2013年12月31日
2011年10月16日
2011年07月23日
もしもピアノが…
化学療法の途中ですがいったん昔話に戻ります。
自慢するわけではないが、小中学生の間は姉も私も学校の勉強で苦労したことがなく、特にガリガリ勉強しなくても並以上の成績は維持できた。
特に姉は常に苦手科目の勉強もがんばるタイプだったので、成績は常にトップクラスだった。
勉強のことは心配する必要ないと思ったのか、母は子どもが学校の勉強をきちんとしているかとか成績が何位であるかについては殆ど無頓着だった。
その代わり、音楽についてはかなり教育熱心だった。
姉と私を小学校入学前から音楽教室に通わせ、家での練習には根気よく付き合ってくれた。
教育熱心とはいえど将来は音楽家に育てようという意図を持っていたわけでもなく、親子で共通の趣味を持てたらという、ごくささやかな期待をを私たち姉妹に寄せていたようだった。
姉は自宅でピアノ教室を開く先生の下で、5歳ごろから中学卒業時まで個人レッスンを受けていて、家では私よりずっと熱心に練習していた。
私は5歳の時から10人程度のクラスで習うエレクトーン教室に通っていたのだが、母はエレクトーンだけでは基礎がおろそかになると考え、ピアノも同時に習うことを私に勧めた。
エレクトーン以外にもバレエ(といっても子どものお遊戯レベルだが…)も習っていたし、エレクトーンでは基礎が身につかないという考え方が理解できなかったこともあって、私はあまり乗り気ではなかった。
しかし小学校に入って仲良くなった友達がピアノの個人レッスンを真面目に習っていたこともあって、私も姉とは別の先生にピアノを教わることにした。
実際にピアノを始めてみると、ピアノの基礎練習の退屈さにがっかりさせられた。
特に私が師事した先生は基礎を大事にする方針を持っていて、子どもが「弾いて楽しい」「弾けるようになりたい」と思うような曲ではなく、ひたすらハノンの練習曲(ピアノ経験者なら解るだろう、ハノンの練習曲は「指の筋トレ」と呼びたくなるような退屈なものであることを…)を課題に出す。
エレクトーン教室では友達と一緒に練習でき、しかも練習内容が子どもが飽きないように工夫されていたのでモチベーションを維持するのは簡単だった。
しかしピアノの練習は私にとって苦痛でしかなかった。
エレクトーン教室での経験があったから、最初の何ヶ月かはピアノの練習も何とかこなすことができたが、エレクトーンの貯金を使い果たした後は「練習不足」のハンコをもらう為にピアノ教室に通っているような状態だった。
この頃すでに、練習熱心でひとつの課題に集中する姉と、色々なものに目移りして怠け者の餅子という差がハッキリと出ていたのが解る。
母から「お姉ちゃんは練習熱心だけど餅子は飽きっぽいよね」と呆れられるのが悔しいと思う気持ちもあったのだが、それを見返すだけの根性もなく、私はどんどんピアノに対する熱意を失っていった。
そんな状態で小学校3年生の3学期になった。
すでに姉の不登校が始まっていた時期だ。
エレクトーン教室のメンバーの多くが転校や塾通いのためにエレクトーンをこの学年末でやめることになり、メンバー不足のためにクラスが解散することになった。
今から新しいクラスに編入するほどの意欲も無かった私は、この機会にエレクトーンもピアノもやめることにした。
母が私にピアノを続けさせたがっていることは肌で感じていた。
しかし自分には無理だ。
一人で鍵盤に向かい、高い集中力を維持したまま単調な練習をこなすには特別な才能が必要だが、私にはその才能が無かったのだ。
「でも何か音楽は続けて欲しいなあ」
私のピアノをやめる決意が固いことを悟った母は他の楽器を始めることを提案した。
この時も最初は気が乗らなかった。
自分は音楽の練習をコツコツ続ける才能が無いし、習い事はバレエで充分…それが正直な気持ちだった。
しかし母と話し合ううちに、ギターを習ってみるのもいいかなと思うようになった。
そう思うようになったきっかけが何だったのかは自分でも覚えていないが、おそらくどこからか聴こえてきたギター音楽が魅力的だったとか、ギターを弾く姿がカッコいいとかそういう安直な理由だったと思う。
エレキギターとクラシックギターの違いすらよく理解していないまま、ギターを始めることを母と約束した。
母に強制されてイヤイヤながら始めたという訳ではない。
今度は一人前に弾けるようになるまでがんばろうという素直な意欲が、あるいは新しい楽器を始めれば心機一転して真面目に練習できるのではというまたまた安直な気持ちもどこかにあった。
それが小学校4年生の春。
指導者である男にレイプされ、ギターもやめてしまったのは同じ年の夏。
もし母が最初に願ったようにピアノの練習を続けることができていたら、こんなことにはならなかっただろう…後悔の気持ちは未だに払拭することができない。

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自慢するわけではないが、小中学生の間は姉も私も学校の勉強で苦労したことがなく、特にガリガリ勉強しなくても並以上の成績は維持できた。
特に姉は常に苦手科目の勉強もがんばるタイプだったので、成績は常にトップクラスだった。
勉強のことは心配する必要ないと思ったのか、母は子どもが学校の勉強をきちんとしているかとか成績が何位であるかについては殆ど無頓着だった。
その代わり、音楽についてはかなり教育熱心だった。
姉と私を小学校入学前から音楽教室に通わせ、家での練習には根気よく付き合ってくれた。
教育熱心とはいえど将来は音楽家に育てようという意図を持っていたわけでもなく、親子で共通の趣味を持てたらという、ごくささやかな期待をを私たち姉妹に寄せていたようだった。
姉は自宅でピアノ教室を開く先生の下で、5歳ごろから中学卒業時まで個人レッスンを受けていて、家では私よりずっと熱心に練習していた。
私は5歳の時から10人程度のクラスで習うエレクトーン教室に通っていたのだが、母はエレクトーンだけでは基礎がおろそかになると考え、ピアノも同時に習うことを私に勧めた。
エレクトーン以外にもバレエ(といっても子どものお遊戯レベルだが…)も習っていたし、エレクトーンでは基礎が身につかないという考え方が理解できなかったこともあって、私はあまり乗り気ではなかった。
しかし小学校に入って仲良くなった友達がピアノの個人レッスンを真面目に習っていたこともあって、私も姉とは別の先生にピアノを教わることにした。
実際にピアノを始めてみると、ピアノの基礎練習の退屈さにがっかりさせられた。
特に私が師事した先生は基礎を大事にする方針を持っていて、子どもが「弾いて楽しい」「弾けるようになりたい」と思うような曲ではなく、ひたすらハノンの練習曲(ピアノ経験者なら解るだろう、ハノンの練習曲は「指の筋トレ」と呼びたくなるような退屈なものであることを…)を課題に出す。
エレクトーン教室では友達と一緒に練習でき、しかも練習内容が子どもが飽きないように工夫されていたのでモチベーションを維持するのは簡単だった。
しかしピアノの練習は私にとって苦痛でしかなかった。
エレクトーン教室での経験があったから、最初の何ヶ月かはピアノの練習も何とかこなすことができたが、エレクトーンの貯金を使い果たした後は「練習不足」のハンコをもらう為にピアノ教室に通っているような状態だった。
この頃すでに、練習熱心でひとつの課題に集中する姉と、色々なものに目移りして怠け者の餅子という差がハッキリと出ていたのが解る。
母から「お姉ちゃんは練習熱心だけど餅子は飽きっぽいよね」と呆れられるのが悔しいと思う気持ちもあったのだが、それを見返すだけの根性もなく、私はどんどんピアノに対する熱意を失っていった。
そんな状態で小学校3年生の3学期になった。
すでに姉の不登校が始まっていた時期だ。
エレクトーン教室のメンバーの多くが転校や塾通いのためにエレクトーンをこの学年末でやめることになり、メンバー不足のためにクラスが解散することになった。
今から新しいクラスに編入するほどの意欲も無かった私は、この機会にエレクトーンもピアノもやめることにした。
母が私にピアノを続けさせたがっていることは肌で感じていた。
しかし自分には無理だ。
一人で鍵盤に向かい、高い集中力を維持したまま単調な練習をこなすには特別な才能が必要だが、私にはその才能が無かったのだ。
「でも何か音楽は続けて欲しいなあ」
私のピアノをやめる決意が固いことを悟った母は他の楽器を始めることを提案した。
この時も最初は気が乗らなかった。
自分は音楽の練習をコツコツ続ける才能が無いし、習い事はバレエで充分…それが正直な気持ちだった。
しかし母と話し合ううちに、ギターを習ってみるのもいいかなと思うようになった。
そう思うようになったきっかけが何だったのかは自分でも覚えていないが、おそらくどこからか聴こえてきたギター音楽が魅力的だったとか、ギターを弾く姿がカッコいいとかそういう安直な理由だったと思う。
エレキギターとクラシックギターの違いすらよく理解していないまま、ギターを始めることを母と約束した。
母に強制されてイヤイヤながら始めたという訳ではない。
今度は一人前に弾けるようになるまでがんばろうという素直な意欲が、あるいは新しい楽器を始めれば心機一転して真面目に練習できるのではというまたまた安直な気持ちもどこかにあった。
それが小学校4年生の春。
指導者である男にレイプされ、ギターもやめてしまったのは同じ年の夏。
もし母が最初に願ったようにピアノの練習を続けることができていたら、こんなことにはならなかっただろう…後悔の気持ちは未だに払拭することができない。

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2011年07月22日
闘病記 2011−07−22 (パクリタキセル)
4月に始めてもうすぐ第4クールに突入するパクリタキセル。
始めた直後から手足に軽い痺れが現れたが、幸い回数を重ねても痺れが酷くなるということは無かった。
念のために可愛くて歩きやすそうな靴→★を買った。
後述する膝痛期間中は重宝したが、それ以外の時期は踵の高い靴でもいつもどおり歩ける。
重症になった人は歩行困難や転倒の原因になったり、熱さを感じ難くなるため火傷を負ったりということがあるらしい。
皮膚には痒みを伴う発疹が出たが、2回目以降は点滴に痒み止めとして抗ヒスタミン剤を添加してもらったので余り気にならなくなった。
そしてこれは抗がん剤とは関係ないのだが、5月中旬、ちょうど猫を亡くして1ヶ月経った頃、家でノミが発生して手足を何箇所も刺された。
恐らくタマゴやサナギの状態で家具の奥などに隠れていたのが、気候が暖かくなって動き出したのだろう。
目を覚ましたノミは寄生すべき猫を探したが見つからないので、人間の血でも吸っておこうかと思って私を刺したに違いない。
刺される度に亡くした猫のことを思い出さずに居られない、辛くて痒い置き土産。
ノミ退治には電子ノミとりホイホイが効いた。
そして6月上旬、思いも寄らない副作用に見舞われた。
ある日の深夜、少し左膝が痛むような気がしたので湿布を貼って寝たのだが、早朝のまだ日も昇リ切っていない時間帯になると、いよいよ激しく痛み始めた。
痛みはどんどん酷くなり、どんな姿勢でも痛み、寝返りを打つことすらできなくなった。
立って歩いたり着替えたりすることはおろか、両手で支えなければ左足を動かすこともできない。
転倒したとか無理な運動をしたとか、膝を痛める原因になるようなことは何もしていないのに。
救急部門で受診しようかとも思ったが、通常の診察が始まる時間になってから病院へ向かう。
着替えることができないのでパジャマにカーディガンを羽織っただけのみっともない格好でタクシーで病院へ。
主治医である乳腺外科の医師が「抗がん剤でこんな副作用あるかな〜?ステロイドのせいじゃないかな〜?」と言いながら整形外科へ紹介状を書いてくれた。
主治医は患者の前でも平気で「こんな症状初めて見た」と口にするタイプで、先日のアナフィラキシーの時→★も聞かされた。
広い病院の中を車椅子でレントゲン室、整形外科外来と移動する。
車椅子移動はすぐに馴れたが、撮影や診察のために姿勢を変えるのが大変な苦労だった。
整形外科医によると骨には異常なし、膝関節に水がたまってるのでそれを抜いて痛み止めを打ちましょうとのこと。
膝に水がたまる…始めて耳にしたわけじゃないけど、激しいスポーツもしない、特に太ってるわけでも歳をとってるわけでもない自分には縁の無いことだと思っていた。
実際、そういう症状に悩んでいる人は少しずつ悪化して慢性化する場合が多く、私のように急激に発症する人は珍しいとのこと。
太っとい注射器で水を抜く。
アメ色の、とろっとした液体。
医師によると量も濁り具合も悪くないとのこと。
水を抜いただけでかなり痛みが弱くなった。
病院内なら車椅子で快適に過ごせるが、家ではトイレへ行くのも困難なので、夕方近くまで病院の喫茶室や図書室で過ごしてから帰宅。
その日の夜には杖を使って歩けるようになり、4〜5日で完全に回復した。
ようつべで見つけた動画を参考にして、現在も毎日欠かさずストレッチを行っている。
抗がん剤の副作用は「こういう症状が出る」というデータは集まっていても、「何故そのような症状が出るのか」までは解明されていないものが多いらしい。
次から次へと新しい薬が生まれているから副作用に関する研究が追いつかないという事情もあるのだろうか。
自分の使っている抗がん剤に関しては命に関わるような副作用は無いらしいので幸運だ。

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念のために可愛くて歩きやすそうな靴→★を買った。
後述する膝痛期間中は重宝したが、それ以外の時期は踵の高い靴でもいつもどおり歩ける。
重症になった人は歩行困難や転倒の原因になったり、熱さを感じ難くなるため火傷を負ったりということがあるらしい。
皮膚には痒みを伴う発疹が出たが、2回目以降は点滴に痒み止めとして抗ヒスタミン剤を添加してもらったので余り気にならなくなった。
そしてこれは抗がん剤とは関係ないのだが、5月中旬、ちょうど猫を亡くして1ヶ月経った頃、家でノミが発生して手足を何箇所も刺された。
恐らくタマゴやサナギの状態で家具の奥などに隠れていたのが、気候が暖かくなって動き出したのだろう。
目を覚ましたノミは寄生すべき猫を探したが見つからないので、人間の血でも吸っておこうかと思って私を刺したに違いない。
刺される度に亡くした猫のことを思い出さずに居られない、辛くて痒い置き土産。
ノミ退治には電子ノミとりホイホイが効いた。
そして6月上旬、思いも寄らない副作用に見舞われた。
ある日の深夜、少し左膝が痛むような気がしたので湿布を貼って寝たのだが、早朝のまだ日も昇リ切っていない時間帯になると、いよいよ激しく痛み始めた。
痛みはどんどん酷くなり、どんな姿勢でも痛み、寝返りを打つことすらできなくなった。
立って歩いたり着替えたりすることはおろか、両手で支えなければ左足を動かすこともできない。
転倒したとか無理な運動をしたとか、膝を痛める原因になるようなことは何もしていないのに。
救急部門で受診しようかとも思ったが、通常の診察が始まる時間になってから病院へ向かう。
着替えることができないのでパジャマにカーディガンを羽織っただけのみっともない格好でタクシーで病院へ。
主治医である乳腺外科の医師が「抗がん剤でこんな副作用あるかな〜?ステロイドのせいじゃないかな〜?」と言いながら整形外科へ紹介状を書いてくれた。
主治医は患者の前でも平気で「こんな症状初めて見た」と口にするタイプで、先日のアナフィラキシーの時→★も聞かされた。
広い病院の中を車椅子でレントゲン室、整形外科外来と移動する。
車椅子移動はすぐに馴れたが、撮影や診察のために姿勢を変えるのが大変な苦労だった。
整形外科医によると骨には異常なし、膝関節に水がたまってるのでそれを抜いて痛み止めを打ちましょうとのこと。
膝に水がたまる…始めて耳にしたわけじゃないけど、激しいスポーツもしない、特に太ってるわけでも歳をとってるわけでもない自分には縁の無いことだと思っていた。
実際、そういう症状に悩んでいる人は少しずつ悪化して慢性化する場合が多く、私のように急激に発症する人は珍しいとのこと。
太っとい注射器で水を抜く。
アメ色の、とろっとした液体。
医師によると量も濁り具合も悪くないとのこと。
水を抜いただけでかなり痛みが弱くなった。
病院内なら車椅子で快適に過ごせるが、家ではトイレへ行くのも困難なので、夕方近くまで病院の喫茶室や図書室で過ごしてから帰宅。
その日の夜には杖を使って歩けるようになり、4〜5日で完全に回復した。
ようつべで見つけた動画を参考にして、現在も毎日欠かさずストレッチを行っている。
抗がん剤の副作用は「こういう症状が出る」というデータは集まっていても、「何故そのような症状が出るのか」までは解明されていないものが多いらしい。
次から次へと新しい薬が生まれているから副作用に関する研究が追いつかないという事情もあるのだろうか。
自分の使っている抗がん剤に関しては命に関わるような副作用は無いらしいので幸運だ。

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2011年07月21日
おやすみなさい
パクリタキセルを始めた4月中旬、愛猫に先立たれた。
18歳だった。
何故こんな辛い時期に。
けれど彼女も頑張って長生きしてくれた。
とても賢い猫だった。
子供の頃は何をしたら人間に怒られるかをすぐに把握してくれたし、人間の生活リズムを理解して歩調を合わせてくれた。
そして最後の日まで自力でトイレに行ってくれた。
獣医へ連れて行くのも、薬を飲ませるのも、お風呂へ入れるのも、猫の嫌がることは全て私の仕事。
それでもお腹が空けば私を呼びに来て、夜は同じベッドで眠った。
とても猫らしく人を寄せ付けない面があって、若い頃は外出して何日も帰って来ないこともあった。
だからこの子が死ぬときは人間の前から姿を消してしまうかもしれないと不安に思ったりした。
けれど歳をとるごとに人間の側で過ごすことを好きになって、最後の時間は私が側に居ることを許してくれた。
18年間一緒に暮らしてくれてありがとう。
今すぐにでもそっちへ会いに行きたいけど、行っても喜んでくれないだろうな。
貴女は18年間幸せだったのかな?
私は貴女がいてくれて幸せだったよ。
今でも思い出すと辛くなる。
でも何時までも忘れたくない。
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18歳だった。
何故こんな辛い時期に。
けれど彼女も頑張って長生きしてくれた。
とても賢い猫だった。
子供の頃は何をしたら人間に怒られるかをすぐに把握してくれたし、人間の生活リズムを理解して歩調を合わせてくれた。
そして最後の日まで自力でトイレに行ってくれた。
獣医へ連れて行くのも、薬を飲ませるのも、お風呂へ入れるのも、猫の嫌がることは全て私の仕事。
それでもお腹が空けば私を呼びに来て、夜は同じベッドで眠った。
とても猫らしく人を寄せ付けない面があって、若い頃は外出して何日も帰って来ないこともあった。
だからこの子が死ぬときは人間の前から姿を消してしまうかもしれないと不安に思ったりした。
けれど歳をとるごとに人間の側で過ごすことを好きになって、最後の時間は私が側に居ることを許してくれた。
18年間一緒に暮らしてくれてありがとう。
今すぐにでもそっちへ会いに行きたいけど、行っても喜んでくれないだろうな。
貴女は18年間幸せだったのかな?
私は貴女がいてくれて幸せだったよ。
今でも思い出すと辛くなる。
でも何時までも忘れたくない。