まずはハンセン病家族訴訟に関して、お知らせです。第1回弁論期日が、以下のとおり指定されました。原告団、弁護団の代表による意見陳述が予定されていますので、みなさま、是非、傍聴にお越し下さい。

 日時 10月14日(金) 14時
 場所 熊本地方裁判所 101号法廷


 さて、本日は、青法協の交流集会で、「ハンセン病国賠訴訟から15年〜差別・偏見の解消を求めるハンセン病家族訴訟」というテーマで話をしました。
 青法協の交流集会では、4年前にも、「患者の権利の法制化をめざして~薬害HIV訴訟とハンセン病問題の経験を踏まえて」というテーマで話したことがあります(闘い続けるということ〜青法協交流集会)。迂闊なことに、そのときには、4年後にハンセン病家族訴訟のことを話すことになるとは、まったく予想していませんでした(^_^;)
 
 それでは、ハンセン病問題のおさらいを兼ねて、本日の話の概要を、当ブログ読者のみなさまにもお読みいただきたいと思います。

ハンセン病の基礎知識

 ハンセン病はらい菌という細菌による感染症です。
 ハンセン病の分類は時代によってさまざまですが、1960年代頃には大きく二つに分けられていました。T型(類結核型・神経らい)と、L型(らい腫らい型・結節らい)です。癩菌に対する抵抗力が弱くて菌がどんどん繁殖するのがL型で、らい菌に対する免疫反応で起こるのがT型。L型は皮膚症状、T型は末梢神経症状が中心です。ただ、この二つは相互に移行するということが言われていて、B型(境界型)というものもあります。
 二つに共通しているのは、外貌が特徴的だということです。L型の患者は顔に斑紋がでたり結節がでたりしますし、T型の人は神経が侵されて手足に後遺症を残すことが多い。こういったことで、外目に分かりやすい後遺症を残してしまう。これが、差別・偏見の対象になった大きな原因であり、たいへん怖れられた所以でもあります。
 しかし、実際には癩菌の病原性はとても弱く、簡単に伝染するような病気ではありません。古来、感染症ではなく、遺伝病であると考える説が有力だったのもそのためです。ハンセン病が蔓延するかどうかは、環境的な要因に大きく影響されるといわれており、経済的に豊かな社会ではほとんど蔓延しません。いま、患者が多発しているのは例外なく低開発国、低開発地域です。
 この病気が怖れられたもう一つの要因に、効く薬がないという事情がありました。この菌があまりに弱く、培養ができないために、そのクスリの開発は他の感染症に比べてずいぶん遅れたようです。しかし、1940年代から、プロミンをはじめとする治療薬が登場して、状況は一変しました。1980年代には、WHOの提唱する多剤併用療法で、後遺症を残さず短期間で治る病気になりました。

日本のハンセン病政策

 日本におけるハンセン病政策のはじまりは1907年の癩予防ニ関スル件です。
 この法律は、強制隔離政策というよりも、むしろ救貧政策的な面を持っていたといわれています。当時、ハンセン病の患者さんたちのなかには、故郷に住めなくなって、仕事ができなくなって、人の集まる神社仏閣とか観光地で物乞いをして暮らしている人たち〜当時の言葉では「浮浪癩」といわれる人たちもいました。欧米では、そういう人に対して、キリスト教が救いの手をさしのべます。日本でも、明治の早い時期に、ハンセン病の療養所をつくったのは、外国からきた宣教師たちでした。浮浪癩に対して何の対策も採らずに外国の宣教師任せにしているのは恥ずかしいことだ、国の恥だ…こういう見解を、当時、「国辱論」といったようです。
 そういった時期に、ハンセン病は従来考えられていたような遺伝病ではなくて感染症であるという医学的知見が伝わってきます。それならば、伝染予防のための隔離を名目として療養所をつくって、浮浪癩をそこに収容してしまおう、というのがこの癩予防ニ関スル件です。

 国辱論に基づいてスタートした強制隔離政策は、第一次世界大戦後に隆盛を極めた優生思想に後押しされて、自己肥大していきます。
 総力戦の時代に生き残っていくためには軍隊が強いだけではダメ。国民の全てが体力、知力ともに優れている必要がある。優れた遺伝子を残し、劣った遺伝子を排除して、国民全体を優秀なものにしていこう。これが当時の優生思想であり、極端な形としては、ナチスのユダヤ人政策となってあらわれます。
 優生思想は、日本では、ハンセン病政策に猛威を振るいました。この考え方に基づき、1931年の「癩予防法」では、隔離の対象が、「病毒伝播の虞ある者」に拡大されました。日本から癩を根絶するために全ての患者を療養所に収容してしまおうという「癩根絶計画」が策定され、各県では無癩県運動が展開されました。

 無癩県運動で狩り出された患者たちは、各地の療養所に運ばれていきました。ハンセン病は強烈な伝染病だという触れ込みでしたから、患者を運ぶために、他の乗客の出入りを禁じた特別の車両が仕立てられました。これを、患者たちは自嘲をこめて「お召し列車」と呼びました。なかには家畜用の船で運ばれた患者もいます。

 運ばれた療養所では、患者作業が待っていました。当時の療養所は、軽症患者が重傷患者の世話をするという仕組みで運用されていたのです。それだけならまだしも、最初の国立療養所である長島愛生園では、島を開拓して療養所を建設すること自体が患者の仕事でした。
 軽症患者といっても、その多くはT型の患者で、手足に末梢神経障害をもっています。そういった人が炊事、洗濯といった療養所運営、重傷患者の介護、あるいは土木作業を行うと、感覚が鈍かったり動きが不自由だったりするのでどうしても怪我が多くなります。また、彼らは、その怪我に気付きにくい、気付いても治りにくい。そこから感染が悪化して、手指、足趾の切断に至る。熊本地裁で証言した犀川先生は、世界中どこのハンセン病患者と比べても、日本のハンセン病患者の後遺症は重い、患者作業のせいであると断言しました。
 当時、良識のある医師が、医学雑誌に「軽症患者は療養所から退所させるべきではないか」という論稿を発表したことがあります。それに対して多磨全生園という療養所の所長が反論しています。そんなことをしたら、療養所はたちまち地獄の様相を呈するだろう、患者たちの同病相憐れむの精神あればこそ、いまのような相互扶助の楽園が実現したのだ。
 
 というと患者たちがまるでボランティアで嬉々として働いていたようですが、そんなことはありません。療養所の所長は、入所者たちに対して懲戒検束権をもっていて、職員の命令に従わない入所者を、裁判にもかけずに処罰することができました。
 群馬県の栗生楽泉園には、特別病室と呼ばれる監禁施設があって、全国各地の療養所から、いわば問題の患者が送られてきました。多磨全生園の山井道太という人は、洗濯作業をするのに長靴を要求したというのでここに送られています。冬には気温が零下十数度にまで低下するという特別病室、入所者たちが「重監房」と呼んだこの場所で、分かっているだけで22名の人が獄死しています。それが、所長のいう「相互扶助の楽園」の実態でした。
重監房跡
 写真は、重監房跡です。栗生楽泉園から少し離れた森の中に、コンクリートの基礎だけが残っています。
 一昨年、楽泉園に重監房資料館がオープンしました。重監房を復元して、絶対隔離政策の過酷さを伝えていますので、機会があれば見学していただければと思います。

 1945年に戦争が終わって、47年には新しい憲法が制定されます。療養所ではプロミンが劇的な効果を上げていました。国会では、栗生楽泉園の特別病室事件が取り上げられ、隔離政策の問題が表面化しました。
 当然、ここで強制隔離政策は転換されるべきでした。
 ところが、その一方で、1947年頃から、もう一度、第二次無癩県運動とでもいうべき患者狩りが猛威を振るいます。これは、むしろプロミンを武器とする患者収容運動でした。「療養所にはプロミンがある、プロミン注射で癩は治る」。そういって、敗戦で緩んだ強制隔離政策のタガが締め直されました。1951年には、国会で、光田健輔、宮崎松記、林芳信という三人の療養所所長が、隔離政策の強化を求める見解を述べています。
 
 入所者たちは、癩予防法の廃止を求めて立ち上がり、いわゆる予防法闘争が展開されました。療養所でのハンガーストライキ、国会での座り込みといった大闘争が展開されたのですが、そこでできたのは、ほとんど内容に変化のない、癩の字がひらがなの「らい」になっただけのような「らい予防法」でした。その結果、ほとんどのハンセン病の患者さんは療養所に強制収容され、治っても出て行けず、一生を療養所に閉じ込められて暮らすようなことになってしまいました。
 らい予防法が廃止されたのは、新法制定から43年を経た1996年のことです。

ハンセン病国賠訴訟 

 らい予防法の廃止に向けた動きが最終盤にさしかかっていた1995年、当時、星塚敬愛園に入所していた島比呂志さんから、当事務所の設立者である池永満弁護士宛に一通の手紙が届きました。
 わたしたち弁護士が、このハンセン病問題に正面から向き合うようになったのは、その一通の手紙がきっかけでした(島比呂志さんをしのぶ)。
 
 1998年7月、星塚敬愛園と菊池恵楓園の入所者13名を原告とするらい予防法違憲国家賠償請求訴訟が、熊本地裁に提訴されました。
 この訴訟が、東京地裁での東日本訴訟、岡山地裁での瀬戸内訴訟の提訴につながり、闘いが拡がっていく経緯については、「開かれた扉〜ハンセン病裁判を闘った人たち」という本が講談社から出ていますので、それを読んでいただければ幸いです。残念ながら絶版ですが、中古であれば手に入ります。

国の隔離政策は違法 熊本地裁判決が言い渡されたのは、2001年5月11日です。
 厚生省及び国会の責任を認めたこの判決は、憲法に関する裁判例として非常に重要なものであり、かつまた、その後のハンセン病問題解決に向けての指針として、国の施策に大きな影響を与えています。
 当然ながら、今回の家族訴訟にも深く関連していますので、以下、その内容を詳しく見てみましょう。

熊本判決が認定したハンセン病に関する知見 

 判決は、ハンセン病に関する知見について、らい予防法が制定された1953年当時を中心として、概ね以下のように整理しています。

〇 ハンセン病は、感染し発病するおそれが極めて低い病気であり、このことは新法制定のはるか以前から、政府やハンセン病医学の専門家において十分認識されていた。
〇 ハンセン病は、それ自体として致死的なものではなく、すべての症例が重症化するわけでもなく、自然治癒するものもあった。
〇 新法制定当時はプロミンなどの治療薬の普及により、ハンセン病が不治の悲惨な病であるとの観念は妥当しなくなっていた。
〇 日本における患者数はほぼ一貫して減少しており、特に昭和30年代には顕著な減少がみられた。
〇 国際的には、1920年代から隔離の対象を伝染性に限定すべきことが提唱されており、1950年代後半の国際会議では、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱されるに至っていた。

 
 ほぼ、原告側が主張したとおりの認定でした。

熊本判決の責任論

 このような知見を前提として、判決は厚労省の責任を認めました。

 遅くとも1960年以降においては、全ての入所者及びハンセン病患者についての隔離の必要性が失われており、厚生省としてはその時点において新法の改廃に向けた諸手続をとることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があった。

 今回の家族訴訟との関連では、以下の部分が重要です。

 従前のハンセン病政策が、新法の存在とあいまって、ハンセン病患者及び元患者に対する差別・偏見の作出・助長に大きな役割を果たしたという先行的な事実関係の下で、社会に存在する差別・偏見がハンセン病患者及び元患者に多大な苦痛を与え続け、入所者の社会復帰を妨げる大きな要因にもなっていること、また、その差別・偏見は、伝染のおそれのある患者を隔離するという政策を標榜し続ける以上、根本的には解消されないものであることに鑑みれば、厚生省としては、入所者を自由に退所させても公衆衛生上問題とならないことを社会一般に認識可能な形で明らかにするなど、社会内の差別・偏見を除去するための相当な措置をとるべきであった。

 また、この判決のインパクトは、厚生省の責任のみならず、国会の立法行為について国賠責任を肯定したことでした。
 その後、在外邦人選挙権制限違憲訴訟で立法責任を認める平成17年9月14日最高裁判決がでていますが、この当時の立法責任に関するリーディングケースは、在宅投票制度廃止に関する立法責任を否定した昭和61年11月21日最高裁判決でした。この最判は、立法行為が国賠法上の違法性を帯びるのは、立法の内容が憲法の一義的な文言に反しているような例外的な場合に限られるとしています。
 しかし、熊本地裁判決はこういいます。

 最高裁昭和60年1月21日判決は、もともと立法裁量にゆだねられているところの国会議員の選挙の投票方法に関するものであり、患者の隔離という他に比類のないような極めて重大な自由の制限を課する新法の隔離規定に関する本件とは、全く事案を異にする。右判決は、その論拠として、議会制民主主義や多数決原理を挙げるが、新法の隔離規定は、少数者の人権保障を脅かしかねない危険性が内在されているのであって、右論拠は、本件に全く同じように妥当するとはいえない。
 
 選挙制度というのも、民主主義の根幹で、たいへん重要な問題なのですが、ハンセン病問題に比べればたいした問題ではないといわんばかりです。

 ……最高裁判決が「立法の内容が憲法の一義的な文言に反している」との表現を用いたのも、立法行為が国家賠償法上違法であると評価されるのが、極めて特殊で例外的な場合に限られるべきであることを強調しようとしたにすぎないというべきである。

 だから、立法の内容が憲法の一義的な文言に反しているかどうかに拘ってもしかたがない。極めて特殊で例外的な場合かどうかが問題なのだ。

 新法の隔離規定が存在することによる人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性にかんがみれば、他におよそ想定し難いような極めて特殊で例外的な場合として、遅くとも昭和40年以降に新法の隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為につき、国家賠償法上の違法性を認めるのが相当である。
 
熊本判決の損害論

 読み返してみると、よくもまあここまで書いたなという判決です。なにが、裁判所をしてここまで書かせたのか。
 もちろん、「人権被害の重大性」です。

 判決は、隔離政策による人権侵害を、以下のように表現しました。
 
 ある者は学業の中断を余儀なくされ、ある者は職を失い、あるいは思い描いていた職業に就く機会を奪われ、ある者は、結婚し、家庭を築き、子どもを産み育てる機会を失い、あるいは家族との触れ合いの中で人生を送ることを著しく制限される。その影響の現れ方は、その患者ごとに様々であるが、いずれにしても、人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり、その人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるものである。このような人権制限の実態は、単に居住・移転の自由の制限ということで正当には評価し尽くせず、より広く憲法13条に根拠を有する人格権そのものに対するものと捉えるのが相当である。

 その人権侵害を、損害として構成する上で、判決は、①隔離による被害と、②社会から差別・偏見を受けた被害の二つを、原告らの共通損害として抽出しました。
 今回の家族被害で重要なのは、後者の、差別・偏見による被害です。

………原告らは、社会から差別・偏見を受けたことによる精神的損害をスティグマによる被害あるいはその一部として、共通損害である社会の中で平穏に生活する権利の中に含ませている。この点、ハンセン病に対する誤った社会認識(偏見)により、原告らが社会の人々から様々な差別的扱いを受けたことそのものを賠償の対象とすべきではなく、そのような地位に置かれてきたことによる精神的損害を被害としてとらえるべきであり、これにも一定の共通性をみいだすことができる。

熊本判決の確定

 判決が言い渡された5月11日は金曜日でした。週明けの14日、原告団は坂口厚労大臣に面談し、控訴断念を迫ります。「みなさまにご苦労をかけたことを厚労大臣として率直にお詫びしたい」と切り出した厚労大臣を、原告団代表の曽我野一美さんは、「大臣、もうしわけないが謝罪は受けられない、控訴断念して判決が確定するまで、謝罪は受けられない」と遮ったと伝えられています(曽我野一美さんを悼む)。
 しかし、もちろん政府も簡単にそれを受け入れるわけはありません。17日頃から、やはり控訴をしないわけにはいかない、控訴した上で、福岡高裁で解決に向けての協議をしようという政府の方針が報じられるようになりました。霞ヶ関と永田町を中心に、控訴断念を巡る、原告団・弁護団と厚労省・法務省の攻防が繰り広げられました。

追加提訴 しかし、闘いは東京だけで行われていたわけではありません。熊本地裁判決は、療養所で逼塞していた入所者たちを、また入所歴を隠して社会の中で暮らしていた退所者たちを、闘いに立ち上がらせました。弁護団は、飛行機、鉄道、バス、タクシー、連絡船を乗り継ぎ、北は北海道から南は石垣島まで、全国津々浦々を駆け巡って追加提訴の委任状を集めました。
 熊本判決から二度目の週明けとなった5月21日、東京、岡山、熊本の三地裁に合計923人の追加提訴が行われました。判決から10日の間に、原告団は2倍以上に膨れあがったのです。

官邸前 提訴行動を終えた原告たちは、小泉総理との面談を求めて首相官邸前に押し寄せました。原告団代表の曽我野さんの他、二代目の代表となった谺雄二さん(訃報二つ〜神美知宏さんと谺雄二さん)や、原告団事務局長の国本さんの顔が見えます。頭頂部だけうつっているのは、対応に出てきた飯島勲秘書官。当時、小泉首相の懐刀といわれた辣腕秘書です。
 23日の朝刊は、政府の控訴方針に対して反対している坂口厚労大臣の辞意を伝えました。
 
 政府の控訴方針が固まったことを伝える夕刊各紙が地下鉄の売店に並ぶ頃、原告団は、首相官邸に入りました。10分の予定だった面談は、予定時間を大幅に超過し、40分に及びました。
 
 面談を終えた直後、小泉総理は、控訴を断念する方針を表明、控訴期限最終日の25日に、内閣総理大臣談話を発表しました。

控訴断念 我が国においてかつて採られたハンセン病患者に対する施設入所政策が、多くの患者の人権に対する大きな制限、制約となったこと、また、一般社会において極めて厳しい偏見、差別が存在してきた事実を深刻に受け止め、患者・元患者が強いられてきた苦痛と苦難に対し、政府として深く反省し、率直にお詫びを申し上げるとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の念を捧げるものです。

判決確定後のハンセン病問題

 判決確定後、熊本地裁が認めた責任に基づき、さまざまな恒久対策が実現していきました。
 6月には、隔離政策の被害者が、裁判をせずとも補償を受け取れるよう、ハンセン病補償法が制定されました。
 また、恒久対策のために設置されたハンセン病問題対策協議会で、真相究明のための検証会議の設置、療養所退所者の生活を支える退所者給与金制度が合意され、厚生労働大臣名義の謝罪広告も実現しました。
 熊本地裁判決で対象となっていなかった遺族、非入所原告については、年が明けた2002年1月に、和解のための基本合意書が締結されました。
 2004年には、韓国、台湾が日本の植民地であった時代の隔離政策の被害者である、ソロクト更生園、台湾楽生院の入所者たちが、ハンセン病補償法による補償を求めて東京地裁に提訴しました。この二つの訴訟は、2005年10月25日、午前10時にソロクト訴訟の請求棄却判決、10時30分に楽生院訴訟の請求認容判決が言い渡されるという劇的な展開を見せますが、翌2006年の補償法改正によって解決しました。
 その後も、ハンセン病問題の解決の促進に関する法律の制定、療養所職員定数削減問題(らい予防法による被害者の名誉回復と追悼の日)、退所者遺族に対する経済的支援問題(ハンセン病療養所退所者遺族に対する経済的支援策創設!)、特別法廷問題(シンポジウム「ハンセン病『特別法廷』と司法の責任」のご案内)などといった課題について、原告団・弁護団の闘いは続けられてきました。

ハンセン病患者の家族たち

 このようなさまざまな闘いが繰り広げられているあいだ、ずっと懸案事項のままになっていたのが、家族の問題でした。
 ハンセン病患者の家族が、お互いに交流の機会をもつようになったのは、国賠訴訟の遺族提訴を通じてのことでした。遺族のほとんどは、自分の身内にハンセン病患者がいることをひた隠しにしてきた人たちです。だから、同じような立場にある人と会うこともありませんでした。家族として、自分がどんな思いで過ごしてきたのか、胸襟を開いて語り合う相手はいませんでした。ハンセン病患者の家族たちは、それぞれに孤立していました。
 家族たちは、国賠訴訟を通じてはじめて、同じ立場で語り合える相手に巡りあい、「れんげ草の会」という集まりを持って、信頼を深めていきました(ハンセン病家族の集いに参加して)。

 その家族たちが、熊本地裁判決から15年を経て訴訟に立ち上がった経緯は、当ブログのハンセン病問題〜家族提訴のご報告とご支援のお願いでお伝えしたところです。

絶対隔離政策の中の家族
 
 では、ここで改めて、日本のハンセン病政策を、家族への影響という観点で振り返ってみましょう。

 1907年の癩予防ニ関スル件は、必ずしも絶対隔離をめざすものではなく、救貧政策的な側面を有するものでした。しかし、隔離を正当化するために、ハンセン病の伝染性を過度に強調するものでもありました。
 1907年の内務省訓令は以下のように述べています。

 癩菌ノ発見ニ依リテ其ノ伝染性ナルコトヲ確定セラレタルモノニシテ主トシテ触接ニ依リ又ハ患者ノ鼻汁、唾液、潰瘍部ノ膿汁等ニ汚染シタル物件ヲ介シテ病毒ヲ他ニ伝播スル危険アルモノトス。
 患者ノ住居シタル家屋ハ消毒ヲ行ヒタル後ニアラサレハ他ニ使用貸与又ハ授与セサルコト。
 患者ノ使用シタル衣類、寝具、器具ハ勿論家人ノ常用衣類等病毒ニ汚染シ又ハ汚染ノ疑アル物件ハ消毒ヲ行ヒタル後ニアラサレハ他ニ使用、授与、移転又ハ遺棄セサルコト。


 これでは、患者と同居している家族は、ほぼ確実に汚染されていることになってしまいます。
 実際には、らい菌は人体から排出されるとすぐに死んでしまって、伝染性はありません。このような、まったく科学的根拠のない伝染性の誇張により、患者のみならず、その家族までがハンセン病の感染源になるかのような偏見が社会に浸透していくことになりました。

 癩予防法による絶対隔離政策を後押ししたのは、優生思想でした。その端的な表現を、1926年の内務省衛生局予防課長高野六郎「民族浄化のために」という論稿にみることができます。

 癩病は誰しも忌む病気である。見るからに醜悪無残の疾患で、之を蛇蝎以上に嫌い且怖れる。(中略)こんな病気を国民から駆逐し去ることは、誰しも希ふ所に相違ない。民族の血液を浄化するために、又此の残虐な病苦から同胞を救ふために、慈善事業、救療事業の第一位に数へられなければならぬ仕事である。(中略)要するに、癩予防の根本は結局癩の絶対隔離である。此の隔離を最も厳粛に実行することが予防の骨子となるべきである 。

 ハンセン病は細菌感染症であるという医学的知見に基づいて隔離政策を進めながら、その底には、昔ながらの「ハンセン病の血筋」という疾病観が透けて見えるようです。
 そして、この「民族浄化」という理念は、ハンセン病療養所では、入所者に対する断種・堕胎という形で表現されました。
 療養所内での断種は1915年頃からはじまったといわれます。もともとあった基督教系の療養所では男女は別に生活していたのですが、日本の隔離政策を主導した光田健輔は、入所者同士の結婚を認めた方が、園内が落ち着くという考え方をもっていました。園内で結婚すれば脱走もしないだろう、結婚したいと思えば乱暴な振る舞いは慎むだろう、と光田はいいます。しかし、子どもを産ませるわけにはいかない。というわけで、断種を療養所内結婚の条件とするという扱いが始まりました。
 しかし、それでも妊娠してしまう女性はいる。その場合は、堕胎を強制します。実は、1948年に優生保護法が成立する以前は、ハンセン病を理由とする優生手術は法律上認められていませんでした。遺伝病ではないからです。しかし、現実には、療養所内では、あたりまえのこととして堕胎が行われていました。そればかりか、堕胎された胎児が、ホルマリン漬けの標本として療養所の各所に置かれていました。堕胎はともかく、それをなぜ胎児標本として残したのか、その理由はよくわかっていません。一説によれば、妊娠するとこうなるから気をつけろという入所者向けの警告だったのではないかとも言われています。
 絶対隔離政策のものとでは、ハンセン病患者は子をなしてはならないもの、ハンセン病患者の子どもは、間違って生まれたものと位置付けられたのです。

 そういったハンセン病患者・家族に対する社会的な偏見が表面化したのが、1953年から55年にかけて問題になった龍田寮事件でした。
 龍田寮というのは、熊本のハンセン病療養所菊池恵楓園の附属保育所でした。恵楓園に入所する患者の中には、子どものいる人もいます。残された家族や、親戚でその子を育てることができればいいのですが、それができない人のために設置されていたのが、この龍田寮でした。
 1953年当時、龍田寮の子どもたちは、小学校時代は黒髪小学校龍田寮分校で学び、その過程を終えたら、龍田寮から地域の中学校に通っていました。菊池恵楓園側は、かなり以前から、小学生も地域の黒髪小学校本校に通学させてほしいと求めていたようです。行政側は反対多数のPTAを押し切って1954年度からの通学を認める方向で動きますが、反対派は同盟休校を呼びかけました。
龍田寮 校門前で児童たちが見入っている張り紙には、ひらがなで「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬようしばらくがっこうをやすみましょう」との呼びかけが書かれています。
 この騒動は2年以上にわたって続き、その間、龍田寮の子どもたちは、ほかの児童養護施設や親戚のもとに密かに引き取られていきました。1957年には、龍田寮自体が閉鎖されました。
 この事件は、一見、ハンセン病に偏見をもち頑迷に差別しようとする住民側と、患者家族側にたって差別を解消しようとする行政側の対立という図式に見えないでもありません。しかし、住民に、このような家族に対する差別を植え付けたのは、ほかでもない、行政側が戦前から一貫して展開してきたハンセン病隔離政策であり、無癩県運動だったのです。

父を嫌った自分が辛かった

 家族たちがこうむった被害は、極めて多様です。
 子供の頃からいじめられて育った人、家族に患者がいることがばれて離婚された人、就職差別にあった人、そんな目にあわないように秘密を守り続けてきた人。
 わたしたちは、いまあらためて、家族たちの体験談を聞き、ハンセン病に対する偏見・差別に対する認識を新たにしています。この問題に関わってすでに20年近くになるのに、まだまだ知らないことが多い。ほんとうにそう思います。
 
 ここでは、「れんげ草の会」の創設メンバーであり、わたしがもっとも早い時期にその話を聞くことができた女性の例を紹介しましょう。黒坂愛衣さんの「ハンセン病家族たちの物語」(らい予防法被害者名誉回復追悼の日)には、「父を嫌った自分が辛かった」という標題で、彼女からの聴き取りが収録されています。

 彼女は、1945年生れの女性です。3歳の頃、父親が菊池恵楓園に入所し、母親は彼女を置いて別の男性と再婚したため、親戚の間を転々として育ちました。
 若くして死んだと聞いていた父親が、実は菊池恵楓園で生きていることを知らされたのは、結婚して子どもができた頃でした。恵楓園がどんなところも知らず、彼女は、赤ん坊を抱いて、父親に会いに行きました。
 はじめてみた父親の姿は、彼女にとって衝撃的なものでした。
 どうしてわたしはこんな人から生まれたのだろう、小さい頃に親戚から受けた仕打ちの意味がやっと分かった、と彼女はいいます。
 思い返してみれば、自分は親戚からもつまはじきにされて育ったのだ、誰からも相手にされずに、いつもひとりでお絵かきをしていた。でも、誰もその理由を教えてくれないから、嫌われていることさえ分からなかった。冷たくされても、そんなものだと思って育った。
 自分には、愛情というものが分からない。
 幼い頃の記憶も定かではない。そばについて、おまえは小さい頃はこうだったよ、ああだったよと言って聞かせてくれるような人はいなかったから。
 父親を疎ましく思う自分が辛かった、と彼女はいいます。父親が恵楓園で亡くなったとき、正直なところほっとした、そんな自分が嫌だった、と彼女はいいます。

家族たちの物語 彼女には、小さい頃の写真もありませんでした。父親の療養所の部屋には、小さな女の子の写真が一つ飾ってありましたが、誰の写真なのか、彼女には分かりませんでした。
 きっと、彼女以外の人がみれば明らかだったはずです。それは幼い頃の彼女の写真でした。お父さんは、三歳の頃に別れた彼女の面影を抱いて、療養所での孤独に耐えてきたのでした。
 
 彼女はいま、その写真を父親の形見として大事にしています。
 黒坂さんの本のカバーに使われているのが、その写真です。

ハンセン病問題の全面解決をめざして 

 家族からの被害聴き取りを重ねてきた黒坂さんは、家族被害の本質は、家族関係の綻び、ねじれ、切断である、といいます。その被害の本質を、どれほど裁判所に伝えることができるか。ハンセン病家族訴訟の帰趨は、その一点にかかっています。

 国の責任を認める判決が家族たちの顔をほころばせた時、ハンセン病問題は、解決にまた一歩ちかづくのだと思います。
 しかし、判決だけで、ハンセン病問題の全面解決がもたらされるわけではありません。
 この問題に全面解決があるとするならば、それは、彼らが、親しい人に対して自分の過去を隠す必要がなくなったとき、ハンセン病に対する差別・偏見を意識せずに自分を語れるようになったときです。
 そのために必要なのは、多くのみなさまの、理解と励ましです。

 ぜひ、ハンセン病家族訴訟を応援してください。
(小林)