週末は、ハンセン病問題のキャンペーンのために沖縄にいってきました。7日に沖縄愛楽園で泊まり、8日の午前中、辺野古に立ち寄りました。
現在、辺野古の基地移設工事は中断されています。この日は、台風接近のため、座り込みのテントも海岸から少し奥まったところに移されていました。
政府は、埋立承認の取り消しを検討している沖縄県に対し、普天間の危険除去と辺野古移設の必要性に関する政府の考え方を丁寧に説明するために工事を中断したのだといいます。しかし、テントに座り込んでいる人たちはその言葉を信じてはいません。
ヘリ基地反対協議会の安志富さんに聴きました。
これは普天間基地の移設などではなく、まったく新しい機能を持った巨大な軍事施設なのだ。
普天間の機能は飛行場だけれども、辺野古には、大型の強襲陸揚艦を係留することも可能な272メートルの護岸がつくられようとしている。しかも、それは防衛局が沖縄県に提出した埋立申請書に含まれていなかったものだ。
工事を中止するという8月10日から9月9日の1ヶ月は、お盆や夏季休暇の関係、また台風の影響もあって、もともと工事が進まない期間。そこへきて、この間の安保法制反対運動の盛り上がり。政府としては、安保法制が通るまでは、できるだけ無理をしたくない。そのために、どうせあまり工事の進捗しないこの期間を利用して、理解を得るために丁寧に説明をする時間をつくった形にした。安保法制が通った後は、「わざわざ工事を中止してまで丁寧に説明する機会を設けたのに沖縄は頑なに態度を変えない」というに違いない。自分たちは、気を緩めずに、工事再開に備えたい。
絶対に辺野古に基地はつくらせない、と安志富さんは言い切りました。
現在、辺野古の基地移設工事は中断されています。この日は、台風接近のため、座り込みのテントも海岸から少し奥まったところに移されていました。
政府は、埋立承認の取り消しを検討している沖縄県に対し、普天間の危険除去と辺野古移設の必要性に関する政府の考え方を丁寧に説明するために工事を中断したのだといいます。しかし、テントに座り込んでいる人たちはその言葉を信じてはいません。
ヘリ基地反対協議会の安志富さんに聴きました。
これは普天間基地の移設などではなく、まったく新しい機能を持った巨大な軍事施設なのだ。
普天間の機能は飛行場だけれども、辺野古には、大型の強襲陸揚艦を係留することも可能な272メートルの護岸がつくられようとしている。しかも、それは防衛局が沖縄県に提出した埋立申請書に含まれていなかったものだ。
工事を中止するという8月10日から9月9日の1ヶ月は、お盆や夏季休暇の関係、また台風の影響もあって、もともと工事が進まない期間。そこへきて、この間の安保法制反対運動の盛り上がり。政府としては、安保法制が通るまでは、できるだけ無理をしたくない。そのために、どうせあまり工事の進捗しないこの期間を利用して、理解を得るために丁寧に説明をする時間をつくった形にした。安保法制が通った後は、「わざわざ工事を中止してまで丁寧に説明する機会を設けたのに沖縄は頑なに態度を変えない」というに違いない。自分たちは、気を緩めずに、工事再開に備えたい。
絶対に辺野古に基地はつくらせない、と安志富さんは言い切りました。
一方、麻生副総理は、8月6日に開かれた派閥の会合で、安全保障関連法案に関し「自分の気持ちを言いたいなら法案が通ってからにしてくれ、それで十分に間に合う」と述べ、審議に悪影響を与える不用意な発言を慎むよう求めたと報道されています。前々回のエントリー(国連憲章と日本国憲法)でも取り上げた武藤貴也議員の発言などを念頭においたものと思われますが、発言内容についてのコメントがないところをみると、麻生さんも同じ考えなのでしょうね。安保法制推進派の本音をあからさまに語ってくれた武藤議員に感謝したいと思います。
辺野古の工事は法案が通ってからにしてくれ、それで十分に間に合う、法案さえ通ればちょっとやそっと強引にやっても構わないから、という声がきこえてきそうです。わたしたちは、「ナチスのやり方に学べ」という麻生語録を忘れるわけにはいきません。
中国脅威論と集団的自衛権
ここ数回にわたって、憲法と集団的自衛権との関係について書いてきました。しかし、ネット上には、平和安全法制が合憲であるという意見だけではなく、違憲で何が悪いのかといった極論も飛び交っています。中国は軍備を増強させて東シナ海の覇権を虎視眈々と狙っている、日本だけでは中国と闘っても勝てない、中国の野望を挫くためにはアメリカとの同盟関係を強化することが必要不可欠だ、憲法を守って国を滅ぼすのは本末転倒ではないか、といった意見です。
もともと、平和安全法制を支持する人たちは、この中国脅威論を声高に叫んできました。しかし、昨年の閣議決定でも今年の衆議院での議論でも、中心的に語られてきたのはむしろ朝鮮半島有事への対応やホルムズ海峡での機雷掃海作業であり、政府が中国脅威論を前面に押し出すことはありませんでした。
ところが、7月22日、政府は、中国が東シナ海に建設している新たな海洋プラットホームの航空写真などを外務省のホームページ上に公開、28日から始まった参議院の平和安全法制特別委では、自民党議員の質問に答え、安倍総理が中国を名指しで批判しています。政府は、安保法制の必要性についての理由付けを、微妙に変化させているように見えます。
なぜ、政府は、これまで中国脅威論を前面に出さなかったでしょうか。
これは実は当たり前の話で、平和安全法制を構成する二本の法律は、いわゆる中国の脅威に対して直接的に対応するものではないのです。
平和安全法制を閣議決定した本年5月14日、法案とは別に三本の閣議決定がなされました。
〇 我が国の領海及び内水で国際法上の無害通航に該当しない航行を行う外国軍艦への対処について
〇 離島等に対する不法上陸等事案に対する政府の対処について
〇 公海上で我が国の民間船舶に対し侵害行為を行う外国船舶を自衛隊の船舶等が認知した場合における当該侵害行為への対処について
特に中国という国名も示されていませんし、東シナ海という地域も特定されてはいませんが、これが尖閣問題を念頭においたものであることは間違いないでしょう。要するに、尖閣問題は、基本的に従来の自衛隊法や海賊対処法の枠内で対応することになっているのです。軍隊ではない武装集団や海賊に対して、海上保安庁ではなく自衛隊で対応するという方針にはかなり疑問があるのですが、現行法上、武力行使が認められる防衛出動とは別の、海上警備行動や海賊対処行動という異なる類型の行動で対応することが既に認められており、この点について新たな法整備は必要ありません。
考えてみれば当然のことで、尖閣諸島が中国の侵略を受けるとすれば、それは日本にとっては個別的自衛権の問題になります。そこにアメリカがどのように関わるかは、アメリカの集団的自衛権の問題であって、日本の集団的自衛権の問題ではないのです。だから、中国脅威論は、安保法制の議論の中心的なテーマではありませんでした。
では、なぜいま、中国脅威論が前面に出てきたのか。
朝鮮半島有事もホルムズ海峡での機雷掃海作業も、極めて非現実的な想定であったことが明らかになったいま、いちばん国民の共感が得られるのはこれだと見定めたのではないでしょうか。
ほんとうに想定される存立危機事態とは
しかし、そうなると、今回の平和安全法制の意味を、改めて問い直す必要があります。
今回の平和安全法制の最大の意義は、現行法上「我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態または武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められると認められるに至った事態(武力攻撃事態等)」に限定されている防衛出動を、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合(存立危機事態)」にも認めるところにあります(全体主義の跫音〜「平和安全法制」と立憲主義)。そして、最大の問題は、具体的にどのような場合が「存立危機事態」なのか、さっぱり分からないところなのです。
政府がその具体例として挙げたのが、ホルムズ海峡の機雷封鎖に対する掃海作業でした。しかし、これに対しては、イランのナザルアハリ駐日大使が、7月23日の記者会見で「機雷敷設がイランを念頭においているのであれば全く根拠のないこと」、「なぜ封鎖する必要があるのか」と疑問を呈しています。イランと欧米との関係は、核開発協議の合意により改善しています。安保法制の必要性として強調される「安全保障環境の悪化」は、ホルムズ海峡には全くあてはまらないのです。
では、実際に想定されている「存立危機事態」とはいったい何なのか。中国脅威論をここに持ち出すとすれば、アメリカの抑止力がなくなること自体を日本の存立の危機と捉えるつもりではないかと思わざるを得ません。
アメリカに対する第三国の武力攻撃が発生する
→ アメリカから自衛隊の派遣が要請される
→ それを断ればアメリカから安保条約を解消されるかもしれない
→ 安保条約を解消されることは中国の脅威にさらされている日本にとって存立の危機である
→ 存立危機事態として自衛隊が防衛出動する
このようにでも考えないと、中国脅威論と存立危機事態による集団的自衛権の発動はつながりようがないのではないでしょうか。
この場合、日本は、アメリカと第三国との戦争に参戦することになります。当然、アメリカとともに第三国の攻撃対象となります。海外の日本人がテロの標的になる危険も高まり、日本国内でのテロも危惧されます。
しかも、アメリカという国は、イラク戦争にみられるように、自衛権を極めて緩やかに解釈しています。相手がアメリカにとって危険であると認識すれば、アメリカは自衛権を発動します。相手国も反撃せざるを得ないでしょう。そうすれば、アメリカに対して第三国からの武力攻撃が発生したということで、存立危機事態の要件を充たすことになってしまいます。アメリカに対して先制攻撃をしかける国があろうとは思えませんので、存立危機事態の多くは、こういうケースになってしまう可能性が大です。
安保法制反対派が、この法案を「戦争法案」と呼ぶのは、このような事態を危惧しているからです。
国家と国民との緊張関係
安保法制で集団的自衛権の行使が可能になったとしても、別に、行使を義務付けられるわけではない、本当に日本のために必要な場合に行使すればいいのだという人がいます。ほんとうにそんなことが可能でしょうか。
ベトナム戦争について、アメリカは南ベトナム政府の要請に基づく集団的自衛権の行使であると説明していますが、韓国は、米韓相互防衛条約に基づいてベトナムに軍隊を派遣しました。1964年から73年にかけて、のべ約31万人を派兵、約4700人の戦死者を出しています。当時の韓国での議論の詳細は知りませんが、北朝鮮と対峙している韓国にとって、アメリカの要請を断って参戦しないという選択が困難であったことは想像に難くありません。一方の日本といえば、憲法9条のもと、集団的自衛権の行使が許されないことは誰の目にも明らかであり、参戦するという選択肢自体が存在しなかったのです。
では、今回の安保法制により、集団的自衛権の行使が可能であるとなればどうでしょう。日本は、第二次世界大戦後、アメリカの武力行使を一貫して支持してきました。湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争だけではありません。国連が非難決議を採択したグレナダ侵略、リビア爆撃、パナマ侵攻に対してさえも、日本は理解を示してきました。多数が賛成した非難決議に対して、日本は反対、あるいは棄権してきたのです。この法律成立後に、アメリカから集団的自衛権の行使を要請された場合、日本がそれを拒むことを、残念ながら、私は想像することができません。
安保法制に賛成する人は、それができる日本であると思っているのでしょうか。アメリカの要請を断った場合、中国脅威論はどうなるのでしょうか。正しい判断をしたのだから、その結果、中国の脅威に日本単独で向かい合わなければならないとしてもそれでいいのだ、と割り切るのでしょうか。仮にそう思えるのであれば、なにもいま慌てて合憲性の疑わしい安保法制を成立させる必要はないとは思わないのでしょうか。
それほどまでに国が信頼できないのか、と言われるかもしれません。
もちろん、信頼できる国であってほしい。誰だってそうでしょう。
しかし、現実には、国家というものは、国民にとって、無条件で信頼できるようなものではありません。その典型的な場合が、戦争なのです。特に、太平洋戦争末期の沖縄戦は、いかなる意味においても、日本国民たる沖縄の人びとを守るための戦いではありませんでした。本土決戦の準備を整えるための時間稼ぎと位置付けられ約10万人にのぼる住民の犠牲者を出した挙げ句、日本政府は徹底抗戦方針を転換し、沖縄、小笠原、樺太を放棄するという条件での和平交渉を準備します。沖縄が戦後27年間にわたってアメリカの占領下におかれ、現在もなお米軍基地の負担に苦しんでいるのはそのためです。
広島、長崎への原爆投下も、「国体護持」を優先してポツダム宣言を黙殺したためでした。アメリカの核兵器使用を正当化する意見に与するつもりはまったくありませんが、国体ではなく、国民を守るための国家であったならば、起こらずに済んだ悲劇でした。
もちろん、こういった「国家」と「国民」との緊張関係は、戦争の場合の特殊なものではありませんし、日本固有のものでもありません。それは、「国家」というシステムに内在する問題なのであり、その問題意識は世界共通です。
だからこそ近代国家は、憲法という、国家権力が暴走しないための装置を備えているのです。
だからこそわたしたちは、選挙で選ばれた政権に対しても、街頭をはじめとするあらゆるところで反対意見を表明し、退陣を求める権利を保有しているのです。
わたしたちは、そのことを繰り返し思い出す必要があります。
辺野古の工事は法案が通ってからにしてくれ、それで十分に間に合う、法案さえ通ればちょっとやそっと強引にやっても構わないから、という声がきこえてきそうです。わたしたちは、「ナチスのやり方に学べ」という麻生語録を忘れるわけにはいきません。
中国脅威論と集団的自衛権
ここ数回にわたって、憲法と集団的自衛権との関係について書いてきました。しかし、ネット上には、平和安全法制が合憲であるという意見だけではなく、違憲で何が悪いのかといった極論も飛び交っています。中国は軍備を増強させて東シナ海の覇権を虎視眈々と狙っている、日本だけでは中国と闘っても勝てない、中国の野望を挫くためにはアメリカとの同盟関係を強化することが必要不可欠だ、憲法を守って国を滅ぼすのは本末転倒ではないか、といった意見です。
もともと、平和安全法制を支持する人たちは、この中国脅威論を声高に叫んできました。しかし、昨年の閣議決定でも今年の衆議院での議論でも、中心的に語られてきたのはむしろ朝鮮半島有事への対応やホルムズ海峡での機雷掃海作業であり、政府が中国脅威論を前面に押し出すことはありませんでした。
ところが、7月22日、政府は、中国が東シナ海に建設している新たな海洋プラットホームの航空写真などを外務省のホームページ上に公開、28日から始まった参議院の平和安全法制特別委では、自民党議員の質問に答え、安倍総理が中国を名指しで批判しています。政府は、安保法制の必要性についての理由付けを、微妙に変化させているように見えます。
なぜ、政府は、これまで中国脅威論を前面に出さなかったでしょうか。
これは実は当たり前の話で、平和安全法制を構成する二本の法律は、いわゆる中国の脅威に対して直接的に対応するものではないのです。
平和安全法制を閣議決定した本年5月14日、法案とは別に三本の閣議決定がなされました。
〇 我が国の領海及び内水で国際法上の無害通航に該当しない航行を行う外国軍艦への対処について
〇 離島等に対する不法上陸等事案に対する政府の対処について
〇 公海上で我が国の民間船舶に対し侵害行為を行う外国船舶を自衛隊の船舶等が認知した場合における当該侵害行為への対処について
特に中国という国名も示されていませんし、東シナ海という地域も特定されてはいませんが、これが尖閣問題を念頭においたものであることは間違いないでしょう。要するに、尖閣問題は、基本的に従来の自衛隊法や海賊対処法の枠内で対応することになっているのです。軍隊ではない武装集団や海賊に対して、海上保安庁ではなく自衛隊で対応するという方針にはかなり疑問があるのですが、現行法上、武力行使が認められる防衛出動とは別の、海上警備行動や海賊対処行動という異なる類型の行動で対応することが既に認められており、この点について新たな法整備は必要ありません。
考えてみれば当然のことで、尖閣諸島が中国の侵略を受けるとすれば、それは日本にとっては個別的自衛権の問題になります。そこにアメリカがどのように関わるかは、アメリカの集団的自衛権の問題であって、日本の集団的自衛権の問題ではないのです。だから、中国脅威論は、安保法制の議論の中心的なテーマではありませんでした。
では、なぜいま、中国脅威論が前面に出てきたのか。
朝鮮半島有事もホルムズ海峡での機雷掃海作業も、極めて非現実的な想定であったことが明らかになったいま、いちばん国民の共感が得られるのはこれだと見定めたのではないでしょうか。
ほんとうに想定される存立危機事態とは
しかし、そうなると、今回の平和安全法制の意味を、改めて問い直す必要があります。
今回の平和安全法制の最大の意義は、現行法上「我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態または武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められると認められるに至った事態(武力攻撃事態等)」に限定されている防衛出動を、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合(存立危機事態)」にも認めるところにあります(全体主義の跫音〜「平和安全法制」と立憲主義)。そして、最大の問題は、具体的にどのような場合が「存立危機事態」なのか、さっぱり分からないところなのです。
政府がその具体例として挙げたのが、ホルムズ海峡の機雷封鎖に対する掃海作業でした。しかし、これに対しては、イランのナザルアハリ駐日大使が、7月23日の記者会見で「機雷敷設がイランを念頭においているのであれば全く根拠のないこと」、「なぜ封鎖する必要があるのか」と疑問を呈しています。イランと欧米との関係は、核開発協議の合意により改善しています。安保法制の必要性として強調される「安全保障環境の悪化」は、ホルムズ海峡には全くあてはまらないのです。
では、実際に想定されている「存立危機事態」とはいったい何なのか。中国脅威論をここに持ち出すとすれば、アメリカの抑止力がなくなること自体を日本の存立の危機と捉えるつもりではないかと思わざるを得ません。
アメリカに対する第三国の武力攻撃が発生する
→ アメリカから自衛隊の派遣が要請される
→ それを断ればアメリカから安保条約を解消されるかもしれない
→ 安保条約を解消されることは中国の脅威にさらされている日本にとって存立の危機である
→ 存立危機事態として自衛隊が防衛出動する
このようにでも考えないと、中国脅威論と存立危機事態による集団的自衛権の発動はつながりようがないのではないでしょうか。
この場合、日本は、アメリカと第三国との戦争に参戦することになります。当然、アメリカとともに第三国の攻撃対象となります。海外の日本人がテロの標的になる危険も高まり、日本国内でのテロも危惧されます。
しかも、アメリカという国は、イラク戦争にみられるように、自衛権を極めて緩やかに解釈しています。相手がアメリカにとって危険であると認識すれば、アメリカは自衛権を発動します。相手国も反撃せざるを得ないでしょう。そうすれば、アメリカに対して第三国からの武力攻撃が発生したということで、存立危機事態の要件を充たすことになってしまいます。アメリカに対して先制攻撃をしかける国があろうとは思えませんので、存立危機事態の多くは、こういうケースになってしまう可能性が大です。
安保法制反対派が、この法案を「戦争法案」と呼ぶのは、このような事態を危惧しているからです。
国家と国民との緊張関係
安保法制で集団的自衛権の行使が可能になったとしても、別に、行使を義務付けられるわけではない、本当に日本のために必要な場合に行使すればいいのだという人がいます。ほんとうにそんなことが可能でしょうか。
ベトナム戦争について、アメリカは南ベトナム政府の要請に基づく集団的自衛権の行使であると説明していますが、韓国は、米韓相互防衛条約に基づいてベトナムに軍隊を派遣しました。1964年から73年にかけて、のべ約31万人を派兵、約4700人の戦死者を出しています。当時の韓国での議論の詳細は知りませんが、北朝鮮と対峙している韓国にとって、アメリカの要請を断って参戦しないという選択が困難であったことは想像に難くありません。一方の日本といえば、憲法9条のもと、集団的自衛権の行使が許されないことは誰の目にも明らかであり、参戦するという選択肢自体が存在しなかったのです。
では、今回の安保法制により、集団的自衛権の行使が可能であるとなればどうでしょう。日本は、第二次世界大戦後、アメリカの武力行使を一貫して支持してきました。湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争だけではありません。国連が非難決議を採択したグレナダ侵略、リビア爆撃、パナマ侵攻に対してさえも、日本は理解を示してきました。多数が賛成した非難決議に対して、日本は反対、あるいは棄権してきたのです。この法律成立後に、アメリカから集団的自衛権の行使を要請された場合、日本がそれを拒むことを、残念ながら、私は想像することができません。
安保法制に賛成する人は、それができる日本であると思っているのでしょうか。アメリカの要請を断った場合、中国脅威論はどうなるのでしょうか。正しい判断をしたのだから、その結果、中国の脅威に日本単独で向かい合わなければならないとしてもそれでいいのだ、と割り切るのでしょうか。仮にそう思えるのであれば、なにもいま慌てて合憲性の疑わしい安保法制を成立させる必要はないとは思わないのでしょうか。
それほどまでに国が信頼できないのか、と言われるかもしれません。
もちろん、信頼できる国であってほしい。誰だってそうでしょう。
しかし、現実には、国家というものは、国民にとって、無条件で信頼できるようなものではありません。その典型的な場合が、戦争なのです。特に、太平洋戦争末期の沖縄戦は、いかなる意味においても、日本国民たる沖縄の人びとを守るための戦いではありませんでした。本土決戦の準備を整えるための時間稼ぎと位置付けられ約10万人にのぼる住民の犠牲者を出した挙げ句、日本政府は徹底抗戦方針を転換し、沖縄、小笠原、樺太を放棄するという条件での和平交渉を準備します。沖縄が戦後27年間にわたってアメリカの占領下におかれ、現在もなお米軍基地の負担に苦しんでいるのはそのためです。
広島、長崎への原爆投下も、「国体護持」を優先してポツダム宣言を黙殺したためでした。アメリカの核兵器使用を正当化する意見に与するつもりはまったくありませんが、国体ではなく、国民を守るための国家であったならば、起こらずに済んだ悲劇でした。
もちろん、こういった「国家」と「国民」との緊張関係は、戦争の場合の特殊なものではありませんし、日本固有のものでもありません。それは、「国家」というシステムに内在する問題なのであり、その問題意識は世界共通です。
だからこそ近代国家は、憲法という、国家権力が暴走しないための装置を備えているのです。
だからこそわたしたちは、選挙で選ばれた政権に対しても、街頭をはじめとするあらゆるところで反対意見を表明し、退陣を求める権利を保有しているのです。
わたしたちは、そのことを繰り返し思い出す必要があります。
(小林)
まさに戦争の度に、国家のために紛争する人々のみならず、罪もない多くの子供や市民が犠牲になってきたことは長い歴史が証明していますよね…。
現憲法9条の下では、米国等とともに戦争する「集団的自衛権」は違憲であることは明白ですが、現政権は、国民の安全というまやかしに加え、さらに立憲主義をも逸脱して迷妄しています。
もしこれを許せば、紛争地帯に送られる自衛隊員のみならず、戦争で家族を殺された「怨恨の連鎖」によって、米国のように、常にテロの恐怖に怯え続けることになるはずです。あの9.11は衝撃でした。結局、そこでも国民が犠牲になったわけです。
筆者の深い考察を拝読しているうちに…「蟻とキリギリス」など、優れた比喩で示唆を与えた2500年前のギリシャのイソップを想起しました。
「昔、羊たちが犬を雇って狼から身を守っていました。狼は、犬をよこせ、そうしたらお前たちに危害は加えない安全だと。羊たちはこの言葉を信じて犬を狼に渡したところ、狼はまず犬を咬み殺し、次に羊を食べ尽くしました」
羊は国民、犬は憲法、狼は国家に透けて見えてしまいます。
戦後70年を迎えたいま、唯一の被爆国となって、広島・長崎の人々が、また唯一の地上戦で捨石のように扱われた沖縄の人々が犠牲となったことを思えば、本来、国際平和の指導者となるべき日本が、またぞろ全体主義やら戦争参加に堕してしまうわけにはいきませんよね…やはり私たちが声に出していく必要がありそうですね。