超高齢化社会といわれる今、医療事故相談でも高齢の患者さんに関する事故の相談が多いのは事実です。医療を受けている年齢層として圧倒的に高齢者が多いので、確率的に、事故に遭う方も高齢の方が多いのは、当然といえば当然ですね。
さて、さきごろ、とある法律雑誌に、裁判官が投稿した論文が掲載されました。
高齢者が被害者である医療過誤事件については、死亡事例について、慰謝料を大幅に引き下げるべきだと提案するものです。
これについての、東京医療問題弁護団の安原幸彦弁護士のエッセイが、医療問題弁護団のサイトに掲載されています。
さて、さきごろ、とある法律雑誌に、裁判官が投稿した論文が掲載されました。
高齢者が被害者である医療過誤事件については、死亡事例について、慰謝料を大幅に引き下げるべきだと提案するものです。
これについての、東京医療問題弁護団の安原幸彦弁護士のエッセイが、医療問題弁護団のサイトに掲載されています。

慰謝料というのは、精神的な苦痛に対する賠償金額です。心の痛みを金額で算定するのは本質的には不可能ですから、実務上は蒙った被害の程度を後遺障害等級、死亡など、一定の類型で分けて、各累計ごとに慰謝料はこれ、労働能力喪失率はこれ、と、いわばルールを決めて、その基準にもとづいて算出するという方法をとっています。
このルールが一定確立しているのは、交通事故の分野です。
そこでは、死亡という最も重たい被害が生じた場合のご本人の精神的苦痛について、最低でも2000万円としています。
どんなに重い障害があったとしても、どんなに高齢であったとしても、いのちを奪われた無念は、最低でも2000万円でいやされることはないであろう、そういう合意によるものです。
ところが、問題の裁判官は、 安原弁護士が医療過誤事件についてある論考において記した、「被害克服のポイントは、事実の究明、被害に対する補償などを通じて憎しみ(あるいは仇討ち・後悔)の感情から少しでも脱却することである」、「医療機関に誠実な説明や謝罪をさせることも医療被害克服に資するところが大きい」といった記述を引用して、医療過誤訴訟は、「真実の発見と憎しみの解放を目的とすることから、とりわけ、慰謝料について異なる基準で算定すべきではないかという提言をするのが本稿の目的である」として、高齢者については死亡慰謝料の大幅な減額を提案しているのです。
その前提に立てば、高齢者に限らず、およそ医療過誤訴訟ではすべて、慰謝料額を引き下げてもいいということになってしまうのではないでしょうか。
「憎しみの解放」という言い方をするかどうかは別として、専門的に患者側で医療過誤に携わっている弁護士の多くは、金銭賠償を求めるという手段しかないことに多くの依頼者が違和感を感じていることを常に意識しています。また、結果的に被害者にとっては「加害者」となってしまった医療者も、過ちが起きたことにより患者に生じた被害に心を痛め、傷ついていることも認識しています。
だからこそ、これが、双方にとってつらいできごとであり、ともにこのことによって痛みを感じている事実とともに、二度と同じ事態が生じないようにすることこそが、互いにとって望ましい未来であることを共有できるような環境をつくることが必要ではないかと考えています。
賠償額を大幅に下げることは、被害を矮小化することになります。それは、しぜん、事故の重大性自体を矮小化し、再発防止へのとりくみのモチベーションを引き下げることにつながりかねません。
この裁判官の考え方を前提とすると、高齢者のみならず、障害をもった方々について、あるいは難しい疾病を持っている方々について、いずれもいのちを軽んじるようなことになってしまうのではないか、そんな不安をおぼえました。
おりしも、ここ福岡でも、おくればせながら、旧優生保護法により不妊手術を強いられた方々が国を相手取って起こす裁判が提起されようとしているところ。
この裁判官の論考は、まさに「いのちに優劣をつける」ということになるのではないでしょうか。
このルールが一定確立しているのは、交通事故の分野です。
そこでは、死亡という最も重たい被害が生じた場合のご本人の精神的苦痛について、最低でも2000万円としています。
どんなに重い障害があったとしても、どんなに高齢であったとしても、いのちを奪われた無念は、最低でも2000万円でいやされることはないであろう、そういう合意によるものです。
ところが、問題の裁判官は、 安原弁護士が医療過誤事件についてある論考において記した、「被害克服のポイントは、事実の究明、被害に対する補償などを通じて憎しみ(あるいは仇討ち・後悔)の感情から少しでも脱却することである」、「医療機関に誠実な説明や謝罪をさせることも医療被害克服に資するところが大きい」といった記述を引用して、医療過誤訴訟は、「真実の発見と憎しみの解放を目的とすることから、とりわけ、慰謝料について異なる基準で算定すべきではないかという提言をするのが本稿の目的である」として、高齢者については死亡慰謝料の大幅な減額を提案しているのです。
その前提に立てば、高齢者に限らず、およそ医療過誤訴訟ではすべて、慰謝料額を引き下げてもいいということになってしまうのではないでしょうか。
「憎しみの解放」という言い方をするかどうかは別として、専門的に患者側で医療過誤に携わっている弁護士の多くは、金銭賠償を求めるという手段しかないことに多くの依頼者が違和感を感じていることを常に意識しています。また、結果的に被害者にとっては「加害者」となってしまった医療者も、過ちが起きたことにより患者に生じた被害に心を痛め、傷ついていることも認識しています。
だからこそ、これが、双方にとってつらいできごとであり、ともにこのことによって痛みを感じている事実とともに、二度と同じ事態が生じないようにすることこそが、互いにとって望ましい未来であることを共有できるような環境をつくることが必要ではないかと考えています。
賠償額を大幅に下げることは、被害を矮小化することになります。それは、しぜん、事故の重大性自体を矮小化し、再発防止へのとりくみのモチベーションを引き下げることにつながりかねません。
この裁判官の考え方を前提とすると、高齢者のみならず、障害をもった方々について、あるいは難しい疾病を持っている方々について、いずれもいのちを軽んじるようなことになってしまうのではないか、そんな不安をおぼえました。
おりしも、ここ福岡でも、おくればせながら、旧優生保護法により不妊手術を強いられた方々が国を相手取って起こす裁判が提起されようとしているところ。
この裁判官の論考は、まさに「いのちに優劣をつける」ということになるのではないでしょうか。
(久保井)