2010年11月17日

威張っていても

失敗をひとつひとつ責められるのは辛い。
その点、私は
失敗が多々あるにも拘わらず、
それを責めてくる人がいない。
 
これは、助かっているとも言えるし、
甘えているとも言える。
小さなところにまで目くじらを立てて
指摘してくるということが、あってもよいはずだ。
 
それは、私を謙遜にするかもしれない。
なまじ誰も言ってこないから、
私は図に乗って、調子に乗って、
平気で他人を攻撃してゆくのかもしれない。
 
弱い者をいじめるかのように、見えるだろう。
そして、私自身弱い者であるのに、
誰もその弱い者をいじめることがないので、
偉そうに威張っているだけという実情があるのかもしれない。
 
尤も、執拗に私に対して攻撃をしかけてきた人が
皆無であるということはない。
対処に困ったこともある。
そんなときの私の態度が、また
ふんぞり返っていたかもしれない。
 
陰で、ずいぶんな言われ方をしているのも事実だろう。
まともに言っても私が聞くようなことがないので、
そして私が自分を曲げるようなことがないので、
言っても無駄、と非難しているかもしれない。
 
その人が、単にご自分を正当化したいがために
虚偽を振りまいていたとしても、
私が非難されていたというのは、
私にも原因があるからだ。
 
面と向かって叱られることがないとなると、
私はますます天狗になっていく。
鼻をへし折られて惨めな思いになったことが……
ないはずがない。
その経験は、私を大きく変えた。
しかし、そんなことをまだまだずっとやっているかのように、
見られているかもしれないし、
見られて当然だとも思う。
 
だが、自己嫌悪などに陥っている暇はない。
威張っていても、弱い人間の一人にすぎない。
聖書がなかったら、
どんなに破滅的でいたことだろう。
だから、また聖書を開く。
そこから、他者の声を聞くのである。
 
神という、絶対の他者から。


lc1baku at 00:10│Comments(0)TrackBack(0)思い出 | 聖書

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔