2010年12月05日

親が示せないもの2

聖書には、「ここまでだ」という神の線引きが見られる。
人間と神との間には、超えることのできない線がある。
このラインの中でどう生きるかということが
基本的な聖書の生き方である。
西欧がすべてキリスト教であり聖書を守っているなどとは言わないが、
文化的にでも、どこかでその限界を意識し、
あるいは守ろうというブレーキがかかる傾向にあると私は感じる。
 
なまじ人間が神になるという感覚がある文化では、
ラインを引こうという気持ちになるのかどうか、怪しい。
タブーのようなものが、ないわけではない。
「世間」とか「お上」とかいうブレーキがかかるから、
かなり道義的な精神生活を送っていたという歴史もあるものだが、
ある人々は、
そこへ西洋文化の個人主義が入ったから乱れた、と主張する。
つまり、個人主義が悪いのだ、と。
そうして、「古き良き日本」に帰れと叫び、
仏教だとか神道だとか、あるいはアニミズムだとか、天皇だとか、
実は帰る場所がよく分からないままに、
意図する特定のものを尊重すべきだと熱心に演説する。
 
かの親子は、一例である。
携帯電話や携帯音楽プレーヤーなど、
目の前の人を無視して自分の世界に浸りつつ、
実は自分はしっかり人との関係の社会の中に存在しているということがないように、
つまり自分がまるで神として存在しているかのように思いなしている、
そういう世代や空気というものは、
キリスト教的個人主義が生み出したものではないはずだが、
それを悪者にして、
実はますます、あの限界のない越境思想に引き込もうとしていることが、
私は時代の暗雲ではないかと感じている。
 
以前にもこのことは触れていると思う。
その実例が、あまりにも多く見受けられるからである。


lc1baku at 00:03│Comments(0)TrackBack(0)精神 | ウォッチング

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