2010年09月27日

エコ運動考2

さらに、集められた素材を加工するのに
大がかりな設備が必要であったり、
電気やエネルギーが必要となる。
とてもとても、廃品からよみがえった物品の貢献では歯が立たないほど
エネルギーを消費してしまうようなことが、多々あるはずである。
廃品回収のためにチラシをつくり呼びかけたとしたら、
その紙やインク、もちろん人の手間暇、公務員ならそこで給与が発生する。
すべてを考え合わせていくと、
廃品回収は実に「損」なシステムだと言われかねない。
 
もちろん、すべてのリサイクル運動が無意味であるのではない。
ただ、私たちが善かれと思ってやっていることが、
必ずしも善いだけでは終わらないことがある、と気づいてもよいと思う。
私たちが自己満足を抱き、自分で自分を褒めることばかりしていると、
無邪気に害を生みだすばかり、という事態にもなりかねない。
 
すべての行動を慎め、と言っているのではない。
マイナス要因があったとしても、それを直ちに排除するのが得策だとは思えない。
ただ、自分で自分を善いと判定してしまうな、ということである。
狡い者は、それで自分を宣伝して信用させ、
いずれは他人を自分に従わせることに夢中になって取り組む。
 
だから時折、エコ運動は、エゴ運動にならぬよう注意せよ、と言われる。
他国に経済援助をする必要もあろうが、
へたにすることでまずい結果になることもある。
善かれと思ってビジネスをしても、よけいに相手が貧しくなることもある。
そんな筈じゃなかった──私たちはそのようによく言う。
筈ではなかったとしても、気づけなかったことはまずい。
予測しなかったことはよくない。
 
人間は、思わぬ悪影響まで知ることがなかなか難しい。
すべてを知り尽くすことはできない。
だから自分の業を無条件で善いなどと決めてはならない。
あらゆるものが、許しの中で動いている。
赦しあってこその世界であるとすれば、
自分もまた赦されていることについて、
もっと私たちの活動すべてを適用すべきである。
 
リサイクルについても、することそのものはあっていいし、
またあるべきだし、大切にしたい事柄であるだろう。
まだまだ知恵は発展途上である。
人々は、善きことができるだけ多いように、
知恵を用いるとよい。知恵が与えられるとよい。
そして、誰かがするであろう、ではなしに、
私がするように、していきたい。


lc1baku at 00:10│Comments(0)TrackBack(0)パブリック | ウォッチング

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