この頃は珍しく吉本隆明さんの本を何冊か続けて読んでいる。難解で私の思考(脳みそ)が届かない情けなさを感じながらも必死に喰らいついているところだ。
素人考えで恥ずかしいのだが、吉本さんの素晴らしさの根本はそのスタンスにあるような気がする。彼は一つの考え方に<酔って>しまうということをしない。良いものはきちんと評価するが、いくら素晴らしい考え方に対してでも自分の思考をその考え方と心中させるようなことは決してしないのである。
これは簡単にできそうでなかなかできない難しいことだ。彼にいわせるとあの小林秀雄でさえ本居宣長に<少し心中してしまっている>ということらしい。
吉本さんは<評価>が<感動>に変わり<陶酔>に至るそのはるか手前で踏みとどまる。
そうすることによって客観性を担保するのである。
何かに陶酔して心中してしまえばある意味はるかに楽なのだ。(それが思想や宗教であっても)
吉本さんのやり方は凄い。大変に孤独でキツイ作業である。
ただ、ぼくはそのような方法をとらない。(とるだけの力もないが)
なぜか。
それは人間の歴史を創ってきた<陶酔や心中>に対する吉本さんの評価が大変に鋭く冷静で客観的ではあっても僕にはどこか少しよそよそしいと思えるからである。
人間の情熱の狂気性とでもいうべきものを情熱の内側から<陶酔し心中しながら>感じ取るという方法が自分には合っていると思うのだ。
ただそこはもう何と言ったら良いか、主観と偏見、バイアスとフィルターのカオスである。おぞましい場所である。しかしそれでも良いのだ。僕はそこにいたいと思う。
そして「何に陶酔し、何と心中するのか」の選択にすべてを賭けたいと思う。
その方がベートーヴェンやゴッホに近づきやすいであろうということを僕は確信しているのだ。
情熱の内側にいなければ感じられない<何か>、人間の持つ曰く言いがたいその<何か>は陶酔や心中なしには決して感じ取ることなどできないはずなのだ。

てなことは吉本さんはもちろんもう十分に承知していて、尚、あのような立場でいろいろ書かれていると思うけれど。。。

この文章、何年か先に読み返したら、メチャメチャ恥ずかしいんだろうなー。  
ではまた・・