October 12, 2014
読後のひとりごと
戸棚周り等はじっこを写しながら。
トルストイ著 "懺悔" を読み終わった。
50の頃トルストイが自殺をしようとした原因になる彼の疑問について書かれてた。
《私の一生涯からいかなるものが生まれるのか?》
《何故に私は生きるのか》
《私の行く手に待ち構えているあの避け難い死によって
滅せられない悠久の意義が、私の生活にあるだろうか?》
(カッコ内 原久一郎様訳)
中盤で人生問題に対する実験科学の関係と置いて
《何のために私は生きているか?》
の問がある。
前半に
《自分が何を欲しているのか、自分でそれが分らなかった。
私は生を恐れた。生から遁れ出ようと望んだ。》
と記された内容が説明されてゆくんだった。
其処では古い東洋の寓話が語られる。
怒り狂う猛獣に襲われる旅人のお話だった。
猛獣から遁れて涸れ井戸に逃げ込んだ旅人は
井戸の底にも自分を食べようとしてる竜が居ると知る。
井戸の外には猛獣、井戸の底には竜。
私たちの人生の上でも起きる喩えにもなり、また
どちらへも行くことができない苦悩の象徴でもあるようだ。
旅人は中途の灌木の枝につかまるけれど
彼の手はいつまでも持ちこたえられそうになかった。
更に鼠まで灌木を齧りはじめてしまった。
四面楚歌の絶望の中で旅人は
灌木の葉に蜜がついているのを見つけ
舌に受けて舐めるのである。
トルストイの寓話への結論は違ったけれど
葉の蜜は、ときどき聞く風な
"辛い事は多いけれど、生きてれば良いことだってある"
等の言とも重なる。
**
トルストイは本書をギリシャ正教の立場と探究の精神で描き
1冊を通して疑問への解決法を模索する順序に則ってた。
当書を読んで思ったのは、彼含め個人の行動指針に対し
[何事においても是非を問うことはできない]
って事だった。
[何事においても是非を問うことはできない]
って事だった。
個々が苦悩の末に導いた方向についてのみならず、私たちが是非を云々して良いような事柄が果たしてどれくらい存在するだろう。
是非じゃあなくて、この世の命題は、各人が添おうと思うか思わぬかだけのものが殆どだって感じた。
改めて其う感じるくらい "懺悔" の中の考えは自分には遠かった。
**
ごく個人的に私の場合に此の命題はとても単純なのだった。
キリストの犠牲のうちに赦された命を以ってして私は未だ何も報いていないから、生きる義務をおぼえるんだった。
平たく申せば命の恩人をもった人間の気持ちだ。
その気持ちがカトリックとして是か非かもわからない。私個人が自分の人生に於いてのみ、そう思ってきたってだけだ。
だから自分の場合は
葉の蜜のような喜びが有るから生きるのでもなくて
猛獣と竜に脅かされる絶望が有るから死ぬのでもない。
どちらでもないのだ。
生きる間の喜びと悲しみは付属品ではあるけれど、それよりも
報いるまで生きなければならないと感じてきたんだと思う。
其して報いを果たせる時が来ないこともまた判ってる。
其んな愚かしい人間が尚慈悲を受けていると考えるから、
生きる疑問に陥らずに居たのだと実感した。
lasalledeconcert at 06:59││ パリの生活7