2005年10月23日
特別インタビュー 狩谷×路秉杰(ロヘイケツ)
◇中国では、急激な都市化に伴い、その歴史的ランドスケープの保存が重要な問題となっています。
ここからは、狩谷くんと、狩谷くんの中国での指導教員である同済大学の路秉杰(ロヘイケツ)教授による「現在急速に発展している中国における歴史的建築の保存活動」についてのインタビューを掲載します。(宮川)
狩谷:
路教授は、上海同済大学にて、歴史的建築の保存活動を積極的に行っていますが、まずは、その背景となる先生の経歴などを教えてください。
路教授:
私は、山東省の農村に生まれ、子供の頃はよく畑仕事を手伝っていました。1955年、当時は6年制(現在、建築本科は5年制)であった同済大学の本科に入りました。陳従周教授の授業を二年のときに受け、よく先生と蘇州また常熟の古代古代建築園林の実測、そして図面を作成していました。その他にも、上海豫園の修復などにも携わり、これら活動を通し中国建築園林の美しさに強く惹かれました。
しかし、1966年から1976年の10年間にかけ中国文化革命が起こり、古いものの研究は禁止されてしまったのです。その当時、私は同済大学の院生で、卒業論文のテーマでは「浙江省の塔」についてまとめようと考えていました。
しかし、革命の影響でその研究もできず、結果「上海労働人民の住居の発展と変化」というテーマで論文を発表しました。また、農村に送られ、畑を耕すほか,農村建設のために水道タンク,家畜小屋,農道等を中心に設計していました。
文化大革命後は、日本建築に興味があったので1978年第一回国費留学試験を受け合格し、80年東京大学へ入学、松村貞次郎教授の下、日本近代建築について研究しました。
狩谷:
日本の近代建築ですか?
路教授:
そうです。当時は古代建築について研究をしたかったのですが、国の要請で現代日本建築を研究することとなったのです。それでも、留学時には各地を巡り、古代建築の調査をしました。1982年同済大学に戻ってきて「日本町並み保存辞典」を翻訳,出版しました。
実を言うと、この本が以後中国の建築保存に与えた影響はとても大きかったんですよ。現在でも日本の保存理念を基礎に中国では建築の保存を行っています。
狩谷:
これまで歴史的街並みの保存活動をされていて、特にどのような点が問題だと感じましたか?
路教授:
中国は土地が国家のものです。建築についてもやはり所有者は国になります。そのため、修理費も国から出ます。しかし、昔は政府に資金がなく,材料(木材など)もなかったので、RC構造(補強コンクリート)を用いて修復していました。だが、あれならまだ修復しない方がましでしたよ。
ここ数年で各地の政府も資金を持つようになり、国外からも材料なども輸入できるようになりました。しかし、今度は役人が自分たちで勝手に思ったまま開発してしまうので困っています。例えば町や村は発展がとても早いですよね。これはよくTVや新聞でも載っていますが、古い建築についてはその多くが保存されぬまま取り壊されてしまいます。
私が言いたいことは、古代建築の保存に対し国も私たち専門かも意見を統一しなければならないということです。これは今後大きな課題となるでしょう。だから、私もあちこちで戦っています(笑)。
また正しい知識を持った専門家、職人が少ないということも大きな問題です。長い期間修理に携わるものがおらず大工道具にしてもどのように用いるか知らぬ者が多いのです。全て機械に頼っていますが、建築内における伝統的な家具などはやはり以前の道具を用いなければきれいに仕上がりません。
狩谷:
技術の継承も大きな課題の一つですね。
路教授:
そのような面から見ると、以前の日本は中国からいろいろなものを勉強していましたが、今は中国が日本に学ぶことが多いと思います。しかし、今後相互に勉強することができれば更なる文化の発展につながると信じています。私はこれからも、日本における著書を翻訳し、広く中国に広めたいと考えています。
狩谷:
私も日中の発展的な交流のお力になれればと思います。では、最後に日本のランドスケープアーキテクトや学生にメッセージがあればお願いします。
路教授:
現在世界各国で、悲惨な事件が起こっています。そのようなニュースを聞くたびに人間として強いむなしさを感じます。私は、建築家とはもともと平和主義者であると考えています。そのような悲しい事件が起こらぬよう私たちがよき環境をデザインしていくべきだと強く人々に訴えたいです。
ここからは、狩谷くんと、狩谷くんの中国での指導教員である同済大学の路秉杰(ロヘイケツ)教授による「現在急速に発展している中国における歴史的建築の保存活動」についてのインタビューを掲載します。(宮川)
狩谷:
路教授は、上海同済大学にて、歴史的建築の保存活動を積極的に行っていますが、まずは、その背景となる先生の経歴などを教えてください。
路教授:
私は、山東省の農村に生まれ、子供の頃はよく畑仕事を手伝っていました。1955年、当時は6年制(現在、建築本科は5年制)であった同済大学の本科に入りました。陳従周教授の授業を二年のときに受け、よく先生と蘇州また常熟の古代古代建築園林の実測、そして図面を作成していました。その他にも、上海豫園の修復などにも携わり、これら活動を通し中国建築園林の美しさに強く惹かれました。
しかし、1966年から1976年の10年間にかけ中国文化革命が起こり、古いものの研究は禁止されてしまったのです。その当時、私は同済大学の院生で、卒業論文のテーマでは「浙江省の塔」についてまとめようと考えていました。
しかし、革命の影響でその研究もできず、結果「上海労働人民の住居の発展と変化」というテーマで論文を発表しました。また、農村に送られ、畑を耕すほか,農村建設のために水道タンク,家畜小屋,農道等を中心に設計していました。
文化大革命後は、日本建築に興味があったので1978年第一回国費留学試験を受け合格し、80年東京大学へ入学、松村貞次郎教授の下、日本近代建築について研究しました。
狩谷:
日本の近代建築ですか?
路教授:
そうです。当時は古代建築について研究をしたかったのですが、国の要請で現代日本建築を研究することとなったのです。それでも、留学時には各地を巡り、古代建築の調査をしました。1982年同済大学に戻ってきて「日本町並み保存辞典」を翻訳,出版しました。
実を言うと、この本が以後中国の建築保存に与えた影響はとても大きかったんですよ。現在でも日本の保存理念を基礎に中国では建築の保存を行っています。
狩谷:
これまで歴史的街並みの保存活動をされていて、特にどのような点が問題だと感じましたか?
路教授:
中国は土地が国家のものです。建築についてもやはり所有者は国になります。そのため、修理費も国から出ます。しかし、昔は政府に資金がなく,材料(木材など)もなかったので、RC構造(補強コンクリート)を用いて修復していました。だが、あれならまだ修復しない方がましでしたよ。
ここ数年で各地の政府も資金を持つようになり、国外からも材料なども輸入できるようになりました。しかし、今度は役人が自分たちで勝手に思ったまま開発してしまうので困っています。例えば町や村は発展がとても早いですよね。これはよくTVや新聞でも載っていますが、古い建築についてはその多くが保存されぬまま取り壊されてしまいます。
私が言いたいことは、古代建築の保存に対し国も私たち専門かも意見を統一しなければならないということです。これは今後大きな課題となるでしょう。だから、私もあちこちで戦っています(笑)。
また正しい知識を持った専門家、職人が少ないということも大きな問題です。長い期間修理に携わるものがおらず大工道具にしてもどのように用いるか知らぬ者が多いのです。全て機械に頼っていますが、建築内における伝統的な家具などはやはり以前の道具を用いなければきれいに仕上がりません。
狩谷:
技術の継承も大きな課題の一つですね。
路教授:
そのような面から見ると、以前の日本は中国からいろいろなものを勉強していましたが、今は中国が日本に学ぶことが多いと思います。しかし、今後相互に勉強することができれば更なる文化の発展につながると信じています。私はこれからも、日本における著書を翻訳し、広く中国に広めたいと考えています。
狩谷:
私も日中の発展的な交流のお力になれればと思います。では、最後に日本のランドスケープアーキテクトや学生にメッセージがあればお願いします。
路教授:
現在世界各国で、悲惨な事件が起こっています。そのようなニュースを聞くたびに人間として強いむなしさを感じます。私は、建築家とはもともと平和主義者であると考えています。そのような悲しい事件が起こらぬよう私たちがよき環境をデザインしていくべきだと強く人々に訴えたいです。