前回のエントリーで紹介した福岡大学病院の術後低血糖見逃し事件は、双方とも控訴せず、1審判決が確定しました。遅ればせながら、確定を機に事案の詳細を報告いたします。
 例によって、事実関係については当事者間に争いのあるものも含まれていること、その記述に含まれる医学的知見は、私たち弁護士がこの事件を扱う中で収集したものであり、専門的な意味での正確性が担保されているものではないことにご留意下さい。

事案の概要

 Aさんは、市内の産科クリニックで生まれ、出生後すぐに、喉頭の狭窄音と陥没呼吸が見られたために大学病院に緊急搬送されました。大学病院では、嚥下障害、低緊張、驚愕反応等から先天性代謝異常や神経伝達物質の異常を疑って各種検査が行われましたが、原因は特定できませんでした。
 生後8ヶ月目に、嚥下障害及び胃食道逆流症に対して、腹腔鏡下噴門造設術+胃瘻造設術が行われました。
 手術終了直後の午後2時40分に採取された血液は、血糖値14という著明な低血糖を示していましたが、病院スタッフはこの異常に気づかず、低血糖に対して何の処置も行ないませんでいた。
 手術の翌朝午前8時の採血では、血糖値は23であり、スタッフもこの時点で低血糖に気付きました。この時点からブドウ糖の補給が開始され、午前11時の採血では血糖値110にまで回復しました。
 しかし、この午前11時時点の血液生化学検査では、CK値3820という異常高値が示されていました。アイソザイムの結果は、CK-BB29%というちょっと見たことのないような異常を示しています。
 同日午後7時頃、スタッフが採血のためにAさんを観察したところ、自発呼吸がほぼ消失しており、気管内挿管が行われました。午後9時12分に撮影された頭部CTでは、基底核、視床の一部をのぞく脳全体のびまん性の低吸収、脳腫脹によるくも膜下腔の顕著な狭小化が認められ、急性低酸素脳症、急性虚血性変化が示唆される所見とされています。
 その後、Aさんはほぼ脳死状態となり、6年半後に亡くなりました。

せせらぎ
訴訟の争点

 手術直後の血糖値14という異常値に気付かず、翌日の午前8時過ぎまで、約17時間にわたって何の措置も講じなかった病院側の過失は明らかです。この点について、病院側は一応争う姿勢は見せたものの、実際には何の反論もしませんでした。
 問題は、この約17時間何の措置も講じなかったことと、Aさんの脳障害との因果関係です。
 この点についての、原告側の主張は、以下のとおり簡単明瞭です。
 〇 低血糖の持続が脳にダメージを与えることは確立した医学的知見である。
 〇 本件では、低血糖が17時間放置された後に、脳障害が出現している。
 〇 したがって、Aさんの脳障害は、低血糖が放置されたことによるものである。

 これに対して被告は、徹底的に争いました。
 〇 ブドウ糖の補給によって速やかに低血糖が改善したことからすれば、17時間にわたって低血糖が持続したとは考えられない。
 〇 低血糖による脳障害であれば低血糖が持続している間に意識障害や交感神経刺激症状がみられるはずのところ、翌日午後7時頃にスタッフが自発呼吸ほぼ消失の状態で発見するまで、Aさんにはそのような症状はなかった。
 〇 低血糖による脳障害の場合、MRIで後頭葉を中心とした異常がみられるところ、AさんのMRI所見は全脳にわたってびまん性に障害された所見であり合致しない。
 以上のような理由で、被告は低血糖見逃しとAさんの脳障害の因果関係を否定し、Aさんの脳障害は、なんらかの先天性の障害が原因となって発生したものと主張しました。

判決の概要

 判決の要旨は既に前回のエントリーで報告したとおりです。
 判決は、その根拠として、低血糖状態が一定時間以上継続すると脳が不可逆的な損傷を受けるという医学的知見と、低血糖が持続していた時間帯とCK−BBの異常がみられた時刻が近接していること、また、Aさんに神経系の先天性疾患があったとしてもそれが低血糖の持続とは無関係に増悪し高度の脳損傷をもたらしたことを具体的にうかがわせる事情はないことなどを挙げています。被告が挙げた事情は、いずれも因果関係を否定するに足りるものではないというのが判決による評価です。
 その一方で、Aさんの先天性疾患からすれば本件過失がなければ長期の入院加療が不要であったとはいえないとして経済的な損害を否定し、Aさん死亡に至る経緯には先天性疾患も大きく影響したと考えられることなどを考慮して、本人の慰謝料600万円、両親の慰謝料各100万円を認容したものです。

コメント

 一般に、医療過誤訴訟における法的因果関係の判断要素としては以下のようなものが挙げられます。
 ① 医療行為の不手際の存在(最終的に過失と評価されるかどうかは問わない)
 ② 医療行為と結果との時間的近接性
 ③ 医療行為と生体反応の生物学的関連(診療行為から結果発生に至る作用機序についての説明の可否)
 ④ 他原因介入の有無・程度

 本件では、①については低血糖を放置したという不手際があり、③についても低血糖持続の危険性は明らかでした。③については、低血糖の持続と呼吸停止までの時間はそれなりにあいていましたが、その間にCK−BB高値という脳損傷を示唆する検査結果が存在しました。④についても、先天性疾患の問題はあるにせよ、それがなぜこの機会に急速に脳障害を発生させたのかを説明することはできません。判旨は、このような一般的な法的因果関係の判断枠組みに沿った、堅実なものだと思います。
 
 文献的に報告されている低血糖症例の多くは新生児あるいは血糖降下剤を使用している糖尿病患者においてのものであり、本件のような乳児に関するものはわたしの知る限りほとんどありません。また、低血糖による症状は基本的には非特異的なものであり、本件のような先天性神経疾患が疑われる乳児について、いかなる徴候で低血糖症状を疑うべきかについて、参考になるような文献はありませんでした。
 しかし、実は私は、約10年程前に、やはり生後4ヶ月の乳児の術後低血糖の見逃し事案の裁判をしたことがあります。その子も、本件と同じように無呼吸状態で発見されるまで何の異常も気づかれず、発見後には、本件と同じようなびまん性の脳障害が進行して脳性麻痺となってしまいました。
 その症例がきちんと報告されて文献になっていれば、本件も、もう少し解決することができたかもしれません。

 改めて、医療事故の経験を社会的に共有することの重要性を感じます。
 最近、途絶えていた「医療事故紛争解決事例」シリーズも、再開せねばと思っているところです。
(小林)