2010年12月13日

情報と教育2

小学五年生の社会科の授業で、
そうしたリテラシーについて伝える時間があった。
小学生はおおよそ、
インターネットに出ていることは
すべて信用する、というふうな態度であった。
半分くらいにしておきなさい、と注意したが、
もちろんこれは、小学生たちが悪いのではない。
 
アニメにしろドラマにしろ、
誰か一人が伝える情報で、話が大きく転換する。
嘘を伝える役割は、
最初から悪役だと分かっているような存在だけが行う。
主人公の仲間が伝える情報は、すべて真実として描かれる。
「あいつがやったんだよ」
「そうか」
こうして、その相手が滅ぼされる展開が普通である。
 
物語の展開上、
単純なものにしないと、子どもは理解できない。
また、これは根本的なことであるが、
「世界は信用するに値する」ということを
幼いときに覚えることが、子どもには絶対的に必要である。
 
その意味からすると、
情報を疑うというのは、
本来の子どもの成長には相応しくないと言える。
だがまた、
それを教えなければいけないほど、
今の世の中は情報が玉石混淆、溢れている。
 
子どもは、情報を信用できないこともある、と
学ばなければならないというのは、
どこか悲しいことである。
また、精神的によろしくないことである。
 
知らない人についていってはいけない。
こういうことが教えられること自体、
子どもは、信頼ということについて、
いわば矛盾を強いられることになるのだ。
 
そこへまた、知っている人についていって
殺害されるというような事件がいくつか起こることで、
すべての人が信用できないことになる。
果ては、親の虐待ということで、
子どもにとり絶対の信頼をもつということが
不可能な空気が漂うようにもなる。

(続く)


lc1baku at 00:15│Comments(0)TrackBack(0)教育 | IT

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