2010年11月29日

この世は意味に満ちている

この世界は、様々な「意味」に満ちている。
などと言うと、
心の準備のない方は、
全く何のことを言っているか分からない。
 
それは、まさにこの世界にある「意味」が
解せなかったということにもなる。
それは、発信する私の責任であることもある。
通じない言葉を発してしまったからだ。
だがまた、受信する人の責任であることもある。
意味が理解できないからだ。
 
まわりくどいことを言ってしまった。
異国に行くと、私たちは不安になることがある。
書いてある文字が読めないからだ。
街には看板がある。
しかし、それは読めない文字である。
文字であるということは分かる。
その文字については、解する人がいて、
その人には、意味が伝わっていく。
だが、文字を知らない私は、
意味が何かあるはずなのに、それが分からない、ということもあり、
不安を抱いてしまう。
いっそ、何も意味のないものであるのなら、
知らなくても何の不安もなかっただろう。
なまじ文字だと分かるから、
つまりそれを解する人が周りにたくさんいる中で、
自分は分からないということが、たまらないのだ。
 
世界は、様々な「意味」に満ちている。
記号としての存在は、テキストとなり、
一定の訓練を受けた者には、意味のあるものとして伝わってゆく。
 
十字架を見て、
信仰を抱く人もいれば、
ただの模様やアクセサリーとしてしか認識できない人もいる。
色づいた田畑で刈り入れをする弟子に向かって、
イエスは終末を予告した。
 
それを意味ある言葉として受け止めるのか、
それとも戯れ言として無視するのか、
それもまた、そこに「意味」を覚えるかどうかにかかっている。
ところが具合の悪いことに、この「意味」は、
学習によって身に付くものではない。
キリスト教は、学ぶだけで分かったと言えるような代物ではない。
この「意味」を知るには、
勉強ではない何かが必要なのである。


lc1baku at 00:12│Comments(0)TrackBack(0)ことば | 聖書

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