ライカとタンノイの日々

私の好きなライカ(モノクロ写真)とタンノイ(オーディオ)を中心に、愛車(アルファロメオALFASUD 1.5ti)や椅子(ハンス ウェグナー)やスペイン旅行(バルセロナ)のことについて徒然なるままに書き綴ります。

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入り口からパワーアンプまでバランスで繋いでいる僕のオーディオシステムでは、最も肝となるのがプリアンプとして使っているフェーダーです。昔はパッシブのフェーダー(有名なエックミラーのW85)でしたが、ゲインのあるアクティブフェーダーの方が少し躍動感のある音が出るような気がして2台のフェーダー(ノイマンW444staとシーメンスW291VSTD)を気分に応じて使ってきました。
しかしこの2台は若干キャラクターが違っていて当惑していたのも事実です。
シーメンスW291VSTDは低域が締まって(量が少ない?)いて中高域にエネルギーがありエッジのきいた音です。音場は左右のスピーカーの外側までいっぱいに広がり力強く前に出てきます。ただ楽器や人の声は大きめで定位感も少し揺らぐような感じがします。ヴァイオリンは少しギャラントな音色でベルリンフィル音の近い?感じです。
対してノイマンW444sta(初期型ディスクリートオペアンプ OA12が入ったタイプ)は全体的に安定感のあるピラミッド型のバランスで、各楽器は奥めに定位し、音場は左右のスピーカの内側に広がります。音色はシーメンスよりは柔らかくしなやかでウィーンフィルのヴァイオリインっぽい感じです。ソロ楽器や歌声の口は小さくて揺らぐことなくキッチリ定位します。ただあまりエッジのきいた音ではないので実在感という点ではシーメンスの方が上でどこか虚像っぽい感じもします。
今回さらに別のドイツ製の定評のあるフェーダーを2台(TABW390とテレフンケンW690st-D)を手に入れることが出来ましたのでよーく聴き比べてみました。(ピンアウトは、TABW390とW690st-Dは完全にコンパチ、ノイマンW444staとはちょっとだけ違います。シーメンスW291VSTDは別物でそれらとは全然ピン配置が違います)
で、結果は・・・
ノイマンが左翼、シーメンスが右翼とすれば、テレフンケンもTABもその中間で、テレフンケンは正当な保守、TABはリベラルという感じでしょうか・・(判かり難い例えだなあ)・・(笑)
このうち2台だけを残すつもりですが、安倍(アホ)右翼政権が大嫌いな僕は、まっさきにシーメンスとサヨナラすることになりそうです。

写真はこれら4台のフェーダーですが、この4機種のフェーダーが一同に会すこともめったにないと思うので記念に撮っておきました・・(笑)

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写真の良さは「写そうとした対象物に写し手の気持ちがいかに<寄り添って>いるか」で決まる、と思う。
<寄り添って>いなければ良い写真にはならない。
人物であれ風景であれ<寄り添って>こそはじめてその対象物は写し手自身の心(感情・感動)を映す鏡となり、作品も作者の心を映したものとなる。
「写真は人なり」・・・
そういうことだ・・・。

Leica M3 Summicron 50mm f2.0
enlarged by focomat c and focotar50mm
film MACO ISO25
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昨晩ウトウトしている時に、不意に神の啓示のような観念が僕を襲ってきた。
それは簡潔に言えば「もう、いいじゃないか・・、自分の世界へ引きこもれば・・・最低限の社会性は持つにしろ・・・大前提が違う人といくら話をしても交点などないんじゃないか・・・社会も国家も天皇制もあーだこーだ言っても<僕自身>とは何も関係ないじゃないか・・・大事なのは僕自身の内面だけじゃないのか?・・・表現や発信はもう無意味・・・」というようなものである。
こんな心境になって、そしてそこで、定家の「紅旗征戎非吾事」と親鸞の「還相」(らしきもの)がぼくの内面で同致したように感じたのである。
大前提が違うと言ったけれど、ここでいう大前提こそがタイトルの「個人の全き自由の追求」ということだ。
人間の最終理想は僕は「個人の全き自由の追求」ということだと思っている。
これは宿命的に「共同体」とは相容れぬ関係にあり、最強の共同体である「国家」や「法」は必ずこの「個人の全き自由の追求」を制限、抑圧する要素を持っているということだ。
僕にとっては自明のこのことがなかなか他の人には理解してもらえない。
こんなことは校則の厳しかった某中学校時代でも僕は強烈に感じていた。「どうしてこんなに下らん規則を守らなければいけないのか?他人に不利益を与えない限りはすべて個人の自由だろ?」と・・・

近代の人間の歴史は大雑把に言えば「個人が抑圧から解放される歴史」である。
紆余曲折はあったにせよルネッサンスからフランス革命やアメリカ独立宣言までその意図の基に進歩、進化してきたのだ。
これは<自然史的な流れ>であり、掉さすことのできない人間の宿命なのだ。
ドイツ観念論もニーチェやマルクス、はたまたベートーヴェンやドストエフスキー等もこの大きな流れ・道筋の中で語られるべきことだと思っている。
そしてこの大前提を見失うと、人は国家主義やファシズムの餌食になりレイシストへと堕ちてゆくのだ。

さらに余談だがその延長で(フランス革命やアメリカ独立宣言の更なる進化、発展として)今の私達の憲法がある。
あの美しい第97条の基本的人権に関する条文=「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」や、第9条の「平和主義(戦争放棄)」の条文等は明らかにアメリカ独立宣言等の更なる進化、ブレイクスルーであって、人類の英知の到達点を表す全く素晴らしい文言なのである。


積極的平和主義などと市民、大衆を煙に巻いたような詭弁を使い9条を改悪しようとしたり、立憲主義の意味も本質も理解できないで勝手な解釈の変更で日本を戦争のできる国にしようとしているいるノータリンの輩は結局時計の針を戻そうとしている愚かな復古主義者に過ぎない、ということを歴史はやがてまた教えてくれるに違いない・・・。
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今日久しぶりにタンノイ関係の某ブログの掲示板を覗いたら僕のブログを「稚拙」と中傷したこの人の書き込みが削除されていた。
そんなにひどい書き込みではなかったように<一見>思えたので、恐らくこの人はどうして自分の書き込みが削除されたのか理解できないに違いない。しかし、これは自己中心的で他人への配慮が足りないから削除されたのであって、管理人さんから「あなたは掲示板に書きこむだけの社会的コミュニケーション能力がないのですよ」と言われているのと同じである。本人は「どうして?どこが?」と思っているだろうけれども、だとしたら自分の「他人を思いやるコミュニケーション能力の欠如」に気がついていないのだろう。
まぁ過去に誹謗中傷を繰り返し掲示板を汚しておいて、きちんと誤ることもしないでトボケて平気で普通に書き込みしていれば、普通の人はそれを見てあまり良い気持ちにはならないのだろうと思う。ここまでくると自業自得なのだが、なにか可哀相になってくる。
掲示板によるとこの人は最近コーネッタというスピーカーを買ったらしいのだが、僕のオートグラフをオリジナルではないから「模造品」と書けと言ったこの本人がその自分が買ったコーネッタを「オリジナル」といっているので唖然とした。
僕のオートグラフはもちろんオリジナルではない。ただこの箱を作った「マスダ・オーディオ・サプライ」は知る人ぞ知る大変に評判の良い人(メーカー)で「オリジナルにかなり近い音」と一部で言われているらしい。
このマスダさんは15年以上前に五味康祐氏の音のライバルだったあの奈良の南口さんの所へパーメンジュールのドライバーを使った超ド級のオールホーン型のスピーカーを納めた業界でもトップクラスのエンスージアストである。
彼の作ったスピーカーは僕の周りでは僕のオートグラフ以外に友人が持っていたK3808のGRF、先輩と従兄弟がもっている12インチのレッドのGRF、友人のお寺の住職が使っている桜合板のオートグラフ等があり、それぞれ皆バランスが良く低域も抜けが良い。兄の使っているユートピアのゴールドのオートグラフと比べても僕は断然満足している。
GRFもオートグラフもバックロードホーンのコーナー型であり部屋の壁をバックロードの延長に使ってゆったりした独特の低音を響かせる設計で、イギリス・タンノイ社のあのガイ・R・ファウンテンさんの「オリジナル」設計である。同じコーナー型はコーナー型でも単なるバスレフ系のコーナーヨーク等のスピーカーとは全く違う凝った作りなのだ。
で、コーナー型といえばSS社の某評論家が(思いつきで)企画したスピーカーがこのコーナー型のコーネッタである。
コーネッタという名は本来(オリジナル)はアメリカタンノイのバックロードホーンに入ったれっきとしたスピーカーの名であり、SS社がどういう経過でその名前をパクったかは知らないけれども、SS社のコーネッタはいずれにしてもタンノイ社は全く関知していない箱であり、あるブログにはこのスピーカーについて「<幻の>などではなく、そもそも存在しない紛い物」と書かれていた。
まあスピーカーは聴いている本人が満足すればそれでいいのだし、僕自身もコーネッタ自体を中傷する気はないし、オートグラフが最高のスピーカーだなどとも全然思っていない。
しかし、箱メーカーでも何でもない、自らがさんざんボロクソに言っていた「SS社とその評論家」が作った、しかも塗装もされていないパーツでキットとして供給した、そしてタンノイ社が全く関知していない、スピーカー(笑)を、憧れのコーナー型で「オリジナル」だ、といって喜んでいるレベルの低いオーディオマニア(この残念な人)がいるのには本当にビックリである。
ましてや当時発売されていたタンノイのユニットはHPDであり、当然設計をした箱作りの専門家でもない「その軽蔑すべきSS誌の評論家」もHPDを入れることを前提にそのスピーカーを「作ってみた」はずで、ユニットがそれより10年以上も前のレッドでは調整できる箇所(エナジーやロールオフ)もなくコーン紙のエッジも全く違うのだ。当然それ相応の吸音材等の調整が必要であり、それをキットを買った素人が耳で聴いてやったのであれば、そんなモノは間違いなくそのSS誌の評論家さんが意図した音とは絶対に違うし、さらにキットなのだから組み立て方や表面の塗装の質、ツキ板の有無、材質でも音は違うのである。
そんなモノのどこがどうして「オリジナル」なのだ?この人ほんとバカじゃなかろか(笑)・・・
こんな程度の輩が掲示板で「SS誌やその評論家」を一方的にこき下ろし、僕のオートグラフをオリジナルではないのだから「安物の模造品だ」と書き込むのである。
まったくメデタイ人がいたもんである。
書き込みが掲示板で削除されるのも当たり前だ・・・。

と、ここまでさんざん書いてきたが、でも本心はというと、この人の今回の選択は正解だったと思う。15インチから10インチにスケールダウンするのは普通ならもってのほかなのだけれど、ちゃんとしたレッドはレッドである。ユニットに対してちょっと大きめの箱とフロントの若干のショートホーンの効果で間違いなく良い音がしているはずだ。
オリジナルという言葉の使い方とか支離滅裂で個人的には許せない人だけれど、彼は今回は勇気のある正しい選択をしたと思う・・・。
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昨晩、2月8日の大雪の夜、地元I高校の卒業40周年の同窓会があった。
大雪のため急遽欠席になった人もいたが、それでも30名以上の出席があった。
県会議員や市会議員、大病院の院長等地位と名声のある人も多いのだが、落ちこぼれアウトサイダーの僕は2次会の途中までは中学からの同窓生のO君とずっと会話をしたいた。
O君の肩書きは凄い、「ロック・ミュージシャン/医学博士/工学博士」である。
中学の時のテストの成績は僕といい勝負だったけど、頭の良さでは「かなわないな」と思った数少ない男の1人でマァほとんど天才である。
じつに多岐に渡っていろいろな話をしたけれど、彼の頭の回転は相変わらずで鋭い。
ただ僕と違うのは、考え方が僕よりずっと「アカデミック」なことである。
「事実・論理・実証」というのがプライオリティー(当たり前だ)で、ミュージシャンでもあるのだから観念的な要素も十分理解しているのだけれど、「人間のキビ、文学的要素」というところでは随分感覚に差があった。
でもこちらの言うことはほとんど理解してくれて<自分の言葉で>話す彼の姿勢には好感がもてた。理系頭脳7割、文系頭脳3割という感じで、僕とは逆である。
彼があの頭脳でヘーゲル、ニーチェ、マルクスを興味を持ってを読んだとしたら、何を語るんだろう。
彼と話ができただけでも今回は楽しかった。所謂<オヤジ>がほとんどの中で、この歳で今尚情熱を持って「個人的な知的上昇」を望んでいるのは彼だけだと思った。
気になったことは2次会でカラオケが始まった時彼が「僕はコレがキライだ、これは音楽じゃない、帰ろうかな」と言ったことだ。僕もカラオケは好きではないし、気持ちは解るが、その他の同窓生のオヤジは皆その「音楽ではない」カラオケにご機嫌であり、それは典型的な<普通のオヤジ>の行為である。で、彼はそういう時は「イヤだ」とは言わずに黙ってその場を去るという選択をするのだと言うが、そこが僕とは違う。
僕はできるだけ付き合う。普通の人々の普通の行為・行動もそれなりに一緒に楽しむことを選ぶのだ。
市井の人々の普通の行為は、それがものを考えるときの一番の原点であり、それにも知的思考と同等の十分な価値があり、それは理解、許容せねばならない(彼が許容していないわけではないが)し、それを手放してはならない、と思うからである。

2次会の後半は某市会議員と某村の副村長と話をいろいろしたけれど、二人とも謙虚で良い人柄で楽しかったし、それぞれ自分の立場でできることを一生懸命やろうとしているのは判ったけれども、二人とももう少し俯瞰でマクロで、社会を、地域を、人々の生活を、見ることをしてほしいと(僭越ながら)正直思った。
そして、良い社会とは何か?幸福とは何か?そんな思想的なことも雑務と同時にもっともっと考えていってほしいとゼミで政治思想史をちょっとばかりやっている僕は思った。
思想なしの政治などないのだから・・・

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あれから何日か経ってもう少し気がついたことがあるので書いてみようと思う。
日本はおもてなしの国であるらしい。おもてなし(hospitality)で一番の肝要は相手の気持ちになる、相手の立場になって考えてみる、ということなのだろう。
日本人はそのことが得意で、その気持ちが工業製品等にも反映されて戦後の経済発展の助けになった側面もあると思う。
そのような相手の気持ちを考えることができるはずの国民なのに、この靖国神社で一番感じるのは「相手の立場になって考えない、相手の気持ちより自分の思い」という独特の視野の狭さなのだ。
丸山真男も指摘した「他者感覚のなさ」というのも同じ意味である。
靖国神社内にある遊就館等で見られる日本の歴史についての恣意的な解釈と表現の数々、日本はその時こうだったとか、日本人はこう考えたとか、こうするよりなかったとか、このような素晴らしい民族であるとか、日本国は・・・、日本人は・・・。
それ自体はある意味当然のことだし、そう考えがちになるのは理解できる。
しかし、そこには「他者がいない」のだ。
そうされた国々がどう感じただろうか?それは世界的な視野で見た時、人間の倫理という観点で見た時、どうなのだろうか?世界の歴史を考えた時その行動はどうだったのだろうか?そのような意識がない。
靖国神社(の遊就館)で見られるもののすべてにその感覚がないのだ。
この視野の狭さ(日本人だから・・・・という視点でしか物事を見れてない)は「右寄り」の人達共通の<病気>だと思う。
高学歴で頭脳優秀頭な人でもこうなるのは、この視野狭窄病は知性が高い低いとは別のことだからある。いや、むしろ、頭が良くて、論理の整合性を求める人ほどこうなるのかもしれない。
視野を狭くしていればその中(日本人だから云々という視点だけで物事を見る)で論理は整合・完結し易いし、理解不能な多重性、複合性、背反、矛盾、をあまり抱え込まなくてすむ・・・
安易な<思考の安寧>をより簡単に手に入れることができるのだ。
しかしだ、この世の中を理解していく上で<思考の安寧>などあるはずはないのだ。
一人の人間が世の中をすべてを、総合して矛盾なく理解などできるはずはないのだ。

日本人だから・・・という視点でしか物事を見れないで、それでいてその狭い視野内で思考を整合・完結しようとしている視野狭窄人間を「国家主義者」と呼ぶのである。
そしてもっと言うなら、その「視野狭窄への傾向」を身に沁みて内省し、より深く広く物事を考えようとする人間を「自立者」と呼ぶのである。

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行ってきました(笑)靖国神社。
あーだこーだ言うためにも一度は行っておかないと・・・
で、感想は一言で言えばスペイン語で「nada」である。
すべてが「だから、どうした?」の世界である。
霊験あらたか?兵士達の英霊?冗談じゃない。
戦争で亡くなった人は兵士や軍属ばかりではない、たくさんの一般市民も亡くなっているのだ。
思うことがあるとすれば「お国のためという欺瞞」を信じて亡くなっていったすべての人達に対する同情である。それは誠に気の毒である。
そうして僕は思うのだ「自分のため、百歩譲って家族のため、命を賭けることはあっても、お国のためなんかに命は賭けないぞ」と、「冗談じゃない、お国のためなんかで死んでたまるか」と。

その後ホテルへ帰って東京都知事選のニュース映像を見た。
都知事選に出馬する田母神候補とそれを応援するデビ夫人、そしてそのデビ夫人が音頭をとって聴衆をあおる「タ〜モガミ〜、タ〜モガミ〜」のかけ声、それはまぁ久しぶりに感じる背筋が寒くなるようなおぞましい映像だった。
最初から確信犯的に堂々とサブカルであることを標榜するのならまだしも、田母神候補もデビ夫人も、本人達は大マジメに一生懸命都知事選という大事な選挙戦を戦っているのだ。
それなのに、彼らが<サブカル劇場>の道化役者にしか見えない。
この「哀れさ」「おぞましさ」・・・。
これは何なのだ?これは何を象徴しているのだ?
その時僕にはこの映像が先日靖国神社を参拝した安部首相のパーフォーマンスとダブって見えたのだ。
これらは右傾化とサブカル化という「今日の日本の思考停止状態」の象徴に違いないと感じた。

近い将来、靖国神社は現在の「右寄りの政治家の恣意的なパーフォーマンスの舞台」というのを通り超えて、「ますます白痴化するであろう多くの政治家達だけではなく、ネット右翼やサブカルという互いに大変親和性の高い世界に住む<民度の低い>人達も含めた大勢の人達のためのシンボリックな劇場」と化して行くのだろう。
その時ここは、戦争で死んでいった民衆の真の声からも、彼らの言う英霊の真の声からもはるか遠く離れた場所になっているのだろう・・・。

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ご存知のように僕はこのイダ・ヘンデルというポーランド生まれの女流ヴァイオリニストが大好きで、昨晩もsupraphoneの「悪魔のトリル」をじっと聴いていた。
彼女の残したレコードの最高傑作は旧ソ連melodiyaのバッハのシャコンヌやコレルリのラ・フォーリアの入ったLPだと思う。僕が一番愛しているレコードで、名演中の名演、フルトヴェングラーの数々の名盤をさしおいて火事になったら真っ先に持ち出すであろうレコードである。その僕の持っている最初期の青松明盤の復刻版がMYTHOSから出ているらしく(竹崎さん情報)、それを見た時僕は2度ビックリした。
ジャケットの写真がベラスケスの「ラス・メニーナス」だったからだ。
なぜMYTHOSはこのレコードのジャケットにこの絵を選んだのだろうか・・・
マドリーのプラド美術館へ行ったことのある人は解ると思うが、この絵はプラド美術館の「王様」である。圧倒的である。
じっと見ていると絵の中に描かれているベラスケス自身に見つめられるし、彼の視線と僕の視線、マルガリータ王女と奥の鏡(絵?)の中の国王夫妻、その奥のドアの所にいる人、それらの目線、視線がゴチャゴチャになって脳みそがゆらゆら揺れてくる・・・
ベラスケスのタッチがまた不思議で凄い!真近で見るとメチャクチャ荒々しい筆使いなのに、少し離れて見るとまことに美しく、繊細、精緻きわまりないのである。
そんな凄い名画中の名画である。
僕は何回見に行っただろう・・・都合何時間この絵の前にいただろう・・・
マドリー大嫌い(笑)な僕も、この場所だけは特別なのだ。
MYTHOSの復刻では僕にとってはほんとうに特別なこの絵とこのレコードがなぜか一緒になっているのである。
なぜMYTHOSはこのレコードのジャケットにこの絵を選んだのだろうか・・・
偶然なのか必然なのか・・・

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アルファロメオのFBから失敬した写真ですが、どうですか、カッコイイでしょう。
この1960年前半の小ぶりな1300のスパイダー、最高に美しいと思います。
私の友人で同じ年の〇川女史というスピードキチガイ(一度一緒にサーキットに走りに行った時、飯田ICを同時に入って、オレが時速110kmで恵那峡Pに着いた時、この女史は虎渓山Pをとっくに過ぎていた)がいるんですが、女史はオープンカーが大好きなのです。
ヤツ(女史)はジャガーとポルシェを新車で買って持っていて、さらに最後の贅沢だといってもう1台ポルシェの911を新車で買う(買った)らしいのです。
それがスピード狂としては最後の車だと言っていたので、「その後(3年後)に還暦過ぎて乗る本当の最期の車はオレが選んでやるからまかせろ」と言っておきました。
その第一候補がこの車です。アイツ(〇川女史)に似合いそう・・・

性能のいい新車で高速をぶっとばすのもいいけど、こういうVINTAGEの車の良さ、そのセンスも判ってほしい。
街中をキレイ系の熟女(〇川女史は後ろから見ると(笑)まさにこんな感じ)が、こんな車で長い髪の毛のをなびかせて運転してたら最高だと思うが・・・
<アルファロメオ・ジュリエッタ・スパイダー>エエな〜
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この飛行機事故で30才くらいで夭折したヴァイオリニストが僕は大好きだ。
レコードも本気で集めた人には負けるけど、何枚かのHMVのオリジナルのSP、シベリウスV協のオリジナルSP、イッセルシュテットとのブラームスもACANTAレーベルとSTIL盤両方持っている。
それで今回入手したのがイッセルシュテットとのブラームスとロスバウドとのベートーヴェンV協の組み合わせのこのLPセットです。
ベートーヴェンV協のLPはずっと探していたので大変うれしい。

しかし、あんな集中力で演奏してたら永く演奏活動を続けることなどとても無理ではないかと思える。
そのあまりの力強さと緊張感に<ヌヴーの演奏は「若弾き」だ>という意見もあるけど、そうじゃない、天賦の才能だと思う。
間違いなく<究極>だ。
弟弟子のヨーゼフ・ハシドとはまた違うのだけど、二人とも生き急いでいる(死に急いでいる)ような演奏に聴こえてしまうのは僕だけだろうか・・・。

レコードは本当に自分に必要なものだけを選別して100枚にしようと思っているのにまた増えてしまった・・・・。


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