ライカとタンノイの日々

私の好きなライカ(モノクロ写真)とタンノイ(オーディオ)を中心に、愛車(アルファロメオALFASUD 1.5ti)や椅子(ハンス ウェグナー)やスペイン旅行(バルセロナ)のことについて徒然なるままに書き綴ります。

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ベートーヴェンのシンフォニーの中で私が一番回数多く聴いているのは実は7番です。
その次が3番、それから5番、4番、9番、6番の順のような気がします。
(皆さんの順番はいかがですか?)
その7番の中でも圧倒的によく聴くのがコンヴィチュニー・ゲヴァントハウスのステレオレコードです。この愛聴していた東独エテルナの黒レーベルのレコードは2版目で、初版は貴重なVステ(V字ステレオ)といわれる少し厚手のタイプです。黒レーベルでもその音はすばらしく十二分に満足していたのですが、Vステがやっぱり良いらしいというので何とか手に入れてみました。
音の違いは確かに歴然とあり、例えるなら20万のパワーアンプが200万のそれに変わったくらい違います。うまく書けませんが<厚くて深い>感じです。
アンプにそれだけお金をかけることを考えれば逆説的に言えば良く聴く愛聴盤であれば、初版のレコードを探す方が高いアンプに換えるよりはるかにリーゾナブルということになります。(「音楽」を聴くのなら装置よりソフトの方が大事だというのは確かに正論です)

コンヴィチュニー・ゲヴァントハウスのベートーヴェンは7番以外にも黒レーベルで揃えていましたが僕の駄耳、駄感受性では他はそれほど良い印象ではなかったので、Vステは今回の7番だけにしておきます。(ホントはお金がない・・)

ちなみにフルトヴェングラーがベルリンと同時にライプチッヒの主席指揮者に就任した時、コンヴィチュニーはライプチッヒ・ゲヴァントハウスのヴィオラ奏者だったらしく影響を受けているようで、演奏でもそれが伺えるような気がします。
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特に問題なく聴いていたのですが、気になったところの改良?が終わりました。
オリジナルと同じスプラグのでかいケミコンを交換、本体と繋ぐ長すぎて頼りなかった電源のケーブルをテフロンの3芯タイプに、ブリッジダイオードはSIC SBD(シリコンカーバイト・ショットキ)をブリッジに組んで交換しました。
ついでに基盤を固定しているナットに制振ワッシャを挟みました。
頑張れば定電圧回路も組み込めるのでしょうが、根性がなく今回は止めておきました。
結果は・・一度にやったので何が一番効いたのか判りません・・・
が、気になっていた低域のもっさりした膨らみもなくなり、しなやかで分解能も向上し悪くなったところはひとつもないような気がします。
ただ某先輩のブログを参考にしてケースの蓋ははずしたままです。蓋をはずしたほうがなぜか音がのびやかで開放的に聴こえます。
ホコリは気になるのですが・・・

電源ケーブルはここだけAC designを使っています。中高域がちょっと張ってテフロン臭さ?も若干あるのですが、乾いて枯れた音がするのが魅力です。
特にウェストミンスターレーベル(WL)のウィーン・コンチェルトハウスやバリリ・カルテットを聴くとこの乾いて枯れた感じがたまりません。
弦楽器の本来の軽さが心地よく感じられるような気がします。
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先日先輩から内村剛介著作集を頂戴し読み始めたが、どんな人か詳しく知りたくなってネットで調べてみた。そうしたら内村が江藤淳を批判した新聞記事が目にとまった。戦後しばらく経って江藤淳が「検閲はけしからん」と言っていたことに対して内村は「そんなところとケンカするのは情けない」と「徒党の検閲」<江藤淳の敗北主義>という題で批判している。
個人が大衆の位置から離陸してインテリ(知識人)になった時獲得するのは、理念や観念を媒介して物事を考えるという思考である。それが上昇し続けた時、批判・評価の対象はインテリとしてどこまで上昇したかという上昇度であるというのが普通のことなのだろう。
「検閲などということをする<しょうもない手合い>などハナから無視すべきだ、いちいち本気になって相手をしてどうなるのか?」という内村の意見は、「インテリ同士の戦いならともかく、インテリ以前の問題外の人間と闘っても意味はない」と言っているのと同じだに思う。
自分の反省も含めて思うのだが僕自身もその意味のない<しょうもない手合い>との戦いにエネルギーを費やしているように思える。やはり戦うならインテリとしての上昇度でインテリと戦うのが確かに本筋なのだろう。

で、ここで考えたのだが、してみると相手との「戦い」(自分の修練)というのはいくつかの段階・次元(パターン)に分けることができるのではないだろうか。
そして僕が思い至ったパターンがこれだ。

1.大衆VS大衆(不毛の戦い?)

2.大衆VS知識人(内村はこのタイプの知識人を<旧インテリ>と言っているが、前衛と称する人が大衆を感化・啓蒙しようとすることも含まれる。安倍VS共産党・立憲民主党もそれに近い?もちろん「しょうもない手合い」は安倍とネトウヨ、レイシスト達だ)

3.(旧インテリ)知識人VS(旧インテリ)知識人(これは自分の上昇度と相手の上昇度との切磋琢磨であり同時に強烈なシノギの削り合い)

これが最高の次元であって、ではこれ以上の次元はないのか?
僕はあると思う。それは、

4.大衆を見下す傾向のある知識人(旧インテリ)VS大衆の生活とその目線を手放さない知識人(この大衆の生活とその目線を手放さない知識人という立場をとることができた人間は少ない。内村剛介と吉本隆明はそれができた人だと思う)

さあ、もうこれ以上行き着く先はないのだろうか?いや、多分さらにその先があるのであろう。それは、

5.最期に自身が大衆に還ることである。(吉本隆明の有名な言葉、『<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である』というのがそれであろう)
だから豊かな知性・感性を持っているにも関わらず「大衆の立場からしか発信しない」という人の言葉も十分に意味があるのである。僕がこの頃よく読む「ブレイディーみかこ」の本はまさしくそれだし、「面影ラッキーホール」というバンドなどはその極北だろう。(このバンドの「ゴムまり」という曲を一度聴いてほしい。それはそれは・・・)

そしてたまに行き合う市会議員の友人には、間違っても思想や理念の話をして理解してもらおうなどと考えてはいけない。「市のゴミ袋代が高すぎる!何とかしてくれ!」とだけ言うのが正しいのだ。(笑)

僕のこの仮説(妄想)が正しければ人間の為すことすべてこの1.〜5.の円環・循環の中にあるではないだろうか。
もちろん人によって血を吐くような苦労をしてこの円環を大きく周った(深く渡った)尊敬すべき人もいれば、感覚的にクルンと周ってしまった(浅く渡った)人もいると思うけれど・・・・

でも、そう、すべて、この円環・循環の内のことだと思うのだ・・・

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CDはオマケのつもりでアナログLPの再生にずっと情熱を傾けてきたのだが、久しぶりにCDプレーヤーを取り換えることにした。昔使っていたフィリップスのスイングアームのメカとマルチビットDACのTD1541Aの組み合わせが安く手に入ったからだ。20年以上前にREVOXのB226SGというCDプレーヤーを使っていたのだが、これと同じ組み合わせである。
ただしメカはCDM-1 MK兇箸いΔ△EMT981と同じしっかりしたメカである。TD1541AはS1のクラウンマーク付きというのは同じ。プレーヤー部とDACはセパレート型なのでセッティングも考えながら慎重に行った。(プレーヤー部は振動を吸収するように、DACはしっかりリジッドにするといいようです・・)

そして夜中12時すぎから20年ぶりにてっとり早く近くにあったモーツァルトのピアノコンチェルト20番・21番を聴いた。
素晴らしかった。
今まで聴いていたハイレゾ対応のT社の高域がうるさく薄っぺらい音のCDプレーヤーはいったい何だったのか・・
モーツアルトの旋律のこの上ない美しさ、完璧さ・・この旋律が溢れるように出てきてしまうその天才性・・
そしてその向こう側にあるモーツァルト自身の強烈な「心の奥の孤独」まで聴こえてきて怖くなった。何か恐ろしいものを目のあたりにしているようで震えた。自他共に認める?ベートーヴェニストの僕がモーツアルト聴いて「怖く」なったのはこれが初めてだ・・
小林秀雄の言う「涙の追いつけない悲しみ」とはこれなのか?と勝手に思った。

表現には「自己表出」(感じたこと)要素と「指示表出」(伝えたいこと)要素がある。そして芸術のコアの部分は「自己表出」要素であり、その究極は溜息を通り超した「沈黙」だと吉本隆明は「言語にとって美とは何か」で言っているけれども、モーツァルトの音楽はその究極の「沈黙」に最も近い「至高の芸術」なのだと改めて思い知った。

このプレーヤーなら僕には十分にモーツァルトが伝わってくる。CDで十分だ。
いや、むしろこういう聴き方をするならCDの方がいいかもしれない。
<<モーツァルトは>>CDで聴こう。
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レコンキスタの最終章=イベリア半島に最後まで残っていたグラナダのイスラムの王国の城がイサベル・フェルナンド両カトリック王に対して無血開城されてもう500年以上が過ぎている。
このアルハンブラ宮殿には僕は3回は行っているのだけれど、いつ思い出しても何とも言い難い「抒情」がある。
ここで僕が感じる「抒情」は個人的な「抒情」には違いないのだが、でもこれはここを訪れるすべての人が感じるに違いないユニバーサル(世界共通の)な「抒情」だという確信がある。死ぬ前にグラナダへはもう一度行かねばならない。
そんなことを思いながらクロアチア人女流ギタリストAna Vidovicの演奏の名曲「アルハンブラの想い出」を聴いたのだが、これが実にすばらしい。何とも官能的で、ぼくが感じるアルハンブラ宮殿の「抒情」がまさに溢れ出てくるような、悠久の時の流れを感じさせるような、ゆったりとした美しい演奏だ。
この曲は日本人も含めいろいろなギタリストが演奏しているので是非聴き比べてほしい。
それで感じることは日本人の演奏家は悲しいかなアルハンブラの真の「抒情」に届いていない、ユニバーサルなアンダルシアの「抒情」に届いていないということだ。
皆それなりによい演奏なのだけれど、ただなんとなく楽譜通りには弾いているように聴こえてしまう。ただそれだけの空疎な演奏に聴こえてしまう。
この決定的な差は何なのだろう。
欧米人にとってあたりまえの「何か」を、なかなか日本人は血肉化できないということだろうか・・・
なんちゃって芸術・・
なんちゃって民主主義・・
なんちゃって近代国家・・

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Threshold(Nelson Pass)のアンプの音との出会いは30年ほど前、先輩のオーディオルームで聴かせていただいたのが最初だった。SL-10のプリとステイシス2のパワーの組み合わせ(だったと思う)でJBLの大型のシステムを鳴らされていたのだが、強烈な大音量にもかかわらずうるさくはなく、低音は耳ではなく「背骨」で聴いてきたような印象だった。
今回縁あってプリのFET10e/hlを手に入れることができてやっとThresholdのコンビでオートグラフを鳴らすことができるようになったのだ。
今まで使ってきたTelefunken(TAB)のフェーダーW390も別にイヤになったわけではなく十分満足していたのだけれど、Threshold(Nelson Pass)の音を一度自宅で確かめたかったのである。
この写真のプリとパワーの組み合わせはNelson PassがThreshold社を去る直前の最後の置き土産のようなセットである。
で、肝心の音は・・(僕の装置、セッティングで聴く限り)熱い!!
昨今流行りのクールで冷静な音場型の音では決してない。
小音量では割と落ち着いた音に聞こえるけれど、大音量でもうるさくならないのでボリュームを上げると演奏者の熱気がそのまま伝わってくるHOTな音になるのだ。ジネット・ヌヴーなんか聴いたらそれは凄いことになる!判り難い言い方だけれどボリュームを上げると演奏者のテンションが音量の二乗に比例して上がるかのような印象だ。ソリストが皆コルトレーンかジャニス・ジョップリンのようなテンションになるのだ(笑)これはもう狂気に近い。Nelson Passはとうとうこの狂気のような音に行き着き、そしてThreshold社を去り、その後一転打って変わって穏やかなALEPHの音を作った・・と僕には思える。凄い人である。

このプリは低域は十分に延びているけど高域をもうちょっとだけ自分好みにしていきたいので、別電源の整流回路をいじってみようと思う。でかい(15000uf)のコンデンサー2個の取替えとブリッジダイオードを最新のSIC SBDに変えることでうまくいくんじゃないかなあ・・・・

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入り口からパワーアンプまでバランスで繋いでいる僕のオーディオシステムでは、最も肝となるのがプリアンプとして使っているフェーダーです。昔はパッシブのフェーダー(有名なエックミラーのW85)でしたが、ゲインのあるアクティブフェーダーの方が少し躍動感のある音が出るような気がして2台のフェーダー(ノイマンW444staとシーメンスW291VSTD)を気分に応じて使ってきました。
しかしこの2台は若干キャラクターが違っていて当惑していたのも事実です。
シーメンスW291VSTDは低域が締まって(量が少ない?)いて中高域にエネルギーがありエッジのきいた音です。音場は左右のスピーカーの外側までいっぱいに広がり力強く前に出てきます。ただ楽器や人の声は大きめで定位感も少し揺らぐような感じがします。ヴァイオリンは少しギャラントな音色でベルリンフィル音の近い?感じです。
対してノイマンW444sta(初期型ディスクリートオペアンプ OA12が入ったタイプ)は全体的に安定感のあるピラミッド型のバランスで、各楽器は奥めに定位し、音場は左右のスピーカの内側に広がります。音色はシーメンスよりは柔らかくしなやかでウィーンフィルのヴァイオリインっぽい感じです。ソロ楽器や歌声の口は小さくて揺らぐことなくキッチリ定位します。ただあまりエッジのきいた音ではないので実在感という点ではシーメンスの方が上でどこか虚像っぽい感じもします。
今回さらに別のドイツ製の定評のあるフェーダーを2台(TABW390とテレフンケンW690st-D)を手に入れることが出来ましたのでよーく聴き比べてみました。(ピンアウトは、TABW390とW690st-Dは完全にコンパチ、ノイマンW444staとはちょっとだけ違います。シーメンスW291VSTDは別物でそれらとは全然ピン配置が違います)
で、結果は・・・
ノイマンが左翼、シーメンスが右翼とすれば、テレフンケンもTABもその中間で、テレフンケンは正当な保守、TABはリベラルという感じでしょうか・・(判かり難い例えだなあ)・・(笑)
このうち2台だけを残すつもりですが、安倍(アホ)右翼政権が大嫌いな僕は、まっさきにシーメンスとサヨナラすることになりそうです。

写真はこれら4台のフェーダーですが、この4機種のフェーダーが一同に会すこともめったにないと思うので記念に撮っておきました・・(笑)

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写真の良さは「写そうとした対象物に写し手の気持ちがいかに<寄り添って>いるか」で決まる、と思う。
<寄り添って>いなければ良い写真にはならない。
人物であれ風景であれ<寄り添って>こそはじめてその対象物は写し手自身の心(感情・感動)を映す鏡となり、作品も作者の心を映したものとなる。
「写真は人なり」・・・
そういうことだ・・・。

Leica M3 Summicron 50mm f2.0
enlarged by focomat c and focotar50mm
film MACO ISO25
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昨晩ウトウトしている時に、不意に神の啓示のような観念が僕を襲ってきた。
それは簡潔に言えば「もう、いいじゃないか・・、自分の世界へ引きこもれば・・・最低限の社会性は持つにしろ・・・大前提が違う人といくら話をしても交点などないんじゃないか・・・社会も国家も天皇制もあーだこーだ言っても<僕自身>とは何も関係ないじゃないか・・・大事なのは僕自身の内面だけじゃないのか?・・・表現や発信はもう無意味・・・」というようなものである。
こんな心境になって、そしてそこで、定家の「紅旗征戎非吾事」と親鸞の「還相」(らしきもの)がぼくの内面で同致したように感じたのである。
大前提が違うと言ったけれど、ここでいう大前提こそがタイトルの「個人の全き自由の追求」ということだ。
人間の最終理想は僕は「個人の全き自由の追求」ということだと思っている。
これは宿命的に「共同体」とは相容れぬ関係にあり、最強の共同体である「国家」や「法」は必ずこの「個人の全き自由の追求」を制限、抑圧する要素を持っているということだ。
僕にとっては自明のこのことがなかなか他の人には理解してもらえない。
こんなことは校則の厳しかった某中学校時代でも僕は強烈に感じていた。「どうしてこんなに下らん規則を守らなければいけないのか?他人に不利益を与えない限りはすべて個人の自由だろ?」と・・・

近代の人間の歴史は大雑把に言えば「個人が抑圧から解放される歴史」である。
紆余曲折はあったにせよルネッサンスからフランス革命やアメリカ独立宣言までその意図の基に進歩、進化してきたのだ。
これは<自然史的な流れ>であり、掉さすことのできない人間の宿命なのだ。
ドイツ観念論もニーチェやマルクス、はたまたベートーヴェンやドストエフスキー等もこの大きな流れ・道筋の中で語られるべきことだと思っている。
そしてこの大前提を見失うと、人は国家主義やファシズムの餌食になりレイシストへと堕ちてゆくのだ。

さらに余談だがその延長で(フランス革命やアメリカ独立宣言の更なる進化、発展として)今の私達の憲法がある。
あの美しい第97条の基本的人権に関する条文=「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」や、第9条の「平和主義(戦争放棄)」の条文等は明らかにアメリカ独立宣言等の更なる進化、ブレイクスルーであって、人類の英知の到達点を表す全く素晴らしい文言なのである。


積極的平和主義などと市民、大衆を煙に巻いたような詭弁を使い9条を改悪しようとしたり、立憲主義の意味も本質も理解できないで勝手な解釈の変更で日本を戦争のできる国にしようとしているいるノータリンの輩は結局時計の針を戻そうとしている愚かな復古主義者に過ぎない、ということを歴史はやがてまた教えてくれるに違いない・・・。
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今日久しぶりにタンノイ関係の某ブログの掲示板を覗いたら僕のブログを「稚拙」と中傷したこの人の書き込みが削除されていた。
そんなにひどい書き込みではなかったように<一見>思えたので、恐らくこの人はどうして自分の書き込みが削除されたのか理解できないに違いない。しかし、これは自己中心的で他人への配慮が足りないから削除されたのであって、管理人さんから「あなたは掲示板に書きこむだけの社会的コミュニケーション能力がないのですよ」と言われているのと同じである。本人は「どうして?どこが?」と思っているだろうけれども、だとしたら自分の「他人を思いやるコミュニケーション能力の欠如」に気がついていないのだろう。
まぁ過去に誹謗中傷を繰り返し掲示板を汚しておいて、きちんと誤ることもしないでトボケて平気で普通に書き込みしていれば、普通の人はそれを見てあまり良い気持ちにはならないのだろうと思う。ここまでくると自業自得なのだが、なにか可哀相になってくる。
掲示板によるとこの人は最近コーネッタというスピーカーを買ったらしいのだが、僕のオートグラフをオリジナルではないから「模造品」と書けと言ったこの本人がその自分が買ったコーネッタを「オリジナル」といっているので唖然とした。
僕のオートグラフはもちろんオリジナルではない。ただこの箱を作った「マスダ・オーディオ・サプライ」は知る人ぞ知る大変に評判の良い人(メーカー)で「オリジナルにかなり近い音」と一部で言われているらしい。
このマスダさんは15年以上前に五味康祐氏の音のライバルだったあの奈良の南口さんの所へパーメンジュールのドライバーを使った超ド級のオールホーン型のスピーカーを納めた業界でもトップクラスのエンスージアストである。
彼の作ったスピーカーは僕の周りでは僕のオートグラフ以外に友人が持っていたK3808のGRF、先輩と従兄弟がもっている12インチのレッドのGRF、友人のお寺の住職が使っている桜合板のオートグラフ等があり、それぞれ皆バランスが良く低域も抜けが良い。兄の使っているユートピアのゴールドのオートグラフと比べても僕は断然満足している。
GRFもオートグラフもバックロードホーンのコーナー型であり部屋の壁をバックロードの延長に使ってゆったりした独特の低音を響かせる設計で、イギリス・タンノイ社のあのガイ・R・ファウンテンさんの「オリジナル」設計である。同じコーナー型はコーナー型でも単なるバスレフ系のコーナーヨーク等のスピーカーとは全く違う凝った作りなのだ。
で、コーナー型といえばSS社の某評論家が(思いつきで)企画したスピーカーがこのコーナー型のコーネッタである。
コーネッタという名は本来(オリジナル)はアメリカタンノイのバックロードホーンに入ったれっきとしたスピーカーの名であり、SS社がどういう経過でその名前をパクったかは知らないけれども、SS社のコーネッタはいずれにしてもタンノイ社は全く関知していない箱であり、あるブログにはこのスピーカーについて「<幻の>などではなく、そもそも存在しない紛い物」と書かれていた。
まあスピーカーは聴いている本人が満足すればそれでいいのだし、僕自身もコーネッタ自体を中傷する気はないし、オートグラフが最高のスピーカーだなどとも全然思っていない。
しかし、箱メーカーでも何でもない、自らがさんざんボロクソに言っていた「SS社とその評論家」が作った、しかも塗装もされていないパーツでキットとして供給した、そしてタンノイ社が全く関知していない、スピーカー(笑)を、憧れのコーナー型で「オリジナル」だ、といって喜んでいるレベルの低いオーディオマニア(この残念な人)がいるのには本当にビックリである。
ましてや当時発売されていたタンノイのユニットはHPDであり、当然設計をした箱作りの専門家でもない「その軽蔑すべきSS誌の評論家」もHPDを入れることを前提にそのスピーカーを「作ってみた」はずで、ユニットがそれより10年以上も前のレッドでは調整できる箇所(エナジーやロールオフ)もなくコーン紙のエッジも全く違うのだ。当然それ相応の吸音材等の調整が必要であり、それをキットを買った素人が耳で聴いてやったのであれば、そんなモノは間違いなくそのSS誌の評論家さんが意図した音とは絶対に違うし、さらにキットなのだから組み立て方や表面の塗装の質、ツキ板の有無、材質でも音は違うのである。
そんなモノのどこがどうして「オリジナル」なのだ?この人ほんとバカじゃなかろか(笑)・・・
こんな程度の輩が掲示板で「SS誌やその評論家」を一方的にこき下ろし、僕のオートグラフをオリジナルではないのだから「安物の模造品だ」と書き込むのである。
まったくメデタイ人がいたもんである。
書き込みが掲示板で削除されるのも当たり前だ・・・。

と、ここまでさんざん書いてきたが、でも本心はというと、この人の今回の選択は正解だったと思う。15インチから10インチにスケールダウンするのは普通ならもってのほかなのだけれど、ちゃんとしたレッドはレッドである。ユニットに対してちょっと大きめの箱とフロントの若干のショートホーンの効果で間違いなく良い音がしているはずだ。
オリジナルという言葉の使い方とか支離滅裂で個人的には許せない人だけれど、彼は今回は勇気のある正しい選択をしたと思う・・・。
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