2010年10月06日

感謝のこころ2

教育環境にしても、
子ども(とその親)は、自分は最高の教育を受けるべきだという前提から始まる。
そのため、教師が何か少しでも不適切な対応をとると、
鬼の首を取ったように騒ぎ立て、学校側を誤らせる。
無償で世話になっている学校の教師を、子どもの親が奴隷のように扱う。
 
教育は、子も教師も共に成長すべき場なのであって、
完璧な教師に子が製造されていく過程を言うのではないはずだ。
誤りをもつ教師と子どもが、共に高めあって然るべきだが、
子どもが言うことをきかないのに怒った教師が、
子どもを叱ってはならない、とその子の親が制している図式が成り立っている。
以前は、お願いですから叱ってください、と親は教師に頼んだものだ。
 
自分が完璧だとは確かに誰も思っていない。しかし、
「自分にも悪いところはあるかもしれない。けれども……」と
相手の非をとことん突いて、自分がつねに世の中の主役であるつもりでいる。
 
どこにも、感謝という言葉はない。
「ありがとう」の言葉は、
そんな「もったいない」ことを自分が受けるに値しない、
それほどに有ることが難しいことを受けて「かたじけなく」思います、
そういう気持ちの表明であった。
謝の思いを感ずることも、似たようなものであろう。
 
悔い改めて、神の国を信ぜよ。
これは、自分の見ている世界や生きる道を、完全に方向転換して、
自分が世界の支配者でありつねに正しいという考え方ではなく、
神が支配している世界、自分もまた神の下にある誤った存在であることを
たしかなこととしてそれを原理に生きるようにしてみよ、という意味である。
それは、受ける世界である。
神から与えられるものを恵みとして、与えられるすばらしいものとして、
受け取ることに感謝して生きる姿勢である。
 
かの敬老のミスマッチな贈り物には、
当然、行政の側の問題もある。
杜撰と言えば杜撰であり、心ないお仕着せとなってしまったのは事実である。
だから、動けないお年寄りの悲しみは、尤もである。
その方々のことを、私はとやかく言うつもりはない。
この事例から、
私たちは自分のことをよく反省してみたいように思った、
そういうことである。

lc1baku at 00:06│Comments(0)TrackBack(0)こころ | ニュース

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