高校の友人がヒンデミット事件について書いていて、それがすこぶる面白くかつ簡明だったので紹介します。
1933年、ドイツでナチス政権が成立した。
これは、当時のドイツ知識人たちにとっては衝撃的だったことらしい。彼らにとってみれば、ナチスはただの気の狂った人間の集まりであり、その声高な暴力的主張など一聴の値もしないと考えていたそうである。かの指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは政権成立直前にヒトラーに会ったが、その会見直後に「まったく話のわからない愚か者だ。こんな人間がドイツの政治的指導者になれるわけがない」とコメントしたそうである。
しかし、ヒトラーは政権を手に入れた。まさに、当時の知識人層にとっては寝耳に水の話である。
ナチスは、政権の座を手に入れるとすぐに大規模なユダヤ人排斥運動を展開した。これは一般人に対しても行われたし、もちろん音楽界の重鎮にも矛先は向けられていった。
まずは、ブルーノ・ヴァルター。彼はフルトヴェングラーの初期の活動を全面的に後押しした謂わば巨匠の「恩人」であるし、何よりフルトヴェングラーとともに西洋史上最大の指揮者の一人に列せられる大指揮者である。しかし、彼はユダヤ人であるという理由だけで、演奏会を勝手に中止させられたり、開かれた演奏会も異臭ガスを放たれたりと散々な仕打ちを受け、ベルリンから追放された。
他にも、多くのユダヤ人音楽家がナチスの手によって粛清されていった。このような事態を受けて、フルトヴェングラーはたびたびナチスに対して抗議はしていたものの、そのたびにヒトラーはうやむやな返事をするばかりで、決定的な衝突は意図的に避けられていた。
翌年、フルトヴェングラーはついにナチスと全面的に対立することとなった。
巨匠は、ドイツの偉大な現代作曲家であるとともに彼自身の友でもあるヒンデミットの≪画家マチス≫というオペラをベルリンで初演することになっていた。巨匠はこのオペラの初演に大変な意気込みを見せていたが、突然ナチス当局から演奏会の中止を告げられた。
ヒンデミットはアーリア人の家系だがユダヤ人の妻を娶っており、その上彼の作品はヒトラーに大変嫌われていた。性的な表現を忌み嫌う総統は、彼の≪今日のニュース≫というオペラで女性の入浴シーンが官能的に演出されているのを見て、散々に貶したそうである。そのため、ヒンデミットにもナチスの矛先が向けられることとなったのである。
このナチス当局による不当な演奏会中止を前にして、フルトヴェングラーはようやく重い腰を上げたのであった。彼は、ヴァルターのように穏健な態度を取ることはなく、「ヒンデミット事件」と題する論文を新聞に寄稿し、ナチスの人種政策の是非を直接世に問うた。
この「ヒンデミット事件」と題した論文は大変な反響を呼び、フルトヴェングラーはベルリンでの演奏会の度に普段以上の、演奏内容以上の多大な拍手喝采を得るようになっていた。それは、ドイツ人たちのナチスへの厳然とした抗議の表明である。そしてフルトヴェングラーは、その新聞への寄稿の一週間後にすべての公職と、ベルリン・フィル音楽監督、州立歌劇場指揮者の地位を辞任した。
ベルリンを離れたフルトヴェングラーは、国外亡命を考えていた。そして、亡命先でまた指揮活動に励めばよい。彼を迎え入れるオーケストラなど、ごまんとあるはずだ。
しばらく隠遁生活を送っていたフルトヴェングラーだが、ベルリンから一報が入った。再びベルリン・フィルや州立歌劇場の指揮者として、ベルリンの指揮台で活躍しないかということだった。
しかし、彼は到底ナチスの人種政策を支持する結果になることは望まなかった。自分がベルリンに復帰するのであれば、ユダヤ人に対する排斥活動は必ず辞めさせなければならない。少なくとも、音楽界におけるナチスの政治的介入だけは絶対に拒否しなければならないのであった。
フルトヴェングラーは、ヒトラーに会見に招かれた。
フルトヴェングラーというのは本当に困った人で、常軌を逸している言ってよいほど政治的な感覚が乏しかった。新聞もラジオも普段はほとんど触れることがなく、専ら普遍的な音楽の真理だけを追い求めているような人であった。だから、この日に国を挙げて宣伝大臣のゲッベルスの結婚式をベルリンの街中でやっているという一大ニュースも、全く知らなかったのである。自宅からベルリンまで車を自分で運転しながら、何で今日はこんなに街が込んでいて巻き込まれるのだろうかと、苛立っていたそうだ。
ヒトラーとしては、このような盛大な国家行事の最中に、フルトヴェングラーにかまっている時間など本来はそんなにないはずであった。しかし、フルトヴェングラーが国外に亡命するということがあっては、ナチス・ドイツの国内外の名声を大きく傷つけることになる。それだけは、どうしても避けなければならなかった。
ようやくヒトラーと会ったフルトヴェングラーは、さっそく要求を突き付けた。
・ユダヤ人に対するこれまでの人種政策をすべて撤回すること。
・ヒトラーは「政治的な」指導者であって、文化面での介入を一切行う権利がないことを認めること。
「総統、これらをお認めいただけますか」
「・・・。党の人種政策については、それこそ私が『政治的な』指導者である以上、音楽家であるあなたに何か指図される覚えはないのだが。それに、ユダヤ人音楽家のせいでアーリア人の優秀な音楽家たちが肩身の狭い思いをしてきたという見方もあるだろう」
「能力のある音楽家たちが歓迎されるのは当たり前のことです。アーリア人のみが幸せを享受して、ユダヤ人が幸せを享受できないという理屈は通りません」
「・・・しかし、これは党の大原則であり、これを掲げて党は選挙で選ばれているのだ。これは変えられない」
「では、文化面への介入の件については」
「それも、全面的には認められない。確かにあなたの理屈も一理はあるだろうが、たとえばベルリン・フィルにせよある程度国家の税金によってその存在を保証されている面もあるのだ。ある程度の発言権はあるだろう。ただし、あなた個人に対する介入は控える方針だ。あなたは政治とは無関係な芸術家として指揮台に上がり、ただベートーヴェンを指揮し続けていればよい。聴衆があなたの音楽に感動しようと、それは私たちのとやかく言うことではない。今後はフリーランサーの指揮者として、ベルリンの指揮台で大いに活躍してほしい」
「わかりました。では、あくまで『政治とは無関係な音楽家』として指揮台に立ち続けます」
「そうしてくれると私も大変嬉しい。ベルリンの聴衆もオーケストラも、あなたの復帰を待ちわびているよ」
フルトヴェングラーは、ベルリンの渋滞だらけの街をよそに、電車で自宅に帰ることにした。ヒトラーは、フルトヴェングラーが駅に着くまで電車を駅に停車させておくよう自ら駅に電話した(総統の権限は、電車の時刻表を変えるほどにまで拡大されていたのですねw)。
駅に着いて電車に乗り込んだフルトヴェングラーは、これですべて勝ち取ったと安堵したかも知れない。彼の要求は、ユダヤ人への人種政策をすべて撤回するというような無茶な要求は度外視して、彼個人に関する限りは概ね認められたのだから。
1945年、ナチス・ドイツは瓦解した。ヒトラーはベルリン陥落の直前にピストル自殺している。
フルトヴェングラーは、ナチス・ドイツ瓦解の3ヵ月前にスイスに亡命していた。ドイツ敗戦後は連合国軍によって、戦時中のナチス協力疑惑のかどで指揮活動を禁止された。「政治とは無関係な音楽家」であったにも関わらず。2年にわたる隠遁生活が余儀なくされた。
46年の12月になって、フルトヴェングラーはアメリカ軍によってベルリンに呼び戻された。フルトヴェングラーの非ナチ化裁判が始まった。複数名の裁判官が巨匠を激しく責め立て、巨匠を快く思わない音楽界の「政敵」たちはここぞとばかりに証人としてフルトヴェングラーの有罪を主張した。
集団リンチのような裁判に、巨匠は疲労困憊した。裁判の休憩時間彼はこう呟いたという。
「1934年(ヒンデミット事件のとき)に、私はドイツを離れるべきだったか」
一体、巨匠が苦悩してまでドイツに留まって守ろうとしていたものは何だったのか。
傍聴席にいたベルリンの市民たちは、フルトヴェングラーの無罪を主張して声を大にしていた。
1933年、ドイツでナチス政権が成立した。
これは、当時のドイツ知識人たちにとっては衝撃的だったことらしい。彼らにとってみれば、ナチスはただの気の狂った人間の集まりであり、その声高な暴力的主張など一聴の値もしないと考えていたそうである。かの指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは政権成立直前にヒトラーに会ったが、その会見直後に「まったく話のわからない愚か者だ。こんな人間がドイツの政治的指導者になれるわけがない」とコメントしたそうである。
しかし、ヒトラーは政権を手に入れた。まさに、当時の知識人層にとっては寝耳に水の話である。
ナチスは、政権の座を手に入れるとすぐに大規模なユダヤ人排斥運動を展開した。これは一般人に対しても行われたし、もちろん音楽界の重鎮にも矛先は向けられていった。
まずは、ブルーノ・ヴァルター。彼はフルトヴェングラーの初期の活動を全面的に後押しした謂わば巨匠の「恩人」であるし、何よりフルトヴェングラーとともに西洋史上最大の指揮者の一人に列せられる大指揮者である。しかし、彼はユダヤ人であるという理由だけで、演奏会を勝手に中止させられたり、開かれた演奏会も異臭ガスを放たれたりと散々な仕打ちを受け、ベルリンから追放された。
他にも、多くのユダヤ人音楽家がナチスの手によって粛清されていった。このような事態を受けて、フルトヴェングラーはたびたびナチスに対して抗議はしていたものの、そのたびにヒトラーはうやむやな返事をするばかりで、決定的な衝突は意図的に避けられていた。
翌年、フルトヴェングラーはついにナチスと全面的に対立することとなった。
巨匠は、ドイツの偉大な現代作曲家であるとともに彼自身の友でもあるヒンデミットの≪画家マチス≫というオペラをベルリンで初演することになっていた。巨匠はこのオペラの初演に大変な意気込みを見せていたが、突然ナチス当局から演奏会の中止を告げられた。
ヒンデミットはアーリア人の家系だがユダヤ人の妻を娶っており、その上彼の作品はヒトラーに大変嫌われていた。性的な表現を忌み嫌う総統は、彼の≪今日のニュース≫というオペラで女性の入浴シーンが官能的に演出されているのを見て、散々に貶したそうである。そのため、ヒンデミットにもナチスの矛先が向けられることとなったのである。
このナチス当局による不当な演奏会中止を前にして、フルトヴェングラーはようやく重い腰を上げたのであった。彼は、ヴァルターのように穏健な態度を取ることはなく、「ヒンデミット事件」と題する論文を新聞に寄稿し、ナチスの人種政策の是非を直接世に問うた。
この「ヒンデミット事件」と題した論文は大変な反響を呼び、フルトヴェングラーはベルリンでの演奏会の度に普段以上の、演奏内容以上の多大な拍手喝采を得るようになっていた。それは、ドイツ人たちのナチスへの厳然とした抗議の表明である。そしてフルトヴェングラーは、その新聞への寄稿の一週間後にすべての公職と、ベルリン・フィル音楽監督、州立歌劇場指揮者の地位を辞任した。
ベルリンを離れたフルトヴェングラーは、国外亡命を考えていた。そして、亡命先でまた指揮活動に励めばよい。彼を迎え入れるオーケストラなど、ごまんとあるはずだ。
しばらく隠遁生活を送っていたフルトヴェングラーだが、ベルリンから一報が入った。再びベルリン・フィルや州立歌劇場の指揮者として、ベルリンの指揮台で活躍しないかということだった。
しかし、彼は到底ナチスの人種政策を支持する結果になることは望まなかった。自分がベルリンに復帰するのであれば、ユダヤ人に対する排斥活動は必ず辞めさせなければならない。少なくとも、音楽界におけるナチスの政治的介入だけは絶対に拒否しなければならないのであった。
フルトヴェングラーは、ヒトラーに会見に招かれた。
フルトヴェングラーというのは本当に困った人で、常軌を逸している言ってよいほど政治的な感覚が乏しかった。新聞もラジオも普段はほとんど触れることがなく、専ら普遍的な音楽の真理だけを追い求めているような人であった。だから、この日に国を挙げて宣伝大臣のゲッベルスの結婚式をベルリンの街中でやっているという一大ニュースも、全く知らなかったのである。自宅からベルリンまで車を自分で運転しながら、何で今日はこんなに街が込んでいて巻き込まれるのだろうかと、苛立っていたそうだ。
ヒトラーとしては、このような盛大な国家行事の最中に、フルトヴェングラーにかまっている時間など本来はそんなにないはずであった。しかし、フルトヴェングラーが国外に亡命するということがあっては、ナチス・ドイツの国内外の名声を大きく傷つけることになる。それだけは、どうしても避けなければならなかった。
ようやくヒトラーと会ったフルトヴェングラーは、さっそく要求を突き付けた。
・ユダヤ人に対するこれまでの人種政策をすべて撤回すること。
・ヒトラーは「政治的な」指導者であって、文化面での介入を一切行う権利がないことを認めること。
「総統、これらをお認めいただけますか」
「・・・。党の人種政策については、それこそ私が『政治的な』指導者である以上、音楽家であるあなたに何か指図される覚えはないのだが。それに、ユダヤ人音楽家のせいでアーリア人の優秀な音楽家たちが肩身の狭い思いをしてきたという見方もあるだろう」
「能力のある音楽家たちが歓迎されるのは当たり前のことです。アーリア人のみが幸せを享受して、ユダヤ人が幸せを享受できないという理屈は通りません」
「・・・しかし、これは党の大原則であり、これを掲げて党は選挙で選ばれているのだ。これは変えられない」
「では、文化面への介入の件については」
「それも、全面的には認められない。確かにあなたの理屈も一理はあるだろうが、たとえばベルリン・フィルにせよある程度国家の税金によってその存在を保証されている面もあるのだ。ある程度の発言権はあるだろう。ただし、あなた個人に対する介入は控える方針だ。あなたは政治とは無関係な芸術家として指揮台に上がり、ただベートーヴェンを指揮し続けていればよい。聴衆があなたの音楽に感動しようと、それは私たちのとやかく言うことではない。今後はフリーランサーの指揮者として、ベルリンの指揮台で大いに活躍してほしい」
「わかりました。では、あくまで『政治とは無関係な音楽家』として指揮台に立ち続けます」
「そうしてくれると私も大変嬉しい。ベルリンの聴衆もオーケストラも、あなたの復帰を待ちわびているよ」
フルトヴェングラーは、ベルリンの渋滞だらけの街をよそに、電車で自宅に帰ることにした。ヒトラーは、フルトヴェングラーが駅に着くまで電車を駅に停車させておくよう自ら駅に電話した(総統の権限は、電車の時刻表を変えるほどにまで拡大されていたのですねw)。
駅に着いて電車に乗り込んだフルトヴェングラーは、これですべて勝ち取ったと安堵したかも知れない。彼の要求は、ユダヤ人への人種政策をすべて撤回するというような無茶な要求は度外視して、彼個人に関する限りは概ね認められたのだから。
1945年、ナチス・ドイツは瓦解した。ヒトラーはベルリン陥落の直前にピストル自殺している。
フルトヴェングラーは、ナチス・ドイツ瓦解の3ヵ月前にスイスに亡命していた。ドイツ敗戦後は連合国軍によって、戦時中のナチス協力疑惑のかどで指揮活動を禁止された。「政治とは無関係な音楽家」であったにも関わらず。2年にわたる隠遁生活が余儀なくされた。
46年の12月になって、フルトヴェングラーはアメリカ軍によってベルリンに呼び戻された。フルトヴェングラーの非ナチ化裁判が始まった。複数名の裁判官が巨匠を激しく責め立て、巨匠を快く思わない音楽界の「政敵」たちはここぞとばかりに証人としてフルトヴェングラーの有罪を主張した。
集団リンチのような裁判に、巨匠は疲労困憊した。裁判の休憩時間彼はこう呟いたという。
「1934年(ヒンデミット事件のとき)に、私はドイツを離れるべきだったか」
一体、巨匠が苦悩してまでドイツに留まって守ろうとしていたものは何だったのか。
傍聴席にいたベルリンの市民たちは、フルトヴェングラーの無罪を主張して声を大にしていた。