2010年12月24日

クリスマスとは1

だいぶ知られるようになったが、
クリスマス・イヴというのは、
クリスマスの前の日、などという意味ではなく、
まさにキリストを礼拝する晩、という意味である。
 
「誕生日イヴイヴ」などという言い方を
前々日の意味で使うようなことを聞くと、
もう言葉というのは、
嘘でも何でも使ったものが勝ちになる、と
情けない気持ちになる。
 
世間でも、法に従うかどうか、という点は関係なく、
自分に都合のよいこと、
得になることが先行するのが、
この国のあり方であることが
様々な事例から明らかになってくる。
 
12月25日という日付は、
古代の冬至の祭りの名残であるなどと呼ばれる。
だから、何の根拠もなく、
ただ、これから昼が長くなるという
いわば象徴的な意味を有するに過ぎない。
 
大切なことは、
キリストが人となり、来たという点である。
このことは、新約聖書のパウロ以後の書簡の中でも、
ひとつの教義めいた言い方の中に記されている。
罪人を救うためにイエス・キリストは「来た」のだ、と。
 
そもそも、「イエス・キリスト」という呼称そのものが、
「イエスこそキリストである」という信仰告白であるのだが、
そのキリストが「来た」というのも、
実は立派な信仰告白であり、教義理解にほかならない。
 
神学的には「受肉」とも言うが、
要するに人として来たという救いの奥義の表明なのである。
 
ユダヤの一日が日暮れから始まるから、
このキリストの出来事を祝うスタートは、日没である。
これが、クリスマスの晩である。
こうした理解の下に、多くの教会が、
この24日の夜に、礼拝を行う。
主日なる日曜日の礼拝ががイースターという復活の記念であるならば、
この、曜日に関わらぬ礼拝は、受肉の記念である。
 
決定的な出来事が目の前で起こったのが
十字架と復活であるとすると、
まだ目の前では何がどうということはないが、
事件が今スタートを切っているのである、という意味を
このクリスマスはもつものと見なすこともできよう。
 
現象は、まだそこにはない。
だが、もう後戻りできない事態が始まっている。
決定された結論へ向けて、
あとは時間と共に流れていくという運びになっている。
つまりは、賽は投げられたのである。
 
生まれたばかりの赤ん坊が、
実は凄惨な殺され方をすることが定められていた。
こうした、どこか文学的な設定がここにあった。
それは、信仰する者だけが知ることのできる、
恵みの業であった。
 
なにしろ、信仰者自身もまた、
霊的には同じ体験をするのである。
信じるということは、
自分がまさにそのように死んでいくということにほかならない。
この体験がない者は、
間違っても福音を語ることはできない。
もしもそれをすると、福音を「騙る」ことになる。
 
だから、語る者は厳粛な思いで語ることになるが、
肩に力を入れる必要はない。
自分がキリストと出会った体験に基づく幻を
ただ口から語ればよいだけのことである。
まさに、必要なことは、聖霊がその時に教える、とあるとおりである。
 
クリスマスとは、
バカ騒ぎではなく、家族で祝うものである、という言い方をすることがある。
世間の風潮に対して、それは一定の役割をもつ表現である。
だが、何も家族が共に仲良くする、ということが目的ではない。
自分自身の中に、深く潜ることである。
自分を問い直すことである。
自分とキリストとの出会いを、確認することである。
 
教会という、
仲間における信仰の姿は非常に意味があり、
そこで私たちは愛を具体的に成就していくことになる。
だが、結局のところ、
このクリスマスもそうなのだが、
自分自身と神との関係を静かに見つめる時が必要である。
 
上っ面になっていないか。
口先だけの、教義を掲げているに過ぎない状態とは違うか。
自分の中に、キリストは生まれているのか。
キリストを、追い出してはいないか。
 
あわただしく過ごしたり、
昼間の喧噪から抜け出して力を抜くだけでなく、
この夜は、そのことを深く霊の目で見つめさせてくれる。
クリスマスとは、
そんなひとときである必要もある晩である。
 
(続く)


lc1baku at 00:01│Comments(0)TrackBack(0)聖書 | そもそも

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