研修補遺 授業改善研究会
事件は現場で起きている!
学びは授業で起きている!
1.事実を真実に、真実を「新実」に変える子どもの見取り
かなり前のことだと思いますが「事件は現場で起きているんだ!」というセリフが流行ったことがあります。今回の授業分析でも「学びは授業のなかで起きているんだ」という真実が見えてきました。ただ、一人一人の子ども中、あるいは学級の中で起きている学びの意味が授業者からは見えない、見えにくい面があることも確かです。
本会では子どもの逐語記録を元に実際の子どもの発言を分析して、授業中の子どもの「見えない、見えていない事実」を可視化して行きます。この可視化の過程で更に謎は深まり、なぜそうなのか、本当にそうか、そうだとすればなぜそうなっているのか、だとするとどの子の発言や教材のどの部分を生かすと、もっと子どもが伸びて行くのかが見えてきます。このことは何を意味しているのでしょうか?。
・授業の事実を見取ると真実を超えた新実(新しい意味)が見えて来る。
・授業を見取ることは子どもを見取ることを離れると空転し始める。
・授業を見ることは、表面的な子どもの表れや教材の価値を見破ることに繋がる。
・授業を見取ることは、自ずと次の授業づくりに向かう構想と意欲をかきたてる。
と言うことだと思います。
これまでも、大学の研究者や他県の教師、いわゆる高名な教師、教科書会社の方などが本会に参加したことがありました。参加した方々全員が、授業分析の奥深さに驚愕し、感動して帰って行きました。それは、授業と子どもを本格的に読み解いていくと、窮極の認識的一致が生まれるということを意味しています。本会の様な「目からうろこが落ちまくり、最後は目玉で飛び出しそうになる授業検討」を、これからの若い先生には特に体験させてあげたいと思っています。東京から出席された先生も「自分が教師として目指す新たな価値、軸が見えた」とおっしゃっていました。
2.エビデンスを超えてー科学を哲学に結ぶー
最近の研修会では多くの先生がタブレットを持っています。子どもだけでなく、教師も一人一端末の時代に入りました。「その説にエビデンスはありますか。ネットだと出てこないのですが?」と指摘されることも良くあります。
そもそもエビデンスは「あるーない」の二者択一ではなく、エビデンスレベルという程度問題のことでしょう。更に「エビデンスは低いかもしれませんが、逆に先生はエビデンスが高い指導しかしないのですね」と質問すると、はい、と言う答えは返ってきません。自分自身のやり方や考えを変えたくないために「エビデンス」を盾にしているに過ぎないのです。これではなかなか、変容しては行けません。
さて、昨日の授業検討で見えてきた成果について「エビデンスはありますか」と聞かれて、どうお感じになるでしょうか。エビデンスはありませんが、誰もが具体的な授業実践上きわめて重要な知見を得たと感じている筈です。禁じ手もなく、特にマニュアルもなく、それぞれの先生が「異見」を出し合いながらノーガードで闘論に参加することで、真の「問う論(討論)」が生まれて行きました。その中で参加者は様々な認識の変化を受容し、血肉化していくことができました。
私はここに「教室のエビデンス」というもの、そして、一回性であり再現できず、個性的でこの場にしか生まれない価値があると思っています。デューイは「エビデンスとは,行為の規範を示すものではなく,理知的な問題解決に必要な仮説を示すものにすぎない」と指摘しています。同じく、デューイは振り返りにおける視点として「エビデンスに基づくビリーフ(信念)」の重要性を指摘しています。私は更に、エビデンスを超える信念を大事にしたいと考えています。
この信念が表目的な理解を超えた、深遠な解釈(理解ではない)を生み出して行くのでしょう。私は社会のDX化はどんどん進めて行くべきだと思っていますが、何のため使うのか(目的)、どの程度使うのか(頻度)、いつ(発達段階の)使うのかという「教育的活用の哲学」が必要です。テクノロジは活用の哲学を失った時に、発電から核兵器の様に生産から破壊に向かうと言う危うさを孕んでいるのです。テクノロジの力が巨大化するところには、必ず哲学が必要になります。
3.授業の中でしか表れない子どもを捉える
二日間にわたる授業分析では、子どもに関する知見や教材に関する知見など、実に幅広く深い学びを得ることができました。私は「深い理解」に止まらず「深い学び」に結び付いたのだと考えています。試行錯誤によって謎(言葉で迷う)が深まり、理解と問いが子どもの姿と結びつて行くことによって「理解」から「学び」に変わったのです。理解から解釈へ、解釈から学習体験として指導知に組み込まれていく「体験」に昇華する過程が、深い理解を深い学びに変えて行くのです。これは、子どもの授業でも同じことではないでしょうか。
最後に今回の授業検討会から抽出したエッセンスとキーワードを羅列してみたいと思います。この解釈は先生方諸氏にお任せいたします。
・授業は子どもの「関わり合い」/わかり合い/見つけ合いから成り立つ。ここを媒介するのが教材である。特にこれかの授業では「追究ある問い合い」が重要。
・理解や達成だけでなく、考えるということを意識した授業。わかりやすい授業から「考えたくなる授業へ」。
・子どもが伸びるとき(状況)は「他者から認められた時」「自分で自分を認めた時」「他人を認めた時」「他人を認めた他者を認めた時」。集団の中でしか起きにくいこと、起きないこと。
・contents(内容や教材)competence(子どもの能力)contents(学びの文脈)
の三つが重要。どれかが欠けると、子どもにとって薄い、教材中心・教師中心の授業になる恐れがある。
・教材の価値を生かす➡子どもが教材の価値を生かす➡子どもが自分たちの持ち味を生かすことで、子どもの価値も子どもにとっての教材の価値も上がる。
・見取りの「ゆれ」「ずれ」「もれ」。それぞれに意味と危機がある。
・子どもが追求する姿の中に、子どもの個性が現れる。追求のないところに個性は現れにくい。少なくとも豊かな個性はあらわれない。追求を支えてえているものは問題意識と問題知識と共有する問い。
・褒める、認める、激励する➡上から目線ではない子どもとの共感関係を大事に。
子どもの自己受容を支える共感的受容。わかったね、できたね、よかったね・・という評価的な関わりだけでなく、子どもを丸ごと受け止める愛が欲しい。
・安東小の様な「子どもを目標に位置づける」という発想と、「子どもが学習と自己を価値づける学び」という発想の発見。
・・・・・・・私が「授業の中のエビデンス」として発見したことは沢山ありますが、きりがなくなりそうですのでこの辺で打ち止めにしておきます。
4.子供と授業者双方の「授業開前(カイゼン)」を
多くの研修会では、提案授業をした先生は研修後に「肩の荷が下りた、ほっとした」という表情をされていることが多いようです。「それほど大きな批判も受けなかったし、研修主任と校長の顔も立てられたし、ま、いいか」というのが、心の中の本当の声なのかもしれません。
しかし、本会に授業提案をして下さった先生の顔を見ていますと、最初は「不安と緊張でドキドキ」だったのが、検討会の終わりには「まばゆいばかりに輝く笑顔と期待感あふれるすがすがしい顔」に変わっていました。まるで別人の様です。
一日目の講話の時に「授業の鮮度を上げる」ということを申し上げました。調理人は素材の鮮度を見きわめることはできますが、素材の鮮度を上げることは基本的にはできません。しかし、教師は工夫によって授業の鮮度を上げることが可能です。この授業の最後に授業提案者に対して「子どもと学級が全然違うものに見えてきたでしょう?。凄く新鮮な気持ちと期待で学級へ行けそうでしょ」と問うと、例外なく「新鮮に見え過ぎて、早く子ども達に会いたい」という声が返ってきます。
今、超多忙かつ割り切れない現実的な子どもや保護者の問題と向き合っている先生の中には疲れ切っている先生もいます。そうした疲れた先生の授業では「氣」を感じることができず、先生の気持ちも子どもの学びも鮮度が落ちていると実感します。これでは、先生自身も子どもも幸せとは言えないでしょう。しかし、今回授業検討の様に子どもや教材の新しい側面が見えてくると、一転して授業に向かう氣が湧いてきます。
授業開前(ジュギョウカイゼン)は、子どもと教材の新たな価値に気づき、子どもと授業の鮮度が上がって行くことを意味する。
私はそう捉えています(エビデンスなし)。
先生と子どもの未来を開き、学びの鮮度を上げる授業検討。この質の高い振り返りをより多くの、特に若い先生に体験して頂きたいものだと願っています。
梶浦 真