アジアが見た太平洋戦争

2005年12月09日

・偏向に満ちた朝日新聞の社説を検証する 〜自己矛盾に帰結する反日思想の病理〜

開戦の日 真珠湾だけではない:朝日社説
 真珠湾攻撃の印象があまりにも強烈だからだろう。太平洋戦争は64年前の今日、ハワイの真珠湾で口火が切られた、と思われている。しかし、実際に戦端が開かれたのはこの奇襲の1時間ほど前、英領のマレー半島に日本軍が上陸した時だ。
 戦火は太平洋の全域に広がり、インド洋にも及んだ。緒戦こそ勝利にわいたが、やがて日本は破局への道を転がり落ちていった。生きて帰ることを許されなかった特攻隊員。沖縄の地上戦に倒れ、広島や長崎の原爆で命を奪われた人々……。日中戦争以来の日本の犠牲者は、軍民合わせて約300万人とされる。
 むろん、日本だけではない。戦火にさらされたアジアの各地に深い傷跡を残した。中国の犠牲者は、日本人研究者の推計でも1千万人を上回る。 米国領だったフィリピンでは日本軍が占領した後、米軍が反撃に転じた。激しい地上戦が繰り広げられ、約100万人のフィリピン人が命を落とした。朝鮮半島やインドネシア、ベトナムなどでも多くの犠牲者が出た。その一人ひとりに嘆き悲しむ肉親がいたことに、思いを馳せずにはいられない。
 「あの戦争のおかげでアジアの人々は植民地支配から脱したのだ」と、いまだに主張する人たちがいる。 戦争の初期にフィリピンやインドネシアなどで、一部に日本軍を「解放軍」として歓迎する動きがあったことは事実である。戦争が独立を早める結果をもたらした地域もある。 だが、現在は親日的とされるインドネシアですら、高校生向けの歴史教科書は「わが国を占領したことのある国の中で、日本はもっとも残酷だった」と記す。それが実態だった。都合のいい部分にだけ光を当てて戦争を正当化するような言動は、アジアの心ある人々を遠ざけるだけだろう。
 時はめぐり、いま東アジアに共同体を作る構想が持ち上がっている。そのパートナーはみな、あの戦争の苦しみを味わった隣人たちである。 シンガポールのリー・クアンユー元首相は開戦時、18歳の大学生だった。回顧録(日本経済新聞社)で日本についてこう書いている。「占領時代のつらい体験を持ち、日本人の特質に潜む恐ろしい一面を知りながら、それでもいま私は日本人を立派だと思う。日本人の持つ集団の結束力や規律正しさ、知性、勤勉さ。それらすべてが日本の力のもとになっている」
 こうした思いに応えるためにも、歴史を正面から見つめ、過ちは過ちとして率直に認めなければならない。その基盤に立って共に未来を築きたい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで
 実に朝日らしい社説です。偏向の極みであり、極左勢力の良く使う自己矛盾に満ちた論調の典型と言っても良いかもしれません。

 まず、中国人の犠牲者が1000万人という数字に何も根拠がありません。第二次大戦終了後、連合国の調査によって報告された中国人の犠牲者は132万人でした。しかしその後ことあるごとに中国政府の”決定”により犠牲者数は水増しをされ続け、今ではなんと5000万人という数字にまで膨れ上がっています。さすがにこの世界中誰にも相手にされない数字を持ってくるのはまずいと思ったのか、1000万人という数字にしていますが、公式な数字でもななんでもなく、誰だか知りませんが日本人研究者という人物の名前すら出しておらず、数字に全く根拠がない。新聞上で堂々と発表すべき数字ではありません。
 また、「あの戦争のおかげでアジアの人々は植民地支配から脱したのだといまだに主張する人がいる」とは、暗につくる会の教科書批判をしているつもりでしょう。”愚かな戦争賛美的発言をする右翼勢力”とでも言いたいのでしょうか、鬼の首を取ったように、インドネシアの教科書の日本に対する批判的な記述を載せていますが、何か隠していないでしょうか?本当に東南アジアの教科書記述はそれだけでしょうか?

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 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた…」
 インドネシア『歴史教科書』中学3年用

 結局のところ、日本占領期は、日本軍の残虐さ、経済的苦痛、そして常食となったタピオカなどの悪夢として多くの人々に長く記憶されることだろう。しかし、それと同時に地域住民の中で、英国の威信を低下させることともなった。また日本は短期間のうちに地域住民、とくにマレー人の政治的自覚を促すことに成功した。これは戦前には全くなかったことである。
 マレーシア『歴史』高校生用

 日本占領がもたらした決定的なものは、東南アジア諸国に民族独立の機運を巻き起こしたことである。
 シンガポール『東南アジア史』中学・高校生用

 日本の占領は、実際には経済的搾取が狙いであったが、それでも人々の多くが経験したことのない自治の味を教えた。以前のヨーロッパ人が統治していた時にはくらべもつかない日本の暴政の下でも、以前の状態に戻りたいと言う望みを起こさなかった。日本が敗北し、再びヨーロッパ人が戻ってきた時、それぞれの国の国民運動の核心となったのである。もはや以前の植民地の状況に戻すことは不可能になった。日本の占領がそうさせたのである。
 オーストラリア『世界史』中学生用

 日本軍はアメリカ以上にタガログ語の発達に力を入れた。彼らの目的が利己的であったかどうかはさして重要ではない。日本が、タガログ語の作家が自国語の美しさと可能性を再発見するに貢献したという事実は消し去ることはできない。
 フィリピン『国史』高校生用

 あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたお陰です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。
 タナット・コーマン(タイ王国元副首相、元外相)

 日本のおかげでアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産してその母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話しができるのはいったい誰のお陰であるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。
 ククリット・プラモード元タイ首相
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 たくさんありますがこのくらいにしておきます。「あの戦争のおかげでアジアの人々は植民地支配から脱したのだ」戦時中に日本が駐留した東南アジア諸国、もしくは日本と戦った当事者自身がそういう認識を持っているのです。主張して何がおかしいのか私にはわかりません。確かに、あの戦争で日本が各国に犠牲を強いた部分はありました。しかしその部分のみを強調し、その他を全て隠そうとする行為をを偏向と呼ばずして何と呼んだらいいのでしょうか。闇の部分だろうと、光の部分だろうと、全て伝えるのが歴史教育というものです。そんな当たり前のことが今までの日本はできていなかった。しかし、朝日新聞はそんな当然の歴史教育がなされるのがたいそうご不満なのでしょうか。歪んだ一方的な思想を押し付けることこそが正しいのだと妄信的に唱え続けています。

 「都合のいい部分にだけ光を当てて戦争を正当化するような言動は、アジアの心ある人々を遠ざけるだけだろう。」

 自らの都合のいい部分のみに光を当てて、他の部分を覆い隠して自らの反日的思想を読者に刷り込もうとしているのは朝日新聞自身です。その言葉、そっくりそのままお返しします。

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参考書籍:
朝日新聞の正義―対論 戦後日本を惑わしたメディアの責任
小林 よしのり 井沢 元彦
4094023038

先生、日本のこと教えて―教科書が教えない社会科授業
服部 剛
459404963X

2005年09月22日

・アジア各国から見た太平洋戦争6(ベトナム)

元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き 「封印の歴史」報道:産経

 ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946―54年)を共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。

 8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、ベトミンに大量の武器を供与した井川省少佐や陸軍士官学校教官の中原光信少尉ら功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。
 抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。


 40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。近年、両国の経済関係が緊密化する中で、大阪経済法科大の井川一久客員教授らが、残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。
 井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。(1)敗戦で日本の将来を悲観した(2)現地に恋人がいた(3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感―などが理由という。
 元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、約半数が戦病死したとみられている。54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、150人以上が日本に帰国した。
 井川教授は「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを歴史として残さなければならない」と述べ、ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。(一部略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで

 東南アジアやインド等では、日本が太平洋戦争中に東南アジアで欧米勢力を一時的に駆逐し、そこで行った政策は現地を苦しめもしたものの、戦後の独立運動への大きなきっかけになったと評価されることが多いです。そのことはインドネシア等では教科書にも記載されています。またインドネシアでは日本の敗戦後も現地に残り、インドネシアの人々と共にオランダとの独立戦争を戦った日本兵の存在が広く知られいます。インドネシア人のその感謝の念は、戦死した日本兵が国立英雄墓地に埋葬され、数名は独立名誉勲章まで授与されていること、そしてインドネシアの独立宣言書に刻まれた年月が日本皇紀2605年8月17日となっていることからもよくわかります。(詳しくは過去記事→アジア各国から見た太平洋戦争2(インドネシア)を参照)
 ベトナムでもこれと似たような歴史事実があったわけですが、ベトナム戦争後に社会主義政権が樹立されたこともあり、過去のフランスと日本による統治は暗黒の歴史とされ、ベトナム独立に命をかけて尽力した日本兵の存在も封印されてきましたが、その歴史がやっと正確に伝えられることになったのは喜ばしい事実です。

 歴史というものは国の政策やイデオロギーによって様々な解釈がされますが、事実は一つであり、それを捏造したり歪曲したり、また隠したりするべきものではありません。このベトナムの動きを中国や韓国はほんの少しでも見習うべきです。

 また、こういった歴史事実は我々日本人も知っておくべきことです。戦後一貫して押し付けられた自虐史観の中で、こういった事実は語られることがありませんでした。私がつくる会の歴史教科書を支持する理由の一つに、これらの歴史事実にこの教科書は触れていることが挙げられます。しかしつくる会を妨害する団体は、戦争美化という言葉を使い、これらの歴史事実は子供達には隠さなければいけないと主張します。真実の歴史を教えようとすることと、特定の歴史を覆い隠そうとすること。どちらが正しいのかは明確です。

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参考書籍
世界から見た大東亜戦争
名越 二荒之助


アジアに生きる大東亜戦争
ASEANセンター


新しい歴史教科書―市販本
藤岡 信勝
4594050093

2005年08月18日

・米タイム誌が掲載した歴史観 〜変わり始めた日本と世界の歴史認識〜

「中韓の発展、日本に感謝を」 米誌タイム・アジア特集:産経

 米誌タイムは最新号で、「現代アジア」について特集、シンガポールの元外交官、キショール・マフバニ氏の論文「アジアの再生」を掲載した。同氏はアジアの世紀と呼ばれる今の発展をもたらしたのは自らの文化に対する自信であり、中国や韓国などアジア諸国はそれを提供した日本に感謝の意を表すべきだとの見解を明らかにしている。
 マフバニ氏はシンガポール国立大学のリー・クアンユー公共政策大学院学長。インド系で、国連や米国で長く外交官を務めた。
 同氏はまず、「文化に対する自信は発展の必要条件である」と指摘。英国の植民地だったインドをはじめアジア諸国では欧州の文化の優越性が民衆の心の底に刷り込まれていたとし、「日露戦争でロシアが日本に敗れて初めてインドの独立という考えが生まれた」とのインドのネール初代首相の言葉を引き、「20世紀初頭の日本の成功がなければアジアの発展はさらに遅れていただろう。日本がアジアの勃興を呼び起こした」と論じた。
 韓国の場合も、日本というモデルがなければこれほど早く発展できなかったと指摘。中国も、日本の影響で発展できた香港、台湾、シンガポールという存在がなければ、改革開放路線に踏み出さなかったとし、「日本がアジア・太平洋に投げ入れた小石の波紋は中国にも恩恵をもたらした」「(日本を歴史問題で批判する)中国でさえも日本に感謝すべきだ」などという見解を示した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで
 
 このような見解は特に新しいものではありません。第二次大戦終了直後からあったものです。しかしタイム誌でこのような見解の記事が載ったのは歓迎すべき動きです。日本が長期間苛まれている、ゆがんだ自虐史観は、中韓の捏造され、歪曲された歴史観に大きく助長され、さらに世界にも流布されている傾向にあります。欧米のマスコミでさえ、中韓の根拠のない主張をそのまま受け入れて報道したり、つくる会の教科書採択を「戦争を美化した教科書を日本は採用すべきでない」などとした記事を載せることさえあります。
 太平洋戦争は、確かに日本が進駐した各地域を苦しめた部分もあります。私はそれを否定するつもりはありません。しかし、その一方でこのタイム誌で掲載された記事のように、アジア諸国の勃興を呼び起こしたという面も大きくあるのも事実です。その一面をひた隠しにし、捏造され歪曲された事実と共に、徹底的に悪の面のみを強調するのは決して正しい歴史認識とは言えません。事実、戦後東南アジア等では、欧米支配からの独立の背景には日本という影響が大きく働いたという認識が広くあり、インドネシアなどでは教科書にも記載されています。
 こういった歴史の見方が、日本のみならず、”当時の日本は絶対悪”という論調の強い欧米の代表誌で大きく取り上げられたというのは、大きな意味を持ちます。

 話は日本に移りますが、つくる会の教科書は、加害の事実のみだけではなく、歴史のそういった点を記載しているところが評価できるポイントの一つだと私は思っています。(→つくる会HP:大東亜会議とアジア諸国の頁参照)歴史は偏った一面のみから見るものではありません。
 私は中韓に対し、別に感謝して欲しいとも謝罪して欲しいとも考えてはいません。ただ、歴史を自国の都合で歪曲して偏った方面からしか見ないのは止めて、様々な視点から見られるように成長して欲しいですが、現在の中韓には荷が重過ぎることかも知れません。しかしそれはかつて日本も同じことが言えましたが、つくる会の教科書や、書店に溢れる様々な書籍などがそんな日本を変えつつあり、そしてそれは歓迎すべきことだと思っています。

参考書籍:
新しい歴史教科書―市販本
藤岡 信勝
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2005年05月06日

・帰らざる日本人 (書評) 〜台湾から太平洋戦争を考える〜

帰らざる日本人―台湾人として世界史から見ても日本の台湾統治は政策として上々だったと思います
蔡 敏三

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 私が生まれたのは日本統治時代の台湾です。平和で安定した社会でした。教育は行き届き、町は綺麗で、泥棒も少ない、とても暮らしやすい社会だったのです。

 今時の若い人が、戦争は日本が悪かっただの、特攻隊は可哀想だったの、なぜあんなひどい戦争をしたのかなどと言うのは、浅はかだし、時代を知らない者のセリフです。当時を生きていた人々の気持ちを知らないから言えることです。

 現在の六十五歳以上の台湾の人達は、日本語族と言われ、昔の日本時代の良さを今も懐かしんでいます。日本に植民地統治をされた私達が、どうして日本贔屓になり、日本語を常用する日本語族になるのか、戦後教育を受けた日本の若い人にとっては不思議かもしれません。

 それは、日本時代の五十年と、終戦後の中国統治下の五十余年とを比べた結果なのです。言ってみれば、中国の悪い政治が、私達を日本贔屓にしているのです。
 日本は、五十年かけて台湾の近代化を進めました。近代国家としてのインフラを整備し、人々を教育して、それまでの中国式のだらしない国民を、「公」という精神を持った、法治国家の国民へと変えていったのです。

 今の日本人は台湾のことを知りません。台湾が昔日本だったことも、領台の五十年、偉大な明治の先人達が苦労して台湾を近代化したことも全て忘れています。私達のような元日本人が台湾にいるということも、皆知らないのです。教育が忘れさせているのです。

 悲しいことです。台湾に日本を愛する人達がいるという事実をわきまえてほしいものです。

 中国が来てから、台湾でも教育は反日の教育になっています。人口のたった一五パーセントでありながら、政治やメディアを牛耳ってきた蒋介石のグループが、意図的に日本時代を悪く宣伝しているのです。だから、私達が知っている日本時代のことも、事実が教えられていません。言っても聞いてくれないから、私達も言いません。

 といっても、韓国、北朝鮮のような反日はありません。日本時代を懐かしむ親達の世代の影響で、日本に好意を持つ若者も少なくありません。だから、台湾はかろうじて今でも一番の親日国なのです。

 台湾の若い人達は、日本の若い人達とよく手を握ってやっていくべきです。日本の若い人も捏造された嘘の歴史を学んではいけません。双方に、正しい歴史を知ってほしいと願っています。

 同じ日本の統治を経験した国として、韓国と台湾はよく比較されます。韓国は台湾とは正反対の非常に反日の国になりました。私の目には、韓国は結局は、アメリカの戦略に乗せられているように見えます。台湾統治の方が、韓国統治より長かったせいだとよく言われますが、それよりも、一番の違いは、戦後の教育、そして国民性の違いでしょう。韓国人は、日本統治を「恨み」としていますから、総督府を取り壊すという極端なことをやりますが、台湾人にその感情はありません。私が勤めていた西松組にも、同僚に韓国人が三人ほどいましたけれど、当時からあまりいい感じではありませんでした。

 戦後、日本人が帰国してしまっても台湾に残った私のような日本語族を「帰らざる日本人」と人は呼びます。

 日本の教育を受けた私達の世代は、その日本精神によって、台湾をより良い国にしていく義務があると思って頑張っています。日本の若い人も、私の体験に耳を傾けて、昔の日本の素晴らしさにきちんと気付いて欲しいと思います。台湾と日本が、共に昔のような素晴らしい国になってくれるのが私の願いです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで

 今日は、以前紹介した「日本人はとても素敵だった」という本と同じシリーズの本を紹介します。、台湾人がかつての日本統治時代を懐かしみ、その当時の実体験を語り、当時と今の日本の姿を比べて、今の情けなく間違った歴史観を持ち、変わってしまった日本人を嘆き、それに気づくよう促す内容となっています。

 最近の韓国、中国の反日暴動で、初めて歴史問題に疑問を持った人も少なくないと思います。戦前、戦中と、日本はアジアの多くの国に駐屯し、ある場所は直接統治しました。その中で一番長く日本が統治していたのが、台湾です。しかしながら、台湾では、中国や韓国のように狂ったような反日暴動はおきません。それどころか、親日国家です。同じように統治したのに、なぜこのような違いが起きるのでしょうか。日本は中国や韓国が主張するように、本当に占領地や統治した地で残虐の限りを尽くしたのでしょうか?それともそれは間違った歴史観なのでしょうか?

 その問題に対する一つの答えをこの本は出してくれています。私は、日本が台湾のみで温厚な懐柔政策をとり、ほかの地域では残虐の限りを尽くしたなどとはとても思えません。中国や韓国の反日行動は、戦後徹底して行われた捏造された歴史教育によるつくられたものなのです。そして、我々が戦後受けてきた、日本は太平洋戦争で徹底して残虐の限りを尽くしたという教育もまた、つくられたものなのです。一方ではそういった面もあったことを忘れてはいけませんが、歴史というものは一面だけをみるべきではありません。この本に紹介されているような内容も知るべきなのです。


 最後にもう一つ台湾の話を。先日、台湾の温泉地を旅するというテレビ番組を見ました。台湾の温泉地は、かつての日本統治時代に切り開かれ、当時を懐かしみ、日本語で歓迎してくれる台湾人や、当時のエピソードもたくさん盛り込まれており、非常にいい番組でした。日本名しか持っていなかったと言う台湾人に、「日本名しかないことに不便や嫌悪感はなかったですか」と聞くと、「そんなものは全くない。誇りに思っている。」と話していました。また、当時勇敢な日本兵として日本と共に戦った高砂族として知られるタイヤル族の集落を訪れたときは、そこには日本語がまだ公用語として残っていました。野々村誠が出演していましたが、最後にいいコメントを残してくれました。

「台湾で、日本でも感じることのできない、懐かしい日本を感じられました。今度は家族を連れて来たいな」


参考書籍:
日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景
楊 素秋



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2005年01月29日

・私が朝鮮半島でしたこと (書評)

私が朝鮮半島でしたこと1928年‐1946年
松尾 茂


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 著者は朝鮮開拓の一端を担い、土木工事の現場責任者として、職にあふれている朝鮮人をしっかりとした給料で雇い、そして朝鮮人達を朝鮮人達と同じ釜の飯を食い、共に働いた様子が描かれています。そこで見聞きしたもの、朝鮮人との心温まる触れ合い。朝鮮人と協力しつつ作業を進めている風景が印象的で、決して「奴隷のように働かせている」といった様子ではなく、和やかな人と人との触れ合いが感じられます。
 
 道路や鉄道、上下水道、電気など基本的なインフラがほとんど整備されておらず、近代化とはほど遠い状態だった朝鮮半島へ、日本は併合後に資本注入を行ない、さまざまなインフラを整備し、農地改革を行い、それまでの朝鮮半島につきものだった汚職をなくし、教育を施し、短期間に驚くほどの近代化をさせるのに成功しました。その結果、日本統治時代に人口は二倍になり、農作物の収穫量は二倍になりました。このような事実があるわけですが、その時の生の体験をこの本の著者は語っており、様々な資料を読むよりも心に訴えるものがあります。
 
 しかしながら、戦争が終わって日本が負けたことが分かると、朝鮮人がとたんに掌を返したように日本人を襲う姿も描かれているところにも注目したいです。


 以前「アジアから見た太平洋戦争」というシリーズの中で日本は太平洋戦争中にアジア地域で何をしたのか。それを現地の人々はどう感じ、どう評価したのか。という内容を書きました。その内容は、侵略行為はあったものの、インフラの整備、治安の維持、教育の提供、仕事の提供等を施し、結果として近代化に大変貢献した。欧米社会からの独立を促してくれたと、大変な評価をしている国が多くありました。我々日本人が教科書でなぜか習わない事実です。
 そして私はここで一つの疑問を持ちました。中国と韓国です。これらの国は、「日本の植民地支配は史上希に見る圧政であった」「日本は破壊、略奪、虐殺、残虐の限りをつくした」「日本統治時代は忘れられない暗黒の時代」「強制徴用で奴隷化された」「いくら賠償金をもらっても償いきれない罪」と声高に叫びます。果たしてそれは本当なのでしょうか。日本は韓国で何をしたのでしょうか。この本はそれに一つの答えを出してくれます。

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2005年01月11日

・アジア各国から見た太平洋戦争5(台湾・書評)

日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景
楊 素秋


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 前回、アジア各国から見た太平洋戦争シリーズは最後にすると言いましたが、もう一回だけ続きます。今回は書評です。この本は、日本統治時代に生まれ育った台湾人の女性が、日本統治時代の台湾はどうであったか。日本人はどのように台湾人に接したか。そして自分の心はどうであったのか。さらには戦後に大陸から国民党がやってきて、日本人ではなく中国人(台湾人)になってしまったその生活と自分の心境を語った本です。この手の本は小難しい資料や解説などが盛りだくさんでなかなかとっつきにくくなりがちなのですが、この本は自分の実体験を過去を振り返る形で日記調に書いてあり、非常に読みやすく仕上がっています。
 内容は、過去の日本の統治時代がいかにすぐれたものであったのか、台湾にとって、そして自分にとっていかに良い時代であったかを全編に渡り実際のエピソードから語っており、その日本の褒めぶりは読んでいる方が恥ずかしくなるくらいです。そして最後には、日本人はこんなに素晴らしいことを過去にしたんだ。誤った歴史観で自虐的にならず、自らに自信を持って欲しいとまで説いています。
 おそらく、戦後の自虐的歴史観しか知らず、日本はアジアで戦争中に残虐の限りを尽くし、大迷惑をかけ、日本はアジアに謝り続けなければいけない。こういった過去について負のイメージしかない日本人にとっては、にわかには信じがたいエピソードを読まされることでしょう。そして読み終わった後には少し清々しい気分になれるでしょう。日本の偏った歴史教育を考え直させる入門書として最適です。

2005年01月10日

・アジア各国から見た太平洋戦争4(台湾)

 今回で4回目になる、太平洋戦争を中国、韓国以外のアジア諸国からの視点で考えてみるシリーズですが、とりあえず今回で一段落をつけます。今回のテーマは台湾です。
 
 このエピソードは産経新聞にも取り上げられていますし、Web上でも一部話題になっていましたので、ご存じの方も多いかと思いますが非常に心動かされたエピソードであり、台湾に対する私の考え方にも大きく変化があった事件でもありますのでここに紹介させて頂きます。

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・台湾(高砂族) 
 皆さん高砂族をご存じでしょうか?台湾の原住民族のことです。太平洋戦争中、台湾は日本領だったわけですが、戦争が激化してきた時、日本は台湾人からも兵を募ろうと、1000名の志願兵を募集しました。そこに応募した高砂族の数、実に4万人。彼らは日本と共に戦うことを切望し、日本人以上の忠誠心で、元々持つ勇敢さと強靱な体で戦いました。その強さと勇敢さ上、実際戦場に出た5000人のうち、半数以上が戦死。
 しかし亡くなった方も、生き残った方も、戦後日本国籍を失ったことで恩給や補償を受け取ることが一切出来なかったのです。しかし彼らは一切日本政府に賠償を要求することなく、未だに日本へ敬意を持っています。過去に一度台湾人が日本政府に戦争の賠償を要求した際、彼らは「高砂族の恥」として大変な非難をしたことがあります(後にこの訴訟を起こした団体は台湾にも住所が確認できず、高砂族とは関係ない政治的な謀略ではないかと言われていますが、詳しくは未確認です。)以下に高砂族に関するエピソードを数点紹介します。

「おにぎり」
 ある元日本兵は、同じ部隊で戦い、戦死した高砂族を慰霊するため、この碑に赴き、そこで昼飯にと差し出されたおにぎりを見て、いきなり涙を流し、慟哭をはじめたそうです「俺はこの握り飯を彼の前で食うことはできない。」と。彼の部隊は東南アジアで作戦中、食料不足で飢えに苦しみました。そこで足腰が強く、ジャングルに強い高砂族の兵士が、遙か後方の基地まで食料を取りに行ったそうです。しかし何日待っても帰ってこない。様子を見に行ったら、彼は部隊まであと少しというところで、両手一杯の米を抱えて餓死していた。米を持ちながらの餓死。信じられるでしょうか。餓死するほどの限界に達しながらも、多くの日本兵が心待ちにしている食料には一切手をつけなかったのです。慟哭した元日本兵は、そんな彼の霊前で握り飯を食うことができなかったのです。

「靖国神社に昇殿参拝して」〜ある高砂族の方の話(2002年)
 きのう靖国神社に昇殿参拝して、今気持ちは非常に暖かい。私もおかげさまで長生きし、一人前になりました。
 もしも明治天皇がいなければ、台湾は日本の植民地にはなりません。(しかし)学校教育 もありません。当時、清国が台湾にいたとき、学校はひとつもありません。 日本が台湾を五十年間植民地にしたが、その五十年間の正義(はあった)。多少なり 差別もあろうが、世界第一と数える(世界でもまれにみる発展をした)五十年、立派な 五十年。厳しい法律だが、法律守れば人民は豊かになれる。盗賊の心配もありません。 立派な政治だと思います。
 古い昔を思い出して、大陸と交わった(中国大陸から来た以前の国民党政権など)今の 台湾より、懐かしく日本時代を思って、(今でも日本と台湾は)いっしょになりたいと思って います。
 私は公学校六年を終えて社会に出ました。今NHK(衛星放送)で俳諧を研究しています。 80歳をこえて唯一、日本の靖国神社に参拝した夜に、東京で作りました。
 繋ぎ断ち 日暮里(ひぼり)の島は 曇りけり

「返却された補償」
 当時高砂族を部下に多数部下に持っていたある陸軍少尉は、戦友の病気見舞いに訪台、同時に日本政府が台湾の 戦後処理を放置しているのを見かねて「我々日本人の恥である。戦友としてまことに忍びない。国が補償しないなら、おれがする、ほんの気持ちだけど・・・・・」と旧部下の戦友20余名に各日本円10万円を 贈った。高砂族の部下一同御温情に感泣して「こんな金をいただくわけにはいかない」と誠意のみ頂戴して全部返したといいます。

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 そんな高砂族の慰霊碑が台湾にあります。その慰霊碑が資金不足の為撤去される危機にあり、相当の費用がないと維持ができないとこの夏報道され、日本から寄付を出そうという呼びかけが産経新聞の主催でありました。
 私はこの話を聞いたとき涙しました。これほどまでに日本を愛し、共に戦ったにも関わらず、何の恩給も補償も得られなかった異国人達。私も微力ながら寄付をさせて頂きました。 幸い、多数の日本人からの寄付が集まり、台湾に引き渡されたようです。
 日本と共に戦い、亡くなった誇り高き高砂族の皆様、安らかに。

 この高砂族のエピソードが台湾人全ての戦時、戦後感情ではないかもしれませんが、同じく戦時中台湾と同じく「日本」であった韓国と比較して、なぜこれ程までに違うのだろうと私は激しく疑問に思います。当時日本はこの二つの地域に差別のある統治を行ったのでしょうか?単純に「民族性」という言葉でかたづけられる問題なのでしょうか?

尚、高砂族のエピソードは以下のサイトに詳しくまとめられています。
上記エピソードもこのサイトから一部引用させて頂きました。
http://www.takashago.com/index.html

参考文献
還ってきた台湾人日本兵
河崎 真澄


台湾人元志願兵と大東亜戦争―いとほしき日本へ
鄭 春河



2005年01月06日

・アジア各国から見た太平洋戦争3(パラオ)

パラオ国旗

 皆さんはパラオ共和国という国をご存知でしょうか。太平洋に浮かぶ小さな島国です。この旗はパラオの国旗ですが、日の丸とそっくりです。なぜこのようなデザインになったのでしょうか。

 ドイツ植民地であったパラオは第一次大戦後、日本の委任統治領となりました。太平洋戦争中はミクロネシア地域の重要拠点となり、多くの日本軍が駐屯していました。そこでの日本は厳しくも、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残し、パラオの人々に大変な信頼を受けました。
パラオの人々は「日本人は厳しかった。しかし我々に農業と、まじめに働くこと、そしてウソをつかないことを教えてくれた。」と今でも口々に日本を語ります。
 太平洋戦争末期、アメリカ軍がパラオにも迫り、いよいよ上陸してくるという時に、パラオ人は驚くことに、「我々も日本人と一緒にアメリカ軍と戦う」と決意したと言います。しかし民間人に被害が出ることを懸念した日本はそれを許さず、貴重な船舶を使いパラオ人を全員他の島へ避難させました。そして戦闘が終わり、パラオ人が島へ帰ってくるとそこには玉砕した日本軍の遺体が多数放置されていました。パラオ人は泣きながら丁重に遺体を埋葬しました。そして日本人がいつ来てもいいようにと、墓の掃除を今でも欠かさないと言います。

 戦後は日本の変わりにアメリカが統治をすることになりましたが、パラオの人々は日本への感謝の念をずっと忘れることはありませんでした。
 1994年、パラオはアメリカからとうとう独立することとなります。それに際して国旗を制定することとなったパラオは、敬愛なる日本の日の丸と同じデザインにすることに決めたのです。黄色い丸は月を、背景は青い海を表します。しかし月が中心より少しずれていることにお気づきでしょうか。これは日の丸と全く同じデザインにしては日本に失礼だからとのパラオの配慮です。そして、独立式典ではパラオ国歌の斉唱の後、君が代の斉唱がなされ、パラオは独立を宣言したのです。アメリカの統治は50年にも及びましたが、パラオの人々の心に残っているのはアメリカの統治が始まる前の50年前に滞在した日本人だったのです。日本が短い統治の間にパラオの人々の心に残したものはそれだけ大きかったのです。 今でもパラオ人の8割は日本への親愛の証に、その姓名のどちらかに日本式の名前を付けているといいます。

 またパラオは日本の歴史教育問題に非常に協力的で、パラオの国会で日本の教科書問題が議論されるほどです。『日本へ真の歴史を』と。
 クニオ・ナカムラ前大統領は以下のコメントを残しています。

『日本国民と日本人が「どの民族も例外なく持っている自国の正史を回復すべく」努力している活動を支持する。この活動が実を結ぶことは、日本の未来の世代をして、偉大なる自国の歴史、伝統、文化に目を見開かせることに積極的な貢献をなすだろう』
 実に的を射た発言で頭が下がります。韓国、中国などは歴史を反省していない。と毎度発作のように騒ぎますが、その一方で日本の偏った自虐的歴史教育をを憂う国があるのです。

 パラオの国旗は、かつての日本統治時代がアジアの人々にどのような意義を与えたかを象徴する実物教材であるのではないでしょうか。

 このようなパラオですが、最後に一つ残念なエピソードを。以下はパラオ銀行の創設者、増田俊男氏の談話から引用です。
1995年10月1日、パラオでは独立一周年を記念する式典が開催されていました。各国の元首から祝電が届き、パレ−ドや歓迎団、アジア諸国の民族ダンス等が式典場を埋めつくしていました。しかしこの日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無く、そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に聞くことが出来ませんでした。ナカムラ大統領とパラオ国民は非常に悲しんだと言います。そのときの日本国総理大臣は社会党の村山富市氏でした。

2005年01月05日

・アジア各国から見た太平洋戦争2(インドネシア)

引き続きインドネシアから見た太平洋戦争を紹介します

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・インドネシア
「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」
 インドネシア中学3年用歴史教科書
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 日本軍のインドネシア攻略は1942年1月に始まり、3月9日には早くもオランダ軍を全面降伏させました。
これはインドネシアの人々にとっては驚異でした。インドネシアを300年にわたって支配したオランダが、たった1週間で降参させたからです。
 日本軍はクディリ王国(東ジャワ)のジョヨボヨ王(13世紀初め)が残した予言、「北から黄色い人間がやってきて、白い人間を追い払い、しばらくの間支配しその後幸福な時代が始まる」を思い起こさせ、人々は日本軍を紅白旗(国旗)と国歌の大合唱で迎えたのです。

 日本の占領統治は3年5ヶ月に過ぎませんが、日本の統治がインドネシアの社会に与えた影響は大きなものでした。

 日本軍はさっそくスカルノやハッタらを解放し、将来の独立の約束と引き替えに日本軍政への協力を取り付けました。
 「オランダ領東インド」という国名を待望の「インドネシア」に、「バタヴィア」は「ジャカルタ」に改称しました。
 また、オランダ人の代わりにインドネシア人を役所や企業でかなり高い地位につけたので、彼らの社会進出が飛躍的に進みました。
 さらに、公用語をオランダ語からインドネシア語に改めたことは、インドネシアに誇りと自信を取り戻させました。
 その一方、「隣組」「警防団」など様々な団体が作られ、統制の訓練が行われたことは、オランダの分割統治によって消えていた組織原理をインドネシアに人に覚えさせ、刺激を与えました。さらに重要なのは、オランダが決して行わなかった軍事教練も開始したことです。最初は日本軍内の補助兵力「兵補」が養成され、のちにこれは日本敗戦後のオランダとの独立戦争の時の大きな力となったのです。
 このように、日本軍政下のインドネシアでは、後の独立に繋がる大きな力が養われました。

 また、日本の敗戦後、インドネシアに残った約2000人の日本兵がインドネシア人と共にオランダと戦い、1000人が戦死しています。その後インドネシアは勝利し、1949年、念願の独立を手にします。そしてこの1000人の日本兵は、インドネシアの国営英雄墓地に埋葬されており、その中の数名は独立名誉勲章を授与されています。
 こういう経緯があり、インドネシアの独立記念日に国旗を掲揚する際には、二人の男女と日本軍服を着た人の3人で国旗を掲揚するという習慣ができています。そして独立記念塔に奉納されている独立宣言書に記載されている年月は「05年8月17日」 独立に多大な貢献をした日本に敬意を払い、西暦ではなく、「日本皇紀」を使用しているのです。(皇紀2605年)

そして最後に戦後賠償の交渉に当たった国会議長のアルジ=カルタウイナタ氏の言葉を
「独立のお祝いというつもりで賠償金をください。日本が悪いことをしたから賠償をしろというのでありません」

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インドネシアでは今回の津波で恐ろしいほどの被害が出ているといいます。被害にあわれた方には心からお見舞い申し上げます。
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参考書籍
世界から見た大東亜戦争
名越 二荒之助


アジアに生きる大東亜戦争
ASEANセンター



2005年01月04日

・アジア各国から見た太平洋戦争1(タイ)

 今まで、中国と韓国の反日活動や太平洋戦争時の間違った認識について多くを書いてきました。そして我々日本人は、太平洋戦争時は日本はアジア地域に覇権を狙い進行し、各地で悪行の限りを尽くした。日本は過去に大罪を犯したと教育され、今の日本人にはそれが頭にすり込まれたようになっています。私はそれを全て否定するつもりはありません。一部は真実でしょう。しかしそれだけだったのでしょうか。
 
 日本が太平洋戦争中に兵を進めたのは朝鮮、中国のみではありません。東南アジア、インド、ミクロネシア、ニューギニアまでに及びます。ここで少し視点を変えて、太平洋戦争時に中国、韓国以外の日本が進駐したその他のアジア諸国はいったいこの太平洋戦争というものをどういう認識でいるのかを見手みたいと思います。そしてこの太平洋戦争というものをもう一度考えてみましょう。一国のみではなく、何カ国かを紹介したいと思いますので、このテーマはシリーズ化し、何回かに分けて掲載したいと思います。

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・タイ
タナット・コーマン(タイ王国元副首相、元外相) あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたお陰です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。

ククリット・プラモード元首相
 日本のおかげでアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産してその母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話しができるのはいったい誰のお陰であるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。

ソムアン・サラサス(タイ国軍元顧問)
 日本は敗れはしたが、アジアのプライドをかき立てた。・・・戦争が始まったとき、日本は負けるという不安もあったがタイは日本についた。私は、日本が負けても、英米に対してアジアもこれだけのことができるという証明になると友達と話した。
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タイは太平洋戦争時には欧米に侵略されていない数少ない独立国の一つであり、日本と同盟を結んでおりました。その為早くから日本軍が駐屯し、各種の協力を求められました。中でも、戦場に架ける橋で有名な泰緬鉄道建設時にはタイ人も多数動員され、過酷な労働を強要されたと言います。
 日本の同盟国という立場であった為、他のアジア諸国と立場は多少違うかもしれませんが、国家を代表する人々が上記のような発言をしていることを覚えておいて下さい。
 そして最後に一つエピソードを。上記発言にも紹介しているソムアン・サラサス氏のエピソードです。
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日本に送られた象の花子
 戦時中、タイは進駐していた日本軍に20億バーツ(30億円)を貸与していた。その返還交渉に使節団が来日した。池田蔵相は、日本の経済事情を説明して、返済の値引きを求めたところ、即座に了承した。ソムアン顧問は、次のように語っている。
「日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか」と言いましたよ。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。
 ソムアン顧問とその父で戦前に経済相をつとめたプラ・サラサス氏は、さらに「あまりにも日本の少年少女がかわいそうだ」と言って、私費で象の「花子さん」と米10トンを贈ってくれた。子供達ばかりでなく、当時の大人も花子を見て、敗戦後も変わりないタイの好意に、心暖まる思いをしたのではないだろうか。

 次回は他のアジア地域から見た太平洋戦争を書きたいと思います。
 
 
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