2019年06月26日

都合の悪い運命に流されるのか?都合良く運勢と解釈するのか?
自分を好き嫌いで考えたら、運命に流される自分は嫌いだけど、都合良く運勢を考える自分は好きということだろうか。何も出来ない自分は嫌いだけど、解釈を変えると、何もしない自分は好きということになる。ただ、サボっている自分は嫌いだけど、サボりたいと考える自分がいるということになって、どっちが好きかというと、好き嫌いで誤魔化すことの出来ない自分が好きなのだと思った。

kyoyou at 00:13コメント(0) 

2019年06月25日

結果が出せない僕には、何の意味も無い。一生懸命になることが大事だと思っていた頃の自分に戻って、やり直したい。失敗ばかりの毎日に終止符を打って、何かの結果を出せたら良いと思う。

kyoyou at 00:22コメント(0) 

2019年06月24日

発想の転換の出来ない母親は、僕とは仕事の考え方が違う。我が家の場合は、3ちゃん農業とは違う兼業農家と考えるべきなのか、それとも、中途半端な趣味の園芸だったと考えるべきなのか、全てにおいて、農家の考え方が異なっていたと思う。そして、母親の存在は、専業主婦のような父の仕事の専従者ではなかったと、僕は思う。かつての我が家の農業は、副業というより、趣味の延長だったように思えてしまう。良妻賢母とは名ばかりの妻と母が、家事手伝いと同じ状況で、忙しいという勘違いをしていたと思ったら、母親の固定概念を説明することができると考えた。結局、趣味の農業を批判しながら、贅沢な暮らしをする専業主婦が、実は家事が嫌いなのでは、?、なんて考えてしまう。
母親に振り回されるような感覚が、僕の発想を活性化するけれど、お互いに何も出来ないまま、相手を批判することになる。母親の考え方を僕の発想が批判しようとしたら、全く新しい今までなかったことを現実化しなければならない。例えば、燃料費削減のために、電動サポート付きの自転車式乗用田植え機とか、体の動きで発電する充電器付き電動草刈り機とか、自転式発電器、太陽光発電器付きハイブリッド軽トラとか、体を無駄に疲労させない農機具が必要で、かつ、それなりに運動することになる機械化が必要になる。振り回されるのではない振り回すことが必要になる。
ドローン導入が必要になると考えているのだが、母親には説明出来ないと思う。スマートホンがリモコン代わりになると考えたら、まだ時期尚早なのだが、経費削減のために経費がかかる現実的問題は説明出来ない。仕事の考え方が異なっているのだから無理だと諦めるしかない。コンピューターが必要なことさえ、母親には理解出来ないだろう。
お金がないから諦めるしかない。ひとつを諦めたら、2つ目も諦めるしかない現実に、全てを諦めたら良いという母親の解釈が頭を過る。振り回されて、諦めて、どうしたら良いのだろうか?高齢化社会だから、仕方ないというのだろうか?時代が変わろうとしているのに、諦めるしかないというのだろうか?

kyoyou at 00:04コメント(0) 
農業 

2019年06月23日

爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんの3人で農業を支えて来たと考えるのが、普通の3ちゃん農業だとして、父ちゃんの役割を忘れていると思った。爺ちゃんが農業経営者だとしたら、父ちゃんは次期経営者と考えているのだろうか?母ちゃんが農業経営者だとしたら、父ちゃんの役割は次期経営者ではないと思う。いきなり、農業経営者になると考えたら、様々な問題が生じて当たり前だと思った。
兼業農家として、3ちゃん農業を考えた時、その主体となる職業を忘れて、農業を支えて来たと考えるのは無理がある。父ちゃんが世帯主だと考えたら、主たる収入源を抜きに農業を考えると、3ちゃん農業の経営自体に矛盾が生じてしまう。家庭菜園の延長で、農業経営にたどり着くことは難しいと思う。逆に、農業経営を諦めて、家庭菜園に徹するためには、相応の蓄えと覚悟が必要だと思う。
高齢化社会の中で、3ちゃん農業も、高齢化している。世代交代という名ばかりの後継者では、3ちゃん農業の維持は難しい。高度成長期に、スポンサーとしての兼業を得て、贅沢な家庭菜園を農業だと勘違いした農家は、農業経営を見直す必要があると思った。農機具も農業設備も老朽化して、果樹や農地が高齢化して、農業環境が変わろとしていることに気がついて欲しいと思う。
父ちゃんがスポンサーだと考えると、新なスポンサーを求めることが大切だと思った。爺ちゃんが農業経営者だと考えたら、経営を見直す必要を感じた。婆ちゃんは、家庭菜園を見直して、現実的な農業に目を向けることを考えて欲しい。スポンサーがない、経営もない、収入もない状況で、贅沢な消費型農家を続けることは無理だと思う。3ちゃん農業を支えて来たという勘違いを、後継者に伝え、無理を言うべきでではないと思う。
3ちゃん農業は過去のもの、現状維持の現実ではやがて終わりを迎える。現在進行形の農業は、スポンサーと経営が必要で、後継者がそれを踏まえて変えて行くと思う。そして、夢のような未来型の農業が、もう手の届くところにあることを理解して欲しい。機械化農業は、勘違いをすれば、消費型農業になることも考えて、未来型の贅沢が当たり前になると理解して欲しいと思う。



kyoyou at 00:59コメント(0) 
農業 

2019年06月22日

頑張りたい自分がいる。頑張っている自分もいると思うけど、頑張れない自分もいる。人格が2つあるように思えてしまうけど、頑張らない自分が、頑張りたい自分を阻止するようなことが起きてしまう。それなりに頑張っているつもりなのに、結果が伴わないまま、逆にハプニングが起きて、トラブルが生じて、頑張り切れない。
今までお金で解決して来た問題が、お金がないために、問題解決にならない。問題を意識しないようにすると、新たな問題意識が無意識の中から問題になって、解決策がわからない。策戦なのか、作戦なのか、戦略的問題解決が出来ない。お金で解決して来たから、原点に戻るようなお金の問題を無意識に、お金で解決しようとしてしまう。
単純に考えると、お金がないから、お金を使わないように考えるのか、お金が入るように考えるのか、そのどちらも考えられない自分がいる。考えないまま行動してしまうと、もっとお金がない現実に直面してしまう。とにかく、単純ではない問題が、無意識のままだった現実を越えて、複雑化した問題として意識せずにはあいられない。ぼーっと生きていたことが悔やまれる。
積極的に、主導的に、戦略的に頑張りたいのに、無意識のうちに常識的な現実に阻まれて、頑張ろうとする自分が非常識に思えてしまう。お金があれば頑張る必要がないとすれば、今までの僕自身を全く否定することを前提に考えなければならない。ストレスという言葉で誤魔化すこともできるけど、無意識なストレスを意識化しても意味がない。潜在的な思考に欠陥があるように思えてしまう。

kyoyou at 01:54コメント(0) 

2019年06月20日

畑の草刈りをしながら、収入にならない悪循環の環境にあることを実感して、農業収入に見放された農業からの脱却を考えていた。全く農業を辞める選択はしたくない。老後の楽しみと考えている方の邪魔はしたくないのだけど、現在の環境では農業が楽しいとは思えない。全く異なる農業の考え方が求められて、思考が悪循環の中で空回りする。このまま、草刈りだけの毎日を続けることが現実に思えてしまう僕は、前向きに仕事をしているとしても、全く前向きではないのだ。
与えられたノルマをそれなりにこなしたとしても、収入にならないと思うと、ノルマ自体が間違えなのだと考えるようになった。環境が根本的に違うと思う。1人では難しいと考えて、人を雇ったとしても、収入が見えないまま、賃金を支払う意味がわからない。僕自身が、農地に対してボランティアをしているだけで、どんなに辛くても、無料奉仕で報酬は望めないように思えてしまう。
母親の時代は、農地が資産だった。農地の資産価値が下がって、農業の流動的観念が必要になったと思う。農地を荒廃させて、資産価値を下げて、固定資産税の対策と考えるのが現実になった。荒廃農地を、転用して、資産運用することも方法なのだが、農地になった歴史的由来を考えると、個人の資産というより、地域の財産と考えることはできないのだろうか?
用水に由来する歴史的開拓を、改めて、フロンティア的事業にしたいと考えていた。荒廃地を農地にした歴史が、農地を荒廃地に戻そうとしている。結局のところ、今までの農業では無理というしかない。荒廃地域が原状復帰して、現状維持と混同しながら、現状復帰さえままならない。
とりあえず、コンピューターを駆使した、思考を生かす環境が欲しい。

kyoyou at 01:25コメント(0) 
農業 

2019年06月17日

タイトルは、「焚いとる」や「他意とる」になると解釈すれば、政治が悪いという解釈は、全く無意味になってしまう。責任を追求しても、「誤りがありましたので、お詫びします。」で、斬られてしまう。文字列をどのように解釈するかの問題ではないはずで、根本的問題解決を避けて、不都合な真実は葬り去るような、「解釈」を「介錯」と誤変換したようなものだと考えてしまう。青磁が割られることはあっても、青磁が割ることは考えられない。意図的に誤変換した文章を、誤りがあるのでお詫びで済ませて良いのだろうか?
政治が悪いという解釈をしたくないけれど、責任追及ではない問題解決が成されていない。問題意識を持たない政治家による不都合な真実の意図的な誤変換だとしたら、納得がいかない。文字列として解釈されていると思えば、政治不信として納得するしかないのか?
2000万円という金額が、簡単に拒否される現実を、どのように解釈したら良いのだろうか?2000万円という大金が、不都合な真実だとしたら、どのように解釈したら良いのだろうか?2000円すら手元にない現実が、政治家の皆さんに理解されるのだろうか?簡単に拒否される現実を考えたら、政治不信になっても仕方ないと思う。

kyoyou at 00:08コメント(0) 

2019年06月15日

2000年の頃から何かが違うと思うようになっている。30代が終わる頃の僕は、未だ必死に頑張っていたと思う。現実と真実が同じだと考えて、辛い現実を試練のように受け入れて、対策を考えては頑張っていたと思う。今更だけど、結果的には何も僕には残らなかった。対策を考えても、現実にそぐわないと思えば、それはそれで諦めて来たつもりだったけど、それが違う形で、現実化していることに気がついたのが、2000年の頃からだった。
そして、今、何かが違うことに戸惑い、現実に流されている自分が流れに逆らいながら必死になっているように思えてしまう。母親の存在に影響されていることは事実だが、現状維持、又は縮小化する高齢化社会の中で、発展や成長を考えることは悪いことではないはずで、高齢化社会という現実に流されていたら、何も出来ないと思う。郷にいれば郷に従えというけれど、壊れかけた郷に従っていたのでは、郷にいる意味がないと思う。
多数決の社会で、不都合な真実を不都合なまま放置することが現実ならば、不都合なまま放置する選択を真実とは思わない。多数決の原理に反しても、現実が真実と同じなら、不都合と解釈することに同意してはならないと考えた。真実をありのままに受け入れて、対策を考えることが現実的な対応であり、対策を現実化することが必要だと思う。不都合な真実を都合良く解釈しても、不都合なまま放置しているのでは意味がない。都合の良い解釈で、放置することを選択してはならないと思う。
結果が不都合なものであっても、対策が受け入れ難いものであっても、真実を現実にそぐわないからと諦めていたら、真実を追求することはできない。コンピューターが出した結果を不都合だから受け入れないという現実は、真実を追求する前に拒否することと同じで、不都合の放置であって、対策を無視して諦めることになってしまう。貧困や格差の問題を考えると、2000万円が必要な現実があると思う。多数決によって不都合な真実を追求することを諦めるとすれば、民主主義も資本主義も、根底からくつがえす事態が勃発するかもしれない。

kyoyou at 00:48コメント(0) 

2019年06月13日

様々なことを考えると、景気は悪くなる方向だと思った。数字に騙されているように思えて、老後に2000万円が必要となることが真実で、不都合な真実なので、現実には知らない方が良いと言われているように思えた。都会ではどのように解釈されるかはわからないが、不都合な現実を騙しのテクニックで揉み消ししないと、景気回復は望めないということだろうか?
農業にも、AIやハイテクが導入されて、従来の農業機械では仕事にならない時代が、すぐそこまで来ているように思う。大型トラクターが無人化される。小型管理機はドローンやロボット化される。オートメーションによる施設が生産拠点になって、大量生産が必要になる。しかし、後継者難を考えると、高齢化する農家は導入が望めない。従来の機械化を維持するだけでも、赤字を覚悟する必要があると思う。
家庭菜園を農業と誤解していると、大変なことになると思った。自家用農業は、高齢化や老朽化による経費が増え、生活環境の変化に追い付けないと思う。荒廃農地が農業環境を悪化させて、個人管理の限界が始まっていると思った。6次産業の誤解は農家を困らせると思った。現場を無視した管理者は、データと現実の格差を無視できずに、現場に無理を強要することになると思う。所詮、商品を伴わない商売は成り立たない。農産物販売を伴わない農業も成り立たないと思う。
現実を考えると、老後に2000万円は、不都合な真実だ。2000万円の収入を得るために、どれだけの経費が必要になるのだろうか?老後を退職後と考えれば、2000万円の退職金を手に入れる人はどれだけいるのだろうか?

kyoyou at 01:31コメント(0) 

2019年06月11日

結果的に諦めたと同じような解釈になってしまうけど、これ以上、頑張れないと思った。前向きに生きることと、死を回避することは違うと思う。ただなんとなく生きて、死を回避することを必死に考えるのは、前向きに生きることと矛盾すると考える。逆に、前向きに死を前提に生きることは、難しいことで、ありがたい命をどのように生かすかと考えたら、運命の悪戯さえ回避することなく受け入れた方が良いように思えてしまう。貧困が、運命の悪戯だとして、貧困による死を受け入れることが僕には出来るのだろうか?
社会が人で構成されていると考えたら、格差がある社会はあり得ない。個人個人の個性があったとしても、個性による格差はあり得ない。現実には、個性を個性と認めらた一部の個性による社会が、個性を認められない人を支配しようとすることで、個性を認める社会が構成されていると考えてみたら、格差が生じて当たり前なのだと思った。多数派工作を利用するか、多数派工作に利用されるか、騙す側なのか、騙される側なのか、いじめるか、いじめられるか、、、、格差の潜在意識が当たり前に社会を支配している。
人は人の上に人を作らずして、人の下に人を作らずして、人の中に人を作ることが出来ないと思った。優劣、師弟、親子、、、、上下関係を無視することの出来ない社会に、格差を是正することは難しい。固定観念を流動化することは難しい。固定観念が潜在意識に固定化したら、流動的な現実に流されているように見える。流動的な思考が可能だとして、社会の個性を認めて、個人個人の個性を認めることを考えたら、矛盾が生じて当たり前なのだ。

kyoyou at 01:33コメント(0) 
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