2010年12月25日

クリスマスとは2

そして、朝を迎える。
 
ぴんと張りつめた空気が身を包む。
私たちの一年は、ここから始まってよい。
 
「よいお年をお迎えください」
「新年を迎える」
言葉でこのように言うとき、
そこには実のところ、
「年神を迎える」という意味がこもっている。
もちろん、八百万かまたは日本に古くからある神々、
あるいはまた、アニミズム的な要素があるのか、
とにかくそんなところの思想である。
 
だから、年末に大掃除をすることになっている。
年神を迎えるときに、
綺麗にしていなければならないからだ。
 
年始の挨拶も、その変形である年賀状も、
その範疇での出来事である。
さらにはまた、「ケ」はそれに相応しくないから、と
喪中につき年末年始のご挨拶は遠慮させて戴きます、
との葉書が年末に届く。
クリスチャンも、習慣によって、そのような葉書を送る。
 
習俗と信仰との摩擦を感じないケースも多々ある。
七五三はどうか。豆まきはどうか。七夕は。
実際は、七五三のように、宗教性が本来薄いものもあるだろうに、
神社行事のように見なされているものもある。
逆に豆まきは、強い宗教性がある。
七夕は、宮中行事からきているが、様々な要素が加わってきている。
 
クリスマスもまた、
そうした習俗の一つのようになっていく。
そうして、
25日になると、
街は「よっしゃー」とかけ声をかけるかのようにして、
一気に、門松やしめ縄に塗り替えられていく。
お決まりのデコレーションに過ぎないわけだし、
商売の道具に過ぎないからだ。
 
クリスマス休暇が、25日一日の国もあるという。
何日も続く国があるという。
少なくとも、伝統的には、1月6日まではクリスマス期間であり、
ツリーもそのときまで飾っているという理解が多いらしい。
クリスマスは、ここから始まったのであり、
義の太陽がここから昇っていくのだという希望がこめられているのに、
日本ではその瞬間に、切り捨てていかれる。
そういう、手段としてのみ用いられている。
 
カントは、人格でさえ、
目的であって手段ではないと力説した。
しかし、日本におけるクリスマスは、
とてもとても、目的にはなりえない。
 
せめて、そっとしておいてくれたらよいのだ。
だが、手垢を付けて、踏みにじり、使い捨てる。
 
まさに、キリストは今も唾を欠けられ、鞭打たれ、
あざけられて、棄てられている。
キリストを今もなお、十字架につけているのが、私たちなのだ。


lc1baku at 00:01│Comments(0)TrackBack(0)聖書 | そもそも

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