批評とか、人選自体どうにも首をかしげざるをえなかったりする事や
事実関係の紹介が網羅的でなく、偏りがあったり、紹介されない事実がたくさんあったり、数字が誤魔化されていたりする、
ようなことはそういうこととは別問題だ。
また要人への質問など、マスコミからなされる質問が誘導的、恣意的、あるいは強圧的に見えることも頻繁にあり、そもそもニュースネタにしたいから何とか失言を引き出させたいという、悪意的報道姿勢が目に付くということもある。
何が何でもあいつから税金を巻き上げたいと牙を磨く税務署員のようにも見える記者の姿勢は、マスコミの印象を良くはしないだろう。

このような事柄は以前なら皆が知ることもなかったわけだが、いまやその現場の動画も当たり前にネットにさらされるご時世である。問題になったシーンの前からのやりとりも以前なら検証しようもなかったが、今は簡単にそれが見れる時代である。
つまり、えっと、驚くような報道に出会っても、ネットをあさればだいたい裏が取れ、ははあ、なるほどと、なることが多いので、こういう体験が重なると「いったいマスコミってのは何をしたいんだ」という疑問が発生し、やがて完全なマスコミ不信症になるざるをえないのだ。
結果から言えば、ノンポリの人間を保守派や右派に変えたのはこのようなマスコミのせいだとも言える。

新聞なら紙面の限界、テレビなら時間の限界がある、というのなら、それなりの節度があってしかるべきなのに、実際にはネット並みに暴走したような意見が大きく採り上げられる。テレビ番組だって新聞だって商品なので、面白く見えないと商売にならないという事情もあるんだろうが、真面目にマスコミと付き合おうとする人間が減るのはこれでは当然と言うしかない。

ニュースネタを扱う娯楽番組はやめた方がいいだろうし、報道は報道らしく妙な演出は入れない方がやはりまともということになるだろう。

だいたい根本的に間違っていると思うのは、ニュースネタにのめり込めばのめり込むほど、ネットとの競合度合いがどんどん深まるわけで、いわば自分で自分の不信を撒き散らしているようにしか見えないのが今のマスコミなのである。




毎年、陽気が春めいてくると、ダイエット関係の健康食品とか医薬品、フィットネスクラブなんかの売上がぐ〜んと伸びるという現象がある。
さらす素肌の量が増える夏に向け、身体のシルエットを気にせざるをえない方がたくさんいらっしゃるということらしい。
で、この日本独特の習慣が観光案内などを通じて海外に広く広まったのか、あるいはもっと好意的に考えれば、日本の肥満者が諸外国に比べ著しく少ないことに気がつき、その原因理由としてこういう習慣が発見されたのか、日本で和食を求めるだけではなく、ダイエット関係の健康食品や医薬品を買い求める外国人が増えているらしい。何しろ世界人口の三分の一は肥満だという話も出てきているくらいだし、アメリカなんかもう大半が肥満カテゴリーに入る人間であることにまず疑いは無い状況である。

だとすると、やがて彼らは気がつくのだろうか。ジャパニーズSMのダイエット効果にも。
日本のSMプレイではもはや定番と言っていいのが浣腸、エネマプレイである。もちろん海外にもあるようだが、だが日本ほどメジャーな感じではないようだ。
まあ日本の住宅事情の条件ではあんまり派手な責めはできないから、という理由があったのだろうけど、狭い空間で準備も大してかからずお手軽だからということで蝋燭責めと並ぶ、日本SMの代表プレイみたいな感じに見える。
腸は、消化された食物から栄養や水分を吸収する場所だ。
浣腸プレイは、そこを大量浣腸でほぼ素通りさせるのだから、サナダムシ並みに吸収阻害することは間違いない。いやM女さんの心情的には、浣腸責めで自分が大量の排便をするのを見られると思うだけで、食が細くなるとも考えられるから、それ以上の効果があるのかもしれない。
そういう心理面のことを考えるなら、縄による縛りというのも、人並み以上に自分のプロポーションを気にせざるをえなくさせるだろう。何しろ、日本のSMというのは、絵的に悲壮感が漂ってこそなのである。
それがボンレスハムを輪ゴムでくくったような絵しか思い浮かばないような状況だったりしたら、SMで絆を確認なんて誰もしようと思わないだろう。
もし万が一、それでもプレイをした結果、うっかりソレ見て笑ったりしたら、絆を深めるどころか、後で刺されるかもしれないしね。



総理が2020年という期限をつけたことで一度沈静化しつつあった改憲論議がまた活発になった。
たぶん山が動くときは、一気に動くような気がする。そしておそらくそれはある意味、民意とはちょっと違うのかもしれないが、避けられないものなのではないだろうか。

現在の日本国憲法が規定している日本の姿は、一見すれば「無謀」なものである。
非武装独立で世界的に豊かな国でいられる、理想論としては美しいが、残念ながらそんな存在を許してくれるほどこの世界は甘くない。
この70年、世界中で戦火は絶えることは無く、力の行使による事実上の国境の変更は当たり前のように起こっている。その度に難民が大量に発生し、その救済が問題になるものの、不幸な連鎖はいつも止められない。これが一つのパターンである。

結局世界は本質的には二〇〇〇年前の三国志の時代とそう大きく変わっていないのだ。
力が無ければ何をされても文句は言えない……昔ほど大っぴらでは無くなったが、表面にこそ現われていないが、これが今でも大手を振ってまかり通っているのが実態だ。

日本と日本の周囲がそういう世界からこの70年間隔離された存在でいられたのは憲法の前文や9条の存在ではなく、世界有数のアメリカ軍がそこに存在していたからだ。
で、当初は日本が軍事的に無力な存在であることを欲したアメリカがこの日本の地位を認めてくれていたのでよかったのだが、何しろ国防という莫大な金のかかる問題をアメリカに肩代わりしてもらい、その分を殖産興業に生かせられる日本の旨みは大きく、憲法制定時には誰も考えなかった、GDP世界第2位(今は中国に抜かれて第3位)なんていうポジションに入ってしまった。

こうなると日本は誰がトップに立つとしてもアメリカの有権者の心情を考えないわけにはいかなくなる。
「アメリカよりも豊かな国をなんでアメリカ人が身体を張って守ってやらなければならないのか」

事実、憲法を棚上げして再軍備を図ったのは、常に「対米外交」のため、と言って良かった。
今、アメリカはかつてのような世界随一という存在では無くなり、経済的にはかなり普通の国になってきている。そうなった一因は、アメリカ以外のすべての軍事費を足してもまだそれを超える存在である、巨大な軍事力の維持だ。世界の警察官になるというのはさすがのアメリカにとっても重荷に過ぎたのである。
そういう状態のところで、中国が経済的な躍進を武器に国際舞台で自国の国益を声高に主張するようになり、このままいけば空文になるかもしれなかった憲法ににわかに関心が集まることになった、というのが今までのだいたいのあらすじということになろう。

小説としてこの先の展開を描くとするなら、手に汗握るハラハラドキドキの展開を望むならば「改憲阻止」を貫徹し、ついでに憲法の初志貫徹で在日米軍を撤収させ、自衛隊も全部やめて、素っ裸で世界の面前に立つ、強姦覚悟でパンツを脱ぐ、ってのが一番だろう。

そこまでのハラハラはいらないなら、軍国主義が復活し、大東亜共栄圏を今度こそってやるシナリオだろうか。
昔の夢よもう一度って人気があるからね。

小説の原案として持ち込んだ場合、出版社の受けが最も悪そうな、つまりもっとも地味で波風がたたないのは、身の丈にあった防衛力の整備ってのを念頭に、基本現状をみんな追認し、余計なことは一切しないっていうシナリオだろう。編集が怒りを抑えた口調で冷たく言うのが目に浮かぶ。
「それってどこが面白いんですか? 説明して頂けませんか?」と。

まあこれは小説では無くリアル世界のお話なので無用な争いは持ち込みたくないのが嘘偽りのない私の心情なのだが、どういうわけか、小説ではないリアルの話だと分かった上で、「ハラハラドキドキ」シナリオが好きな人が多いらしい。いったい何を望んでいるんだろう、あの人達は。

以前、日本のSMというのはマルキドサドから始まるSM文化とは結構異なっていて、サドの作品をそのまま翻訳して日本に持ち込んでも大した反響は無かったのは、そもそも女性の生き方の認識が異なるせいで、それを察した団鬼六は、犯罪という舞台設定を与えることで日本人にも理解できる形でSMを構築し直したのだ、てなことを書いた。

別にだからどうこうというものではないのだが、一度こういうふうに文にしてしまうと結構頭に残るもので、関係のありそうな情報に出会うとついついいろいろと考えてしまう。

実はユーチューブで日本の江戸時代の治安状態はどうだったのか、みたいなテーマの動画を見ていた時のことである。
この動画の説明によると時代劇なんかは嘘八百で、事実は人類史上空前絶後と言っていいぐらい犯罪が少なかったそうである。殺人事件なんて年に1件あるかないか、強盗を含めても凶悪犯罪などほとんど皆無と言ってよかったらしい。
だから江戸は北町奉行所、南町奉行所のわずか二つの、たった職員総数36人で人口百万の大都市江戸の治安を守れたとのこと。まあこんなに少ないとなると、そもそも犯罪の摘発能力が低すぎで、事件にならない、っていう側面もあるんだろうが、それでも無法都市になったりしなかったのだから、民度的にかなりいい線にあったと見て間違いない。

さてそんな安全で平和な江戸では、どんな事件が問題視されていたのかと言うと、いわゆるDV、家庭内暴力だったらしい。ただし、今の世と違うのは、酒に酔った主人が暴力を振るうというのではなく、継母による娘いじめとか、姑による嫁いびりとか、妻妾間の争いとか、圧倒的に女がらみだったらしい。
で、この状態を指して生れた言葉が「事件の影に女あり」なんだそうだ。とにかく、誰も予想していなかったこの事態には幕府も驚き、慌てて婦女に対する教育制度をいろいろと整備することになったのだそうだ。

明治の時代、日本の女性は他の国よりも、いろいろと抑圧されていると見た外国人は多いようだが、それは意図的にそうなっていたのかと妙に納得した次第である。

で、犯罪者として女性の割合が異常に増えたということは、それは当然、女性に対する刑罰というものを発展させることになる。刑を人道的になんていうやさしい考え方よりも、当然、犯罪を起こしたらこうなる、という見せしめとしての効果が重視される時代である。見た目で十分インパクトのある刑が選ばれていった。

なるほど、日本のSMシーンで女性が責められるシーンが妙に絵的に完成していたり、縄で身体を縛る技術が芸術の領域まで高まっているのも偶然では無かったわけである。

団鬼六がここまで考えてSMと犯罪を結びつけたのかは分からないが、結果的に日本の独自の文化に日を当てたことだけは間違いないだろう。

辛ラーメンがいくらなんでもあの味ってことは無いだろうと、改めてフクロのレシピを見直してみると、なかなか興味深い記述があるのに気がついた。
つまり、日本のインスタントラーメンのいまや常識とも言える二つの鉄則が全否定されているのである。

鉄則その1
麺とスープは別々に準備すべき。つまりスープはスープだけでお湯に溶かし、麺を茹でるお湯とは一緒にしない。
手間を省くことを最優先にする場合とチキンラーメンを除き、おいしいラーメンを作ろうとする場合の鉄則だ。

鉄則その2
調味料、特に香辛料は最後の最後、つまり食べる直前に入れること。香辛料の多くは加熱でそのスパイシーさが失われやすいのである。だから余計な熱は加えないのが洋の東西を問わず、常識だと私は信じていた。

当然前回コラムで紹介した辛ラーメンはこの鉄則を守って作ったのだが、それがああいう有様になってしまった。
となると、この鉄則はきっと辛ラーメンにとっては余計なことなんだ、と考えるべきではないのか。
こういうふうに考え直したのである。

そこで二食目は、私的には極めて異例なことに、フクロに記載されているレシピ通りに作ることにしたのだ。
レシピと言っても至って簡単なものだ。要するに、フクロの中に入っている、麺、粉末スープ、乾燥かやくの三つを一緒に煮立てたお湯550CCに放り込み、そのまま4分30秒煮込めというのである。
日本のラーメンでこれをやって、おいしいものになると予想する人間はまずいないだろうと思うが、とにかくやってみた。

結果は一食目のものとは全く別物が出来上がった。
まず、全体的に、お湯が見事に蒸発し、一食目よりもずっと少ない量のやたら濃いスープの中に大量の麺が泳ぐおよそラーメンとは言いがたい印象のものが出来上がった。
で、そのスープの味なのだが、おそらく煮込むことで香辛料の新鮮さが失われること、さらに麺のグルテンとかデンプンとかが溶け込む影響なのだろう、見た目よりもずっとマイルドなものに変わっていた。そして麺の方も、たっぷりとスープを吸収し、やたらとモチモチしたかなり腰の強い太麺へと変化し、さらに麺内部にもスープが入り込み麺自体もかなり味を持つものに変わっていた。

標準装備のかやくの他に、二食目にはきざみねぎとボローニャソーセージの薄切り、そしてゴーダチーズをスライスしたものを用意し、特別な下ごしらえなどは一切しないでそのままトッピングとした。
もとから結構個性のある強い味の食材ばかりだから当然と言えば当然だが、スープが一食目の時よりもマイルドになったおかげで、全体の中で割とまともに役どころを果たせていたように見えた。というわけで一応及第点には達した観はあった。

なるほど、これが「辛ラーメン」ね。これなら多くの人に支持されてもおかしくはないと納得した次第である。

ただ、完成形としては納得できても、その道筋というか、味を作るメカニズムにはあんまり感心しない。食材の風味を楽しむための料理=ラーメンという考え方からは大きく逸脱しているからだ。
日本ラーメンのしょうゆ、みそ、しお、とんこつ、といったスープは基本的に食材の味を引き立てる脇役的存在なのだが、この辛ラーメンではスープが主役でチーズのような強い味のものですらも脇役におしやってしまう。
結果、具材との味のハーモニーみたいなものを期待できる領域が少なすぎて面白みに欠ける気がする。

具なしで食べるものと割り切って食べるのが正しいのだとしたら、これはもう日本ラーメンとは全く別の食べ物だと考えるべきだろう。
しかし、ありきたりの中華麺にこういう楽しみ方があったということを教えてくれているという意味において存在価値はあると思うのである。



先日、若い中国人女性に韓国の辛ラーメンがおいしいとかなりふっかけられて、遂に買ってみた。
いかにも辛そうな真っ赤なパッケージの三食入りのインスタントラーメンである。
当方、インスタントラーメン作りにはかなりの手練れなので、いつも通りに、素直にフクロ記載のレシピ通りに作るなんてことはせずに、ありあわせの具材を調理するところから早速作り始める。
で、それらが完了し、お湯も沸いたところで、麺を茹でるべく、フクロを開封する。
なんだこりゃ、麺が異様にデカイ。グラム数は、なんと120g。こりゃ茹で時間かかるだろうな、とフクロの説明を確認。やっぱり、4分30秒ときた。で、ついでにその先の説明にも目を通すと、こんな文言に出くわした。
「お好みにより、きざみねぎ、スライスチーズ、カレールウ、たまご等を加えてもおいしくいただけます」
おいおい、きざみねぎとたまごは分かるけど、あとの二つは普通はラーメンに入れるもんじゃないだろ、そりゃ、具材っていうより、調味料じゃん。そんなんいれたら、ラーメンの味消すことになるんじゃね、と一人ツッコミを入れたりする。当方の用意したのはいつものラーメンに普通にいれるような野菜類と薄肉だ。
で、具材もじっくりと調理し、スープと合わせ、最後に茹で上がった麺を入れて完成。

予想外の事態その1。
ラーメン椀に入りきらない。麺が多すぎ、スープが椀から溢れる事態発生。そう言えば、韓国人って、鍋のままラーメン食うっていう話があったな。もともとラーメン椀は器として適切な選択とは言えないらしい。
予想外の事態その2。
辛い、予想をはるかに超える辛さ。それも辛味以外の味をほとんど感じない、純粋に唐辛子の辛味だけって感じの暴力的な辛さだ。
予想外の事態その3。
いろいろ個性鮮やかな具材を入れていたのだが、アスパラ、カリフラワー、しめじという、いつものラーメンでは中々の役回りを担っていた野菜たちが、全く活躍していない。それぞれの味が辛味に負けてしまい、何がなんだかわからないのである。さすがに肉の方は、ボローニャソーセージというかなり味の濃いものを入れていたので、この辛味にも負けずに自分の味を守っていた。が、トッピングにたっぷりと入れたきざみねぎを始め、野菜類はこの強烈なスープの前にあえなく役処を奪われた感じだ。
通常のラーメンに比べ、麺は少なくとも三割増しという感じなので、満腹感はすごい。それに強烈な辛味から逃れるように麺を口に入れてしまうので、文字通り格闘しながら食べる感じである。
で、量の割りには完食までの時間はいつもよりも短めだったんだが、これって、少なくとも味を楽しむラーメンの食べ方とは言えないよね。

改めてフクロの説明を見直してみると、さらにこんな説明を発見。
「〆にご飯を入れてお召し上がりになれば、さらにおいしい一食になります」

どんだけ炭水化物ばっかり喰わせようっていうんだ? そりゃ空腹を満たすにはいいかもだけど、基本調味料ばっかりで飯食ってるようなもんだぞ。食育って言葉を知らないヤツが考えたメニューみたいだな。

というわけで、かの中国人女子は辛さ以外の味覚音痴と断定せざるをえなかった。まあ若いんだからしょうがないか。しかし、将来どこに嫁ぐつもりか知らないが、あんな味覚で大丈夫なんだろうかとは密かに心配になったりする。

ところでその後、近所のスーパーで辛ラーメンの新商品というのを見かけた。
「辛ラーメンキムチ味」だそうである。
いや、もう十分キムチ状態だと思うんだが。

それにしても世界は広い。


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