2011年01月01日

ごあいさつ

お訪ねくださり、ありがとうございます。

「日々のつぶやき」は2011年より、
amebaで一本化することにいたしました。
お手数ですが、どうぞこちらをご訪問ください。

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2010年12月31日

宇宙・明日・救い

2010年というと、
アーサー・C・クラークの『2010年宇宙の旅』を思い出す。
と言っても、私は映画しか知らない。
もちろん、あの『2001年宇宙の旅』の続編である。
 
そこでは、木星が太陽化した。
小説では、ルシファーと呼ばれるようになったらしい。
堕天使の名である。
 
現実には、
あのように宇宙開発が進んだわけではなかった。
だが、考えてみれば、宇宙を開発するというのは、
戦争をするに匹敵するくらい、
莫大な費用を使うと同時に、
実入りが期待できない事柄であったことだろう。
 
昔はSFと呼んだ。
宇宙戦艦ヤマトもガンダムも、
今の若い世代や子どもたちにさえよく知られているが、
最初は私の子ども時代の産物であった。
 
おそらくは、
手塚治虫の描いた未来像が
大きな影響を与えていると思われる。
それは、荒唐無稽な未来物語ではなく、
様々な資料にあたって学び、さらに
自分の想像力と構成力を駆使して、
生み出したものであった。
 
人類は宇宙へ出て行く必要がある。
それは、この地上での限りある資源や食料、
そして起こりうる争いと滅亡とから
救われるための脱出路でもあった。
 
チリの鉱山での脱出劇も今年あった。
閉じこめられた人々が、
不死なる名をもつ鳥に抱かれて
光の国へと引き上げられていった。
 
まるで、最後の審判の救いのようではなかったか。
 
救われるというのはどういうことなのか。
私たちはこの地上を、
どのようなものとして今捉えているのか。
 
まだ、答えは簡単には出ていない。
出ることもないかもしれない。
だが、問いかけていく中から、
進路というものも見つかるような気がする。
 
2010年から2011年へ。
ひとつ超えていくこの時に、
私たちは今をどのように受け止め、
明日をどのように願うのだろうか。
 
素朴ではあるが、
人は、どこから来て、どこへ向かおうとするのか。
この問いは、根本的である。
聖書は、その問いに道筋を与えている。
答えを知るのは神のみであるにしても。


lc1baku at 00:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)思い出 | そもそも

2010年12月30日

つぶやき2

では、ツイッターに人はどうしてはまるのか。
そこには、必ずつながりの意識が生じる。
つながっているものを感じる。
人は社会的な動物である、などと
ギリシアの昔から言われていることを持ち出さなくても、
独りだけで生きていくのは実に困難なことなのだ。
 
しかし、それは擬似的なものである。
いわば、野球場で試合を見ている観客の
それぞれがどんなことを思っているのか、
吹き出しがいろいろ見える、という程度のものだ。
だが、人がどう思っているのかを知ると、
自分だけではないのだと安心するようなこともある。
 
テレビのクイズ番組でもよく出てくる。
「正解率○○%」、
これもそのような心理からくるのかもしれない。
ほかの人はどういうふうに見ているか、気になるのだ。
 
ツイッターだと、何かの成果をもたらすというものではなく、
その場でつながった人と擬似的な友人関係が成立するに終わる。
この空気は、良い面もあるが、悪い面もある。
沈みゆく客船の中で、
「みんなが飛び込んでいますよ」と言われると
喜んで飛び込むとされた日本人は、
この空気の中でどう行為するだろう。
 
ひとりひとりが自分の意見を呟いているように見えて、
実のところは、互いに顔色をうかがっているに過ぎないとすれば、
やはり持ち合わせた性質がものをいうということだろうか。
むしろ、バーチャルな連帯意識に頼るとなると、
現実感覚の点で強さを発揮することは期待できないとも思えるのだが。
 
このツイッターを象徴する高校生が代表のようにして、
流行語大賞のトップ10に輝いたのは、
今年のツイッターの拡がりを示していると言えよう。
生まれたときからネット環境のある世代になると、
このバーチャルが、現実だという感覚をもつことがあるかもしれない。
 
私は、哲学や宗教を
自分で開発した気になるこうした動きを懸念する。
戦前の神学の質の高さを佐藤優氏が指摘していたが、
情報量の莫大さが、思索を深めているとは
決して言えないことが、ここでも観察されるように思われる。


lc1baku at 00:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)IT | 精神

2010年12月29日

つぶやき1

私はずいぶん前から「つぶやき」コーナーを続け、
ほぼ毎日呟いている。
だから、ツイッターが現れたときには驚いた。
まさに「つぶやき」という意訳で紹介されたからだ。
 
だが、私はツイッターをしたことはない。
そんな時間があったら、違うことをしたい。
私の、自称「元祖」つぶやきは独り言だが、
このツイッターは、疑似仲間が発生する。
 
非常に少ない語で限られた発言では、
考えを深めるというような意味合いはまるでない。
何の論拠もないままに
言いたいことをぶつけるしかない。
 
論理的であるとか、
根拠をもつとか、
そうした発想は最初からないのであろう。
 
言い放ったことで、
何かしらのつながりが生じる。
重要なのはそのことであり、
また、沢山の人が追随したという、
どこか人気投票のような価値が出てくるのかもしれない。
 
元来、
身近な人に、自分の意見を言うのが
私たちの生活のあり方であったが、
目の前の人に思い切ったことを言うと、
人間関係そのものに支障が生じるのか、
自分の生活現場からは離れた
一種架空の空間で、発言をしていくことになる。
 
目の前の人間関係ではなく、
離れたところの、ある種バーチャルな関係を結びたがる。
その方が、傷つかない。
スイッチを切れば、もう聞かなくて済む。
 
街の中で、ケータイをいじりながら歩いて、
他の歩行者に迷惑をかける。
車を運転しながらケータイ電話をかけて(メールすらあるのだが)、
現実の目の前の出会いというものは
殆ど無視しているような生活が、身に付いていく。
 
もしも、電子書籍というものが、
効率などの点ばかりでなく、
活字や写真などを
どこか離れたものをバーチャルに受け流すために
便利なものだからという感覚で歓迎するのであれば、
何らかのメリットよりも、何か副産物が大きくなるかもしれない。
 
(続く)


lc1baku at 00:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)IT | 精神

2010年12月28日

目新しさ

人は、目新しいものを好む。
いつもと同じじゃ面白くない。
何か変わったことはないだろうか。
 
若い人がよく、出会うと呟くこと。
「なんか、おもしろいこと、ない?」
 
毎日が、マンネリ。
同じことしか、ない。
刺激が、ほしい。
 
これが年齢を増すと、
毎日同じが平和でいい、とも思うようになることがある。
それぞれ、自分の求める願いがあるということか。
 
だが、何か現状に不満を持ち始めると、
取り替えたくなる気持ちも、やはり、ある。
政治においても、
新しいことをばんばんやって成功させてもらいたい。
期待しては、期待通りにならないと、
すぐにダメだと烙印を押す。
 
目先がぱらぱらかわっていく、
雑誌がよいらしい。
一つのことを追究する書物など、
「カタイ」し、「ムズカシイ」。
そもそも、それだけ一つのことを
じっくり考えようなどとも思わない。
 
そう。
政治でもそうだが、「劇場」が望ましい。
 
それでいて、時に
一つのことを貫いた人が話題になると、
「一つのことを夢をもって続けるのがいいんだ」
などという標語が世の中に広まるが、
結局間もなくその人のことも忘れられる。
そういう成功者もまた、
目新しく次々と現れるということを、人は望んでいる。
 
パウロがアテネでキリストを伝えようとしたとき、
哲学や議論の好きなギリシア人たちは、
物珍しさから、
何を話すかと期待して聞いていたという。
しかし、それが荒唐無稽であると判断して、
またこの次聞こう、などと、
つまり、もう結構だよ、と拒否を突きつけたという。
 
キリスト教会に、何か救いを求めて来た人も、
少し落ち着いてくると、
教会に来なくなることがある。
そのことをそのことの故に責めるようなことを
私はするつもりはないが、
中には、ちょっと物珍しさの気持ちだけで
通過していくという場合があるかもしれない。
もしそうだとすると、哀しい。


lc1baku at 00:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)精神 | 聖書

2010年12月27日

クリスマスネタ

クリスマスは「くるしみます」、
このようなフレーズは、
だいぶ昔に流行ったことがある。
 
ここへきて、
発想的に似たものが続いた。
「クリス安」
「サンオクロース」
 
もっとあった気がするが、
調べてみる気もない。
 
それだけ「クリスマス」という言葉が
ポピュラーであるということをも表すのだろう。
「イースター」はこんなふうに話題になることがない。
しかし、本当のところは、
神聖なものを弄ばれているような思いがする。
 
逆に自分の大切な聖なるものが
そのような洒落に使われたら、
やはり誰もよい気持ちはしないのではないか。
 
そもそも、クリスマスそのものが、
自分の欲望のために用いられているような世界である。
洒落くらいで文句を言っている場合ではないだろう。
 
ここはおおらかに、
にっこりと、そうした風潮を見過ごしていればよいのかもしれない。
いや、
そうだろうか。


lc1baku at 00:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ウォッチング | ことば

2010年12月26日

駅近くの踏切考

駅は、直行する道路を塞ぐ。
それで、駅の左右にいわば迂回路ができる。
そして、高架線でない場合は、
そこに踏切が発生する。
 
ここで、問題が生じる。
どういう内規であるか知らないが、
おそらく踏切から一定の距離に列車が入ると、
遮断機が下りる仕組みになっているのではないかと私は理解している。
駅に今から入ってくる列車は、通常通りであり、それでいいのだが、
駅から出て行く側の列車は、時に遮断機の下りる時間を非常に長くする。
 
というのは、駅が規定の距離の中にある場合、
今からその駅のホームに止まりにかかろうとするところから、
反対側のその踏切の遮断機が下りてしまうからだ。
その踏切に引っかかったら、
駅に今から列車が入ろうとするところから、
駅で乗客が乗降して、ドアが閉まり、
ゆっくりと発車してから
その踏切を通り過ぎるまで、
ずっと踏切は閉じられてしまうことになるのである。
 
安全と言えば安全である。
だが、この場合は、
駅を出ようとドアが閉まるときに遮断機を下ろしても、
殆ど問題がないように、素人目には見える。
もし何かあっても、
発車してすぐの列車の速度から考えると、
制動距離からしてまだ安全の埒内に入るように思われるのだ。
 
踏切からのただ「距離」という概念で
遮断機の設定をした場合、
このように「時間」においては
多大な閉鎖時間をつくってしまうことがあろう。
安全第一だから咎めるというほどのことではないかもしれないが、
私は逆にそれが危険を生み出す可能性をここで指摘したい。
 
というのは、
歩行者が、この状況を見て、
遮断機を潜って渡っていくという様子を
幾度も目撃しているからだ。
 
ああ、また駅に入るときに閉まっちゃった。
これは長くなるぞ。
そう思った歩行者が、
自分は急いでいるんだから、と自らに言い訳でもして、
ひょいと遮断機を潜っていく。
 
ここで、反対側から列車が駅に入ってこないという保証は、
どこにもない。
また、当然、見ている子どもに、
ああいうことをしてもよいのだ、という教育をすることにもなる。
つまり、歩行者にこのような心理を起こさせるということ自体、
危険を生むことになると言えるのではないだろうか。
 
鉄道や警察など、どなたかの目に止まったら、
ご考慮戴きたいと思うのだが。

lc1baku at 00:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)パブリック | こころ

2010年12月25日

クリスマスとは2

そして、朝を迎える。
 
ぴんと張りつめた空気が身を包む。
私たちの一年は、ここから始まってよい。
 
「よいお年をお迎えください」
「新年を迎える」
言葉でこのように言うとき、
そこには実のところ、
「年神を迎える」という意味がこもっている。
もちろん、八百万かまたは日本に古くからある神々、
あるいはまた、アニミズム的な要素があるのか、
とにかくそんなところの思想である。
 
だから、年末に大掃除をすることになっている。
年神を迎えるときに、
綺麗にしていなければならないからだ。
 
年始の挨拶も、その変形である年賀状も、
その範疇での出来事である。
さらにはまた、「ケ」はそれに相応しくないから、と
喪中につき年末年始のご挨拶は遠慮させて戴きます、
との葉書が年末に届く。
クリスチャンも、習慣によって、そのような葉書を送る。
 
習俗と信仰との摩擦を感じないケースも多々ある。
七五三はどうか。豆まきはどうか。七夕は。
実際は、七五三のように、宗教性が本来薄いものもあるだろうに、
神社行事のように見なされているものもある。
逆に豆まきは、強い宗教性がある。
七夕は、宮中行事からきているが、様々な要素が加わってきている。
 
クリスマスもまた、
そうした習俗の一つのようになっていく。
そうして、
25日になると、
街は「よっしゃー」とかけ声をかけるかのようにして、
一気に、門松やしめ縄に塗り替えられていく。
お決まりのデコレーションに過ぎないわけだし、
商売の道具に過ぎないからだ。
 
クリスマス休暇が、25日一日の国もあるという。
何日も続く国があるという。
少なくとも、伝統的には、1月6日まではクリスマス期間であり、
ツリーもそのときまで飾っているという理解が多いらしい。
クリスマスは、ここから始まったのであり、
義の太陽がここから昇っていくのだという希望がこめられているのに、
日本ではその瞬間に、切り捨てていかれる。
そういう、手段としてのみ用いられている。
 
カントは、人格でさえ、
目的であって手段ではないと力説した。
しかし、日本におけるクリスマスは、
とてもとても、目的にはなりえない。
 
せめて、そっとしておいてくれたらよいのだ。
だが、手垢を付けて、踏みにじり、使い捨てる。
 
まさに、キリストは今も唾を欠けられ、鞭打たれ、
あざけられて、棄てられている。
キリストを今もなお、十字架につけているのが、私たちなのだ。


lc1baku at 00:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)聖書 | そもそも

2010年12月24日

クリスマスとは1

だいぶ知られるようになったが、
クリスマス・イヴというのは、
クリスマスの前の日、などという意味ではなく、
まさにキリストを礼拝する晩、という意味である。
 
「誕生日イヴイヴ」などという言い方を
前々日の意味で使うようなことを聞くと、
もう言葉というのは、
嘘でも何でも使ったものが勝ちになる、と
情けない気持ちになる。
 
世間でも、法に従うかどうか、という点は関係なく、
自分に都合のよいこと、
得になることが先行するのが、
この国のあり方であることが
様々な事例から明らかになってくる。
 
12月25日という日付は、
古代の冬至の祭りの名残であるなどと呼ばれる。
だから、何の根拠もなく、
ただ、これから昼が長くなるという
いわば象徴的な意味を有するに過ぎない。
 
大切なことは、
キリストが人となり、来たという点である。
このことは、新約聖書のパウロ以後の書簡の中でも、
ひとつの教義めいた言い方の中に記されている。
罪人を救うためにイエス・キリストは「来た」のだ、と。
 
そもそも、「イエス・キリスト」という呼称そのものが、
「イエスこそキリストである」という信仰告白であるのだが、
そのキリストが「来た」というのも、
実は立派な信仰告白であり、教義理解にほかならない。
 
神学的には「受肉」とも言うが、
要するに人として来たという救いの奥義の表明なのである。
 
ユダヤの一日が日暮れから始まるから、
このキリストの出来事を祝うスタートは、日没である。
これが、クリスマスの晩である。
こうした理解の下に、多くの教会が、
この24日の夜に、礼拝を行う。
主日なる日曜日の礼拝ががイースターという復活の記念であるならば、
この、曜日に関わらぬ礼拝は、受肉の記念である。
 
決定的な出来事が目の前で起こったのが
十字架と復活であるとすると、
まだ目の前では何がどうということはないが、
事件が今スタートを切っているのである、という意味を
このクリスマスはもつものと見なすこともできよう。
 
現象は、まだそこにはない。
だが、もう後戻りできない事態が始まっている。
決定された結論へ向けて、
あとは時間と共に流れていくという運びになっている。
つまりは、賽は投げられたのである。
 
生まれたばかりの赤ん坊が、
実は凄惨な殺され方をすることが定められていた。
こうした、どこか文学的な設定がここにあった。
それは、信仰する者だけが知ることのできる、
恵みの業であった。
 
なにしろ、信仰者自身もまた、
霊的には同じ体験をするのである。
信じるということは、
自分がまさにそのように死んでいくということにほかならない。
この体験がない者は、
間違っても福音を語ることはできない。
もしもそれをすると、福音を「騙る」ことになる。
 
だから、語る者は厳粛な思いで語ることになるが、
肩に力を入れる必要はない。
自分がキリストと出会った体験に基づく幻を
ただ口から語ればよいだけのことである。
まさに、必要なことは、聖霊がその時に教える、とあるとおりである。
 
クリスマスとは、
バカ騒ぎではなく、家族で祝うものである、という言い方をすることがある。
世間の風潮に対して、それは一定の役割をもつ表現である。
だが、何も家族が共に仲良くする、ということが目的ではない。
自分自身の中に、深く潜ることである。
自分を問い直すことである。
自分とキリストとの出会いを、確認することである。
 
教会という、
仲間における信仰の姿は非常に意味があり、
そこで私たちは愛を具体的に成就していくことになる。
だが、結局のところ、
このクリスマスもそうなのだが、
自分自身と神との関係を静かに見つめる時が必要である。
 
上っ面になっていないか。
口先だけの、教義を掲げているに過ぎない状態とは違うか。
自分の中に、キリストは生まれているのか。
キリストを、追い出してはいないか。
 
あわただしく過ごしたり、
昼間の喧噪から抜け出して力を抜くだけでなく、
この夜は、そのことを深く霊の目で見つめさせてくれる。
クリスマスとは、
そんなひとときである必要もある晩である。
 
(続く)


lc1baku at 00:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)聖書 | そもそも

2010年12月23日

NHKも電話で名乗らない

電話が鳴る。携帯ではなく、設置電話だ。
「○○さんですか」
 
どうして、こんなことになったのだろう。
携帯電話のせいではないか、とも思ったが、
携帯電話だと、出る相手は決まっているから、
相手を確かめる必要はない。
よけいに、
かけた側から名乗らなければならないはずだ。
 
電話では、かけた方が先に名乗る。
これは、鉄則である。
かけた方はかけた相手を知っているが、
かけられた方はかかってきた相手を知らない。
まず、かけた方が名乗るのは、最低限のルールのはずである。
 
先日、NHKの朝番組で、こんなシーンがあった。
目の前で取材をしている相手に、
NHKから取材申し込みの電話が鳴る、というものである。
すでに取材をしているものだから、
この図式は当然「ヤラセ」である。
だが、今はその点は追及しない。
 
ディレクターか誰か、お偉方がかけてきたのだが、
かけられたきた人が携帯電話をとると、
「○○さんですか」から入ったのだ。
 
天下のNHKが、取材申し込みで
日常的に、自分から名乗らず、相手に名乗らせている。
ところがこの点についての指摘は、
この番組では、ついに、なかった。
 
それほどに、ルールが消滅しているのだ。
かけられた方も、世間も、不愉快には感じないのだ。
 
私は、徹底的に不愉快である。
自宅にまず、こちらを名乗らせる電話がきたら、
結局のところ相手が誰であろうと、
まずは信用しないことにしている。
そうでなくても、名前を「騙る」ことの多い昨今である。
たんにこちらの出方調査や名前の確認をしているだけであったとしたら、
どうなるのだろう。
家が留守かどうかを確認している泥棒かもしれないではないか。
 
私は、自分の勤めている塾業界を、
必ずしも善行のものではないと認識している。
時に、あくどいやり方も、する。
だが、この電話にかけては、このルールを崩さない。
必ず、自分から名乗ってかける約束事を守っている。
この点では、優れていると自負している。
 
ついに、NHKまでも、
基本的な生活ルールが崩壊していることが分かった。
もはや、先に名乗れ、などということを正義とすることはできない。
たんに私が偏屈で、
先に名乗るものだと片意地張っているということになるのだろう。
 
私は社会に困っているが、
たぶん、社会が私を困っているのだろう。

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