※「6」あたりは新しいです。学会ではとっくに公表しましたが。



 本書からの引用は〈  〉でくくる。末尾の( )内にページ数を示す。便宜上、12…6 と項目ごとに番号を付す。好きな項目だけお読み下さい。 

 

1.

〈「あなた」を理解する上で、障がいを「あなた」が生きている世界の中の一部であるととらえ、()その全体的な「あなた」を理解することが、「あなたの一つしかない人生」を豊かにしていくことに繋がっていくのだろうと思います。障がいとともに「あなた」が生きる世界のすべてが、はたして、障がい特性だけで説明できるものなのかどうかはわかりません。()〉

 

支援者が「『あなた』を理解することが、『あなたの一つしかない人生』を豊かにしていく」というのは支援者側の無自覚な驕りであり、「すべてが()障がい特性だけで説明できるものなのかどうかはわかりません」すなわち、障害特性だけですべては説明できないと言いたいのだろうが、それは言わずもがなである。だからといって「障がい特性」を無視してよい理由にはならないのだが、本書では、含みのある言い方と極端な仮定によって、障害・診断・当事者を悪者にし、自己弁護に終始する「支援職のナラティヴ」が展開される。

 

4章の元となった論文の共著者である森岡正芳による巻頭の寄稿文も、次のようなものである。。

 

〈新鮮な驚きを覚える本です。言葉が生きています。

援助者の「私」には見えてないこと、専門家としての「私」の限界に気づかされることは、援助の現場ではいつも起きていることです。ただ、援助者の側の意識に立ち現れにくいです。援助者として関わる「私」も、「あなた」を当事者とする社会と制度のシステムの一員であってそこから逃れられないのです。(

彼らの多くは、言葉を失った人たちです。それは「障害」を持っているからという意味ではありません。自分の言葉を聴いてもらう体験に恵まれなかった事情があるのでしょう。各章に登場する一人一人が際立って、語りはじめます。名前を持つ個人としてはっきりとした輪郭をもつのです。これが対人援助の原型です。

小さな声、つぶやきを聴き届ける山本さんの耳の良さに驚きます。

それではどうして、そんなふうに「あなた」の世界に入っていけるのでしょうか。山本さんの言葉が相手に伝わるからです。「あなた」の心に届くからです。そして山本さんが「あなた」の言葉を自分の心に入れて、感じ取っているからです。このように人と人との間に交わされる言葉と聴き手の心に生まれてくる言葉を含めて、私たちはナラティヴと呼んでいます。()〉

 

何の説明もないままただ著者の山本を絶賛する文章に、「あなた」と呼ばれて自分のことかと違和感を抱かされる当事者への配慮は微塵もない。何より支援者側にも必ずしも理解力・判断力が十全に備わった定型発達者だけではなく自閉症スペクトラム内に位置するような者も存在するのに、「私」対「あなた」という二項対立が何の疑いもなく前提となっているのである。

さらに、取材協力者である発達障害者の「『あなた』」は「言葉を失った」者で、あくまで「山本さん」が「『あなた』の世界に入って」来てくれてナラティヴが生まれることになるという。それは障害当事者が感謝して言うことであって、支援者側が自画自賛することではない。しかも、この社交辞令とかけ離れた惨状は本書を読めば明らかである。

 
 

2.

本書に登場する障害者約20名のうち、特に印象に残るのは施設職員に嫌悪されるアスペルガー症候群の若者(第4章)や暴力をふるう知的障害のある若者(第5章)であり、中高年もほぼ知的障害のある当事者ばかりである。現実の発達障害者像とは異なり、一般就労者は30代の1名(第6章)しかおらず、知的障害のない一般就労の中高年に至っては一人も取り上げられていない。

そしてこれらの登場人物を使って山本が試みたのは、発達障害は悪いものだから障害受容は難しい、と繰り返し主張することである。一部を挙げる。

 

〈彼らは障がいという診断を自分たちの人生にいきなり侵入してきた「()違和感をおぼえる何かわからないもの」だととらえ、排除しなくてはならない、受け入れがたい理解できないものとして診断そのものにこだわることがあります。(70)/「なぜ自分が」という思いから逃れられず、次々に不適応行動を繰り返し、家族や職員、そして自分を攻撃し苦しむ人も少なくはありません。(71)/どうしても自分自身の障がいを受け入れることができず、事業所のスタッフや施設の職員を責める人も珍しくはありません()。(96)〉

 

発達障害の確定診断には、それまでの長い間、理由もわからず他人から責められ非難され続けてきた当事者を救うという利点もある。多くの文献で当事者がそのように述べており、私自身もそうであるし、直接当事者の方々からもそのようなお話を伺っている。山本のこの一方的な決めつけは、発達障害も診断も突然襲って来る「悪」なのだという誤った認識を読者に植えつける。

 
 

3.

〈「発達障害」をとらえる視点は多様にあり、その考え方の違いによってアプローチの方法も様々です。ただ、その中に、個人の生きている文脈や関係性などの要因を排除して、脳の中の問題としてのみとらえる視点があるとすれば、その視点から彼らが抱えている困難や生きづらさを考えることは難しいと思います。(4)〉

 

「個人の生きている文脈や関係性などの要因」と「脳の中の問題」すなわち障害特性の両方に目を配るのが支援の基本であるが、山本は勝手に極論を仮定した上で、一方の極から他方の極へと移る。発達障害は脳の機能障害であるにもかかわらず、「脳の中の」「要因を排除して」、「個人の生きている文脈や関係性などの」「問題としてのみとらえる視点」を最後まで貫くのである。クラインマンや中村雄二郎を引き合いに出して科学を否定し、レイン、サリバン、ベイトソンなどによる個人間の「関係性」に肯定的に言及した後、山本は「医学的あるいは理論的な枠組み」(42)を完全に切り捨ててしまう。

さらに、アスペルガー症候群を世に知らしめ、自閉症スペクトラムの概念を提唱したローナ・ウィングの解説する、いわば教科書的な、だがASD者に関わるならば知っておくべきコミュニケーション障害の基礎知識を延々と紹介した後、山本はこう締めくくる。

 

〈以上のように、医学的観点からは、アスペルガー症候群の人はそうではない人のコミュニケーションと比べていくつかの点において「異質性」があり、その「異質性」がこの障がいの中核症状であると説明されています。彼らのコミュニケーションのスタイルは、障がいがない人々のそれと明確に区別される不変的な特性だと考えられていることになります。しかし、彼らの特性が実際の日常の生活場面のすべてにおいて、あるいは、あらゆる関係性の違いをこえて、同じように現れるのかどうかについては明らかにされてはいません。(45-46)〉

 

障害特性が「実際の日常の生活場面のすべてにおいて、あるいは、あらゆる関係性の違いをこえて、同じように現れる」などということは勿論あるはずはない。しかし山本はウィングがいかにも間違っているかのように(!)ミスリードし、高校生の「優斗君」に行った心理テストの際の挙動を、ウィングだけでは飽き足らず、自閉症研究における最大の功労者であるウタ・フリスの古典的名著『自閉症とアスペルガー症候群』(1996)まで持ち出して、そこで挙げられている障害特性と比べては以下のように記述する。

 

〈アスペルガー症候群の特徴として、「他者の感情や考えへの関心の欠如」があげられています(Frith, 1991/1996:185)。しかし、優斗君は雑談の中で曖昧な言葉を使用し、他者の言葉の意味を理解した上での話題となっている他者への「思いやり」、あるいは自分自身に対する評価への「謙遜」ととらえることができる言葉が聴かれました。(52)/「でもちょっと」という曖昧な言葉によってそれを柔らかく否定し、違う側面があることを表現しました。()ジェスチャーを伴う「こっちの方も」という返答をしました。このジェスチャーに私は注目しました。なぜならば、ウタ・フリス(Frith,1991/1996:185)が指摘する()「アスペルガー症候群の子どもは感情や思考を表すジェスチャーや動作が乏しい」という特徴とは重ならなかったです。()字義どおりに受け取るのではなく、「いえいえいえ」とそれを否定しました。(53)/優斗君にはアスペルガー症候群の医学的なモデルだけでは説明できない部分があったのです。(54)〉

この部分は、フリスの指摘ではなく、その編著書の中でローナ・ウィングがハンス・アスペルガーとレオ・カナーの194070年代の論文を要約して考察している文章の一部である。)

 

障害特性が「あらゆる関係性の違いをこえて、同じように現れる」ものなどではないからこそ、療育があり、配慮する意味があるのである。従って、山本の記述する「優斗君」が「アスペルガー症候群の医学的なモデルだけでは説明できない部分があった」立ち居振る舞いを見せたこと自体に何ら医学的におかしい点はなく、障害特性に対する配慮を否定する理由にはならない。ウィングやフリスの功績を無視してただ否定する山本は一介の心理士などではなく、実はこの二人を超える偉大な人だったのだろうか。

 
 

4.

4章のASの吉村純一(仮名・20代)は、就労支援施設の職員の笹谷美香(仮名・30代)の語りと山本による支援者の視点からの記述によって、その「不適応行動」を詳細に描写されている。

 

〈笹谷さんは、「吉村さんの気持ちがとても理解できるのだけれど、吉村さんの自分の人生への怒りがとても強くて。私に怒ってるんじゃないとはわかるのですけど、私自身の職員としての能力のなさを責められているようで苦しくなりますし、答えに詰まることもあって、とてもしんどいです」と語っていました。また、「吉村さんのこういうところが、今までの離転職の原因になったのじゃないかと思うこともあります。とにかく、自分のことを対象化して見られず、何かうまくいかないと人のせいにする。ここが吉村さんの弱い部分なのでしょうね。ここにどうアプローチしていけばよいのか。とにかく何を言っても怒るし、依存が強いので、職員としての距離をとるのが難しいです」と困惑していました。(72)。〉

 

続く笹谷の語りでは、吉村が人を怒らせるようなことを言った時に、もう少し言い方があったのではないか、相手の気持ちになってみるように、というアドバイスしたところ、吉村に反論されたエピソードと、それに対する笹谷の感想が述べられている。

 

〈「そこができないから障害なんじゃないですか。周囲が配慮するのが当たり前なんじゃないですか。僕が変わらなくちゃいけないんですか」という言葉で、私はすっかりわからなくなってしまいました。あれだけ、障がいに抵抗があって毎日毎日私に訴えて、私も一生懸命考えて、でも答えはなくて。なのに、なんかこういうときだけ「僕は障がいなんだから、周囲が配慮すべきだ」とおっしゃることに、私自身が参ってしまって。なんか、都合のよい人だなと思ってしまって、職員はそんなことを思ったらだめなんでしょうけど。「ずるいなあ」という思いになってしまいました。(72-73)〉

 

支援者の障害者に対する誹謗中傷を公表する以上、フォローとして絶対に必要なのは、実は吉村は「都合のよい人」なのではない、「ずるい」わけではないのだという医学的な説明である。世間一般で言うところの「ずるく立ち回る」ことが本当にできるならば、吉村は失職してこの場にいるような状況にはない。そもそも、相手の気持ちを考えろと指示されて発達障害者が困惑し、思わず「それができないから発達障害なのでは」と反論したくなるのはある意味当然であり、笹谷の方が勉強不足ではないのかという疑念も残る。

ところが、科学・医学を軽んじる山本は、「吉村さんにとって、『障がい』はそれこそ、外側から急に自分の内部に侵入してきた受け入れがたく、違和感をおぼえる不確かなものであったのでしょう」(73)と同じ分析を繰り返し、笹谷も不満を述べ立てる。

 

〈難しいですね。発達障害の人は難しいです。今まで重度の知的障害の人の支援では感じたことのない感情が湧き上がってきます。言葉は通じ合っているはずなのに、どうしてもわかり合えないですね。()一生懸命支援しているつもりなのに、それをちっともわかってくれないというか。本人に少し自分や周囲を見る力があれば、ずいぶんと違うんでしょうが。まったく、見えていないところがありますね。他人ばっかり責めて、自分の悪いところが見えていない。こんなことを言ったらだめなんでしょうが、吉村さんがじつは「障がい」ではなくて、ただの「性格の悪い人」だったら、私はぜったいにかかわりたくないと思ってしまいます。(74)〉

 

発達障害でなければ独特の認知もこだわりも離転職も抑うつ状態(71)もなく、笹谷と関わることもなかったであろうから、吉村が「『障がい』ではなくて、ただの『性格の悪い人』だったら」という仮定は無意味である。笹谷は吉村が「自分のことを対象化して見られ」ない(72)と再三非難するが、発達障害特有の中枢性統合の弱さや執行機能(実行機能)の障害を有し、細部にばかり目が行く発達障害者にとって全体像を客観的に把握するのは困難なことの一つである。相談を受けている心理職が無知な職員をフォローすべきなのだが、そのような記述は一切ない。

それどころか、山本は第7章では唐突に文化人類学者のギアーツを引用して、発達障害者の物事のとらえ方は「彼らの認知能力の弱さといった中核的な障がいというよりも、他者とのかかわりの中で形成されてきた社会的な経験による産物と考えられます」(125)と断じてしまっているのである。

なぜ、山本はABか、二つに一つの極論しか唱えられないのであろうか。そして、なぜその「他者」の中に懇意の施設職員と自分自身だけは含まれないのであろうか。

 
 

5.

〈吉村さんはときどき、重度知的障害の棟に行ってそこを利用する人たちに辛辣な言葉を発してくることがあります。職員からすればそこに吉村さんの苦悩は見えず、「やはり発達障害だから人の気持ちがわからないのだ」と吉村さんに対して湧き上がってくる苦い思いを飲み込まなくてはならなくなります。なぜならば、そこに、言い返すことが難しい人たちをいじめている性格の悪い人がいるように見えるからです。しかし、他者をいじめる人は、自分が安定した満足できる世界を生きてはいません。自分の人生に苦しんでいて、その苦しみを自分より弱い人に向けるのです。こうした側面を見ることは、吉村さんの言動に辟易し、それでも指導をしなければならないと思い込んでいる支援者には難しいことかもしれません。

笹谷さんは吉村さんのことで私に相談をするときには、必ず何度も繰り返し見てきた吉村さんのアセスメントの結果を前に置きます。笹谷さんの話を聴きながら、私にはそれがあたかも笹谷さんを守る「何か」のように見えることがあります。笹谷さんにとってそのアセスメントの結果が、「吉村さんは障がいだから仕方ない」と自分に言い聞かせるお守りのように見えるのです。(75)〉

 

「他者をいじめる人は()その苦しみを自分より弱い人に向けるのです」とはあくまで一般論である。「やはり発達障害だから人の気持ちがわからないのだ」という知識不足の思い込みは、不正確ではあるが医学的知識を用いているようである。では、山本の十八番の「心理的・社会的な文脈」はどうなったのだろうか。この施設で吉村と「心理的・社会的」に最も密接な関係にあるのは、笹谷をはじめとする施設職員と頻繁に相談を受けている山本である。「自分の人生に苦しんでいて、その苦しみを自分より弱い人に向けるのです」と「自分の人生」だけを原因にしているが、発達障害者は「私たちとの相互関係の中で私たちの行為を反映する」(12)と山本自らが述べているのである。なぜそのことに言及しないのか。

施設職員はなぜ「吉村さんに対して湧き上がってくる苦い思いを飲み込まなくてはならなく」なるのか。「性格の悪い人がいるように見える」のならば、職員は自らの職務として悪いことは悪いと毅然と注意すべきである。要は、能力不足ゆえに発達障害者が納得できるような適切な指示が出せないということではないのだろうか。

また、「吉村さんの言動に辟易し、それでも指導をしなければならない」とは、いかに発達障害者がお荷物で迷惑な存在であるかを読者に訴えかけているようである。

発達障害者は敏感である。「苦い思いを飲み込」んだり「辟易し」たりしている職員に対する拒否感情の表れこそが、上記の吉村の言動ではないのか。重度の知的障害者と高機能発達障害者を比べて「ぜったいにかかわりたくない」などという発言の公表に同意するようなプロ意識のない笹谷の方に、先に吉村を「辟易」させる言動があったのではないか。

 

〈これは、自分を対象化して見られない「あなた」の「弱さ」だと受け取ることもできるかもしれませんが、いずれにしてもそのような思いが、相談の場において、彼らの人生を一緒に考えていくことを阻害する場合も少なくはありません。「あなた」は、育ちの中での様々な苦痛を伴う経験が「障がい」によるものであったと言われすっかり自信をなくし、前を向く力を失っていることが多いからです。(

もし、「あなた」を取り巻く周囲の他者が少しだけ、「あなた」の生き方に関心を向け、「あなた」の声を聴いてくれるならば、「あなた」は自分の弱さに気づき、自らの力で克服していくのではないかと考えることもあります。そうであれば、「あなた」にとってそこに「障がい」という診断は必ずしも必要ではないのかもしれません。しかし、一方で、「あなた」が育ちの中で抱えた「生きにくさ」を生きてきた結果生じた「あなた」特有のコミュニケーションに苦慮する支援者や周囲の人間にとっては、「障がい」という診断が、「あなた」と生きるために自分たちを守る「防波堤」となっていることも否めません。そして、この防波堤が、私たちを「(発達障害がある)人の気持ちがわからない人間」にしていないことを祈ります。(76)〉

 

医学的知見を無視し、吉村にとっての「社会的な文脈」である自分達の存在をも除外したために理解不能に陥った挙句、「自分を対象化して見られない『あなた』の『弱さ』」を障害特性として配慮することもなく、発達障害者を健常者と同じ土俵に無理矢理上げて一方的に悪者にし、自分達が「声を聴いて」やれば「『あなた』は自分の弱さに気づき、自らの力で克服していくのではないか」などと上から目線で劣等人種扱いするのが支援職の現状である。

ここでもまだ執拗に言及されている診断否定、「育ちの中での様々な苦痛を伴う経験が『障がい』によるものであったと言われすっかり自信をなくし、前を向く力を失っていることが多いから」、「相談の場において、彼らの人生を一緒に考えていくことを阻害する」という記述は、結局、支援がうまくいかないのは決して「私たち」の責任ではないと言いたかったのであろう。

「『あなた』特有のコミュニケーションに苦慮する支援者や周囲の人間にとっては、『障がい』という診断が、『あなた』と生きるために自分たちを守る『防波堤』となっている」とは、笹谷の「お守り」云々と同様、要するに、「粗暴な発達障害者には本当に苦労させられるが、診断までついた頭のおかしい障害者のやることだから、と自分に言い聞かせては我慢しています」ということである。

「障がいだから仕方ない」と悪意で言い切るところに障害者支援の成り立つはずがない。相手が話せばわかる同じ人間であれば「お守り」は必要ないのである。支援関係どころか、ここでは人と人との関係さえもがそもそも存在していない。

 
 

6.

6章では、「支援をする人の傷つき」という項目を設けて、いっそう無理解な就労移行支援事業所の5名のスタッフのナラティヴが特集されている。そのうちの1名のものを挙げる。

 

簡単に崩れる関係

彼らとの信頼関係が簡単に築けたと思ってしまうような錯覚がありました。彼らは、いままで、学校や社会でつらい経験をいっぱいしていて、この施設に来ている。だから「この人は私を頼っている」「私が理解し応えなくては」といった思いを強くもったのですが、それがじつは錯覚だったというか。何か、ほんの些細なことですぐに崩れてしまう。支援上で必要なことを言っただけであっという間に彼らの「敵」になってしまい、また最初からやり直し。彼らとの関係はすぐにわかり合えたと感じるし、築けたと感じさせるのだけど、実際にはすぐに壊れる。一見すると心が通じると思ってしまうのですが、じつはそうではない。(119)〉

 

これに対する山本の解説は次の通りである。

 

〈彼らとの関係はスタッフの何気ない一言で崩れてしまうほど脆いもののように見えます。その理由を考えたとき、事業所を利用している人々は、すでに他者との間で深い傷つきを抱えている場合が少なくないからだと思いました。彼らの傷つきが深いほど、初対面であってもとても友好的に振る舞うことがあります。その態度からスタッフが「関係が築けた」と解釈してしまうことも自然なことです。しかし、いったん何かうまくいかないことが生じたり、スタッフから否定されていると感じれば、彼らは自らを守るためなのでしょうが、すぐに対立に転じます。そして、今までとはまったく異なる彼らの態度にスタッフは裏切られたと感じることもありません。しかし、彼らが置かれていた背景を理解しながら、自分の支援に対する視点を定め、辛抱強く彼らとの付き合いを積み重ねていくことでしか信頼関係を築くことはできないのではないかと思います。(119)〉

 

これは完全に健常者が作った物語である。傷つきが深いほど、初対面であってもとても友好的に振る舞う」と述べているが、それはやはり一般論であり、積極奇異型などの発達障害に関する基本中の基本知識は黙殺されている。

さらに、「すぐに対立に転じる」のも、支援を受ける側から見れば権力者である職員に対して「自らを守るため」という側面もあるだろうし、職員の言動の何かがどうしても納得できないから心を閉ざすこともある。だが、ここでも施設職員の不適切な対応の可能性には山本は触れずに、「支援上で必要なことを言っただけで」という職員の言葉を載せている。本当に必要なことをきちんと説明されれば発達障害者は必ずしも敵対などしない。

「辛抱強く彼らとの付き合いを積み重ねていくことでしか信頼関係を築くことはできない」とは、支援者はそのような大変な努力をしているのだ、という読者への刷り込みである。そして発達障害者はやはり「辛抱強く」つきあってやらねばならない厄介なものなのである。「彼らが置かれていた背景」は障害ゆえに追いやられたものでもあり、障害特性とそれによって生じたトラブルの過程を知らずに理解も適切な支援もすることはできないはずだが、発達障害の医学的知識抜きで「自分の支援に対する視点を定め」るとは、どういうことなのだろうか。支援者中心の視点だけで一体どのような効果が上がるというのだろうか。

また、「すぐにわかり合えたと感じる」「信頼関係が簡単に築けた」とあるが、一般に、子供同士でもあるまいし、生活環境も人生観も異なる成人同士で「信頼関係」をそれほど簡単に築くことができるものなのだろうか。なぜ「発達障害者」が相手なら、プロであるはずの職員が「わかり合えた」だの「心が通じる」だのといとも簡単に思い込み、専門職であるはずの心理士が「スタッフが『関係が築けた』と解釈してしまうことも自然なことです」と肯定してしまうのだろう。発達障害者はまるで子供扱いなのだろうか。

 

支援職のこのような無自覚な差別意識と、健常者の感覚で障害者支援にあたる自己中心性は何とかならないものだろうか。




 


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