6月19日の記事「鹿児島大に3800万円賠償命令=患者半身まひ、医師の過失認定」で紹介した判決は、被告鹿児島大学が控訴しなかったため、確定しました。
この記事には、当事務所のブログ始まって以来の多数のアクセスがありました。その圧倒的多数は、m3.comという医療従事者のみ利用可能な医療専門サイトをリンク元とするアクセスであり、医療過誤事件判決に対する医療従事者の方々の関心の高さがよく分かりました。
コメントもいくつか寄せられましたが、ネット・コミュニケーションの限界上、公開については当方で選択させていただいていることをご了承下さい。
医療関係者には、このような判決が現場に及ぼす萎縮効果を懸念する方が多いようです。マスコミの報道では事案の把握に限界があるので、よりいっそう萎縮効果が大きいのではないか、弁護士はできるだけ正確な情報発信を心がけてほしい、という要望もありました。
確かにそうだ、と思います。判決が確定したことでもあり、この機会に、少し詳しくこの事件の顛末を報告させていただきます。
ただし、裁判になっている事案の常として、さまざまな事実あるいはその事実についての解釈に争いがあり、どこまでが客観的事実といえるのかという問題がつきまといます。双方の認識に齟齬がある部分についてはそのようにお伝えするしかないのですが、5年間にわたって裁判で争われた論争を正確に伝えることは容易ではありません。また、私に分かるのは訴訟に顕れた事実のみであり、それ以外の医療機関側の事情は分かりません。そのような限界を含むものとしてお読みいただければ幸いです。
事案の概要
患者は当時71歳の男性です。
手術の約4年前に胸部大動脈に急性解離を発症し、その後、ほぼ年1回の割合でCTによる経過観察を受けてきました。2006年2月、経過観察をしていた医療機関は、動脈径が拡張傾向にあるとして患者を鹿児島大学病院に紹介、大学病院は患者に対して胸部大動脈瘤に対する人工血管置換術を勧めました。
図1及び図2が、2月に撮影されたCTのキー画像です。
この記事には、当事務所のブログ始まって以来の多数のアクセスがありました。その圧倒的多数は、m3.comという医療従事者のみ利用可能な医療専門サイトをリンク元とするアクセスであり、医療過誤事件判決に対する医療従事者の方々の関心の高さがよく分かりました。
コメントもいくつか寄せられましたが、ネット・コミュニケーションの限界上、公開については当方で選択させていただいていることをご了承下さい。
医療関係者には、このような判決が現場に及ぼす萎縮効果を懸念する方が多いようです。マスコミの報道では事案の把握に限界があるので、よりいっそう萎縮効果が大きいのではないか、弁護士はできるだけ正確な情報発信を心がけてほしい、という要望もありました。
確かにそうだ、と思います。判決が確定したことでもあり、この機会に、少し詳しくこの事件の顛末を報告させていただきます。
ただし、裁判になっている事案の常として、さまざまな事実あるいはその事実についての解釈に争いがあり、どこまでが客観的事実といえるのかという問題がつきまといます。双方の認識に齟齬がある部分についてはそのようにお伝えするしかないのですが、5年間にわたって裁判で争われた論争を正確に伝えることは容易ではありません。また、私に分かるのは訴訟に顕れた事実のみであり、それ以外の医療機関側の事情は分かりません。そのような限界を含むものとしてお読みいただければ幸いです。
事案の概要
患者は当時71歳の男性です。
手術の約4年前に胸部大動脈に急性解離を発症し、その後、ほぼ年1回の割合でCTによる経過観察を受けてきました。2006年2月、経過観察をしていた医療機関は、動脈径が拡張傾向にあるとして患者を鹿児島大学病院に紹介、大学病院は患者に対して胸部大動脈瘤に対する人工血管置換術を勧めました。
図1及び図2が、2月に撮影されたCTのキー画像です。
ブログの読者には一般の方もおられますので、以下、記事の理解のために必要最低限度の医学用語の説明を加えることにします。しかし、これは医療の専門家ではない弁護士が、あくまでもこの訴訟のために調べたものに過ぎないことをご理解ください。医学的に正確な知識を得たい方は、専門家にお尋ねになるか、医学文献をあたっていただくようお願いいたします。
大動脈というのは全身への血液循環のおおもとになる血管です(図3)。心臓の左心室から上行大動脈としてはじまり、大動脈弓(弓部大動脈)で頭部三分枝(腕頭動脈、左総頸動脈、左鎖骨下動脈)を分岐して下行します。横隔膜より上を胸部大動脈、下を腹部大動脈といい、これが左右2本の総腸骨動脈に分岐するところで終わります。
大動脈瘤とは、大動脈が瘤状に膨らんだ状態です。瘤径が一定以上の大きさになると破裂する危険が高くなりますので、その部分を人工血管に置換する手術が勧められます。
図4は脊椎(背骨)の図です。動脈瘤のCTをみる際に、そのスライスに映っている脊椎とあわせて見ることで、その位置を判断します。
図2に映っている椎体は第8胸椎の下縁であり、肋骨は9番です。この動脈瘤は胸椎7〜9番レベルに存在し、その最大部がこのスライスの部分でした。
図1に映っている椎体は第3胸椎ですが、この場合は、左鎖骨下動脈を分岐した直後ということで、遠位弓部の瘤と表現されるのが一般のようです。
以下、説明の便宜のために図1の大動脈瘤を「瘤A」、図2の大動脈瘤を「瘤B」と表記することにします。
大動脈瘤は、瘤壁の構造から、真性、仮性、解離性の三つに分類されます。大動脈の血管壁は内膜、中膜、外膜の三層構造になっており、その構造を保ったまま膨らんだものが真性です。内膜が裂けて中膜の内部に血液が流れ込むのが大動脈解離という病気であり、これによって膨らんだ場合が解離性瘤です。仮性瘤というのは瘤の部分に血管壁が欠損しているものです。本件は、大動脈解離の後に膨らんできたものであり、経過からすると解離性動脈瘤のように思えるのですが、少なくとも瘤Bは、画像上も手術所見からも真性瘤だったようです。瘤Aについては見解が分かれます。
また大動脈瘤は、その形状から紡錘状瘤と嚢状瘤に分類されます。嚢状瘤は破裂の危険性が高いため、瘤径があまり大きくなくても手術適応が認められます。本件の瘤Bは紡錘状瘤ですが、瘤Aについてはこの点でも見解が分かれました。
こういった分類が問題になるのは、それによって手術適応の判断が異なってくるからです。真性で紡錘状の大動脈瘤であれば、最大短径60㎜以上の場合がクラスⅠ(手術が、有用かつ効果的であるという一般的な合意が存在する)、最大短径5〜60㎜の場合がクラスⅡb(手術の有用性、効果について意見が対立しており、有用あるいは有効だという見解は確立していない)というのが、当時のガイドラインの記載でした。
ところで、瘤Bの部位を人工血管に置換する場合、最も問題になる合併症が、脊髄虚血による対麻痺です。脊髄への血液供給に最も重要な役割を果たす血管をアダムキービッツ動脈といいますが、そのアダムキービッツ動脈は多くの場合、第8肋間動脈〜第2腰動脈のどれかから分岐しています。したがって、下行大動脈のうち、それらの肋間動脈(腰動脈)を分岐する部分を人工血管に置換すると、肋間動脈が大動脈の血流から遮断され、アダムキービッツ動脈への血流が途絶して脊髄が虚血に陥り、対麻痺を発症する危険があります。
そのため、対麻痺を防止するためには、アダムキービッツ動脈がどの肋間動脈から分岐しているか、その肋間動脈を分岐する部分が人工血管への置換範囲に含まれているかどうかを検討する必要があります。本件でも、術前にその検査が行われました。
図5がその画像です。左側に写っているのが脊髄。そこを一旦上昇し、ヘアピンカーブを描いて下降しているアダムキービッツ動脈が造影されています。右側に写っているのが下行大動脈です。図2の動脈瘤を違う角度で見ることができます。
検査結果報告書によれば、アダムキービッツ動脈は第8肋間動脈から分岐しているが、第8肋間動脈は起始部で閉塞または狭窄していることが疑われ、第7あるいは第9肋間動脈からの側副血行で栄養されていることが示唆されるとのことです。
これを前提として、手術計画は立てられたはずでした。少なくとも患者、家族にはそのような術前説明が行われました。
最小でも遠位弓部以降、最大であれば大動脈基部から瘤Bの収束部まで人工血管に置換する。アプローチは胸骨正中切開+左側開胸、対麻痺予防策としてアダムキービッツ動脈に血液を供給している第7〜9肋間動脈を温存または再建する。
図6は術前説明のイラストです。遠位弓部から横隔膜のすぐ上まで人工血管に置換されていますが、途中に枝がついており、肋間動脈→アダムキービッツに繋がることが予定されています。その斜め下にはもう少し具体的に「島状再建」を説明したイラストがあります。第7〜9の肋間動脈を分岐している部分の血管壁を、一括して人工血管に縫いつけるという方法です。「胸椎8番→再建」という文字も見えます。
2006年5月15日、手術が行われました。
術後、患者の脚は動きませんでした。懸念されていた対麻痺が発症したのです。MRIでも、第5胸髄以下の虚血が確認されました。患者は、車椅子に乗ることさえできず、寝たきりの生活を約2年間送った後に脳梗塞で亡くなりました。
訴訟の争点
患者が開示を受けた医療記録に記載されていた完成図が図7です。術前説明と異なり、肋間動脈再建はなされていませんでした。
大学病院の説明によれば、手術で採用したのは、プルスルー(pull through)法という術式です。
これは、正中切開でアプローチした遠位弓部から人工血管を下行大動脈に挿入し、心臓を頭側に脱転して背側心膜を切開、そこからアプローチした下行大動脈の前部を切開し、遠位弓部から挿入した人工血管を引っ張って大動脈内に通すという術式です。この方法は左側開胸を行うことなく瘤Bを人工血管に置換できるという利点があります。
しかし、この術式では肋間動脈を再建することはできません。
訴訟での争点は多岐にわたりますが、最も大きな争点は、このプルスルー法採用の是非と、対麻痺の原因の2つです。
術式が術前の説明と異なっている理由について、大学病院の説明にはやや変遷がみられるのですが、最終的には以下のようなものと考えられます。
① 人工血管置換範囲が広く侵襲の大きな手術になるので、侵襲をできるだけ少なくするためのプルスルー法を術前から念頭においていた。
② 術中、大動脈弓を操作している際に予期せぬ出血が生じたため、このうえ左側開胸を追加するのは侵襲が大きすぎると判断した。
また、人工血管に置換した範囲には第8及び第9肋間動脈は含まれておらず、大動脈から遮断されたのは第3〜7肋間動脈であるというのが大学病院側の認識でした。アダムキービッツ動脈の血流に関係していると思われる第7〜9肋間動脈のうち、2本は残っているのだから影響は少ない、対麻痺は、術中の肋間動脈の虚血時間が長かったためか、あるいは大動脈切開によって飛散したプラークが肋間動脈に流入したことによって発生したものと考えられる。要するに、プルスルー法を採用したから対麻痺が起こったわけではなく、この種の人工血管置換術には不可避の合併症なのだ、という見解です。
原告側の主張は概ね以下のとおりです。
① 下行大動脈瘤の人工血管置換術の適応は最大短径60㎜以上であるところ、瘤Bは径50㎜程度だし、瘤Aについては適切に瘤径を判断できる画像がない。本件人工血管置換術全体が適応を欠く不要な手術であった。
② 仮に瘤Aについて手術適応があるにしろ、瘤Bが最大短径50㎜程度なのは画像上明らかだから、瘤Aに対する手術に止めるべきであった。
③ 瘤径だけから判断すれば瘤Bに対する手術適応が認められる場合でも、肋間動脈再建のための左側開胸が過大侵襲と考えられるのであれば、とりあえず瘤Aのみを人工血管に置換し、瘤Bの処置は二期的に行うべきだった。術中、弓部からの出血が左側開胸を回避した理由であれば、その時点で、瘤Bに対する人工血管置換術を断念すべきだった。
また、術前の画像では瘤Bが収束するのは第9胸椎レベル、術後の画像でも第9胸椎レベルまで人工血管に置換されているのだから、第8肋間動脈起始部は置換範囲に含まれていると考えるべきだというのが原告側の見解でした。アダムキービッツ動脈の血流に影響すると考えられた3本の肋間動脈のうち、2本までが大動脈から遮断されているのだから、それが対麻痺の原因となった脊髄虚血に関係していないとは考えられないと原告側は主張しました。
これに対して、大学病院は、肋間動脈再建が対麻痺防止に有効かどうかは疑問である、開胸で行う人工血管置換術よりも、実はステントグラフト内挿術の方が対麻痺発症率は低いのだ、という議論を持ち出しました。ステントグラフト内挿術とプルスルー法は肋間動脈の再建が行えないという意味では同じです。だから、プルスルー法を採用したことが対麻痺の原因だとはいえないし、左側開胸を追加して肋間動脈を再建するか、肋間動脈再建を断念してプルスルー法を採用するかは、医師の裁量の範囲内であるという主張です。
原告側は、ガイドライン上、下行大動脈瘤に対してステントグラフト内挿術を行うべきか否かの決定にあたっては、「径60㎜以上かつ解剖学的適応あり」という条件の他、合併症がある場合(開胸手術のリスクとなるような合併症がある場合には相対的にステントグラフトの方が治療成績良好だと言われています)でも「ステントグラフト治療に対する患者の希望があること」、合併症がない場合には「ステントグラフト治療に対する患者の希望が強いこと」が条件として挙げられていることを指摘し、インフォームド・コンセントを欠くプルスルー法採用は許されないと主張しました。
裁判所の判断
判決は瘤A、瘤Bともに、手術適応を認めたことは医師の裁量の範囲内であるとして、この点に関する原告の過失主張を容れませんでした。
しかし、瘤Bについて、患者の意思確認をすることなくプルスルー法を採用した点について、医師の裁量を超えるものとして、過失と認めました。
その理由として判決がまず指摘するのは、瘤Bの瘤径からして、手術適応が異論なく認められる事例ではなかったことです。この点、瘤径の評価及び手術適応について原告被告間で激しい論争があったのですが、裁判所は手術適応自体は認めつつ、その必要性の程度について、原告側の見解を一定程度とりいれたものと思われます。
一方、瘤Bにプルスルー法を用いることによる対麻痺発生の危険については、術前検査の結果からして、第7肋間動脈が大動脈から遮断されることは確実であり、第8肋間動脈が大動脈が遮断されるおそれもあったことから、対麻痺発生の危険が大きかったと認定しました。影響は少ないという被告側の見解については、「(執刀医の)胸椎レベルの認識は1椎体分ずれていた」と認定し、医療水準に照らして不適切であったとしました。
そして、「以上のようなプルスルー法特有の対麻痺発生に係る危険性、対麻痺の重篤性を考慮すると、本件において肋間動脈を再建するという一般的な術式を採る考え方とプルスルー法という術式を採る考え方との間には、対麻痺の発生原因や治療戦略等について根本的な考え方の違いが存在する」とし、瘤Bに対する手術の必要性、肋間動脈を再建しないという点ではプルスルー法と類似するステントグラフト治療について患者の希望を考慮すべきとされていることに照らして、本件でプルスルー法を採用するには患者の同意の有無を確認することが必要であった、と結論しています。
つまり、予期せぬ大動脈弓からの出血によって左側開胸を追加することが適切でないと判断した時点で、瘤Bの置換は断念し、瘤Aの処置に止めるべきであった、瘤Bについては、肋間動脈を再建しないことによる対麻痺の危険を冒してまで人工血管に置換する必要はなかった、という判断です。
また、プルスルー法と対麻痺との因果関係については、本件手術で第7肋間動脈の血流が途絶したことは確実であり、第8肋間動脈への血流が影響を受けたことも十分に考えられるとし、これに加えて現に対麻痺が発生していることからすると大動脈からアダムキービッツ動脈を介した脊髄への血流が途絶した蓋然性が高く、他の原因について具体的な主張立証がない以上、プルスルー法採用が対麻痺の原因と解するのが相当と判断しています。
コメント
判決は、結論的に、プルスルー法について術前のインフォームド・コンセントがなかったことを問題にしましたし、報道でもその部分が強調されました。
もちろんそれは重要なことなのですが、私がこの裁判で印象的だったのは、判決で認定されている「(執刀医の)胸椎レベルの認識は1椎体分ずれていた」という部分です。
執刀医は、術中、瘤Bの末梢吻合部を第7ないし8胸椎レベルと考えたといいます。
弁護士:…あなたが決めた吻合部位が第8肋間動脈の分岐部より中枢なのか末梢なのか、それは術中所見から判断できることなんでしょうか。
執刀医:いやいや、数えることができませんから。
弁護士:判断できませんね。
執刀医:はい。
弁護士:術後の画像等も見られていると思うのですが、やっぱり吻合部は第7ないし第8椎体レベルであるという証言になりますかね、事後的にみても。
執刀医:いや、後の術後の確認では、8から9の真ん中くらいが吻合部になっているように思いますが。
弁護士:術中に考えたのと、ちょっとずれている。
執刀医:ずれてますね。
この1椎体分のずれが、第8肋間動脈が置換範囲に含まれるかどうかの判断に影響しないはずがありません。
しかし、術前のCTをみても、瘤Bの収束部が第9胸椎レベルであることは明らかなのです。ごく普通に考えれば、末梢吻合部も第9胸椎レベルになるはずです。なぜ、執刀医が第7ないし第8胸椎レベルを吻合部と考えたのか、わたしには最後まで理解できませんでした。ほんとにこんな間違いが起こるのだろうかと未だに釈然としない思いが残っています。
裁判の確定により法的な紛争は終了しました。病院側にとっては納得のいかない判決だったはずですが(原告側にとっても100点満点の判決だったわけではありません)、大局的にみて控訴するメリットはないと判断したのでしょう。その冷静な判断には敬意を表したいと思います。
一方、この事件が医療現場にどのような影響を及ぼすかは、これからの問題です。
インフォームド・コンセントの重要性については、今更いうまでもありません。プルスルー法を採用する可能性があるのであれば、術前にきちんとインフォームド・コンセントを得るべきだという点については、あまり異論はないはずです。
しかし、この患者にプルスルー法を採用するのが適切だったか、第8肋間動脈を温存できるという執刀医の判断は正しかったか、あるいは第8肋間動脈を犠牲にしてまで瘤Bを人工血管に置換する必要があったかといった問題については、判決という司法上の判断とは別に、きちんと医学的な検証がなされるべきではないでしょうか。
記事の標題として、便宜的に「鹿児島大学病院プルスルー法事件」とつけましたが、事案によっては、本当にプルスルー法が適切な術式である場合もあるかもしれません。その場合に、いわゆる「萎縮効果」によってその採用が回避されるようなことは、わたしの望むところではありませんし、それは亡くなった患者さんも、ご遺族も全く同じ気持ちであるはずです。
大動脈というのは全身への血液循環のおおもとになる血管です(図3)。心臓の左心室から上行大動脈としてはじまり、大動脈弓(弓部大動脈)で頭部三分枝(腕頭動脈、左総頸動脈、左鎖骨下動脈)を分岐して下行します。横隔膜より上を胸部大動脈、下を腹部大動脈といい、これが左右2本の総腸骨動脈に分岐するところで終わります。
大動脈瘤とは、大動脈が瘤状に膨らんだ状態です。瘤径が一定以上の大きさになると破裂する危険が高くなりますので、その部分を人工血管に置換する手術が勧められます。
図4は脊椎(背骨)の図です。動脈瘤のCTをみる際に、そのスライスに映っている脊椎とあわせて見ることで、その位置を判断します。
図2に映っている椎体は第8胸椎の下縁であり、肋骨は9番です。この動脈瘤は胸椎7〜9番レベルに存在し、その最大部がこのスライスの部分でした。
図1に映っている椎体は第3胸椎ですが、この場合は、左鎖骨下動脈を分岐した直後ということで、遠位弓部の瘤と表現されるのが一般のようです。
以下、説明の便宜のために図1の大動脈瘤を「瘤A」、図2の大動脈瘤を「瘤B」と表記することにします。
大動脈瘤は、瘤壁の構造から、真性、仮性、解離性の三つに分類されます。大動脈の血管壁は内膜、中膜、外膜の三層構造になっており、その構造を保ったまま膨らんだものが真性です。内膜が裂けて中膜の内部に血液が流れ込むのが大動脈解離という病気であり、これによって膨らんだ場合が解離性瘤です。仮性瘤というのは瘤の部分に血管壁が欠損しているものです。本件は、大動脈解離の後に膨らんできたものであり、経過からすると解離性動脈瘤のように思えるのですが、少なくとも瘤Bは、画像上も手術所見からも真性瘤だったようです。瘤Aについては見解が分かれます。
また大動脈瘤は、その形状から紡錘状瘤と嚢状瘤に分類されます。嚢状瘤は破裂の危険性が高いため、瘤径があまり大きくなくても手術適応が認められます。本件の瘤Bは紡錘状瘤ですが、瘤Aについてはこの点でも見解が分かれました。
こういった分類が問題になるのは、それによって手術適応の判断が異なってくるからです。真性で紡錘状の大動脈瘤であれば、最大短径60㎜以上の場合がクラスⅠ(手術が、有用かつ効果的であるという一般的な合意が存在する)、最大短径5〜60㎜の場合がクラスⅡb(手術の有用性、効果について意見が対立しており、有用あるいは有効だという見解は確立していない)というのが、当時のガイドラインの記載でした。
ところで、瘤Bの部位を人工血管に置換する場合、最も問題になる合併症が、脊髄虚血による対麻痺です。脊髄への血液供給に最も重要な役割を果たす血管をアダムキービッツ動脈といいますが、そのアダムキービッツ動脈は多くの場合、第8肋間動脈〜第2腰動脈のどれかから分岐しています。したがって、下行大動脈のうち、それらの肋間動脈(腰動脈)を分岐する部分を人工血管に置換すると、肋間動脈が大動脈の血流から遮断され、アダムキービッツ動脈への血流が途絶して脊髄が虚血に陥り、対麻痺を発症する危険があります。
そのため、対麻痺を防止するためには、アダムキービッツ動脈がどの肋間動脈から分岐しているか、その肋間動脈を分岐する部分が人工血管への置換範囲に含まれているかどうかを検討する必要があります。本件でも、術前にその検査が行われました。
図5がその画像です。左側に写っているのが脊髄。そこを一旦上昇し、ヘアピンカーブを描いて下降しているアダムキービッツ動脈が造影されています。右側に写っているのが下行大動脈です。図2の動脈瘤を違う角度で見ることができます。
検査結果報告書によれば、アダムキービッツ動脈は第8肋間動脈から分岐しているが、第8肋間動脈は起始部で閉塞または狭窄していることが疑われ、第7あるいは第9肋間動脈からの側副血行で栄養されていることが示唆されるとのことです。
これを前提として、手術計画は立てられたはずでした。少なくとも患者、家族にはそのような術前説明が行われました。
最小でも遠位弓部以降、最大であれば大動脈基部から瘤Bの収束部まで人工血管に置換する。アプローチは胸骨正中切開+左側開胸、対麻痺予防策としてアダムキービッツ動脈に血液を供給している第7〜9肋間動脈を温存または再建する。
図6は術前説明のイラストです。遠位弓部から横隔膜のすぐ上まで人工血管に置換されていますが、途中に枝がついており、肋間動脈→アダムキービッツに繋がることが予定されています。その斜め下にはもう少し具体的に「島状再建」を説明したイラストがあります。第7〜9の肋間動脈を分岐している部分の血管壁を、一括して人工血管に縫いつけるという方法です。「胸椎8番→再建」という文字も見えます。
2006年5月15日、手術が行われました。
術後、患者の脚は動きませんでした。懸念されていた対麻痺が発症したのです。MRIでも、第5胸髄以下の虚血が確認されました。患者は、車椅子に乗ることさえできず、寝たきりの生活を約2年間送った後に脳梗塞で亡くなりました。
訴訟の争点
患者が開示を受けた医療記録に記載されていた完成図が図7です。術前説明と異なり、肋間動脈再建はなされていませんでした。
大学病院の説明によれば、手術で採用したのは、プルスルー(pull through)法という術式です。
これは、正中切開でアプローチした遠位弓部から人工血管を下行大動脈に挿入し、心臓を頭側に脱転して背側心膜を切開、そこからアプローチした下行大動脈の前部を切開し、遠位弓部から挿入した人工血管を引っ張って大動脈内に通すという術式です。この方法は左側開胸を行うことなく瘤Bを人工血管に置換できるという利点があります。
しかし、この術式では肋間動脈を再建することはできません。
訴訟での争点は多岐にわたりますが、最も大きな争点は、このプルスルー法採用の是非と、対麻痺の原因の2つです。
術式が術前の説明と異なっている理由について、大学病院の説明にはやや変遷がみられるのですが、最終的には以下のようなものと考えられます。
① 人工血管置換範囲が広く侵襲の大きな手術になるので、侵襲をできるだけ少なくするためのプルスルー法を術前から念頭においていた。
② 術中、大動脈弓を操作している際に予期せぬ出血が生じたため、このうえ左側開胸を追加するのは侵襲が大きすぎると判断した。
また、人工血管に置換した範囲には第8及び第9肋間動脈は含まれておらず、大動脈から遮断されたのは第3〜7肋間動脈であるというのが大学病院側の認識でした。アダムキービッツ動脈の血流に関係していると思われる第7〜9肋間動脈のうち、2本は残っているのだから影響は少ない、対麻痺は、術中の肋間動脈の虚血時間が長かったためか、あるいは大動脈切開によって飛散したプラークが肋間動脈に流入したことによって発生したものと考えられる。要するに、プルスルー法を採用したから対麻痺が起こったわけではなく、この種の人工血管置換術には不可避の合併症なのだ、という見解です。
原告側の主張は概ね以下のとおりです。
① 下行大動脈瘤の人工血管置換術の適応は最大短径60㎜以上であるところ、瘤Bは径50㎜程度だし、瘤Aについては適切に瘤径を判断できる画像がない。本件人工血管置換術全体が適応を欠く不要な手術であった。
② 仮に瘤Aについて手術適応があるにしろ、瘤Bが最大短径50㎜程度なのは画像上明らかだから、瘤Aに対する手術に止めるべきであった。
③ 瘤径だけから判断すれば瘤Bに対する手術適応が認められる場合でも、肋間動脈再建のための左側開胸が過大侵襲と考えられるのであれば、とりあえず瘤Aのみを人工血管に置換し、瘤Bの処置は二期的に行うべきだった。術中、弓部からの出血が左側開胸を回避した理由であれば、その時点で、瘤Bに対する人工血管置換術を断念すべきだった。
また、術前の画像では瘤Bが収束するのは第9胸椎レベル、術後の画像でも第9胸椎レベルまで人工血管に置換されているのだから、第8肋間動脈起始部は置換範囲に含まれていると考えるべきだというのが原告側の見解でした。アダムキービッツ動脈の血流に影響すると考えられた3本の肋間動脈のうち、2本までが大動脈から遮断されているのだから、それが対麻痺の原因となった脊髄虚血に関係していないとは考えられないと原告側は主張しました。
これに対して、大学病院は、肋間動脈再建が対麻痺防止に有効かどうかは疑問である、開胸で行う人工血管置換術よりも、実はステントグラフト内挿術の方が対麻痺発症率は低いのだ、という議論を持ち出しました。ステントグラフト内挿術とプルスルー法は肋間動脈の再建が行えないという意味では同じです。だから、プルスルー法を採用したことが対麻痺の原因だとはいえないし、左側開胸を追加して肋間動脈を再建するか、肋間動脈再建を断念してプルスルー法を採用するかは、医師の裁量の範囲内であるという主張です。
原告側は、ガイドライン上、下行大動脈瘤に対してステントグラフト内挿術を行うべきか否かの決定にあたっては、「径60㎜以上かつ解剖学的適応あり」という条件の他、合併症がある場合(開胸手術のリスクとなるような合併症がある場合には相対的にステントグラフトの方が治療成績良好だと言われています)でも「ステントグラフト治療に対する患者の希望があること」、合併症がない場合には「ステントグラフト治療に対する患者の希望が強いこと」が条件として挙げられていることを指摘し、インフォームド・コンセントを欠くプルスルー法採用は許されないと主張しました。
裁判所の判断
判決は瘤A、瘤Bともに、手術適応を認めたことは医師の裁量の範囲内であるとして、この点に関する原告の過失主張を容れませんでした。
しかし、瘤Bについて、患者の意思確認をすることなくプルスルー法を採用した点について、医師の裁量を超えるものとして、過失と認めました。
その理由として判決がまず指摘するのは、瘤Bの瘤径からして、手術適応が異論なく認められる事例ではなかったことです。この点、瘤径の評価及び手術適応について原告被告間で激しい論争があったのですが、裁判所は手術適応自体は認めつつ、その必要性の程度について、原告側の見解を一定程度とりいれたものと思われます。
一方、瘤Bにプルスルー法を用いることによる対麻痺発生の危険については、術前検査の結果からして、第7肋間動脈が大動脈から遮断されることは確実であり、第8肋間動脈が大動脈が遮断されるおそれもあったことから、対麻痺発生の危険が大きかったと認定しました。影響は少ないという被告側の見解については、「(執刀医の)胸椎レベルの認識は1椎体分ずれていた」と認定し、医療水準に照らして不適切であったとしました。
そして、「以上のようなプルスルー法特有の対麻痺発生に係る危険性、対麻痺の重篤性を考慮すると、本件において肋間動脈を再建するという一般的な術式を採る考え方とプルスルー法という術式を採る考え方との間には、対麻痺の発生原因や治療戦略等について根本的な考え方の違いが存在する」とし、瘤Bに対する手術の必要性、肋間動脈を再建しないという点ではプルスルー法と類似するステントグラフト治療について患者の希望を考慮すべきとされていることに照らして、本件でプルスルー法を採用するには患者の同意の有無を確認することが必要であった、と結論しています。
つまり、予期せぬ大動脈弓からの出血によって左側開胸を追加することが適切でないと判断した時点で、瘤Bの置換は断念し、瘤Aの処置に止めるべきであった、瘤Bについては、肋間動脈を再建しないことによる対麻痺の危険を冒してまで人工血管に置換する必要はなかった、という判断です。
また、プルスルー法と対麻痺との因果関係については、本件手術で第7肋間動脈の血流が途絶したことは確実であり、第8肋間動脈への血流が影響を受けたことも十分に考えられるとし、これに加えて現に対麻痺が発生していることからすると大動脈からアダムキービッツ動脈を介した脊髄への血流が途絶した蓋然性が高く、他の原因について具体的な主張立証がない以上、プルスルー法採用が対麻痺の原因と解するのが相当と判断しています。
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判決は、結論的に、プルスルー法について術前のインフォームド・コンセントがなかったことを問題にしましたし、報道でもその部分が強調されました。
もちろんそれは重要なことなのですが、私がこの裁判で印象的だったのは、判決で認定されている「(執刀医の)胸椎レベルの認識は1椎体分ずれていた」という部分です。
執刀医は、術中、瘤Bの末梢吻合部を第7ないし8胸椎レベルと考えたといいます。
弁護士:…あなたが決めた吻合部位が第8肋間動脈の分岐部より中枢なのか末梢なのか、それは術中所見から判断できることなんでしょうか。
執刀医:いやいや、数えることができませんから。
弁護士:判断できませんね。
執刀医:はい。
弁護士:術後の画像等も見られていると思うのですが、やっぱり吻合部は第7ないし第8椎体レベルであるという証言になりますかね、事後的にみても。
執刀医:いや、後の術後の確認では、8から9の真ん中くらいが吻合部になっているように思いますが。
弁護士:術中に考えたのと、ちょっとずれている。
執刀医:ずれてますね。
この1椎体分のずれが、第8肋間動脈が置換範囲に含まれるかどうかの判断に影響しないはずがありません。
しかし、術前のCTをみても、瘤Bの収束部が第9胸椎レベルであることは明らかなのです。ごく普通に考えれば、末梢吻合部も第9胸椎レベルになるはずです。なぜ、執刀医が第7ないし第8胸椎レベルを吻合部と考えたのか、わたしには最後まで理解できませんでした。ほんとにこんな間違いが起こるのだろうかと未だに釈然としない思いが残っています。
裁判の確定により法的な紛争は終了しました。病院側にとっては納得のいかない判決だったはずですが(原告側にとっても100点満点の判決だったわけではありません)、大局的にみて控訴するメリットはないと判断したのでしょう。その冷静な判断には敬意を表したいと思います。
一方、この事件が医療現場にどのような影響を及ぼすかは、これからの問題です。
インフォームド・コンセントの重要性については、今更いうまでもありません。プルスルー法を採用する可能性があるのであれば、術前にきちんとインフォームド・コンセントを得るべきだという点については、あまり異論はないはずです。
しかし、この患者にプルスルー法を採用するのが適切だったか、第8肋間動脈を温存できるという執刀医の判断は正しかったか、あるいは第8肋間動脈を犠牲にしてまで瘤Bを人工血管に置換する必要があったかといった問題については、判決という司法上の判断とは別に、きちんと医学的な検証がなされるべきではないでしょうか。
記事の標題として、便宜的に「鹿児島大学病院プルスルー法事件」とつけましたが、事案によっては、本当にプルスルー法が適切な術式である場合もあるかもしれません。その場合に、いわゆる「萎縮効果」によってその採用が回避されるようなことは、わたしの望むところではありませんし、それは亡くなった患者さんも、ご遺族も全く同じ気持ちであるはずです。
(小林)