2021年12月01日

天国と地獄を想像したら、生活する環境とは異なるように考えてしまう。六道輪廻の転生が現実だとしたら、天道と地獄道以外の転生が可能だと考えてみた。そして、それぞれの天道に近い階層と、地獄に近い階層を想像してみたら、神々の世界と悪魔や鬼に例えられる魔界が、仮想現実として、宗教や思想の想像物として存在しているように思う。 「餓鬼道」の飢餓や困窮が鬼の仕業だとしたら、生命を脅かす鬼は、病気や災害などに由来していると考えられる。自然界のバランスが起因していると考えたら、魔界に近い生命環境と天界に近い生命環境のバランスが、鬼によって崩されているとも考えられる。悪魔や鬼が、宗教や思想の想像物と考えたら、想像や理想の無意識な悪意と、地球上の自然環境が異なっていると解釈できると思った。下層と仮想の想像と創造から、飢饉と寄金が、寄生と規制の関係になって、神々の棲む魔界を作るような現実があると思った。全ての宗教や思想が、悪意あるものではないと思うけれど、無意識な悪意を考える必要があると思う。 弱肉強食の「畜生道」も、地球上の自然界の摂理だと考えたら、環境バランスが不可欠だと思う。食事のような生活に不可欠な行為を考えたら、共生する他の生命体とのバランスや、摂取する食糧問題、体内環境、排泄物に至る行為を、無意識に行っていると思った。わがままな食欲を支えている動物や植物、直接には食べているとは言えない微生物のような生命体、無意識に生命を支える活動を欲望と解釈してしまう。食べるための食糧を、他の目的のために、生命体と認識せずに、大量に生産することが当たり前だと考えてしまう。大量生産、大量動員、大量消費を推進して来た人々に、アンバランスという罪悪感がないことがわかったら、逆に、わがままな欲望を意識するしかないと思った。欲望を利用して、私利私欲を充たそうとする無意識な悪意を、天界や魔界が許すと思えない。生活する環境に沿って、進化と退化を繰り返す単細胞に悪意はないと考えたら、支離滅裂な私利私欲を正当化してしまうことに矛盾を感じる。 「自然に帰る」と考えてみれば、生命を失った細胞を微生物が分解して、「屍」や「排泄物」は、別の生命体を支える有機物になるということだと思う。死期の魂が六道輪廻を辿るとして、不浄の物質が浮上して極楽に達するとは思えない。浮上するのは不浄でない不定な無常で、無情な重力に逆らえない物質は自然の引力によって集まると考えた。「屍」や「排泄物」、残飯、黴菌など生きている人間に不要な物質を、不浄な物質と考えることが当たり前だとしたら、地獄の環境は分別されないゴミの山のような気がする。「自然に帰る」ことのできない浄化されない悪意のある魂も、そこに集まると考えたら、地獄や魔界に迷い込んだら、輪廻も転生もあり得ないまま、不浄な物質と化して行くように思う。 生命体として甦る確率を考えてみれば、自然破壊や殺戮行為、不浄や無情の誤解、無意識な悪意などを考慮したら、皆無に等しいと思う。異世界が存在するとしても、人として転生する環境がなければ、生命体として甦る確率より低いと思う。人生は一度限りと考えて、生命体として生命をどのように活かすかだと思った。微生物に生命としての浄化活動が存在しているとしたら、わがままな欲望に身を委ねることではないと考えて、生命共同体としての環境を考えながら、生きる人としての環境を再構築する必要があると思う。 地獄のような環境の中でも、環境適応と進化を繰り返す原始生物のような生命体が確認される時代に、極楽浄土を勘違いしたまま、仮想や幻想に走ってしまうことは、下から足を掬われることになってしまうと思う。救われない地獄の環境を考えたら、地獄が仮想空間に現実化する無意識な悪意を含んで、環境適応と進化を礎にした再構築が必要だと思った。続きを読む

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2021年11月27日

「Win・win」の関係と考えたら、かつての「勝ち組」だけが勝ちの価値を共有して、「負け組」はオマケみたいな勝つための相手になっているように思う。便利なツールというより勝つためのアイテムを手に入れるために、勝敗が存在するとしたら、「勝ち組」は勝ち続けて、「負け組」は負け続けるということになると思う。富裕層と困窮層はますます大きな格差となって、富裕層にスポンサーという構図ができて、一般的大衆は観客になると考えたら、参加型の娯楽とは意味が違う気がする。Show businessと考えたら、全く新しい価値観が存在して、誤って陥ってしまう危険性があるように思う。ブラウン管の向こう側は異世界では済まされない反面で、悪意の格差が当たり前のように流れているように考えてしまう。 「game over」から「reset」して「game start」となる流れを、現実に作ることは難しい。終わることの無い戦いだとしたら、勝敗を知らないわけで、負けるが勝ちと考えるのが当たり前だと考えてしまう。負け続けることが「re:set」だとしたら、「winner」は異世界に転生して、現実に存在していない相手と戦い続けて、負けことが当たり前になってしまう。格差を実感できないまま、再挑戦しても勝ち目はないということだろうか。 負け続けるワーキングプアを聖職のように考えたら、「win・win」の異世界が影響しているように思う。ワーキングプアを実感できないまま、「reset」しない相手に騙されていると困窮にも気がつかないと思う。例えば、そこに勝敗は存在しないのに、「豊かな老後」という言葉に騙されてしまう。家庭を持てないワーキングプアを聖職にしてはいけないと思う。現実の生活を共有する相手を探して「re:set」していただく必要があるように思うのだが、無職より迷惑な聖職が当たり前に存在していると思った。 娯楽が増えたと思う反面で、誤解の聖職に落ちたまま、娯楽とは無縁になってしまう。娯楽で生活ができる人がいる反面で、ワーキングプアを知らないワーキングプアーがいる。かつての娯楽が死語になって、ワーキングプアと困窮を、矛盾した生活だと考えてしまう。現実のワーキングプアはゲーム化して、富裕層に操られて、誤落化してしまう。下手な勝負をするより、負ける勝ちと考えた方が良いのだろうか。 続きを読む

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2021年11月25日

「無機物から生命体が誕生するプロセス」は再現されていない、とあった。「生命体から有機物が発生する」とか、「無機物から有機物が発生する」とか、当たり前のような日常の中で、無機物から生命が誕生することがないはずなのに、人間だけが生活をしているように考えてしまう。無機質な存在から生活は生まれないと考えたら、生活から有機質は生まれないし、無機質から有機質を生産する意味はないと思う。 生活を、生命体として生きる活動と考えたら、無機質な存在の人間は不要に思う。ロボットやAIを無機物質の集合体だと考えたら、有機物質の集合体としての人間は、生活を支配されてはいけないと思う。アルゴリズム的プロセスが、現実的に実行可能であることを意味しないように、仮説の生活をプログラム化したところで、生命体としての生きる活動にはならないと思う。疑似デジタル化された高齢化社会は、結果重視のシミュレーションに振り回されて、根回しや段取り、手順や工程、実践や活動、など、関係しないアナログな存在を無視しがちだと思う。有機質の老人が無機質に生きていると考えたら、生活の意味が違うと思う。 生活の意味を考えながら、変則的な魔方陣を作ってみた。正しいと考えるか、間違っていると考えるか、修正する必要があると考えるか、そして、そう考えた手順や理由を回答していただく。十人十色千差万別の回答があって良いと思う。次に、無機質な回答を望まないとして、計算手順や処理方法を、分析して集計して、フローチャートにして、再度、魔方陣の意味も含めて出題する。仮説的プロセスの回答例が、正解とは限らないと思う。生活の意味も、十人十色千差万別だと考えたら、生育活動、生産活動、生命活動、生存活動、生息活動、生態活動、生前活動、生計活動、など、生きる活動とは異なる回答があって良いと思う。生活の活動に正解があるとして、生活の意味に正解があると思わない。各論と総論に矛盾があると思う。 地球の生命体がどのように生命を得たのか? そして、生命とは何か? 生命があるから、生活があって、生きることを考えられる。当たり前なことと思うけれど、その当たり前に感謝して、それぞれの生命に感謝できたら良いと思う。続きを読む

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2021年11月16日

もしかして、仮想空間がコンピュータの中にあると考えて、計算上認識可能な空間だと限定したら、メタバーチャルでもなければ、メタバースでもない、現実的情報処理のゲームと考えていないだろうかと、儲かれば良い的な発想になっているならば、貧乏生活を想像して欲しくない。コンピュータ上の欲求不満解消だけだとしたら、最高級な生活を体験して、現実が虚しくなるだけだと思う。死後の世界の妄想と変わらないと思う。問題解決のアイテムとは何かを、現実的にシミュレーションしたら、アイテムを越えて、問題意識を改善できると思う。仮想空間そのものが商品というより、問題解決を目的にできたら良いと思う。最高級や極楽浄土が素晴らしい世界だとしたら、それを現実に分配したら良いと思うけれど、悪意を伴う感情に繋がるなら、提供元に悪意が無くても、素晴らしいという表現は良くないと思う。 無意識に大多数に紛れてしまう自分が、仮想空間が現実ではないという自覚を持って、善意と悪意を判断することはできないと思う。現実とフェイクが、現実の世の中でも、多数派に支持されてだけで逆になるような、錯視的民主主義が素晴らしいとは思えない。個性と自由を尊重しながら、多数派工作に騙されることがないように考えたら、仮想空間は危険だと思う。大多数決で決まったから正しいとか、教科書や論文だから正しいとか、自分の立場での発言を忘れたたら、なんとなく無意味だと思った。上から目線の「素晴らしい」を、単純なデジタル感覚で賛同することが正しいかどうか、疑問に感じた。 あり得ない表現が、当たり前に間違っていると思うのは、当たり前を有難いと思わないからだと思う。当たり前の現実が正しいと考えたら、世の中が間違っているように思うのは、少数派の強がりだろうかと疑問に思う。間違っていると言ったところで変わらないと諦めたら、良くなるはずの世の中は変わらないと思う。想定外の現実に、打ちのめされたら終わりならば、既に終わっている現実があるように思う。終わっていても、存在していたら、ゴミ扱いなのだろうか? パソコンのゴミ箱を考えたら、完全消去が簡単にできるように、ゴミは消えてなくなる。現実には、ゴミの問題が解決できないと思う。断捨離の前に、ゴミを作らないことだと思うけれど、素晴らしい世界を支える過程で、ゴミが存在していると思う。その捨て場所は、奈落の底だろうか?上からゴミを捨てるのが、当たり前と思う前に、下からゴミを集めて、上で処理するという発想に変えたら、良いと思う。続きを読む

kyoyou at 00:01コメント(0) 

2021年11月14日

生き地獄が現実だとしたら、悪意ある極楽の仕業だと思う。宗教や思想が、そして悪意ある仮想空間が、支配と従事という見えない壁を作り、支配に従うことが幸福に繋がっているという意識があるからだと思う。主従関係が不要だという意味ではないけど、協力と役割分担というシステムを忘れた従事は、奴隷制度のような悪意を生じさせ、双方向から壁を作っていると思う。生きとし生けるものがそれぞれの役割を持つとしたら、役割を履き違えた現実があるように思う。生き地獄と考えたら、地獄から下を見下げたら良いと思う。 地獄から下には何もないと考える前に、「悪意ある極楽」で書いた「極楽浄土」を考えたら良いと思う。生き地獄は、六道輪廻の立方体で考えたら、地獄道の平面的な説面に過ぎないと思う。地獄道で迷う人を、宗教や思想で救うことができると考えたら、善意の地獄が存在すると思う。善意の仮想空間が、悪意を含むことがないまま救いになるのなら、生き地獄を改善する道が拓けると思う。生き地獄という箱や部屋に引きこもらないこと、生き地獄と地獄は異なるということが大切だと思う。霊魂の存在となって地獄道を歩んだとしても、生きていたら、道は拓けると思う。 自分や自分達の都合だけで、偽善の悪意に気が付かない人間が上にいるとしたら、六道輪廻の立方体を逆さまに考えたら良いと思う。知識や地位で上から目線の人間が同じ場面を支配していると考えているだけで、権力や財力などの力は場面が変われば変わると信じたら、頑張れると思う。頑張らなくても、場面を変えたら、道が拓けるかもしれないと思うけれど、悪意や敵意に翻弄されて、矛盾を受け入れたら、自分の善意が見つけられなくなると思う。矛盾に気が付かない人には、矛盾を変えることはできないと思う。 来世では救われるとか、転生したら幸福になるとか、安楽死のような考え方は良くないと思う。孤独感、独占欲望への抵抗、劣等感、嫉妬心、喪失感、不信感、残される不安は、悪意に変わると考えたら、善意の地獄などあるわけがない。下から見ているだけでは変わらないと思う。どうして良いのか?が、わからないとしたら、「?」を隠したり、誤魔化したり、しないことだと思う。悪意の罪悪感はいけないことだと思うけれど、善意の罪悪感は誰かを楽にすると思う。残される苦悩や不安を、善意に解釈したら、悪意ある霊魂に迷うことはないと思う。追善と考えたら、残されるものへの課題だと思う。 限りなく透明に近い何となくクリスタルな六道輪廻のルービックキューブが、超高速でランダム回転していると考えたら、占いの水晶球に魂が映るようなニュアンスを図にしたら、マイナーなネガティブ思考に迷うより、ポジティブに上を向いて、プラス思考でまだ見ぬ遠い惑星が見つけられるかもしれないという、とんでもない発想が湧いて来るイメージになった。わけのわからないことを善意として伝えられたら、くだらない発想も棄てたものではないと、役にたったと勝手に解釈したいと思う。続きを読む

kyoyou at 00:00コメント(0) 

2021年11月12日

世の中が、極楽に近くなっていると考えたら、昔人が考えていた極楽とは異なると思う。天上人とか、天下人とか、全ての人が成れるわけではない時代に、霊魂の存在は、それらに匹敵していたのかもしれない。生命力を持つ霊魂が、極楽浄土に辿り着く道程を天道だと考えたら、仮想空間が宗教の中に存在すると思う。過去に存在する仮想空間と、未来像としての仮想空間が、同じ極楽とは思えない。現在における仮想空間が、表現力によって現実と同じものと考えるような錯覚を、異世界と呼ぶとしたら、異世界空間と仮想空間は異なると思う。シミュレーションは、現実とは異なる仮想現実だと思うけれど、目的を持つことが大切だと思う。むやみやたらに仮想空間を共有することは、自我の形成を乱すことになりそうで、危険に思えてしまう。 六道輪廻の生命力が影響を及ぼす範囲を六道と考えたら、死後の世界は、仮想空間に作るべきではないと思う。霊魂に生命力があると考えて、仮死状態でのいわば妄想の夢が存在するとしたら、死後の世界はシミュレーションすべきでないと思う。仮想空間と現実の境界、結界が曖昧だとしたら、生命体として存在しない霊魂のような存在が、現実のように存在してしまうと考えられる。その存在に苦しめられるとしたら、自己責任として片付けて良いのだろうか? 悪意のない死後の存在を否定することはできないと思う。そして、悪意のない仮想空間の存在が望ましいと思う。現実に悪意の存在がある以上、悪意のある仮想空間は存在してしまうと思う。善意と悪意の境界があるとして、それは誰が決めるのか?悪意と気が付かないまま、悪意のある環境に苦しめられるとしたら、自己責任ではないと思う。望ましい仮想空間と裏腹に、望ましくない環境が残されるとしたら、仮想空間は作ってはいけないと思う。現実の環境が現実として改善しないのならば、シミュレーションする意見がないと思う。 悪意のある霊魂が、天道をさまようと考えて、悪意のない霊魂だけが極楽浄土に解脱すると思う。悪意のある極楽が存在すると考えたら、六道輪廻は現実との境界に位置する空間だと思う。現実の面として人道を考えたら、悪意のない人間は存在しないと思う。その悪意に気が付かないだけの人間にはなりたくないと思うけれど、環境の矛盾がそうさせていると考えたら、環境に適応するしかないと思う。気が付かないのではない適応が現実と矛盾してしまうけれど、悪意に気が付かない人間が存在する以上、無駄な抵抗はしたくないと思う。 続きを読む

kyoyou at 15:45コメント(0) 
悪いこととは思わないけど、以前は、目上の人に対して意見を控えることが普通だったと思う。いつからと考えたら、俺も、目上から煙たがられる存在だったのかもしれない。目上の方の全てが上から目線とは思わないけど、下から目線の人を馬鹿にしたり、いじめの対象にしたりする傾向はあると思う。全ての方向から意見するようなリーダーが求められると思うけれど、上から目線の人からは、煙たがられると思う。だから、下から目線は駄目みたいな決め方は良いとは思えない。
例えば、大きな集団が登山する時、力の有り余った未経験の若者が先頭に立つとしたら、全ての人が登頂する可能性は低いと考えている。先導と先頭は違うと思う。先頭の登頂者が山頂で「着いた〜」と叫んだとして、最後の登山者はどう思うかということなのだ。リーダーは、先頭が望ましいかというと、そうではないと思う。最後から、上を見上げるサブリーダーがいるとしたら、先導できると思う。下から目線だからこそ、集団全体を見上げることができると思う。
望ましいのは、少なくとも3人が協力と役割分担をするスタイルだと思う。経験を積んだ先導するメインリーダーと、リーダーから見えないサポートをするサブリーダー、そして情報の伝達と分析をするサイドリーダー、臨機応変にメインとサブとサイドが協力と役割分担をこなせば、メンバーは安心だと思う。そして、メンバーが協力と役割分担を把握したら、目的は達成できると思う。最初から無理だと考えているメンバーが多いとしたら、それぞれのリーダーシップが試されていると考えることだと思う。船頭多くして舟岡に上がるということだろうか?
要領を得ない上から目線では、目的は達成できるとは思えない。ちゃんと説明できるとしても、聞く耳を持つかどうか、判断することが必要だと思う。行動を共にすることと、共に行動することが、違う解釈になっていたら、目的は達成できないと思う。豚も煽てりゃ木に登り、猿も木から落ちるということだろうか?

kyoyou at 05:15コメント(0) 

2021年11月07日

「NPK888」が何かわかる人はいると思うから、正解は後日ということにして、「ケイ酸カリウム」が肥料費なのか、土地改良費なのかと悩んだことがある。土壌改良と、土地改良は違うということで、肥料費に仕訳したように覚えている。「硫安」とか、「尿素」とか、100%の肥料もあるけれど、化学配合肥料の場合、その他の成分を考えて使っている人は少ないと思う。カリウムとナトリウムのポンプを考えたら、計算しなくても動物の細胞はバランスをとっているらしい。脳を持たない単細胞生物が、生き残るためにバランスを保とうとするとしたら、バランスを保てない脳を持つ人間の方が、生命体としては、劣っているかもしれない。
感情を持つことにより、感覚を調整できるようになったはずなのに、能力を持つことによって、他の生命体と間隔をとるようになってしまったと思う。野生の本能として感覚的に勘定していたバランスを、能力を使って計算しないとバランスが取れなくなったのかもしれない。本能的計算力と考えたら、遺伝的な計算力を持つ人もいると思うけれど、AIに補助的役割を分担させて、本能としての計算を活かすことが可能だと思う。
感情的に欲望を満たすようにAIを使うより、生命体としての次世代のためにAIを補助的に使う方が良いと思う。本能に忠実に、感情的な欲望を排除したら、人類本来の感覚が呼び起こせるような気がする。AIには持つことのできない立体的な計算された分野が、生命体にはあると思う。減数分裂によって、受精可能な細胞が産まれて、受精によって新たな生命体が産まれるように、本能から後天性の感情や欲望を排除する減数計算が、人間本来の生命体としての次世代が産まれるように考えたら、平面的な感情や欲望は必要ないと思う。
無意識に生きて、無意識に次世代につながる術を、意識させても無意味に思える。老後に、生きることが無意識にできないとか、死ぬことや老いることや病を意識してしまうとか、本能とは思えない。AIが、特定の生命体が有利に使えるとして、特定の生命体が支配するために使われたら、根本的に無意識な生命体は滅亡の道を選ぶことになるような気がする。

kyoyou at 23:32コメント(0) 
現実と仮想空間の穴埋めは、誰が、どのようにするのか?と、考えてみたら、無責任な仮想空間に悪魔や鬼が住み着くような妄想を考えてしまう。過去の仮想空間が悪魔や鬼の棲みかだったとしたら、未知の世界が狭くなって棲みかを失った悪魔や鬼が仮想空間に出現するようになったら、仮想空間は理想郷ではないはずで、悪夢を体験させられるような気がする。悪魔や鬼を人間が作った悪しきものと考えて、仮想や妄想が素晴らしい世界だと錯覚したら、人間が作った素晴らしい世界に真っ先に入り込んでいても不思議はない。
仮想や妄想で、現実化していないものが支配すると考えたら、上から目線だけでは対抗できないと思う。理論武装した上からからの攻撃をどのように考えるか?それが問題だと思う。仮想空間とは言うものの、所詮、画像の時空的組み合わせで、「想定外」という現実逃避の現実を想定したら、平面的思考回路は狂っても仕方ないと思う。アニメやゲームの世界が現実化したら、下層の現象が仮想の幻像として現実逃避が加速すると思う。格差が拡がるのに、仮装したブライドによって、上から目線では平面化現象として映って、仮想化してしまうと思う。
今更ながら、3ちゃん農業の形骸化と同じように、農業収益は減るのに、農家所得は増えるから、最低でも生活が成り立たつ。逆に、農業所得を増やそうとすると、農家としての経費が増えて、生活が成り立たなくなる。形骸化した農家は、次世代につながる術を見出せないから、後継者を探そうとしない。衰退する農家と進化し続ける農業の格差は、農業外所得(年金など)によって、損益計算書では見えない。貸借対照表を用いても、本当の格差を説明できない。最低でも自家消費で食って来たというブライドと高齢化による衰退が邪魔をして、キャッシュフローを用いる農家は、皆無に等しいと思う。
仮想空間アプリより、キャッシュフローアプリを考えるべきではないだろうか?高齢者向け家計簿と考えたら、難しいことではないはずだと思う。農業という現実から逃避した3ちゃん農家が、後継者のいないまま、衰退する。絶滅危惧を考えたら、不要な化石燃料の消費にもなっている、後継者のいない高齢事業者の再構築を考える必要を提案したい。老後が無駄遣いになるような社会から、老後でも働いたら所得になる社会を考えないと、ワーキングプアの問題は無駄遣いによるものという錯覚で終わってしまう。

kyoyou at 11:29コメント(0) 

2021年11月06日

失敗に気がつかない人が多いと思う。失敗に気がついても、気がつかないふりをしている人が、もっと多いと思う。上から目線で、失敗を指摘する人はいるけれど、下から目線で、失敗を修正しようとする人は少ないと思う。共に社会の失敗を修正しようとしても、上から目線の指摘や追及を恐れて、責任転嫁していないだろうか?上層部の失敗が、下層の責任追及になったとしたら、誰も修正しようとしないと思う。修正案がないのに、責任だけ追及されたとしたら、組織は形骸化してしまうと思う。伝達系統がないのに、責任だけ追及されるような気がして、成功してない理由が、失敗だけにあるように思えてしまう。「失敗は成功の素」とはいえ、失敗を放置して勝手に成功が産まれるとは思えない。「修正は成功の素」だと思うけれど、成功を信じながら、自ら修正に走る人は少ないと思う。
過去の失敗を引き摺りながら、同じ失敗を繰り返して、ギャンブルのような成功を夢に見たところで、繰り返す失敗は増えるだけだと思う。修正しようとしても、増え過ぎた失敗で修正の余裕がない。失敗に気がつかないふりを続けることが、成功への道だとは思えない。不正な手段で成功しても、失敗を放置している限り、成功とは言えないと考える。修正案を実行できないとして、実行できない理由に失敗があるとしたら、できる人に道を譲るのが良いと思うけど、成功に執着して、孤立してしまう。
高度成長の歪みを考えたら、成長していない分野に可能性があると思う。失敗として放置された分野の修正が急がれると言いたい。失敗に気がつかない人は、失敗を指摘するのではなく、共に修正する道を選んで欲しいと思う。

kyoyou at 21:28コメント(0) 
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