
私が水俣病問題に関わったのは、1989年から、96年までの約7年間です。
熊本地裁が、水俣病第三次訴訟第一陣判決で水俣病問題に対する国の責任を認めたのが1987年。翌88年には福岡訴訟も提訴されていました。89年4月に弁護士登録した私は、福岡訴訟弁護団に加入し、原田正純先生の尋問の準備に参加、その後、藤野糺先生や白木博次先生の尋問を担当することになりました。
90年10月からは、福岡高裁、熊本地裁、東京地裁、京都地裁、福岡地裁が相次いで和解勧告、福岡高裁を舞台とした長いながい和解交渉が始まります。しかし、国はかたくなに和解を拒否し、東京地裁、熊本地裁、京都地裁と判決を重ねることとなり、福岡訴訟も判決に向けて証拠調べを続けました。北部九州に転出した福岡訴訟の原告たちが、どのような地域でどのような生活を営んでいたのかを裁判所に示すための検証を行うことになり、その準備のために、水俣の百間、湯堂、月の浦、袋、茂道、隣接する葦北郡の津奈木町、芦北町、田浦町に何度も足を運んだことを懐かしく想い出します。続きを読む