家紋から紐解く、姉帯姓と六曜の関係 - 前編 - より)

●2014年5月4日午後1時 「約束」

・・・
「姉帯家で使われている家紋・・・、『梅鉢』だそうです。」

受話器を置き、ナカムラさんはそう言った。
小田島家と同じく、姉帯家の家紋は梅紋。これを単なる偶然では片付けられない。

「ただ・・・」

ナカムラさんが続ける。

「今、電話をしていた姉帯さんの他にも、姉帯家というのは幾つか系統があるそうです。
 で、他の系統の姉帯さんの家紋は・・・というと、これはすぐには分からないんです。」


他の系統とは・・・? 話を詳しく聞いてみる。
どうやら、浄法寺地区にある姉帯家は少なくとも3系統あり、今回分かったのはそのうちの1系統である、と。

・・・ここで私は思案する。
勿論、他の系統を調べれば別の家紋が使われていた証拠が見付かるかも知れない。
だがしかし、それを調べるのには多大な労力を払わなければならないことは間違いない。だってたった今、目の前でナカムラさんが1系統を調べるだけで、これだけの時間がかかっているのだ。私だけの力で、それが出来るとは到底思えない。
しかし、かと言ってもナカムラさんに再度お願いする・・・のはとんでもない話だ。少なくとも私から切り出せるような話では無い。ここで、しばしの葛藤。

「あの・・・。あねかわさんがもし宜しければなのですが・・・」

私は身を乗り出す。

「この件については私のほうで調査を続けまして、結果が分かりましたら後日あねかわさんに電話なりお手紙なりでご連絡差し上げたいと思うのですが・・・。」

こちらの葛藤を知ってか、知らずか。ナカムラさんの一言はこれ以上ない、魅力的な提案だった。
いちおう躊躇するポーズを取ったが、腹の内は決まりきっていた。お言葉に甘えない手は、ない。

連絡先として住所と電話番号をノートに記し(前述の通り、ここにはメールを送れるインターネット環境が無いのだ)、できる限りの丁重な礼の言葉を述べて、私は資料館を去った。


余りにもうまく事が運んだことに、少し体が震えた。




●同日午後2時30分 「戒め」

浄法寺を去った私は、一戸町・姉帯へ向かった。「姉帯」という名字のルーツともなった地区だ。

ここで私は、とある神社に立ち寄った。旧姉帯小学校の近くにある日吉神社という神社。姉帯地区の風景の資料が欲しい、というT氏からの依頼でもあった。
以前にも一度訪れたことがある場所なのだが、実際は神社というより「社」とも言うべきくらいの小さな規模のものだった。しかし小さいながらもそれなりの趣きがあり、強く印象に残っていた場所でもあった。

今回、一年ぶりの探訪となったのだが、そこにはあったのは想定外の風景だった。

崩壊1
参道脇の大木が倒れこみ、鳥居が崩壊している。まるで訪れた者の行く手を塞ぐかのように。

・・・私はこれを、ある種の戒めのようなものだと感じた。「余所者があまり嗅ぎ回るな」という、戒め。
不意に、私は誰かから見られているような感覚に襲われた。・・・いや、もっと規模が大きい。何かの監視下にあるような感覚。まるで、そこかしこに監視カメラがあって、一挙手一投足を記録されているような不快感を感じた(馬鹿げた話だが、当時は本当にそう感じたのだ)。
意味もなく聴覚を研ぎ澄まし、周囲の人の気配を探る。人どころか、虫一匹の気配すら感じなかった。

・・・私はこの時点で、踵を返しここを立ち去るべきだったのだと思う。しかし異様で作為的なものすら感じるこの光景は、かえって私の好奇心に火を付けたのだった。

本殿

・・・階段の上にある社。不自然なくらい、しんとした静けさ。
残念ながら、ここで姉帯に関する有益な情報は得られなかった。資料として何枚かの写真を撮り、倒木を再び乗り越えて、今来た道を引き返す。

バイクを停めてあった場所に戻り、姉帯地区の探訪を再開する。
しかし、先ほど感じた不自然なほどの静けさがずっと、耳にこびり付いて離れなかった。まるで見えない誰かが、本来存在するはずの音を強引に削ぎ落としているような、若干の不快さを伴う静けさ。その静けさは姉帯・面岸地区を抜けて、九戸村にたどり着くまでずっと続いていた。


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・・・
ゴールデンウィークの4日間の旅行を終え、私は東京に戻った。
撮り溜めた写真を整理したり、旅の記憶をブログに纏めたりしているうちに気が付けば5月も終わりに差し掛かっていた。単調でそこそこ忙しい日常にどっぷりと漬かった頃、不意にそれはやって来た。

ある日、仕事を終え帰宅すると、郵便受けに一通の封筒が入っていた。




●2014年5月26日 「ナカムラさんからの手紙」

それはB4判ほどの大きさの、ライトグリーンの封筒だった。
几帳面な字で書かれた宛先の下には「浄法寺歴史民俗資料館」の赤い文字が印刷されており、そしていちばん下にごく控えめに、ナカムラさんの署名があった。その文字のバランスは、どことなく小学校の女性教諭の文字を想起させた。サインペンで書かれた、何よりも読みやすさを優先した、あの文字だ。

ちょっと急ぎ気味に部屋のドアを開け、自室の椅子に腰を下ろす。一呼吸を置いてから、封筒の上部にカッターを滑らせて封を切る。クリアファイルに挟まれていた手紙は想像を遥かに上回るボリュームだった。
A4用紙で、本文1枚・レポートが2枚。そして参考資料となった文献のコピーが数枚・・・。どこをどう見ても、立派なレポートだった。

さてさて、どこから手を付けたら良いものなのか・・・。
とりあえず、先に目に付いた「姉帯家・小田島家の家紋について」というレポートから読み進めることにした。




●平成26年5月22日現在 「姉帯家・小田島家の家紋について」

以下に記す文は、ナカムラさんから頂いたレポートの抜粋である。

姉帯家・小田島家の家紋について

(参考資料)
・「岩手県姓氏歴史人物大辞典」
 (他 数点)

(聞き取り対象者)・・・電話のみ7名

<調査結果>
① 小田島家の家紋について・・・現在表紋「小の字菱」 裏紋「梅鉢」
小田島家家紋

・小田島家は本来「梅鉢」を家紋とした。ところが、時代が下り各家で家紋を持つようになると、紋を変えたり、新たに設定するものが出てきた。特に、町の有力者や資産家の一族と縁あるものにしたいという理由から、小田島家と同じ「梅鉢」を紋とするものが多く現れた。
 この事に業を煮やした小田島家は、祖母の実家・小野家の家紋「小の字菱」を表紋として設定した。小田島の「小」の字と一致するからである。

② 姉帯家について
・浄法寺の駒ヶ嶺に姉帯を名乗る一族が50件以上ある。九戸の乱滅亡後、姉帯から浄法寺に移り住んだ一族といわれている。
・浄法寺姉帯家は大きく分けて二つ。駒ヶ嶺の姉帯家と海上(かいしょう)の姉帯家。
 一戸方面から、駒ヶ嶺に2系統海上に3系統(あるいはその逆)の姉帯氏が移り住んだと聞いている。

姉帯家の家紋について、現在大まかなところでは次のようである。
※ 浄法寺の姉帯家の家紋は、基本的に「梅鉢」か「割り菱」(四つ目菱)である。
割り菱・四つ目菱

※ 「割り菱」については、佐々木家の家紋と同じだという話が伝わっている家がある。
※ 「梅鉢」については、後から設定された家紋のようにも思える。「小田島家の紋にあやかって変えた家が多くある」という調査に繋がるのだろうか(と、ナカムラさんは推測している)。
※ 「梅鉢」の中心部の形状については各人ともこだわりがなく、決まりを持っていないようだ。
※ 「六曜」を紋とする姉帯家の話は出てこない。本来の家紋を失っている可能性はあるかも知れないが、全く情報が無い。


最後まで読み終えたところで、大きく息を吐いた。
ずっと抱いていた幾つかの疑問が解決し、新たな疑問が生まれた。また、幾つかの疑問はそのまま残り続けた。

いったん情報を整理しようかと思ったが、まだ他の資料は手付かずだ。ひとまず、先へ進もう。




●岩手県姓氏歴史人物大辞典 「姉帯 あねたい」

続いて、ホチキスで綴じられた参考文献のコピーに目を通す。

殆どは家紋の図のページであったが、一つ気になる文献があった。
国語辞典のような、縦書き三段組みの体裁。蛍光ペンで強調された場所には「姉帯」の文字があった。

姉帯 あねたい 【一】中世、糠部(ぬかのぶ)郡姉帯城(一戸町)に拠った姉帯氏がある。三戸南部一六代助政の代に分かれたとの所伝もあるが(奥南旧指録)、九戸康連の子兼実が姉帯を知行したのに始まるとするのが通説である(系胤譜考・奥南落穂集など)。兼実の子大学兼興・五郎兼信兄弟は天正一九年の九戸政実の乱に加わり、同年八月に蒲生氏郷軍の猛攻に奮戦、一族共に滅亡した(南部根元記など)。大学兼興の妻小滝は、戸田帯刀重道の次女で、長刀の名手といわれ、大学兼興とともに奮戦し討死にした。大学の姉は、鵜飼宮内秀純(旧姓福士)の妻となっている(一戸町誌)。姉帯姓は現在一戸町ににも一〇軒ほどあるが、姉帯城のある姉帯地区には一軒もなく、一戸・小繫・平糠で数軒ずつ名乗っているが、格家の系譜などは不明である。また、浄法寺駒ヶ嶺に姉帯を名乗る一族が五〇軒以上ある。九戸の乱滅亡後、姉帯から浄法寺に移り住んだ一族をいわれている。

【二】釜石市鵜住居町に、姉帯家がある。同家は大正十二年に花巻より正蔵が移住し、眼鏡店を釜石市内の商店街に開業し、以来実家としている。(以下、省略)

どうやら、これは「姉帯」という姓についての情報のようだ。
そして、何よりも驚きだった情報が蛍光ペンでマーキングされていた。


  姉帯地区には、姉帯姓は一軒もない


もしもこの情報を小林立先生が把握しており、咲-Saki-という作品にそれが反映されているのであれば・・・、だ。姉帯豊音の出身地は、一戸町・姉帯地区ではない。界隈で最も有力とされている説が否定されるのだ。

・・・私は資料の束から視線を外し、目を閉じて思案する。
確かに、姉帯地区に姉帯姓がないのは事実だ。リアルな事実だ。しかし、その事実が作品内でも適用されているかは全くの別。フィクションの事実であるか否か、が問題なのだ(作品の考察を趣味とする者にとっての、永遠の課題だ)。

私はこの辞典の情報を、可能性の一つとして好意的に捉える事にした。今はまだ結論を急ぐ必要は無いし、「一戸・小繫・平糠」の姉帯家という新しい調査対象を得る事が出来た。今はとにかく、可能性の網を広げるのだ。


・・・しかし、気になるのは項目【二】の釜石市の姉帯氏。
考察に直接関係は無いので省略したのだが、やたらと情報が詳しいのだ。現当主が消防団の副団長で、趣味を生かしたビデオクラブの会長である、とか。恐らく、今回の件とはなんら関係が無いと思うのだが、妙に気になる。
 わざわざ項目を割いてまで説明する事なのだろうか?




●平成26年5月23日付 「ナカムラさんの見解」

最後に残った1枚には、ナカムラさんからのメッセージがあった。記された日付はレポートの1日後のものだ。
以下は、その抜粋である。

あねかわ様

 御照会の件について、お知らせいたします。

 小田島家・姉帯家の家紋について、調査に使用した資料と、聞き取り調査の結果を、一部ご参考までにお送りいたします。

(中略)

 電話での聞き取りと文献調査のみで終わってしまい申し訳ありませんが、印象としては「これが正統な家紋」といった情報をお持ちのお宅は、ほとんどないように思いました。
 とりわけ「梅鉢」の紋については小田島家との関連も推察され、姉帯家本来の家紋であったかどうか正確なところがわかりません。
 また梅鉢の中心部の形状についても、現在継承されているものはごく一般的なもののようであり、そこに注目している方はいらっしゃいませんでした。
 よって残念ですが、姉帯家の系列について、またお探しの六曜紋に関する情報にはたどりつけませんでした。

 なお同封資料の家紋の調査は、元当館の館長が浄法寺の墓所を見て歩いて調べたように伺っております。
(後略)

 
浄法寺歴史民俗資料館
ナカムラ




●2014年5月26日 「私、あねかわの見解」

さてさて、さて・・・。

これで情報は一通り出揃った。ここいらで自分の考えを整理する必要がある。

まず気になったのが、「姉帯家は、元々これといった家紋を持っていなかったのではないか?」という点だ。
何故ならひとくちに「梅鉢」と言ってもその種類は数多くあり、特に中心部分の形状の違いは重要なファクターなのである。

 そこを注視していないのは不自然だ。

梅鉢一覧

やはり、小田島家の家紋である梅鉢にあやかって、姉帯家の家紋も梅鉢に設定されたという説が有力ではないかと思う。
姉帯豊音風に言えば、「梅の家紋、ちょーかわいいよー 」という感じのノリかな。・・・何となく、姉帯豊音のミーハー設定に通ずるものを感じた。
もう一つの家紋、割り菱・四つ目菱についても恐らく同様の考え方で良いだろう。佐々木姓は東北ではメジャーな名字で、特に岩手・秋田に多く存在する。それを真似たくなる心理も分からなくは、ない。

そして、「梅鉢」と「六曜」の関係
これは単純に、「梅鉢と六曜紋が似ている」という説を考慮しても良いのではないか、と思う。

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・・・少し話が逸れるが、この手紙を頂くまでの間、私はある疑問をずっと抱いていた。

「仮に家紋が判明したとして、はたして立先生が家紋の情報を知り得るのか?」


ここまで述べてきた通り、今回の家紋調査には多くの人が携わり、そして多くの労力が払われた。余程の知識、または地の利(親戚に姉帯姓が居た、とか)が無ければ、立先生はこの情報を知り得なかったのではないか・・・と。
例えどんなに重要な事実でも、それを立先生が知らなければ全く意味を持たない。立先生は創世主ではあるが、全知全能ではないのだ。

しかし頂いた手紙中で、その答えとなるショートカット的な手段が提示されていた。

 墓所、すなわち「お墓」である

大抵の墓石には、その家の名前と家紋が彫られている。
立先生が現地調査の際にその地域の寺を訪れ、そこで墓石を見かけて家紋を知った・・・。そういうシナリオを、可能性として考慮できるようになったと、私は考える。

※前回出した問題。多くの方が予想された通り、答えは「墓所・お墓」でした。
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話を戻して・・・仮に墓所で、立先生がこの梅鉢を見かけたとすると・・・。そこから六曜を想起するシナリオは幾つか考えられる。

「梅鉢」と「六曜紋」の見分けが付かなかった、または似てると感じた
何せ、違いは中心部の形状だけである。
それ相応の家紋の知識が無ければ、見分けるのは困難だと私は感じた。もしも墓石の風化などの悪条件が重なれば尚更だろう。
また、仮に「梅鉢」と認知できていた場合でも、そこから「六曜紋に似ている」→「六曜」という発想の飛躍があっても不思議ではない。

「梅」と「六曜」の関連性についての知識があった
こちらはソースが質問サイトで心もとないのだが・・・。「六曜」はかつて、「六梅星」と呼ばれていたようだ。
キーとなる人物は菅原道真。道真は梅の花をこよなく愛したとされ、また祟りなどのオカルトめいた逸話を数多く持つ人物としても知られる。この二つの要素が結びつき、呪符的シンボルの六曜を神格化デザイン化したものが、北野天満宮の紋としても使われている「星梅鉢」らしい。この由来を信頼するのであれば、同じく梅をモチーフとした「梅鉢」からも六曜を想起することも有り得るだろう。
ただ問題は、果たしてここまでの知識を立先生が持ち合わせていたのか・・・という事。可能性は低いが、ゼロではない。


・・・いずれも仮説の域を出ていないな。もう一歩、根拠を後押しする材料が欲しい。
ただ、私一人で考えていても客観的で公平な判断を下すのは難しい。一つの問題に長期間向き合っていると、どうしてもポジティブで都合の良いフィルターがかかってしまうのだ。

私は取り急ぎこれらの資料・手紙をスキャンし、T氏へメールを送った。



●2014年某月某日 「T氏の見解」

それからしばらくの後、T氏からメールが届いた。

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姉帯姓についての資料をお裾分けして頂き、本当にありがとうございます。
浄法寺歴史民族資料館さんがこれほど注力して資料を作って下さったというのは本当に有難いですし、とても尊い資料ですね。
小田島家の家紋が梅紋であるという書き込みががまさか本当のことで、そして更に地元の方のご協力でここまで詳しく知ることができるとは。

しかし、思いもがけず姉帯と梅の繋がりが見えてきそうです…。
以前六曜元ネタ候補として考えた、「六弁の梅」の存在を思い出しました。
「六」と「梅」…六曜にニアミス!というトンデモ連想から、昨年姉帯に行った際ついでに訪れていた場所です。

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六弁の梅

六弁の梅とは、二戸市は九戸城近くにある九戸古梅園の敷地内にある九戸政実ゆかりの梅の木のことで、その名の通り6枚の花弁を持つ梅らしい。
T氏はここから「六」という数字と「梅」というキーワードに着目し、「姉帯家と梅に、何らかの関係がないか?」という疑問を抱いたようだ。

・・・私はただただ、感心する他なかった。
もちろん私は「六弁の梅」については知らなかったのだが、仮に知っていたとしても、だ。
何故そこから梅の家紋に着目し、どういう思考順序を踏んで小田島家の家紋まで辿りついたというのだ??

氏はこの仮説に辿りつくまで、どれほどの試行錯誤を繰り返し、どれほどの時間を費やしたのか。
・・・深遠の淵を覗くとは、こういう事なのだろうか?


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姉帯さんと六曜の関係性、という点においては繋がりは淡かったかもしれませんが、何か満たされたような感慨深さがあります。
また、九戸の乱の後に浄法寺に移り住んだという駒ヶ嶺と海上の二つの系統の姉帯家。
姉帯城址の東屋の中の展示資料に、兼信の息子は九戸の乱の後金田一に隠れ住んだ…と書いてありましたが、レポートの画像資料にはこのことは記載されてないのですね。
ともあれ、姉帯村に姉帯さんが一軒も住んでない…というのは寂しさと共に若干の歴史のロマンを感じます。

ではでは。資料本当にありがとうございました。

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文中の「金田一」とは、二戸市北部にある「金田一温泉」周辺地域のことで、昔は金田一村と呼ばれていた場所だ。
そして以前にも氏から聞いていたのだが、姉帯城を居城とした姉帯氏の末裔が金田一村まで逃げ延び、その後に小林氏を称して秋田へ移ったという説がある。

 もしこの姉帯氏の末裔が、現在も金田一に隠れ住んでいるとしたら?

・・・この仮説は色々と考察するに値するのだが、ここで触れるには手に余る代物なので割愛させて頂く。

しかし、やはり氏の知恵を拝借しても、六曜の謎を解き明かすには至らなかったか・・・。外堀を埋めているという確かな感触はあるのだが、肝心の本丸の守りは強固。難攻不落の城だ。

若干の煮え切らなさを感じつつも、ひとまずは氏へお礼をメールを返す。
今はこれ以上深追いしても無駄なのかな、と思った。

私の経験上、ある事柄についての考察が行き詰った場合は一旦そっとして置いたほうが良い。その間に別の新しいアプローチ(あるいは放置していた古いアプローチ)を試すのだ。そうする事によって、繋がらなかった事柄が繋がったり、新しい視点や切り口が見付かったりする事が多々ある。
ともかく、今回の件は一旦寝かせるべき段階が来たのだ。




●2014年7月初旬 「梅の最中」

そういえば。

折角これだけの資料を作成して頂いていたのに、まだナカムラさんにちゃんと御礼を申し上げていなかった。
流石に失礼千万だと思い、御礼状とお茶菓子を送った。
姉帯家の家紋に因んで、梅を模った最中を選んだ。

御代の春




●2014年7月某日 「ナカムラさんへの電話」

御礼状を送った数日後、私はナカムラさんに電話をかけた。
やはり口頭でも御礼を申し上げるべきだ。簡単にでもご挨拶はしておこう、と。

しかし、その電話は簡単には終わらなかった。




●同日 「一戸氏」

電話に出たのはナカムラさんだった。
こちらの名前を伝えると、すぐに状況を把握したらしく、お礼の言葉を頂いた。

その後しばらくは、こちらからの御礼とか頂いた資料の感想とか割と当たり障りの無い会話を続けていたのだが、ここでナカムラさんが不意に話題を振ってきた。

「そういえば、姉帯家と六曜の関係についてなのですが・・・」

ナカムラさんの声のトーンが変わった。

「浄法寺で六曜の家紋を使っている家は無かったのですが、一戸町の一戸氏の家紋が『六曜』だったらしいのです。」

・・・不意に後頭部を殴られたような衝撃だった。
慌てて、ナカムラさんから送って頂いた資料の中から家紋の一覧表を引っ張り出す。

家紋辞典
丸に六つ星・・・、六曜のことだ。

ここからナカムラさんの説明が始まった。
こちらからの突然の電話だったにも関わらず、ナカムラさんは澱みなく、理路整然と話を進める。声のトーンだけで判断すれば至極冷静に聞こえる。
とても不思議な感覚なのだが、ナカムラさんの会話の節々からはあまり熱を感じられない。しかし、すごく深いのだ。
音もなくひたひたと侵食されて、気が付けば彼女のペースにどっぷりと漬かっている。どことなくT氏の語り口調と似ているな・・・、と思った。理知的で、分かりやすくて、堅苦しさを感じさせない。でもその一言一言は深く、いつしか圧倒されるのだ。

・・・ナカムラさんの説明が一通り終わった頃には、私は言葉を返すことが出来なかった。完全に圧倒されていた。
しどろもどろになりながらも何とか言葉を紡いで御礼を述べ、受話器を置いた。通話時間のカウンターは30分を超えていた。

ふう・・・と一息、大きなため息をつく。

新たに得た情報、一戸氏の「六曜」紋
一戸氏とは南部支族の戦国武将で、居城としていた一戸城は姉帯城と目と鼻の先。

 姉帯氏と無関係な筈はない


・・・どうやらまた、調査が必要なのかな。しばらくは退屈しないで済みそうだな。
そんな事を考えつつ、私はキーボードを叩く。

まずは、今回の調査結果を取り纏めないとな・・・  」



(家紋から紐解く、姉帯姓と六曜の関係 完)