2010年12月10日

障害者問題の聖書的把握

障害者については、
たとえば百年前に比べると、
社会的な理解は進んできたと言えるだろう。
その人権は尊重される、
そうした原則が認知されてきた。
 
だが、社会的な差別がなくなったわけではない。
依然として、一定の排除が働いているのは事実だ。
 
法的な保護がなければ、
何の力ももたないままに
泣き寝入りに沈むというのが、
ありふれた多くの実情であることが悲しい。
 
しかしまた、私はいつも思う。
いったい、障害のない人というのがあるのか。
何かしらの能力、性格、精神的な要素、
どこかに、障害があるのが当たり前ではないのか。
 
だがいわゆる「健常者」たちは、
自分は「障害者」ではないと理解して、
健常者たちの都合のよい社会を形成しておいて、
障害者はできないから仕方がないね、と阻んでいく。
 
この構造を、私は、ファリサイ派と重ねて見てしまうのだった。
つまり、「障害」を「罪」と読み替えれば、
新約聖書の福音書が描くあのファリサイ派のやっていることと
同じように見えてしまうと感じるのだ。
 
自分は罪がないことを感謝します。
ファリサイ派はそう祈るという。
罪人は蔑むのが日常だと描かれている。
律法を守ろうにも守れないような人々を見下して、
罪人呼ばわりして排除し、差別するのだ。
 
イエスは、そうしたファリサイ派に対して
徹底的に抵抗した。
神の国は、それとは正反対なのだ、と。
ならば、イエスが障害者の置かれている社会を見たとき、
「健常者」たちに、
ファリサイ派の名をつきつけるのではないだろうか。
私たちは、白く塗られた墓ではないのだろうか。
 
障害者問題は、
こういう視点から捉え直す必要が、
きっとあると私は考えている。


lc1baku at 00:14│Comments(0)TrackBack(0) 福祉 | 聖書

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