2015年05月19日

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僕の母さんは 僕が小学校二年生の時 胃がんで亡くなりました。
瞼の腫れぼったい でっぷりとした体型でした。
僕の兄弟は四人いましたが、姉さんは男の子を残して亡くなりました。
その頃すでに母さんはいなかったので、兄さんの嫁さんが その子の面倒を見ていました。
僕の甥っ子である 栄吉は、その後二番目の兄さんの家に一緒に住んで、それはそれは大事に育てられ、
二番目の兄さんの奥さん・知佳おばさんは 大変苦労をしました。
二番目の兄、竜郎兄さんは、親のいない栄吉をかわいがり、自分の子供や妻にはつらく当たりました。
のちに 知佳おばさんは つらかった時代を振り返って こういいました。

筋子をね、食べるときは 食べやすくほぐしてやらないと お父さんが怒るのよね。
栄吉にはほぐした 卵の部分を。
息子の義人には 取り除いた筋の部分を これが筋子だよ と食べさせていた。

今でも筋子を見ると つらかった気持ちがよみがえると話していました。

さて、僕の母さんですが、人を取りまとめるのがうまく、職人や使用人たちの信頼も厚く、
目のぎょろっとした 細身の父とは対照的に 肝っ玉の据わった体も心意気も大きな人でした。
幼かった僕が 記憶している場面は、夏の暑い日には、浴衣地で作った あっぱっぱーみたいな服を着て、
大きな乳房を さらしでつるして首にかけていました。
その 乳に育てられたことは 記憶していませんが、さらしに巻かれた乳房が パチパチと音を立てるのは
母さんが急いで土間へ小走りに降りていく時だということを 何となく覚えています。

食事をするときは 僕はいつも一番最後。
寒い時期に鍋などすると それはほとんど 具がなくなっていることが多かった。
イナダの汁鍋。しょうゆ味で 葱とナス、豆腐が入れば最高だが、自分に回って来る頃には 争奪戦に負ければもはや葱の切れ端とアラのような浮遊物しかない。

そんな食糧事情の中でも 僕は一番背が高かった。
高校に進むと 陸上競技をするようになり、いつもおなかをすかしていたが、成績次第では応援してくれる大人たちは 食糧をくれることが多かった。
中距離を走ったこともあったが 最終的には ハイジャンプ、高跳びを専門にした。
僕の跳ぶ ベリーロールは とてもフォームがきれいであったらしい。
特に 手をひっかけないように抜くときの形が 切れ味よく見えるらしかった。
国体やインターハイではそこそこ記録を残したはずである。
(写真もあったが、のちに 娘がその写真を気に入って持ち歩いているうちに 紛失したようだ。)

ひょろひょろの私は この陸上の記録を持って 大学へ進学する。
世の中の状況を見て、自分の進みたいのは 工学部(後の理工学部)で、土木を専攻することを希望し
合格した。
陸上部に体の大きい奴がいる ということで 声がかかり、学費も出して通わせてやるから上京しろということになって、僕は在学しながら 相撲部屋にスカウトされ、学生さんと呼ばれながら 食べるには困らない生活へと入ってゆく。
ひいきのスポンサーとでもいうのだろうか。
谷町のその人は 僕の進路と人生を 大きく変えておきながら 病気で あっけなく亡くなってしまった。
学費は出してもらっていたので 僕は卒業することはできたが 相撲部屋にいることはできなかった。
僕は 半ば 口減らしのように 実家を出されていたので、タニマチさんがいなくなっても、秋田へ帰るわけにはいかなった。
その後卒業を間近にして、僕は 横浜のある夫婦の 養子に入ることになった。
アメリカのフォード社に努める義父は、同郷の実力者の遠縁にあたるらしかった。

まるで映画俳優のような英語の堪能な義父とカフェの女給であったらしい義母と暮らすようになって
僕の人生は 大きく方向を変えて行ったと思われたけれど、その頃の自分には
家があって 食事ができて 家族がいるその空間は さほどいやではなかったと記憶している。
その後に なにがあるか 想像もつかないその頃は。




(16:00)

2015年04月07日

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僕のうちは 米屋さんです。
おなかがすくと こっそりと生米を ボリボリ食べることもありました。
お米屋さんのはかり って わかりますか。
台秤 っていうんでしょうか。
今は デジタルなんでしょうか…。さおはかりの大きいやつです。

この秤は、お米を台に乗せ、バネの伸縮または分銅の加減・移動によって重さを量ります。僕のうちにあったのは分銅を移動するやつです。 看貫秤(かんかんばかり)ともいいます。

おもりを動かす時の 手に伝わるメモリの摩擦感が 小気味いいんです。
でも たいがい 子供のころは 触ると怒られました。

広辞苑によりますと

かん‐かん 【看貫】
品物の量目をはかって、斤量を定めること。
看貫秤の略。 ⇒ かんかん‐ばかり 【看貫秤】

かんかん‐ばかり 【看貫秤】
(→)台秤<だいばかり>に同じ。 ⇒かん‐かん 【看貫】

だい‐ばかり 【台秤】
秤<はかり>の一種。物体を台上にのせ、ばねの伸縮あるいは分銅の加減・移動によって重量を知る。かんかんばかり。

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僕は兄妹が多かったので
食事が 鍋だったりすると、僕に回って来るまでは 中身がなくなっていたりする。
だから かくれて ボリボリ食べちゃうこともあった。
家の前には 湾が広がり のちに干拓地として有名になる。
僕はいつも兄さんたちのおさがりの学生服を着ていたが、少しでもかっこよく着ていたかった。
というか、かっこつけようがないので ポケットに手を入れて 帽子をちょっと斜めにしてみたりもした。

身体も大きかったし、兄さんたちに負けないくらいかっこいい歩き方も研究してみた。
そうしているうちに、 地区のリーダーが声をかけてきた。
彼らは 学校に行かず、働いていた。
小学生を引き連れ、想像するに ミュージカルのオリバー の子供たちに似ていたかもしれない。
僕は 納豆を売った。
納豆売りをやった。
学校に行っていたのは 僕だけだった。けど 納豆売りは とてもぼくをワクワクさせた。
なっとなっとーー の売り声は気持ちがよかった。
生活に困らないのに冷やかしで納豆売りをしていたわけでもない。

僕は いつでも 口減らしの対象になってもおかしくない ということは 言葉にはしなかったけど わかっていた。
ひもじさと 末っ子の特権を 僕のこれからを生きていくエネルギーの小さな炎としていたような気がする。

納豆売りは 長くは続けなかった。
元締めの青年が みんな稼ぎを取り上げる。
商売の仕組みの残酷さを勉強した。

納豆は 砂糖と醤油でぐるぐるかきまぜ粘りを強力にして食べるのが 最高なのだ。
砂糖も僕にとっては そういう味だ。


(14:32)

2014年09月14日

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『君が僕の息子について教えてくれたこと』 という番組の再放送を見た。

東田くんは言う。
「僕のために誰も犠牲になっていないと 思わせてくれたことが 僕の家族のすごいところです。」

自閉症の息子を持つ翻訳家が 息子は何をして欲しいと思っているのだろうか、何をしたらいいのだろうか と質問。
そのままで十分幸せに思っている。 という答え。
家族の笑顔と自分のいる場所があれば幸せ。
自分がいることで家族が不幸になっているのが一番辛い。

僕は 桜の花を長い時間見つめていられない。
それは桜の美しさがわからないのではない。
美しい桜に気持ちがざわざわしてじっとしていられないのだ。

自閉症の彼の脳は 言語の産出をつかさどる領域と理解をつかさどる領域を接続している弓状束に障害がある。
 音声言語の理解、産出は保存されているが、会話をするに障害がある。
キーボード文字盤ポインティングにより、援助なしでのコミュニケーションが可能になった。
彼は作家である。
人間の脳は ハンディキャップがあればそれを補おうと優れた能力を持つことがある。
彼の場合、他人の意思を読み取る能力の部分がとても発達しているそうだ。

音声での言葉は会話にならないのに、彼の綴る文章の言葉は 的確で無駄がなく 熟語や表現が実に素晴らしい。心のホントのところにまっすぐわかりやすく入っていく言葉だ。

オフィシャルサイト はこちら
(15:11)

2011年04月12日

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3月11日の大地震から 一ヶ月が過ぎました。

 あの地震の時、パソコン周りに散乱した書類の中に、黄色く変色した古い手書きのコピーされた冊子を見つけました。 こんなところにあったんだ…
それは、昭和58年に私が担当した高3の授業で使った、倫理社会の資料です。
「生命(いのち)をかつぐって重いなあ」と 書かれたその冊子は、福井達雨氏の同名の著書をもとに「ためにしてあげると共に歩む」という副題で授業をした時に使いました。福井先生の本はしょうがい児の差別撤廃の本質に触れた著書です。日本人は同情の「ために」はしてくれるけれども、愛の「共に」は歩んでくれないのだ。という部分を何度も使いました。
授業の最後に生徒が書いたレポートを私が手書きでまとめた冊子です。まだ、ワープロを使っていない頃でした。最後の方に 私の文章も書かれています。
(ああ、 私の文章には赤面です。若いのだけでつっぱしている内容ですなぁ。)
そして、最後に 天声人語からの引用文がありました。

その時点で、かなり以前の新聞を切り抜いて取っておいたので、いつの朝日新聞かはわかりません。その時の生徒達にはわかりやすい文章だったので引用したのでした。
書いたのは 岩村 昇医師。

(岩村医師は広島での被爆体験から医療の道に進み、生涯を通じて途上国での医療活動に尽力され、「アジアの赤ひげ先生」ともよばれていた。
1962年ネパールに赴任。当時国民の平均寿命が37歳というネパールで、以後18年間、結核・ハンセン病・マラリア・コレラ・天然痘・赤痢等の伝染病の治療予防として栄養改善のために、岩村史子夫人と共に活躍。帰国後、神戸大学医学部教授として教鞭をとる。 「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞。2005年11月27日、呼吸不全で逝去。享年78)

 「いわゆる援助っていうのは、実は人間のいちばん基本的な喜びを、アジアの人たちから、ネパールの人たちから奪ってしまうのかもしれませんね。」
 ロータリー国際理解推進賞を贈られた医師・岩村昇氏がテレビでそう語っていた。20年近くネパールで伝染病と闘い、「みんなで生きるために」尽くしてきた人にしてはじめて言える言葉だ。 与えてやる、教えてやる、といった姿勢ばかりが前面に出る援助は本物ではない、「お互いさま」の関係を忘れてはいけない。そう言う意味でもあろうか。
 1962年にネパールに渡ったとき、山村では人とブタとニワトリが雑居し、天然痘、コレラなどによる死亡率が高かった。乳児千人のうち二百二十人が死ぬほどだった。巡回診療を続けた。夫人と共に「赤ちゃんホーム」をつくって孤児を育てた。
 その岩村さんが赤痢になり、村の人たちの世話になったときはじめて、ネパールの人が言った。「ドクターね、わたしもたまにはね。あんたを助けるチャンスをくれ。」ドクターは気づく。人間にとっての喜び、それは自分にも人さまを助けることができるという自分自身の存在証明を得ることだろう、と。
 教えたり、教えられたり、与えたり、与えられたり、そういう関係の中で、人間同士のつきあいは深まる。タイ国境で難民の救援活動を続けている人にこんな話しを聞いた。
 難民キャンプを離れるとき、カンボジアの人はよく絵を描いたカードを手作りの封筒にいれ、「なにもお返しできないから」と渡して行く。あるいは、自分たちが織った布でシャツを縫ってくれる。援助を受ける立場にあっても、人は人さまのためになることの喜びを求めている。
 「ネパールの健康を守るために」と奮闘を続けた岩村さんは、やがて失敗に気づいて、目標を訂正する。「ネパール人の健康は、ネパール人自身が守る。そのためにぼくらはこやしになるのだ。」   この言葉には、援助とか奉仕とかいう行為についての深い洞察がある。

              〜朝日新聞・天声人語より(年代日付不明)〜


 「結核の検診に出かけたときのことである。ある村で結核患者を発見し、そのうちの重症患者をタンセン病院へ運ぶことになった。ところがその患者の運搬に何の交通機関もない。頼るのは人間の背中のみだ。しかも何も持たずに歩いてもタンセンまで5日もかかるという山村だった。・・・・・・そのとき『よし、ぼくが背負ってやりましょう』と名乗って出た青年がいた。彼はゆきずりの旅人であった。・・・・・・私はとまどった。彼の好意は涙が出るほど有り難い。けれども私のポケットには、その好意にむくいる一文の金も残っていなかったのである。『にいさん、ありがたいんだが一文の日当も出せないんだよ』。すると青年は憤然とした表情で、『ぼくは日当がほしくて、ばあさんをかつぐんじゃないんだ』といった。『それじゃなんのためなの』。『サンガイ・ジゥネ・コラギ=みんなで 生きるためだ』。ああ、私はこの言葉を生涯忘れないだろう。みんなで生きるため、なんと誠意のこもった、ヒューマンな言葉なのだろう」。 

               〜岩村昇著「みんなで生きるために」より〜


 ある県の教育委員会で、道徳の取り組みに岩村先生の活動を道徳の副読本で使っている資料を見た。
平成19・20年度文部科学省委嘱事業として、平成19年度高等学校・中学校「人間としての在り方生き方を考える教育」実践研究事業、平成20年度道徳教育実践研究事業を行っている。
 生徒に知識を教授するだけでなく、道徳性を養い、人間としての成長を促すためには、各教科等における人間としての在り方生き方に関する教育を束ねる授業、いわゆる小・中学校で行っている道徳の時間のような授業の必要性も考えられる。しかし、高等学校における道徳の実践例はまだ少なく、その指導内容や指導方法は確立していない。〜抜粋〜

小学5年生を対象には 「日々の生活が人々の支え合いや助け合いで成り立っていることのよさに気付き、自分の為すべきことを進んで実践しようとする心情を育てる。ことをねらいにして道徳の授業を組み立てていく。」とあります。 学校の授業で取り組まなくても 東北の村や町では みんなで生きるためのあたりまえの支え合い、助け合いが普通の生活の中に根付いていたのだと思います。それぞれの発達段階において、家族で地域であたりまえに関わり合う中で、今回のような大災害にも 助け合う姿はごく当たり前であって、しかも尊い人間の本質でありましょう。
被災した東北人が見せた 人間の尊厳は 日本人全てに当てはまると信じています。
岩村先生が 亡くなられた時、参列者に配られたカードには こう書かれていたそうです。

「共に生きる為に 〜生きるとは分かち合うこと〜」

この震災の直後、どうしていいかわからず身体から血の気がひいていくとき、保護される犬達のために 古いバリケンやケージを寄付するために洗いました。人のためにやることがあると、心は落ち着きを取り戻すと言うことを体験しました。
共に歩むためには 責任が伴い、重くて疲れる。
今回の地震で、人の本当の姿が見え隠れした場面が何度もありました。
許せない、信じられない、と怒りも感じました。
しかし、ありがたくて 嬉しくて 心からつながりを感じることも沢山ありました。
この岩村先生の言葉に通じる言葉を救援物資を送ってくれた方が言いました。
「送れる側の幸せを身にしみて感じています。」
そんな 友人がいることに心から 感謝します。

ネパールからの募金や援助もあるそうです。頭が下がります。落ちこんではいられませんね。

(15:15)