Symphony Fantastique Proving Ground



一色強兵の憂鬱

キンドル本の出版手順にまだ慣れていないせいで、アップしてはミスを見つけて手直しをして、というような作業をこの3日ばかり集中して行った。契約の中身やらサイトの構造なんかについては、いままでおつきあいをさせて頂いた電子本販売サイトとの経験があったので、だいたいは分かっていたつもりなのだが、やはり根はアメリカの会社なんだね。表現が日本語になっているだけで中身は完全にアメリカ型契約社会だ。
ま、そっちの方がいろいろ分かりやすいし、ムダな詮索や疑心暗鬼にならずに済むようにも思えるからそれが悪いことだとは思わない。
そして、驚くべきはアクセス数だ。別にアクセスカウンターを仕込んでいるわけではないのだが、ミスに気がついて修正するために再アクセスしたら、もう販売実績が出ている。
うちの本家サイトで無償公開してる時だって、修正段階でカウンターが動くなんてことはそう無かった。巨大サイトの実力を思い知らされた。すげえな、アマゾン。
もっとも、私はアマチュアだし、これでお金をどっさり儲けようなんていう気はさらさらなく、うちのパソコンと通信費関係のコスト分の一部でも回収できたらいいな、程度の期待しかしていないので、ロイヤリティ率は35%、お値段はよそさんから見て迷惑にならない程度の安目設定にした。
ちなみにアマゾンの規定では65%のロイヤリティプランも選べるようになっている。この辺の考え方、日本のサイトでは結構アバウトで、作者に全部お任せのところもあれば、一本しか選べないところ(たいてい50%固定)のどっちかしかなく、何故こういうふうになっているのかちょいと理由を聞いてみたいところだ。
で、ついでにもう一つ値段についてお知らせしておくと、設定価格は基本ドル建てである。ドルの数字を入れると世界各地のアマゾンサイトでの価格が為替レートに応じた価格で表示されるという仕組みだ。これを嫌って日本だけの固定価格にするオプションもあるのだが、私にとってはどうでもよかったので世界同一価格体系に乗っかった。だから円安ドル高になると日本サイトでの本の価格はちょびっと上がるだろうし、円高ドル安に触れれば本の価格はちょびっと下がるはずである。
ところで電子本リーダーでは時々名前の出るkoboを擁する楽天のことにも触れておこう。こちらは楽天がkoboを買収し傘下に収めたわけだが、傍目から見るとアマゾン対策にしか見えない。だからアマゾンのやることをマネしてるんだろうな、と思っていたらさにあらず。どうやら完全日本型出版社の、おそらく最後の牙城のような感じに見える。つまり私のような個人出版なんて絶対に入れないという感じだ。
プロ作家の供給する有名作品だけでみんな必ず満足できるはず、という自負なのか、奢りなのか、はたまた勘違いなのか、よく分からないものがなんとなく透けて見える。だからアマゾンのように、販売されている商品に対するコメントが豊富ということもない。非常に日本的である。一方のアマゾンの方は、もう説明も不要だろうが、アメリカの草の根民主主義的な何でもアリの豊富なコメントが、サイトの看板というか魅力になっている。
はっ、待てよ。ってことはうちの作品にもいろいろ書かれたりするんだろうか? という期待というか不安がある。今まであんまり考えてこなかったのだが、こういうレスがあるのって、多少こっちにメリット的なものはあるんだろうか。まあ「作家でごはん」さんのような突っ込んだコメントが出てくるとも思えないけど。
それに、書いたばかりのものならともかく、もうかなりの時間が経ったものばかりなので、何を言われても自分の記憶がそもそも曖昧になっているという危険の方が大だったりするのだが。

だけど見たいな、コメントが。ってことで、エサ増やしました。
「秘められた絆」三部作も新たにアマゾンへ移行させましたのでよろしく。

Symphony Fantastiqueというサイトと一色強兵を誕生させた当初、世の中ではネットで公開される小説と言えば、ブラウザーでそのまま見るものが当たり前のものだった。
が、この方式は私からすると小説という知的財産物を管理するにはあまりにも無防備に過ぎ、これでは自由自在に盗作して下さいと言っているのに等しいように思えた。さらに、当時のブラウザーが取り扱えるHTMLは横書きだけで、正規の日本語の書式である縦書きをサポートしていない、ということも耐えがたかった。
で、手近にやれる対策として始めたのが、pdfによる電子本化である。電子本と言ったって甚だ不完全なものだ。なにしろ元々はpdfは紙の印刷イメージを残すための電子化フォーマットである。だから画面の大きさや文字の大きさを読み手の都合に合わせて変える度にレイアウトが変わるリフローなんてことはもちろんできない。それでもウィンドウズ機の通常のモニターで使われるフォントに比べれば遙かにしっかりしている印刷イメージのフォントで作られる縦書きの日本語は見た目にも読みやすく、いかにも小説を読んでるっていう空気がしたので、いろいろと批判を受けつつも、今までこれを維持し続けてきた。
だからアマゾンキンドルがアメリカで発売され、それが全米市場を席巻した時、私が次に手がける作品フォーマットは絶対にキンドルになると確信し、その発展を注意深く見守ってきた。
が、これがなかなか思うようなものに育ってくれなかったのである。日本語を取り巻く環境が整う以前に、英語版のキンドルも当初はいろいろと課題、問題だらけだったからだ。それらは単に技術ということだけではなく、様々な規格の乱立と淘汰、そして改良と競争いう時間の掛かるプロセスを経て、ようやく個人が日本語縦書き本を出版できる環境が整ったのである。もっとも最後の最後、実際に一番時間が掛かったのは、他ならぬ私自身がキンドル本出版するために関連するソフトの知識を蓄積し、それらに習熟することだったことは間違いない。
こうして長い時間が経過するうち、世の中も大きく様変わりした。もはや電子本はPCで読むものではなく、スマホを中心とするモバイルデバイスのコンテンツの一つという姿が主流になったわけだ。だからpdfの本はそっちの意味でも時代の流れからは取り残されたものになっていたと言っていいだろう。
テレビがネットの動画中継に押され、存在が希薄になりつつあるのと同じである。
というわけでもうネットでSymphony Fantastiqueを維持しても世の中の基準ではあんまり意味は無いんだろうなとは思っているのだが、これが愛着というかなんというか、やめられないんだよね。リアルワールドだったら、遺構というか遺跡というかそんなものが何かしら残るんだろうが、サイバーワールドでは文字通り跡形も無く消滅しちゃうってのがね、なんかいたたまれないのである。
ホントはキンドル本が出せるようになったらもうやめよ、なんて思っていたのだが。

が、Symphony Fanatastiqueの次なる一歩、キンドル本への進出をだからと言ってやめるワケにもいかないのである。ホントは最初っからこういうふうになればいいな、と思っていたのだから。

というわけで、キンドル本として以下の作品をアマゾンから出版してみました。新作ってわけじゃなくてすみません。とりあえず、こっちの習熟目的です。
「奴隷の絆」「ハイエナはブルースをうたう」「涼子のリョウくん」「ご近所づきあい」

フィクション、つまり小説とかアニメとか、実際に無かった架空の物語を描こうとすると、一番手っ取り早い創作手法は現実の一部「ストレッチ」することだ。ストレッチ、つまり拡大とか拡張とかの意味だが、現実を99%描写しつつ、残り1%だけ現実では起こりえないほど、とある部分を拡大、拡張するのである。
格闘があるシーンでは、例えば人間のジャンプ能力を通常の10倍あると設定するだけで、格闘そのものの様相は現実では絶対にありえないものとなる。
そんなファンタジーがあるから小説やアニメは人々を惹きつけるのだが、一方、これも連作とか新展開とかで新キャラ登場のたびに同じ手を使いすぎ、もはや1%どころの話ではなくなると魅力を感じるよりも、ああまたかとマンネリ感に見舞われることになる。
多くのファンに飽きられ、一部の信者からの、ええけげんにせえよ、ワレ、という殺気を感じられない、空気を読む能力に欠けた作者やカントクがいかに多いことか!
まあ、彗星のように現われ彗星のように消えていき、二度と顧みられることのなかった人がいかに多いかと考えを巡らせるだけでこの事実は十分肯定されよう。

この人達に欠けていたのは空気を読む能力だけではなく、根本的なところで人間の感覚を誤解というか、正しく理解していなかったということもあるような気がする。

中庸なんていう仏教の用語があるが、これって結構人間の本質をついてると思うんだよね。
たとえば、かゆみというのは微弱な痛みであり、故に痛みを感じるとかゆみは感じられなくなる。だからかゆいところを噛んで痛みにかえようとする子は後を絶たない。と、このように、人間の感覚ってのは程度案配にものすごく敏感で、ロボットだったら同じ成分の刺激なら全て同じ反応を示しそうなところでも人間ってのは、その程度で反応が真逆になったりする生き物なのだ。
同様に料理アニメの多くはそう描いてはいないが、「うまそうな香り」も濃度が上がると「耐えられないほど臭いニオイ」になるし、旨みだって、濃度がやたらあがれば「刺激が強くてとても口にできたもんじゃない」ってことになる。またいろいろなものが混ざれば特別な味は平凡な味へと変化する。もはや舌の分析能力を超えてしまうからだ。
かように人間が正常な判断、行動を示せるのは、それが可能な環境ってのがあるかないかってのが非常に重要で、そこが大きくぶれると、同じ判断でスタートしたはずなのに、行動が真逆になったりするのは当然なのだ。
たかが感覚の話というだけではない。人間の精神活動ってのはこの頼りない感覚の積み上げの上に成り立っているだけに事実はとてもやっかいなものなのだ。

重度の知的障害者が今のこの日本でどんな日常を送っているか、なんて気に留めたことも無かった。
が、たぶんそこに首をつっこめば、きっと普段の自分が正しいと信じている常識のいくつかは否定されるのだろうということもおぼろげながら感じる。通常の善悪判断なんてたぶんもともとその程度の脆弱なものなんだろう。

今回相模原でおきた事件報道に触れ、彼の障害者を殺傷したいという思いとその行動は、知的障害者の生活を実際に見てそれに触れたせいで感覚がおかしくなり、結果的に正常な判断を失ったのではないかと思うのである。
人道主義とか道徳あるいは一般的な善悪判断を語ることは簡単だ。が、それで全て片付けられるほど、世の中は甘くない。知的障害者の描く絵が多くの人々に高く評価されているとか、パラリンピックなどの価値はまだまだ普遍的に評価されてはいないとかそういうレベルの話ではない。そんなプラスの話だけではなく、この事件は日本社会の見たくないものに目をつむるという悪習ともいうべきものが背後にあることを示唆している。
そう、障害者を学校などや企業のさまざまな場面から隔離していることの弊害の一つだったのかもしれない。

このことは、障害者の生きる価値ってのをつきつめるとそれは健常者の生きる価値と同義になる、ということを世の中はまだ積極的に正しく肯定してはいないことを意味する。
これは障害者に対し必要な保護は「社会的必要悪」というように映りかねず、まさにヒトラーの発想と大同小異になるのではないか。

その行動について全然悪びれていないように伝えられている犯人はいったい何を見たのか。単なる麻薬の中毒妄想患者であって欲しいと思うのは私だけだろうか。

誰の発明かは知らないが、実に言いえて妙の言葉である。
具体的な案件には一切言及せず、それでいて、なんか、胸の奥のつかえが一気に取れる表現だ。
まあ、もともと外国人との交流は大なり小なり価値観の不一致ってのは起こって当たり前なのだが、そこに「基本的」なんていう言葉を付け加えるだけでこれだけインパクトが変わることを発見した御仁には改めて祝意を申し上げたい。
異文化の理解ということほど難物なものはない。実際、これほど世界のあらゆる情報がネットを駆け回っていてもわからんものはわからんのだ。
その端的な例は料理である。
自分の周りの人間、ほぼ全員が喜んで食べている中、なんで、これが食べられるの?という疑念を抱え、目の前に出されたものの処分をどうしようかと悩んだ経験を積んだ私からすると、世界の人と必ずわかりあえるなんて言っている人は世界を知らないに違いないと断定せざるをえないのだ。
ネット上では結構ちやほやされているかのように見える寿司だって、食べられない、いや嫌いな外国人は多い。生理的に受け付けないらしい。同様に、南西アジアのスパイス多用料理や塩分マックスの北欧料理などは平凡な日本人には絶対耐えられないはずだ。まあ、日本国内にだって、新島のくさやとかいろいろ物議をかもす食材があるんだから。
いや言葉を変えよう。世界から見て日本ほど食材がトチ狂っているように見える国はあるまい。
何しろ猛毒のフグですら食材にした国である。外国では売買だけでも重罪になりかねないシロモノだ。
ま、もともと国、いや人ごとに価値観なんて違っていて当たり前なのさ、ということが分かっていればいいのである。
ところで気になることがある。それは料理を題材にしたアニメの中で、劇中で料理を審査する審査員の反応の描き方があまりにも一様すぎるということだ。実際には、Aさんーうまい、Bさんーうまい、Cさんーうまい、Dさんー激マズってな状態がしょっちゅう起こるのに、アニメの世界ではいっつも全員同じ評価だったりする。
まあ、アニメ作品に出てくるような料理がもし現実にあったとしても、そんなにおいしくはなさそうだから、もうこれはフィクションと割り切るべきなのかもしれないのだが。
肉はね、A5肉がおいしいっていうよりも、A5肉は誰でもできる簡単な調理でおいしく食べられますってだけなんだけどね。A5肉じゃない肉を使ったおいしい料理なんていくらでもあるよ。

私はスマホ使いではなく、PC派、それもバリバリのデスクトップ派だ。大画面、複数画面バンザイ、椅子に座りキーボードがあってこそのPCという、今の世ではもう旧世代型の人間である。
目下、私がプライベートで使っているPCは二台あり、一つはもう、PCと言うよりもホームオーディオ、つまりネットラジオやユーチューブをレイドミュージックとして流すためのものになっている。
こちらはもともと秋葉原で安く売っていた32ビット2コアの中古のメーカー機をあれやこれやと改造を加えた上でOSをwindows7に入れ替えたものだ。低コストの手抜き品の割りに、すこぶる調子が良く、音楽以外にも結構重宝している。
で、もう一機の方は、2013年に完全にゼロから自作したフルタワーケースに入った大型の、64ビット4コアにwindows7を組み込んだものでPCを使うほとんどの作業は基本はこちらを使っていた。
ところがである。両方とも同じwindows7と言いながら、使い勝手が全然違うのである。それも手間暇かけた64ビット機の方が何かとトラブルを起こし、何をやらしても妙に遅く、さらには時折りマイクロソフトから半ば無理矢理強制されるアップデートに至っては、いつまで立ってもアップデートが終わらないというぐらい長い時間がかかる。さらには起動時間がものすごく長い。まあ、これは搭載しているデバイスの量が違うから仕方ない面もあるのだが。
とにかく32ビット機はイライラするようなことはまずないのに、64ビット機はもうイライラ製造器になり果てていたのである。
無論、OSが同じwindows7と言っても、32ビットバージョンと64ビットバージョンは、操作する上で外見が同じとは言え、本来は別物である。32ビットと64ビットではマシン語が全然違っている以上、その性能差があってもちっともおかしくはない。つまり私の僅かな体験で大胆に言い切ってしまうと、windows7は32ビット版は名作かもしれないが、64ビット版の方は駄作もいいところなのだ。

で、例によってイライラを募らせていたある日、遂に切れて、windows10に変えることにした。windows10がどんなOSか分かったもんじゃないが、今の状態よりはマシなはずだろうと勝手に信じることにしたのである。当然32ビット機の方は手をつけない。変える理由が今のところ無いからだ。まあ、64ビット機のwindows10が快調で、両機の操作性の差が気になり出したら変えてもいいとは思うがとりあえずは64ビット機を何とかするのが最優先課題だったワケだ。

だいたいOSを変えていい思いをしたという記憶はあまりない。ずっと昔のXPを導入した時ぐらいのものか。動かなくデバイスが出る、ソフトが出る、ファイルが無くなっている、お気に入りの機能が消滅している、プログラムを新OSに適応させるために出費が増える、作業が増える……とロクな目に遭っていない。それでもOSを入れ替えないとどうにもならないという瞬間はあるのである。で、今回はその時だと判断したわけだ。というか、いろんなリスクをまるごと受け入れる覚悟を決めたと言うべきか。

で、その結果である。windows10の64ビットは名作のようだ。ストレスメーカーの汚名を見事にはらしてくれた。やはり64ビットマシン語に対する習熟度ははるかに改善されているようだ。別に私はwindows10のウリの一つである、画面タッチなんかは使っていないし、その為にモニターを入れ替えてもいないのだが。今までのキーボード、今までのハード環境を維持している状態では、windows10の方がずっとスムーズだし、反応も格段に早いし、ストレスも無い。
懸念だったOS変更によるハードやソフトの無効化は今のところ実害と言えるものはない。プログラムは動くものの、挙動が同じにならないというものが一つ見つかった。どうも画面タッチ制御の関係で表示関係のコントロールが同じではなくなっているらしい。今まで問題があり対応を迫られたのは、ウィルスバスターとATOK、それにビデオプログラムの一部ぐらいだ。この程度なら予測を大幅に下回ったと言っていいだろう。

入れてみて初めて分かったことで驚いたのが、winnyと同じ技術が使われていること。winny、そう、あの物議を醸したファイル交換ソフトである。但し、交換されるファイルはwindowsのアップデートパッチのみだ。つまり、膨大な数のウィンドウズ機のアップデート対応に、さすがのマイクロソフトも音を上げているということのようだ。そのため、アップデートを提供するサーバーの数を増やす代わりに、windows10インストールマシン同士をノードとしてファイル交換ソフトでつなぎ、新しいアップデートファイルをノード間で横流しさせるというやり方を取ったようだ。逆に言えば、この機能があったからwindows10の普及速度を速める必要があり、そのためのwindows10の無償提供ということのようだ。windows10のマシン数が増えてくれないとアップデートサーバーの負荷は下がらないのだから。なろほどね、こういう使い方もあるのかとちょっと感心した。もっとも何か悪用されないかという懸念は残るものの、OS組み込みのアクセスキーならちょっとやそっとで解析できるもんじゃなさそうな感じはするから、あんまり神経質になる必要もないだろうが。

トイレが借りられなくなったという恨みは深い。
というわけでイスラム国を何とかしようと考えることになった。
まあ、厨二病なら原爆だ! 無差別爆撃だ!となるんだろうが、ここはやはり戦国大名にならい、孫子の兵法といきたい。敵の矛盾を突き、相手の結束をガタガタにしたいところだ。

宗教の世界では時々、エキセントリックで過激な進歩派が現われ、まわりを阿鼻叫喚に陥れるということはよくある。イスラム国もそれに近い。問題なのはイスラム教がオウム真理教なんかと違って、やたら巨大な存在だということだ。つまり全部を敵に回すとなると世界最終戦争を覚悟しないといけなくなる。
しかし、当方としてもイスラム国とは無縁の一般のイスラム教徒とコトを構えたいなんていう思いも全く無い。
要するに区別が付かないのが問題なのだ。
キリストは生まれた時はユダヤ教徒だったはずで、信じた神もユダヤの神だったはずである。が、それまでのユダヤ教にないことを神が言ったなんて言い出したために、旧体制側の人間は慌て、恐れた。で、どうしたかというと、異端認定したわけだ。つまりキリストが言ってるのはもうユダヤ教とは無関係の宗教だと決別を宣言したわけである。いわゆる破門ってゆうやつだ。キリストの居た時代、このユダヤ教の破門がどの程度の威力があったかと言えば、実のところ大した不利益はなかっただろう。ユダヤ教の寺院に出入りできなくなるとか、せいぜいそんなもんだったはずである。なんしろユダヤ教自体、ローマ帝国内の地方のマイナー宗教の一つに過ぎなかったわけで、帝国全土からみたらほんにとるに足らないコップの中の争いだったはずだ。
だがそれでもユダヤ人コミュニティの中で、言わば村八分にするぐらいの威力はあったはずである。このコミュニケーション遮断が、後にキリストを犯罪者として告発する上で有効に働いたはずだ。
まあ、中世ヨーロッパでの異端審問に比べれば遙かにカワイイもんだが、それでもいろいろと使い勝手はいい戦術である、
で、イスラム国の話に戻す。イスラム国が一般のイスラム教徒にテロを呼びかける。一部の判断力の弱いヤツがこれにそそのかされ、事件を起こす。これが今のイスラム国の戦法だ。イスラム国はイスラムではない。と、公認されれば、この呼びかけの威力はぐっと弱まることは間違いない。
問題は、このイスラム国を破門にできる存在がイスラム社会に存在しないことである。ローマ法王的な存在がイスラム社会にはいないのだ。ここが一番厄介である。
が、キリスト教徒やユダヤ教徒とは違う弱みをイスラム教徒は抱えている。それは「メッカ」の存在だ。
サウジアラビアのメッカ市にはあのカーバ神殿ってのがあり、イスラム教世界で最高の権威を持つ特別な場所とされている。故に毎年、サウジには世界中からこのメッカに巡礼者が訪れ、サウジを治めるサウド王家はその守護者としてイスラム社会では一目置かれた存在になっている。現状、メッカへ巡礼するイスラム教徒をサウド家は保護しているが、その一方で、イスラム教徒でない者のメッカ市内への侵入は一切認めず、イスラム教の守護者であることをアピールしているという面もある。
ならばである。サウド家がイスラム国はイスラム教徒ではない、と宣言したらどうなるだろう。
おそらくこれだけでイスラム国は相当影響力を失うと思うのだが。
問題は、サウド王家がイスラム国をどう見てるのかイマイチ、よくわからんということだ。ひょっとしたら裏で通じているじゃないだろうかと疑いたくなる情報もある。であれば、イスラム国の前にサウジアラビアの真意を暴くことが最優先課題ということになろう。

またイスラム国のテロの犠牲者が出た。日本人を標的に、と堂々と宣言しているのだから、狙われていることは間違いないのだろう。日本国内では幸い今までは何事もなかったわけだが、いつまでもこれが続く保証はどこにもない。日本って言ったって、もう回り中外国人がたくさんいて当たり前の普通の国になってるのだ。どんな人間が紛れ込んでいたってちっともおかしくはない。

実はアメリカの911があってから始まったテロとの戦いで、東京首都圏ではずっと厳戒態勢が取られているらしい。

とはいえ、日常生活でそれと知れることはごくわずかなものばっかりなのだが。
ヘリコプターが上空を二四時間常時飛んでるとか、電車や駅に厳戒態勢だと示す広告が出てるとか、公共スペースに置かれているゴミ箱が大きなものが入れられないような入り口の小さいものになった、とか、トイレを貸してくれる店が極端に減ったなどだ。

まあ、個人の経験としての実害として言えば、最後のトイレの問題が一番大きいような気がする。
レストランならともかく、一般の商店ではトイレを貸してくれるところはほとんど無くなった。
もともとトイレってのは防犯カメラを設置しにくい場所だし、海外の例で言えば、殺人、強盗、強姦などの凶悪犯罪の現場になりやすい場所なんだから当然と言えば当然なんだろうが。
ソフトターゲットなんていう、被害者が出るのなら誰でもいいというテロリストからすれば、これほどおいしい場所もないわけで、警備担当にとってはもう世知辛いなんて言ってられる余裕は全然ないというのが実情ということなんだろう。
そういえば靖国神社じゃ、公衆トイレに爆弾も仕掛けられてたっけな。
トイレ貸して、爆弾仕掛けられたじゃ、そりゃトイレ貸すヤツもいなくなって当然である。

ここは改めて交番の重要性を認識した次第である。なにしろ警官である。司法警察官である。相手に少しでも疑いがあれば、公務で質問もできるし、持ち物検査もできる特権を持ってる。そういう人間が管理しているトイレならまあ貸すこともそれほど難しくなさそうだからだ。つまり交番は公衆トイレとしての機能も期待される存在になったわけだ。

まったく困ったご時世である。あのイスラム国、どうにかできないもんなのかね。

イギリスのEU離脱国民投票が世界中に波紋を呼んでいる。何よりイギリス国内が大揺れだ。報道を見ているとひょっとしたら、「連合王国」の解体ということもありえそうな感じである。
もっともイギリスは国名通りの、ブリテン島の連合王国っていうような存在ではない。今なお、世界各地にある旧植民地から独立を果たした国々、英連邦諸国(The Commonwealth)の名目上の元首を英王室が束ねる盟主だ。イギリスと英連邦諸国の間は、普通の外国同士の関係では無く、いろいろな意味で「国内の延長」扱いがされているから、元々共通市場の体裁は結構整っていたのである。それ以外にも世界最古の英ーポルトガル同盟を維持し、そういう明文化された関係ではないと言いつつも、英米・英仏などの関係の深さは普通の国家間のつながりと同等とはとても言えるものではない。
つまり三行半を突きつけられた格好のEUの方が実害は大きいという感じはする。

ヨーロッパというところは歴史的には中国同様、離合と集散を繰り返してきた所だから、所詮は歴史の波動の一つというだけなのかもしれない。落ち着いた頃に見直したら、実際に変わったところというのは顕微鏡で見て初めて分かるレベルぐらいの差しか無いような気がする。
ヨーロッパはそもそも、どこもたいていは国民が頑固で、どこの国も政府の言うことを国民がすんなりと聞くようなところではない。そういうところだから、国家戦略のぶつかり合いがどうこう言っても、すぐに国民にはしごを外される危険が元々高いのである。アメリカだったら草の根民主主義と呼ばれるのだろうが、ヨーロッパの場合は、そういうもんじゃなくて、まず郷土愛というか郷土閥・門閥ありきという感じがする。至るところに階級社会の名残があり、その階級社会の名残は郷土に深く根ざしている。で、閉鎖的で自由が無くて、で、逃げ出した人達がアメリカで新世界を作ったわけだから、ヨーロッパ=旧世界という所は、もともと保守に馴染んだ人達が残っている地なのだ。こんなだから、郷土のシステムが壊れないなら、どこの国に属してもいいよみたいな考えの土地はかなり多い感じがするのである。

ところでヨーロッパはイギリスを含む地理的領域を指す言葉であることは間違いないのだが、英語の報道などのニュアンスから言うと、元々イギリス国内ではヨーロッパという単語を「大陸」という意味で使うことが多い。
つまりブリテン島と大陸という分け方である。だからそもそもEU=Europe Unionという名称自体が、イギリス人の目から見ると、意識的に合っていなかったという可能性もありそうである。

イギリス人の場合は、こういう細かなこだわりは元々かなり多いんだけどね。
因みにforeignは「外国の」という意味だが、それはイギリスと英連邦以外の外国に限定する意味で使う場合があり、同様にoverseasは「海外の」という意味だが、それはブリテン島以外の英連邦と限定した意味で使う場合もある。つまりドイツやフランスはa foreign countryで、オーストラリアやカナダはan overseas countryなのである。
こんなメンタリティの連中がそもそもEUに参加するって言ったという方が、今から考えるとよっぽどの驚きだったんじゃないかと。

一昔前、同性愛っつー分野は、SMと双璧をなす一大変態分野みたいな扱いだったものだが、今や時代は変わり、多くの先進国が同性婚を合法化しつつある。SMがどこの国でもいまだに変態の王道であるのに対し、同性愛の方はもう全然そんな目で見られるものではなくなった。

大きな流れで言えば、「性による区別」も「差別」と結局大差なく、あらゆる場面での差別撤廃を「正義」とする現代社会では婚姻ですらも聖域ではないということのようだ。
日本ではこういう海外の本流の動きとはやや異なり、医者がなかば無理矢理に「性同一性障害」なる病名を発明もしくは発見して、この道に天下の道筋をつけたものだから、同性婚=障害者救済みたいな意味づけで見られていることが多い。でも海外での同性愛/同性婚の扱いは決してそんな障害者救済に限定される意味ではない。

たとえばナノマシンと人工細胞によって、どんな場所のどんな怪我でも修復でき、そしてどんな細菌でもどんなウィルスでも確実に駆除できるとなったら、誰もが自殺みたいなバカをやらない限り確実に天寿を全う、つまり予め予定されていた細胞分裂回数の上限値に達することで起こる体細胞の更新完了による死を迎えられるはずだ。
ま、すぐにはムリだが、なんかそんなに遠くない将来、こうなる可能性はかなり高そうだ。
さて、そんな世の中で寿命ってのがどれぐらいになって、それに伴って当然見直されるであろう、労働力としての現役世代の定義がどんなものになるかは、ちと気にはなる。仮に寿命が150年ともなれば、きっと130才ぐらいまでは現役でいてもらわないと社会的にはいろいろと不都合なことが起こるんだろう。
もちろん五体満足であるということは必須条件であるとして。
超超高齢化社会である。

つまり我々は高齢化社会のまだ入り口に立っているだけなのである。本当に何が起こるのかはまだまだ何もわかっていないに等しい。そんな手探りの状態ですらこの問題を少なくとも上手に扱えているとはまだ言えない。

そんな中で少子化の助長につながると誰かが考えているのか、同性婚の正式立法化に政府は抵抗しているらしい。国レベルでそんな状態なので、自治体が勝手に結婚と同等の権利を認めるとか、かなりイレギュラーな事態も起こっている。だが大幅に寿命が延びる世界で考えたら、生殖育児が人生に占める時間は相対的に短くならざるを得ず、むしろ一生連れ添うとは言わないまでも、誰と一番長く一緒に暮らしたいかという選択肢を広げる意味で同性婚というのは新しい可能性ではないだろうか。
つまり初婚で異性と結婚し仮にこどもをつくり育てあげたとしても、子が独り立ちした後、何を頼りに夫婦のつながりを維持するのかと言えば、結局お互いに一緒にいたいという思いだけだからだ。当然、社会面、経済面でも、いろいろなリスクもある。常に円満に生活が続けられる保証なんてどこにもない。むしろ異性であるが故に分かりづらい面も多い。それでも自分を抑圧しながらパートナーとの生活を維持したいとしても、今以上に長い「老後」の時間があるとしたら、その困難さは今までの経験的知見の予想の範囲を超えるものになるだろう。

結局、同性婚の否定は一人暮らしの老人を大量に作り出し、かえって高齢化社会の負の局面を増大化させることにつながるような気がするのである。

ラーメンは好きなのだが、実は外食でラーメンというのはほとんど食べない。長いこと西日本で過ごしていたので、舌が完全に西に染まってしまい、東京では店に入る気がおきない。
ずっと以前、入った経験から言えばがっかりするばかりだった。
九州、中国地方でラーメンといえばまず豚骨味である。そしてそれを反映しているから、当然スーパーのラーメン売り場でも圧倒的に豚骨味のものが多い。
なかでもチャンピオンと呼んでいいのがハウスの「うまかっちゃん」だ。売り場の見た目のシェアで言えばもう五割を超しているんじゃないだろうか。これだけ存在が巨大になると、当然バリエーションが出せる余地が生まれる。で、今現在は、博多味、熊本味、久留米味、鹿児島味などなど、本来のうまかっちゃん以外にもバリエーションモデルが売られている。
で、西に戻ると私としてはこのうまかっちゃんを買って帰京することになる。あるいは家族が上京する際には、持ってきてもらっている。東京でもうまかっちゃん以外の豚骨味のインスタントラーメンなら買えるのだが、うまかっちゃんの豚臭い豚骨味とはかなり異なり、塩味のきついものばかりなのだ。
ずいぶん前だが、うまかっちゃんが東京で売られていた時代もあった。だが、一過性のブームだったらしく、すぐに市場から姿を消した。やはり東京は、ラーメンと言えば、醤油、しお、みそと言った塩味御三家が本流の場所なのだ。なので塩味のほとんどない豚骨は肩身が狭かったのだろう。
だからハウスはうまかっちゃんを西専用商品と位置づけたようだ。
もちろんネットを使えば買えるわけだが、送料込みの値段で見るとかなりの割高なものになる。まあ、あれだけかさばるものならそれも仕方がない。
しかし日本ってのは狭いようで家庭での食事に関しては広さを実感することが多い。そしてたぶん歴史の厚みと調理技術というのは比例するらしく、完成形の料理として評価するとおいしいものは西に多い。調理技術よりもむしろ材料の鮮度なんかを重視する料理では東も西に負けてはいないが、多彩な材料と調理技術に施された工夫の多さでは西に一長があるように思う。
面白いのはミシュランのランキングだ。東京はミシュランにレーティングされた店がかなり多い街でもあるのだが、ランキングに登場する店はどちらかというとギチギチの東京味の店では無い店が多いようだ。たぶんミシュランのスタッフは東京人の舌の傾向を読み取って、非東京人にも勧められる店をあえて選んでいるのだろう。まあ西日本人というよりも外国人を意識していることは間違いないだろうが。あんまりこれを分かっていないのは根っからの東京人で、「ミシュランに載っていたって聞くけど味が薄くてイマイチ」なんてコメントを聞くと、ああ、この人は正真正銘の東京人だねと私は感じてしまうのである。

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