April 29, 2018
留意を着込む出会いと、知を脱ぐ別れ
ドッグランの空いたスペースを楽しそうに走る。
呼ぶと急ぎ足で戻ってくる。
ワンコが入れるカフェでは床に伏せてじっとしてる。
他のお客様が 'ああごめんなさい! お尻尾を踏んでしまいました' って慌てなさった。居るって気づかれないくらい動かないから。
大丈夫ですよ、痛くなかったみたいですヨって応対しながら、踏まれても動かないので可笑しかった。
広場にお友達が来ると仲良く遊ぶ。
順番にお水を飲んで、また遊ぶ。
社会性を会得した動物は賢く、
信頼する人間のbuddyであるのを愉楽とし、
状況に適した自分の位置とあり方を読む。
素晴らしいと思う。
例えば初めて出会った相手の考えや癖がわからぬ時は
できる限り頭を巡らせて近づき方を模索する。
印象悪くならないように、
喧嘩にならないように、
できれば好き合えるように、
上手にお友達を作れるワンコが沢山居る。
人間たちも同じかもしれない。
しかしだ。
一定の人間は近づく時には留意の技能を使うのに、
ひとたび揉め事を起こして悪し様に言う時には
感情に任せ善悪と好き嫌いを混同させたまま
自身の狭い視野を発表することへの羞恥心まで棄て去る。
出会い頭はお洒落に着込み
揉めると雑然と脱ぎ散らかし、脱いだ服を踏み散らかして
まるで崩れた裸を晒すかのような醜態を繰り広げ
果ては醜態を見せている自覚も麻痺をする。
留意もへったくれも無くなる。
知性を自ら棄て去る人間の姿は
嘆かわしいより侘しいと感じる。
だけど正反対の人たちも居る。
出会う時には恐れることなく裸の感情を表し
相手の前に自分を暴き出す。
それは暴かれて何ら臆する事はない自身の存在そのものへの
おおらかな自信の露われのようで、美しい活力として大好きだ。
そして相手への不満が募る時、意地の悪い皮肉にこそ
頭脳的な知を行使できる人間がもっと好きだ。
*パノラマ
ディドロ然り、バルザック然り。
自らの作品を以ってして、悪感情さえ作品に昇華する。
それでも足りぬとばかり次々と戦いの作品を執筆し続けた文人たちも。高く轟いた名においてサインで締め括る責任を負った論の応酬を読み比べることができる現代の私たちは幸福だ。
あるとき着地点のないクダを巻く女を凍った目で見つめながら、尊敬する文豪たちなら今の光景をどう描くでしょうと夢想した日があった。
クダを巻く日が年に1度や2度あっても悪いと思わない。繰り返される不平に着地点がないことを個人的に好まないだけだ。
しかし私が間違ってた。
知を棄てるのはそもそも知を求めない者だからで
論が着地しないのはそもそも着地を求めない者だからだと
今頃になってようやく理解できた。
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lasalledeconcert at 20:30││ パリの生活11