February 19, 2019
使えない音楽
真ん中に跳んでるイルカさん。右のほうに親子イルカさん。見えるかな?
神戸大橋の麓、神戸北公園を通ったのでした。
此処でお話してたのは、出会ったばかりの頃に行った本屋さんでの事でした。
どんな本を読む? っておしゃべりし合ってる内に夫はhow to本を罵倒したの。
あれ良かったナ・・・
一定の人々の間に居るうちはまったく当然の考えとして其れまできたのに、音楽系の人達を傍観すると「使えそうな本」を読むのを目にするようになってた。(参考書としてではなく、研究書は読まないまま主観的な本を参考書代わりにする格好)
だから演奏者の口から「使える事、という考えの否定」を久々に聞けて嬉しかった。
"使えて役立つことが書いてあるなんて駄目だよ" って夫が言ったのは例えば、初めて釣りをするのに必要な物を揃えるために読むことや、初歩のお弁当作りのコツを否定するものではないの。
その場合は是々を得たいって目的に応じた実践の参考書だもの。
其うじゃなく「何かに使えるだろう」「何かの役に立つかも」って助平心で取り敢えず '00の生涯' 的なのを読んで終わる虚しさを言ったんだって思う。(1人の作曲家について100人の筆者を比較するなら佳所多しと思うが)
スピリットより役立ちそうなほうを見る中空を彼が毛嫌いしたのでした。そんな、何年も前のふとした会話を思い出したのは
やはり音楽を巡るあらゆる事柄を「使う・使える」と選別する行為に決して音楽的な美しさを感じない、って夫とおしゃべりしたからでした。
この先もしコンサートに参加したり人様にお話しようとする日が来たら、使えず何にもならないことをおしゃべりしたい。これまでと変わらずネ。
《使えないもの。何の役にも立たないもの。
そして音楽が美しいと教えてくれるもの。》
それが自分にとって総てだナ。
多くの教師が音楽にメリットを持ち込みすぎだと常々考える。
使えるからやる、使えるから便利、やったから使いたい
何のために?
何のためにユーティリティーに置き換えて、何のために自らの発想まで醜く変色させるんだろう。
元々は美しさのためじゃなかったのか?
噴水は冬の夜も噴き出していて
誰も居ない公園に、暗い中で小さな虹を作ってる。
真ん中の上のほう。見えるかな。
'すぐに虹が作れる・使える虹・虹がよく見える方法' なんて寒々しい講釈は要らない。
この虹は「使えない」。
何にも使えていない。
使えない虹が今夜も現れることに美を感じないだろうか?
感じるとすれば、それが音楽の一片だ。
音楽要素は使うものじゃない。
lasalledeconcert at 16:41││ パリの風12