小学校-中学校の「アクティブ・ラーニング」/学びと実践の充実を目指す【振り返りの指導】と【授業実践】

小中学校で校内研修講師をしている梶浦真です。日々の授業研究から感じたことを綴ります。

主に公立の小中学校で校内研修講師 https://researchmap.jp/read0141080/ として、先生方と勉強をさせていただいています。アクティブ・ラーニングのブログは2014年4月より開始。日々授業や教室で起きている様々な課題、喜びや成果を共有しつつ、教師と子ども双方にとって充実感ある授業づくりを目指します。昨今は【振り返り指導】の在り方を中心に授業のリデザインを研究。先生方の問題意識と、子どもの姿に学ぶ毎日です。先生と子どもの双方が元気になる授業、響室づくりを考えます。

研修補遺 授業改善研究会

 

事件は現場で起きている! 

学びは授業で起きている!

 

1.事実を真実に、真実を「新実」に変える子どもの見取り

かなり前のことだと思いますが「事件は現場で起きているんだ!」というセリフが流行ったことがあります。今回の授業分析でも「学びは授業のなかで起きているんだ」という真実が見えてきました。ただ、一人一人の子ども中、あるいは学級の中で起きている学びの意味が授業者からは見えない、見えにくい面があることも確かです。

本会では子どもの逐語記録を元に実際の子どもの発言を分析して、授業中の子どもの「見えない、見えていない事実」を可視化して行きます。この可視化の過程で更に謎は深まり、なぜそうなのか、本当にそうか、そうだとすればなぜそうなっているのか、だとするとどの子の発言や教材のどの部分を生かすと、もっと子どもが伸びて行くのかが見えてきます。このことは何を意味しているのでしょうか?。

 

・授業の事実を見取ると真実を超えた新実(新しい意味)が見えて来る。

・授業を見取ることは子どもを見取ることを離れると空転し始める。

・授業を見ることは、表面的な子どもの表れや教材の価値を見破ることに繋がる。

・授業を見取ることは、自ずと次の授業づくりに向かう構想と意欲をかきたてる。

 

と言うことだと思います。

 

これまでも、大学の研究者や他県の教師、いわゆる高名な教師、教科書会社の方などが本会に参加したことがありました。参加した方々全員が、授業分析の奥深さに驚愕し、感動して帰って行きました。それは、授業と子どもを本格的に読み解いていくと、窮極の認識的一致が生まれるということを意味しています。本会の様な「目からうろこが落ちまくり、最後は目玉で飛び出しそうになる授業検討」を、これからの若い先生には特に体験させてあげたいと思っています。東京から出席された先生も「自分が教師として目指す新たな価値、軸が見えた」とおっしゃっていました。

 

2.エビデンスを超えてー科学を哲学に結ぶー

 最近の研修会では多くの先生がタブレットを持っています。子どもだけでなく、教師も一人一端末の時代に入りました。「その説にエビデンスはありますか。ネットだと出てこないのですが?」と指摘されることも良くあります。

 そもそもエビデンスは「あるーない」の二者択一ではなく、エビデンスレベルという程度問題のことでしょう。更に「エビデンスは低いかもしれませんが、逆に先生はエビデンスが高い指導しかしないのですね」と質問すると、はい、と言う答えは返ってきません。自分自身のやり方や考えを変えたくないために「エビデンス」を盾にしているに過ぎないのです。これではなかなか、変容しては行けません。

 さて、昨日の授業検討で見えてきた成果について「エビデンスはありますか」と聞かれて、どうお感じになるでしょうか。エビデンスはありませんが、誰もが具体的な授業実践上きわめて重要な知見を得たと感じている筈です。禁じ手もなく、特にマニュアルもなく、それぞれの先生が「異見」を出し合いながらノーガードで闘論に参加することで、真の「問う論(討論)」が生まれて行きました。その中で参加者は様々な認識の変化を受容し、血肉化していくことができました。

 私はここに「教室のエビデンス」というもの、そして、一回性であり再現できず、個性的でこの場にしか生まれない価値があると思っています。デューイは「エビデンスとは,行為の規範を示すものではなく,理知的な問題解決に必要な仮説を示すものにすぎない」と指摘しています。同じく、デューイは振り返りにおける視点として「エビデンスに基づくビリーフ(信念)」の重要性を指摘しています。私は更に、エビデンスを超える信念を大事にしたいと考えています。
 この信念が表目的な理解を超えた、深遠な解釈(理解ではない)を生み出して行くのでしょう。私は社会のDX化はどんどん進めて行くべきだと思っていますが、何のため使うのか(目的)、どの程度使うのか(頻度)、いつ(発達段階の)使うのかという
「教育的活用の哲学」が必要です。テクノロジは活用の哲学を失った時に、発電から核兵器の様に生産から破壊に向かうと言う危うさを孕んでいるのです。テクノロジの力が巨大化するところには、必ず哲学が必要になります。

 

3.授業の中でしか表れない子どもを捉える

 二日間にわたる授業分析では、子どもに関する知見や教材に関する知見など、実に幅広く深い学びを得ることができました。私は「深い理解」に止まらず「深い学び」に結び付いたのだと考えています。試行錯誤によって謎(葉でう)が深まり、理解と問いが子どもの姿と結びつて行くことによって「理解」から「学び」に変わったのです。理解から解釈へ、解釈から学習体験として指導知に組み込まれていく「体験」に昇華する過程が、深い理解を深い学びに変えて行くのです。これは、子どもの授業でも同じことではないでしょうか。

 最後に今回の授業検討会から抽出したエッセンスとキーワードを羅列してみたいと思います。この解釈は先生方諸氏にお任せいたします。

 

・授業は子どもの「関わり合い」/わかり合い/見つけ合いから成り立つ。ここを媒介するのが教材である。特にこれかの授業では「追究ある問い合い」が重要。

 

・理解や達成だけでなく、考えるということを意識した授業。わかりやすい授業から「考えたくなる授業へ」。

 

・子どもが伸びるとき(状況)は「他者から認められた時」「自分で自分を認めた時」「他人を認めた時」「他人を認めた他者を認めた時」。集団の中でしか起きにくいこと、起きないこと。

 

contents(内容や教材)competence(子どもの能力)contents(学びの文脈)

の三つが重要。どれかが欠けると、子どもにとって薄い、教材中心・教師中心の授業になる恐れがある。

 

・教材の価値を生かす➡子どもが教材の価値を生かす➡子どもが自分たちの持ち味を生かすことで、子どもの価値も子どもにとっての教材の価値も上がる。

 

・見取りの「ゆれ」「ずれ」「もれ」。それぞれに意味と危機がある。

 

・子どもが追求する姿の中に、子どもの個性が現れる。追求のないところに個性は現れにくい。少なくとも豊かな個性はあらわれない。追求を支えてえているものは問題意識と問題知識と共有する問い。

 

・褒める、認める、激励する➡上から目線ではない子どもとの共感関係を大事に。

子どもの自己受容を支える共感的受容。わかったね、できたね、よかったね・・という評価的な関わりだけでなく、子どもを丸ごと受け止める愛が欲しい。

 

・安東小の様な「子どもを目標に位置づける」という発想と、「子どもが学習と自己を価値づける学び」という発想の発見。

 

・・・・・・・私が「授業の中のエビデンス」として発見したことは沢山ありますが、きりがなくなりそうですのでこの辺で打ち止めにしておきます。

 

 

4.子供と授業者双方の「授業開前(カイゼン)」を

 

多くの研修会では、提案授業をした先生は研修後に「肩の荷が下りた、ほっとした」という表情をされていることが多いようです。「それほど大きな批判も受けなかったし、研修主任と校長の顔も立てられたし、ま、いいか」というのが、心の中の本当の声なのかもしれません。

 しかし、本会に授業提案をして下さった先生の顔を見ていますと、最初は「不安と緊張でドキドキ」だったのが、検討会の終わりには「まばゆいばかりに輝く笑顔と期待感あふれるすがすがしい顔」に変わっていました。まるで別人の様です。

 一日目の講話の時に「授業の鮮度を上げる」ということを申し上げました。調理人は素材の鮮度を見きわめることはできますが、素材の鮮度を上げることは基本的にはできません。しかし、教師は工夫によって授業の鮮度を上げることが可能です。この授業の最後に授業提案者に対して「子どもと学級が全然違うものに見えてきたでしょう?。凄く新鮮な気持ちと期待で学級へ行けそうでしょ」と問うと、例外なく「新鮮に見え過ぎて、早く子ども達に会いたい」という声が返ってきます。

 今、超多忙かつ割り切れない現実的な子どもや保護者の問題と向き合っている先生の中には疲れ切っている先生もいます。そうした疲れた先生の授業では「氣」を感じることができず、先生の気持ちも子どもの学びも鮮度が落ちていると実感します。これでは、先生自身も子どもも幸せとは言えないでしょう。しかし、今回授業検討の様に子どもや教材の新しい側面が見えてくると、一転して授業に向かう氣が湧いてきます。

 

授業開前(ジュギョウカイゼン)は、子どもと教材の新たな価値に気づき、子どもと授業の鮮度が上がって行くことを意味する。

 

私はそう捉えています(エビデンスなし)。

 

先生と子どもの未来を開き、学びの鮮度を上げる授業検討。この質の高い振り返りをより多くの、特に若い先生に体験して頂きたいものだと願っています。

 

                       梶浦 真

受動的問題解決を能動的な問題創造につなげる学び

―私の問題知識・意識の変遷ー


1.桐淵博先生の指摘 

「問題解決能力が必要だとは、良く言われることでしょう。でもね、文部省へ行って感じたことは、問題解決より問題発見能力が大事だと言うこと。学校の中だけにいると、目先の問題にしか気づかなくなるし、中央に行くと大きな問題しか見えなくなりやすい。そういう自分の問題意識の問題に気付くことが大事だと思う。」この言葉は、埼玉県の旧大宮市内で校長を歴任された桐淵博先生から、その昔直接伺った言葉です。「問題解決よりも問題発見が大事」というやや逆説的な表現が印象に残りました。

その後、新聞記者を辞めて出版社を立ち上げた後も、「問題発見能力」という言葉が頭の片隅にあった様に思います。出版社を立ち上げた頃は2000年頃の「総合的な学習導入ブーム」となり、よい執筆者を得て大量に書籍が売れた時代でした。

2.出版の問題と教育の問題への気づき
 しかし、「この総合ブームはやや過熱気味であり、やがては落ち着いていくだろう。その先の出版を企画することが問題だ」ということに気づきます。常にブームの頂点にいる執筆者を捕まえることは難しく、補助的に自分でも書籍を書いておいた方がいいということに気がつきました。日ごろから学校の授業を拝見していて感じたことの一つが、学力格差に伴う「学欲格差」でした。そんな視点で書いた本が「学力低下より怖い学欲低下」でした。この本が意外なヒット作となりました。次に関心を持った問題が「子どものコミュニケーション能力の低下」でした。そこで、数学教育の金本良道先生と、国語の村松賢一先生との共著で「コミュニケーション能力の育成と指導」を発行。これは、かなりのヒット作となり一万冊があっというまに蒸散。
 更に、その次に関心を持った問題が「社会的な学力の形成と協働的な能力の育成」でした。この頃は、「総合ブーム」に逆風が吹き始め、「きめ細かな指導」「習熟度別・少人数指導」などが急激に支持された時でした。個人指導、個別支援全盛の時代でしたが「いずれ子どもは自分の独力だけでは解決しにくい問題と対峙することになる。協働的な学びを通して、協働学力を育てる必要がある」という問題を感じ、「協働学力」を発行。三宅なほみ先生に「挑戦的なタイトルだし、レシプロエンジンとロータリーエンジンに喩えたところがユニーク。でもね、協働的な学力が本気で重視されるにはまだまだ時間がかかりそう。トラディショナルな学力観から日本はなかなか抜けられないのよね」と言われたことを思い出します。その後は、「協働学習」関係の書籍を4冊ほど執筆しました。そして、AL関係の書籍を3冊執筆。これは、時流を意識して書いた本でした。

その次に関心を持った問題が「振り返り指導」です。沢山の授業を拝見して行く中で、「いい授業は子どもが自発的に自然と振り返りを起こすことがある、教師が振り返りを支援すればもっと質の高い学びになったはず」と感じていました。

3.振り返りへの着目

偶々参加したカリキュラム学会で「振り返りという学習過程の重要性を本格的に検討してみる必要があるのではないか。振り返り指導に関する事例研究が少なすぎる様に思う」と発言してみました。すると、「振り返りなんて教師個人に任せておけばいいことだ。そんなものは研究の対象にはならない。振り返りは必要な時に適当にやればそれでいい。学習の転移であるとか汎用的能力の育成だとか、そういう問題の方が重要だ」と、教育学者氏から逆指摘されてしまいました。
 それでも、振り返り(省察的認知過程)に問題があると感じていたため、「振り返り指導の基礎知識」を発行。26年度の小金井小の研究会の折に販売したところ、半日で300冊が完売。その後もAmazonでの販売が続き、かなりのロングセラーに(8版まで)。その後、福井大学教職大学院の小林和雄先生も「深い学び」と「振り返り」の関係に着目しているということで、「全ての子どもを深い学びに導く【振り返り指導】」を発行。その間にも何冊か「振り返り指導」「ICTと振り返り」関係の書籍を出しましたが、【振り返り指導】はAmazonでベストセラーとなり、現在もしぶとく売れています。そして、廃刊とした二冊に「振り返り」に関する新たな知見を加えて「振り返りの基礎意識」を現在編集中です。

4・そして、「自ら問いをつくる子ども」へ

そんな中で、ふと思い立って「PCにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくった」のが、今回の書籍「自ら問いをつくる子ども」です。教師が与えた問いに対して子どもが答えると言う指導は高い教育効果を持ちます。その反面で、能動的に問いかける教師に対して、受動的に回答するという学習活動に閉じがちな側面もあります。答えが確定している全称命題的な問いには、今後はAIが答えてくれる時代になって行くでしょう。その様な知識世界の気象変動が起きる中では、問いに受け答えするだけでなく、「自ら問いをつくる能力」が従来以上に重要になって来ると予測します。問題を解くことが問題だった時代から、問題を創出することが問題になりつつあると感じています。これまでも「作問課題」に関する研究は算数科を中心にして、総合的な学習でも取り組まれて来ました。しかし、それは部分的、個人的なものが多く、「学びの質を上げるために全教科で考える」ということは少なかったのではないでしょうか。

「自ら問いをつくる子ども」は、子どもが生来本能的に持っている「問う力」を生かしながら、より高次な「問う力」の育成を提案するものです。実質5日程度で書き下ろした、授業づくりエッセイであり、学術本ではありません。思想的な面もありエビデンスが高いとは言えないでしょう。それでも、「問いを問う」と言うことと子どもの学びの関係についてちょっと違った視点から考えるヒントにはなるかもしれません。Amazonで近日販売予定。ごく少数印刷。

1,体験VS記憶

「幸福な体験」と「幸福な体験の記憶」は同じではない。そう指摘するのはノーベル経済学賞受賞者のダニエル・カーネマンである。もしも、夏休み中の幸福な体験が後から思い出せない様に記憶から消去されたら、その体験の意味をどう感じるだろうか。思い出せない幸福体験には意味があるのだろうか。「体験する私」と「記憶する私」は同じではない。私たちが旅行に出かけるのは、その記憶が消去されてしまうことがないからだ。夏休みの貴重な体験は振り返って味わうことができる。そして、一度ではなく“度々振り返ることができる”と言う点に体験を振り返って味わうよさがあるのであろう。そうカーネマンは問いかけている。

夏休みは日常と異なる体験をする機会が増える。知らない場所へ行く、知らない人と会う、知らない情報と出会うなど、未知と出会う機会が生まれやすい時期だ。特に、普段は忙しくて会えない人や、じっくり話をする機会がなかった人と対話をする機会も増える。私も教育関係や同業の志だけでなく、異業種や地域社会の団体や組織(自治会や社会福祉協議会など)に参加する機会も多くなる時期であった。

 

 

2,唯一絶対主義の広がり

そうした日常とは異なる状況でじっくり話し合う体験からこの夏感じたことがあった。それは、「二項対立・二分法(dichotomy)的なものの見方の強まり」である。何か主張をする時に「絶対に○○が正しい」という一元的な正解を絶対視する声を多く聞いた夏であった。この様に偏る考え方は従来からあったが、○○でなければダメだという絶対的正解を主張する声がよりか高まっていると感じた。能動的でなければダメ、ICTを活用しないとダメ、子ども中心でなければダメ、と言う様に片方正解の主張は教育界だけでなく、どの業界にもある。この夏の対話から相反する二つの項目を抜き出してみたが、これが結構な数に上る。

ブルーナーが「教育の世界ではこれだけが絶対唯一の正解であるということはありえない」とどこかで書いていたが(教育という文化の中か・・・)、昔からそうした極端な主張をする人がいたのであろう。個人的には「流動性」「相対性」「創発性」の三つが、現代の状況を読み解くキーワードだと感じている。学びも、極なる一つのみを追い求めると豊かな営みにならないのではないか。夏休みの体験も、子どもそれぞれであるところに対話や共有の必然性が生まれる気がする。スライド2

 

3,学びの窓を広げる×極める

 教育界以外の方々には、強力なリスキル・ムーブメントが到来している。リスキルにはアップスキリングからアウトスキリング、リカレント学習まで色々なリスキル・レベルがある。ところで、このリスキルはアンドラゴジー(成人教育)だけの問題であって、子どもの教育にはあまり関係がないのであろうか。子どもは子どもらしい学習を積み重ねて、リスキルに必要なスキルや態度は大人になってから学ぶということで間に合うのだろうか。近年「学校の勉強だけをやっていても将来間に合わなくなるのではないか」と話す小学生~高校生の声を聞く様になった。正に社会と環境の「流動性」「相対性」「創発性」を肌身で感じているのだろう。

 そして、教育界以外の大人でも「自分の学びを広め×極める人」と多く出会う様になった。普段合わない人に一年ぶりに会うと、昨年と同じだけではない分野の学びや、新たなテーマに挑戦する姿を目にする。新鮮な学びによって、自分自身の知性や感性の鮮度を上げている様に感じる。おそらくこれかららの社会は、自分で意識的に学びの窓を広げつつ、極めても行く時代になるだろう。自律的な学びは、多様な窓を広げつつ自己構造化していく時代に入って行くと予測する。その学びの領域の広がりを表現してみたのが「学びの窓」である。

 スライド3
これを、学びの目的と方法で捉え直すと以下の様に整理できる。
スライド4

 

4,ネガティブ体験を意味づけて生きる糧に換えるリディンティブ・セルフを育てる

 「あのさ、俺、負けるって悪いことだと思ってたんだ。でもさ、最近そうじゃないと思ってきた。負けてもさ、納得できる負け方とかがあるはず。負けることが全部悪いんじゃなくて、負けっぱなしにしないとか、負けから課題をつかむとか、そういうことが大事じゃないかって思い始めているんだ」。

 先日、中学校の廊下で実際に聞いた生徒の立ち話。部活をしている三年生の発言。ネガティブな体験をネガティブなままにしておくのではなく、振り返って考察してそこから有用な意味を引き出して行く。
 マクアダムスはネガティブ体験をポジティブな経験としてリライトして行く自己を「リディンブテイブ・セルフ」と呼んだ。経験や体験を無駄にせず、振り返って意味づける。そうした、リディンブティブ・セルフがこの生徒の中で育ち始めているのだろう。そして、この発言が「仲間との対話の中で生まれていた」ということも、意味深く感じる。

 この夏、ポジティブな出来事ばかりで埋まっていた子どもばかりではないだろう。だが、仲間や教師との対話を通して「リディンブティブな自己」を引き出し、育てる機会はある筈だ。振り返りを通して意味ある夏休みとして記憶をリライトして欲しいものである。これは、Well-Beingに向かう上でも大事な力なのではないだろうか。

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