アフガンで銃撃、中村哲医師が死亡 現地で人道支援
12/4(水) 16:49配信 朝日新聞
アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードで4日朝、同国で人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表で、医師の中村哲さん(73)の乗った車が何者かに銃撃された。州政府によると、中村さんや運転手ら計6人が死亡した。長く医療支援や灌漑工事を続けてきた中村さんは10月、同国から名誉市民権を授与されたばかりだった。2008年に日本人スタッフ(当時31)が殺害される事件があったため、警備員を付けて活動していた。

言葉がありません。
一方で、この気持ちを多くの人と共有したい、という思いもあります。
パソコンの中に、中村さんについて書いた文章が残っていました。
2008年に、福岡県弁護士会主催で行われた中村さんの講演会の報告記事で、会の月報に掲載されたものです。
さる5月23日、アクロス福岡にて、中村哲先生の講演会が開催されました。中村先生は…などと書いていると筆が進まず、とうてい本日に迫った〆切をクリアできないので、型どおりのことは止め、好きなことを書く。
僕は中村哲の大ファンである。中村哲のことを思うと胸がキュンとなるくらいのファンである。中村哲は僕にとってミスター憲法9条である。9条の精神を絵に描いてみよと言われれば、中村哲の似顔絵を描いて示したい。誰も言いませんか。そうですか。
彼は1984年、ハンセン病制圧計画に携わるため、パキスタン北西部のペシャワールに赴任、やがて国境を接するアフガニスタンからの患者流入に着目し、国境を超えた診療活動に取り組むこととなる。当時のアフガニスタンはソ連侵攻下であり、その後のソ連撤退後の内戦、タリバンによる実効支配、そして9.11後のアフガン戦争、タリバン政権崩壊を経て現在まで、彼の活動は続く。その活動は医療のみならず、米軍による空爆下のカブールへの食料支援、さらには干魃から住民を救うための井戸堀、枯れたカレーズの復旧等の水源確保に及び、現在では大規模な灌漑用水路建設に取り組んでいる。
彼の話を聴くのは、この4年間で3度目だ。彼は、自分がアフガンでやってきたことを淡々と語る。だから、基本的にはいつも同じ話である。彼の立場は一貫しており、話も変わりようがない。しかし、その活動は着実に前進している。最初に聴いたときには建設に着手したばかりだった灌漑用水路は、昨年完成し、多くの人々の命を養っている。そして僕は、同じ話を何度聴いても胸を熱くし、彼の活動がいくらか前進したことを聴いては瞼を濡らすのである。
武装勢力、武装勢力というが、アフガンは日本でいえば豊臣秀吉の刀狩り以前の戦国時代。武装勢力というのは普通の農民に過ぎない。
テロリストを育てているのは誰か。アメリカではないか。空爆で家を焼かれて逃げまどっている子どもたちこそが10年後、20年後のテロリストなのだ。
タリバン政権が崩壊して自由になったとメディアはいう。その自由は、女が売春をする自由、男が物乞いをする自由、麻薬の原料である罌粟を栽培する自由だ。タリバン崩壊後、アフガンは世界最大の麻薬生産国になってしまった。
アフガン人は日本について3つのことを知っている。一つめは日露戦争でロシアに負けなかった国であること、二つめはアメリカから原爆を落とされたこと、3つめはその敗戦から立ち上がって経済的繁栄を築き上げたこと。
これまで活動を拡げていく上で、日本人であることがどれほど有利だったか。それは日本は問題解決に武力を使わないという信頼(美しい誤解)があったから。いまやその信頼は崩れつつある。日本人だから狙われるという状況が生まれつつある。
憲法9条を改正して普通の国にしようなんていうのは、ほんとうの戦争を知らない「平和ボケ」の人の言うことではないか。
正直にいえば、以上の中村語録には、5月23日に語っていないことも含まれている。でも、要するにこういう人なのである。
「国際貢献」の名の下に9条改正が声高に主張される今日、戦争を放棄した日本だからこそできる国際貢献があることは、もっと注目されていい。改憲論者が喧伝する「アメリカの軍事力に守られて、金は出すが血は流さない卑怯な日本」といったイメージに恥じ入る前に、米軍の空爆に生身を曝しながら食料を運び、気まぐれな機銃掃射を避けながら灌漑用水工事に取り組む非武装の日本人に、何の支援もしていないことを恥じるべきではないか。そして、この徒手空拳の国際貢献こそが、憎悪の連鎖を断ち切って平和を築く最大の力であり、最も効果的な安全保障ではないのか。
講演を聴けなかった会員の皆様、是非、中村哲のことを知ってください。そして、憲法を語る際に、中村哲の活動に思いを馳せてください。中村哲入門書としてのお薦めは、彼の講演及びインタビューを収録した「医者よ、信念はいらない。まず命を救え!」(羊土社)です。
ペシャワールの会の伊藤和也さんが、武装勢力に拉致され殺害されたのは、この講演の3ヶ月後のことでした。「日本人だから狙われるという状況が生まれつつある」という中村さんの懸念が、最悪の形で実現した事件でした。
この事件に際して、中村さんはこう語ったといいます。
憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓う。
それから11年。
集団的自衛権に関する閣議決定は変更され、「平和安全法制」なるものも成立、ホルムズ海峡への自衛隊派遣も検討されているようです。押し付け憲法を改正しようという勇ましいポーズと裏腹に、対米従属は強化される一方で、憲法9条はなし崩し的に空文化しつつあります。
中村さんが2008年に懸念していた状況は、おそらく格段に深化していたことでしょう。
それでも、中村さんは、活動を続けました。
憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓う。
日本が、このような姿勢を国際社会に示すことこそ、中村さんの偉大な功績に報いることであり、その死に対する最大の弔いではないかと思います。
僕は中村哲の大ファンである。中村哲のことを思うと胸がキュンとなるくらいのファンである。中村哲は僕にとってミスター憲法9条である。9条の精神を絵に描いてみよと言われれば、中村哲の似顔絵を描いて示したい。誰も言いませんか。そうですか。
彼は1984年、ハンセン病制圧計画に携わるため、パキスタン北西部のペシャワールに赴任、やがて国境を接するアフガニスタンからの患者流入に着目し、国境を超えた診療活動に取り組むこととなる。当時のアフガニスタンはソ連侵攻下であり、その後のソ連撤退後の内戦、タリバンによる実効支配、そして9.11後のアフガン戦争、タリバン政権崩壊を経て現在まで、彼の活動は続く。その活動は医療のみならず、米軍による空爆下のカブールへの食料支援、さらには干魃から住民を救うための井戸堀、枯れたカレーズの復旧等の水源確保に及び、現在では大規模な灌漑用水路建設に取り組んでいる。
彼の話を聴くのは、この4年間で3度目だ。彼は、自分がアフガンでやってきたことを淡々と語る。だから、基本的にはいつも同じ話である。彼の立場は一貫しており、話も変わりようがない。しかし、その活動は着実に前進している。最初に聴いたときには建設に着手したばかりだった灌漑用水路は、昨年完成し、多くの人々の命を養っている。そして僕は、同じ話を何度聴いても胸を熱くし、彼の活動がいくらか前進したことを聴いては瞼を濡らすのである。
武装勢力、武装勢力というが、アフガンは日本でいえば豊臣秀吉の刀狩り以前の戦国時代。武装勢力というのは普通の農民に過ぎない。
テロリストを育てているのは誰か。アメリカではないか。空爆で家を焼かれて逃げまどっている子どもたちこそが10年後、20年後のテロリストなのだ。
タリバン政権が崩壊して自由になったとメディアはいう。その自由は、女が売春をする自由、男が物乞いをする自由、麻薬の原料である罌粟を栽培する自由だ。タリバン崩壊後、アフガンは世界最大の麻薬生産国になってしまった。
アフガン人は日本について3つのことを知っている。一つめは日露戦争でロシアに負けなかった国であること、二つめはアメリカから原爆を落とされたこと、3つめはその敗戦から立ち上がって経済的繁栄を築き上げたこと。
これまで活動を拡げていく上で、日本人であることがどれほど有利だったか。それは日本は問題解決に武力を使わないという信頼(美しい誤解)があったから。いまやその信頼は崩れつつある。日本人だから狙われるという状況が生まれつつある。
憲法9条を改正して普通の国にしようなんていうのは、ほんとうの戦争を知らない「平和ボケ」の人の言うことではないか。
正直にいえば、以上の中村語録には、5月23日に語っていないことも含まれている。でも、要するにこういう人なのである。
「国際貢献」の名の下に9条改正が声高に主張される今日、戦争を放棄した日本だからこそできる国際貢献があることは、もっと注目されていい。改憲論者が喧伝する「アメリカの軍事力に守られて、金は出すが血は流さない卑怯な日本」といったイメージに恥じ入る前に、米軍の空爆に生身を曝しながら食料を運び、気まぐれな機銃掃射を避けながら灌漑用水工事に取り組む非武装の日本人に、何の支援もしていないことを恥じるべきではないか。そして、この徒手空拳の国際貢献こそが、憎悪の連鎖を断ち切って平和を築く最大の力であり、最も効果的な安全保障ではないのか。
講演を聴けなかった会員の皆様、是非、中村哲のことを知ってください。そして、憲法を語る際に、中村哲の活動に思いを馳せてください。中村哲入門書としてのお薦めは、彼の講演及びインタビューを収録した「医者よ、信念はいらない。まず命を救え!」(羊土社)です。
ペシャワールの会の伊藤和也さんが、武装勢力に拉致され殺害されたのは、この講演の3ヶ月後のことでした。「日本人だから狙われるという状況が生まれつつある」という中村さんの懸念が、最悪の形で実現した事件でした。
この事件に際して、中村さんはこう語ったといいます。
憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓う。
それから11年。
集団的自衛権に関する閣議決定は変更され、「平和安全法制」なるものも成立、ホルムズ海峡への自衛隊派遣も検討されているようです。押し付け憲法を改正しようという勇ましいポーズと裏腹に、対米従属は強化される一方で、憲法9条はなし崩し的に空文化しつつあります。
中村さんが2008年に懸念していた状況は、おそらく格段に深化していたことでしょう。
それでも、中村さんは、活動を続けました。
憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓う。
日本が、このような姿勢を国際社会に示すことこそ、中村さんの偉大な功績に報いることであり、その死に対する最大の弔いではないかと思います。
(小林)