March 05, 2019
音楽の本を読んでないお話

先日シマエナガ先輩とおしゃべりしてた流れで、自分は音楽の本って読まないですね...と言った。
あまり考えず口に出して、後で一人になった夜にそれってどうしてだろう? と考えた。
振り返れば、三善晃先生・遠山一行先生・西原稔先生はじめ近くに居てくださった先生方が語られる続きのお話を聞きたいなぁって気持ちでお世話になった方々のご著書は手に取った。
其れらは '人ありき' で成立する読書でした。

'この方がおっしゃることを知りたい' って構造と 'この内容が知りたい' とは、実は遠くかけ離れたものじゃあないかな?
無論ティーンの頃はお勉強の一環で、知らなければならない事に手当たり次第に目を通しはした。でも私がした其れは読書じゃあなかった。
事柄を取入れようとする行為に他ならなかった。ページに書かれてることを '得よう' とする目的があった。タイトルに釣られて選んだそんな本たちは筆者も憶えてないのが実情・・・
今の自分は其うじゃなく、お人を通したものの見方に興味を抱いてると思う。

上手に申せないけれど... 'この方がおっしゃることを知りたい' は、著者を人として受け止めるような感覚カナ? お小説ならプルーストが読みたいとかゾラに触れたいなど作者の筆で空間が覆われるのを望む感じ。
それに対して私の場合はですが、'この内容が知りたい' と手に取るのって、其処に書かれてる事が信頼に足るかどうかを自分自身の眼で選びとってない場合が多いってある年に気づいた。
どんな方法でも良いものに出会えればall rightだけど、自分には 'どなたが語られる事か' が大事なんだと思う。'何が語られるか' よりもネ。

'何が' の内容は筆者のほうが選び、そのままを受け取るやり方がとても好き。其うしたくなるほど愛してる著者を追いかけていたい。
たとえばジャンケレヴィッチ氏がある日はラヴェルを語り、別のある日は倦怠を語るそのままを悦んで享受するのは、
物事との関わりじゃなく人との関わりとして見たいからかも?
側に寄る夢も叶わない彼らを理想と据えて追いかけたいのかも?

って風に読んでると、いわゆる音楽書に照準が当たらなくなる。
音楽書には音楽のことが書いてあるでしょう?
だからかな。
読んでもあまりわからないのよ・・・
内容的には理解できます(そりゃそうだ)。でも感覚に触れてこなかったりする。
歴史書・社会学書は歴史と民族に培われたもののシルエットが湧き上がるように現れ、
哲学書は国の気質を洗い浚いぶちまけるように示してくれる。

文学書は国と年代と、他国との関係背景を「感情的な歴史」のようにも見せてきて、
詩は息遣いで音楽を示してくれる。音楽そのもののように神経を鷲掴みにしてくる。
そんな全部と手を結ぶ音楽の姿が、全部を読むと少しずつ描出される。それこそがダイレクトに中枢神経に入ってくる。でなければ「音楽のことを読んだ」気がしないってニブイのかな?
音楽の本を殆ど読まない理由はこんなところでしょうか。読まないことは決して推奨されるものじゃあないけれど、読んでもよくわからないから仕方ないのよね・・・
*音楽遊び計画とルソー
*使えない音楽
lasalledeconcert at 13:08││ パリの風12