2010年10月01日

正義論1

正義についての本が売れているという。
大学生などを相手に
日本でも講義を行った著者である。
 
教師としての腕は申し分ないだろう。
ディベートの訓練を怠らない欧米では、
話術というのは何よりまた重要な武器である。
 
思えば、ソフィストが、
話術で仕事をしていたことが
ソクラテスとプラトンにより
いかにも悪党のような印象を与える歴史を作ったが、
元来人は、言いくるめることを以て
生きる術を得ていたのであって、
馬鹿正直を貴いとするようなゆとりはなかったのであった。
 
そこへ、正義という問題が入ると、
いわば狡賢く立ち回るのが正義であるのか、それとも
馬鹿正直に損をして時にそのために死んでもそれが正義か、
そういう世界観の対立になりかねなくなる。
その上で、
自分の尊重する正義に理論付けをなそうとするのである。
 
議論は、正義とは何か、に集中する。
もちろん、そこにはカントの正義も重要な一つの柱として登場する。
合理的か功利的か、日本語だとことば遊びになりかねない話にもなる。
 
若い人たちの中には、
それなりの正義意識があるという、それも頼もしいかもしれない。
しかし、
正義という概念がすべての原理であるかのように前提してしまうと、
このたびの尖閣諸島をとりまく中国のような言動が高笑いをすることにもなる。
二十一箇条の要求を日本が突きつけたのは95年前。
その理不尽な要求に対する復讐のようにも見えるとなると、
日本としてもやるかたなくなりかねない。
(過去の民族的行為に対する責任があるかという問いも投げかけられていた。
同時に、私たちが未来の子孫に対する責任があるかという問いもあればよかった)
正義が、感情を伴った信仰のようになると、手がつけられないのである。
 
(続く)

lc1baku at 00:02│Comments(0)TrackBack(0) 哲学 | 聖書

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