またまたずいぶん間が空いてしまいましたが、周産期シリーズの第3弾です。

 死亡したのは33歳の女性です。
 妊娠38週3日の早朝に陣痛発来で相手方医院に入院となり、昼頃、胎児心拍数が低下して緊急帝王切開となりました。生まれたこどもは、高次医療機関のNICUへ搬送され、女性は分娩施設に残って経過観察となりました。
 分娩終了後から、徐々に呼吸苦が出現、膣からの出血も続きました。血圧低下と頻脈が顕著になり、意識レベルが低下した段階で高次医療機関への転送が決定されますが、転院先搬入時にはすでに心肺停止の状態でした。
 直接死因は多臓器不全、その原因は出血性ショックとされています。
 相談に来られたのは、亡くなられた女性のお母さんでした。転送先の担当医から、「自分であれば、来院時の血液検査のデータをみて、すぐに輸血の準備をして帝王切開をしていたと思う。もう少し早めに分娩を計画する機会もあったかもしれない」との説明を受けたとのことで、医療事故調査を依頼されました。


コスモクロック夜

 従来、「妊娠中毒症」という概念で把握されていた病態は、今日では、「妊娠高血圧症候群」という病名で把握されるようになっています。女性は約1週間前から、拡張期血圧が90㎜Hgを超えており、妊娠高血圧症候群の診断基準を充たしていました。
 妊娠高血圧症候群と重なるやや特殊な病態として、「HELLP症候群」があります。妊娠末期から産褥期にかけて、溶血(Hemolysis)、肝機能障害(Elevated Liver enzymes)、血小板減少(Low Platelets)などからDIC(播種性血管内凝固症候群)をきたす病態であり、この三徴から、HELLP症候群とよばれています。DICによって出血が止まらなくなる危険がありますので、分娩にあたっては輸血の準備が必須です。
 開示された診療録によれば、陣痛発来で入院した直後の血液検査は、血小板9.1、AST372、LDH604というものであり、HELLPの診断基準を充たしていました。
 一般的な医療機関では、このような検査は外注なので、検査結果がその分娩施設に届いたのはいつなのかが問題になります。この点について当該分娩施設に質問したところ、午前5時53分に検査センターからのFAXが届いていることが分かりました。つまり、早朝、入院した段階で、HELLP症候群の診断はついたはずなのであり、この時点で高次医療機関に搬送しなければならなかったはずです。
 しかし、その分娩施設の医師は、検査結果の報告書を見ていませんでした。質問状に対する回答には、「この点については弁解のしようがありません」、「この結果を確認していれば、当然、高次医療機関への搬送を考えたものと思います」とのコメントが付されていました。

 また、分娩後の対応も問題でした。「産科危機的出血の対応指針2017」のアルゴリズムによれば、ショック・インデックス(脈拍数/収縮期血圧)が1.0を超えた場合には「分娩時異常出血」として、高次医療機関への搬送を考慮する、輸血の準備をするといった対応が必要であり、1.5を超えた場合には、ただちに「産科危機的出血」を宣言して直ちに高次医療機関に搬送する、あるいは輸血を開始することが必要とされています。女性のショック・インデックスは午前10時半頃からたびたび1.0を超え、帝王切開開始前の12時16分には1.5を、帝王切開が終了した12時45分には2.0を超えました。それにもかかわらず、この医師が高次医療機関への搬送を決めたのは15時のことでした。
 せめて帝王切開終了直後に、児とともに搬送されていれば、違う結果があり得たかもしれません。

 この事件は、医師の過失があまりにも明らかであったため、比較的早期に、解決の見通しがつきました。
 金銭的には、相手方は、遺族の請求額の満額を支払うという内容で訴訟前の示談が成立しています。
 ただし、示談の条件として、医療法6条の10の「医療事故」として医療事故調査を行うこと、医療事故調査委員会の第1回の会合では、女性の夫と母親とに意見を述べる機会を設けることなどを希望しましたので、新型コロナウイルス蔓延下、なかなかそのような状況が整わず、実際に示談が成立するまでには時間を要しました。また、女性の夫がアメリカ人であったため、示談の内容や、医療事故調査制度を理解してもらうのに時間がかかったという部分もあります。
 その意見陳述の場で、彼女の夫は、なくなった女性がどれほど自分にとって大切な女性であったかを涙ながらに述べました。そして、「あなたの診療行為は絶対に許せない」という言葉に続けて、「しかし、わたしはキリスト教ととして、あなたという人間を許します。あなたと、あなたのご家族の、これからの幸せを祈ります」と涙ながらに、絞り出すように叫びました。

 後日、分娩施設の代理人弁護士と、「時間はかかったけれど、あの場を設定した甲斐があった」と話し合ったことでした。
(小林)