ことば

2010年12月27日

クリスマスネタ

クリスマスは「くるしみます」、
このようなフレーズは、
だいぶ昔に流行ったことがある。
 
ここへきて、
発想的に似たものが続いた。
「クリス安」
「サンオクロース」
 
もっとあった気がするが、
調べてみる気もない。
 
それだけ「クリスマス」という言葉が
ポピュラーであるということをも表すのだろう。
「イースター」はこんなふうに話題になることがない。
しかし、本当のところは、
神聖なものを弄ばれているような思いがする。
 
逆に自分の大切な聖なるものが
そのような洒落に使われたら、
やはり誰もよい気持ちはしないのではないか。
 
そもそも、クリスマスそのものが、
自分の欲望のために用いられているような世界である。
洒落くらいで文句を言っている場合ではないだろう。
 
ここはおおらかに、
にっこりと、そうした風潮を見過ごしていればよいのかもしれない。
いや、
そうだろうか。


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2010年11月29日

この世は意味に満ちている

この世界は、様々な「意味」に満ちている。
などと言うと、
心の準備のない方は、
全く何のことを言っているか分からない。
 
それは、まさにこの世界にある「意味」が
解せなかったということにもなる。
それは、発信する私の責任であることもある。
通じない言葉を発してしまったからだ。
だがまた、受信する人の責任であることもある。
意味が理解できないからだ。
 
まわりくどいことを言ってしまった。
異国に行くと、私たちは不安になることがある。
書いてある文字が読めないからだ。
街には看板がある。
しかし、それは読めない文字である。
文字であるということは分かる。
その文字については、解する人がいて、
その人には、意味が伝わっていく。
だが、文字を知らない私は、
意味が何かあるはずなのに、それが分からない、ということもあり、
不安を抱いてしまう。
いっそ、何も意味のないものであるのなら、
知らなくても何の不安もなかっただろう。
なまじ文字だと分かるから、
つまりそれを解する人が周りにたくさんいる中で、
自分は分からないということが、たまらないのだ。
 
世界は、様々な「意味」に満ちている。
記号としての存在は、テキストとなり、
一定の訓練を受けた者には、意味のあるものとして伝わってゆく。
 
十字架を見て、
信仰を抱く人もいれば、
ただの模様やアクセサリーとしてしか認識できない人もいる。
色づいた田畑で刈り入れをする弟子に向かって、
イエスは終末を予告した。
 
それを意味ある言葉として受け止めるのか、
それとも戯れ言として無視するのか、
それもまた、そこに「意味」を覚えるかどうかにかかっている。
ところが具合の悪いことに、この「意味」は、
学習によって身に付くものではない。
キリスト教は、学ぶだけで分かったと言えるような代物ではない。
この「意味」を知るには、
勉強ではない何かが必要なのである。


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2010年11月28日

言葉と政治と暴力

血の滴る高級ステーキに
フランス料理最高級のソース。
すばらしい料理があったとする。
 
だが、それが古寺の精進料理の席であったらどうか。
その料理がそこにあるのは「間違い」であるだろう。
ユダヤ人の食卓にあったら、その場で棄てられるかもしれない。
街の中華料理店にも似合わない。
 
置かれる場によっては、
罵声を浴び去られることにもなりかねない。
 
言葉というものも、そのような性格をもつ。
政治家が「ある場所」で発言したことが、
不適切である、けしからん、と非難される。
ついには政治家としての地位まで失うし、
その党の支持率を下げる。
 
へたをすれば、政敵によって
揚げ足をとられるかのように、そうなることがある。
 
自衛隊は暴力的な組織である、というような発言には、
国家主義的考えをもつ人々が怒りの感情で応えた。
これは許せない、と。
そして、
汗水垂らして国を衛る隊員を馬鹿にするのか、
国家に恩恵をもらう者がそんなことを言っていいのか、
などと「正論」を呈する。
 
しかし、ある弁護士がネットでの論壇において、
野党の政務調査会長自身が、著書の中で
国家が自衛隊という暴力装置を合法的に独占所有している、
と書いていることも指摘している。
悲しいことにこれは歴然とした証拠が書物として出回っている。
かの発言で与党官房長官を陳謝させたのであれば、
野党側も陳謝するのが筋であろう。
 
同じような言葉が、別の文脈で語られたらどうか。
「国家の原理は暴力である」
これは、政治哲学的に含蓄が深い言葉であるし、
これは真理であるという捉え方が一般的だとも言える。
一種の暴力がなければ、国家は機能しない。
もちろん、「暴力」とは何か、という定義が
一定の批判とともになされた上での命題である必要はあるのだが。
 
私たちが何かを発言するとき、
その言葉をどう用いるか、ということについて、
自分の頭の中にある背景や定義によって発言することになるのだが、
それが、相手の思い描いているフィールドと合わないことがある。
むしろ、合わないのが当然であるともいえる。
だから、
哲学の歴史は言葉の定義の誤解に基づくものであった、とする
一つの哲学的命題すら成り立つわけである。
 
しかし、政敵の信頼を崩すために、しばしば、
政治家や政治グループは、
相手の言葉尻を捉えて、けしからんと連呼する。
これに対して「数」の大衆が同調すれば、勝ちである。
真理などよりも、自利にばかり関心がある「数」を得れば、勝ちである。
 
新約聖書の福音書は、
そうした人間の姿を描いている。
もちろん、「イエスとは誰か」を証ししようとして書かれているのだが、
一面では、今も同じようになされている
「十字架につけろ」の叫びのメカニズムを提示していることになる。
 
自衛隊が暴力であるのかどうかは定義次第でもあるし、ともかくとして、
こうした感情により動いていく政治は、危険だと感じる。
まさに、その政治そのものが、暴力と化すからである。


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2010年10月22日

みんなちがっていい

21日の西日本新聞の一面コラム「春秋」に
乙武洋匡氏の本のことが紹介されていた。
手足を欠く中で驚異的な活躍をしてきた方だが、
小学校の教師という夢も叶えた。
 
コラムは、
障害があろうが、
みんなと違おうが、
それでもその人はその人、かけがえがない、
という声をいくつも載せていた。
よいことが書いてあったとほっとしたのだが、
最後の一文を読んだとき、私は違和感を覚えた。
 
これは、そのまま受け取ってよいのだろうか?
それとも、どんでん返しを狙って書かれているのだろうか?

最後の段は、こうなっていた。
 
  いろいろあって、1年が過ぎようとするころ、
  先生は金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」を
  みんな一緒に朗読させた。
  「作者が一番伝えたいことが書かれている、
   と思う1行に、線を引いてごらん」。
  ほとんどの子が同じところに線を引いていた。
  〈みんなちがって、みんないい〉
 
皆さんも、引っかかるものがなかっただろうか。
ここまで、みんなちがってよい、と積み重ねてきた最後に、
みんなちがってよい、という詩を挙げたのはよいのだが、
「ほとんどの子が同じところに線を引いていた」
と結んでいるのだ。
 
ちがってよいなら、
ちがったところに線を引いてもよいのではないだろうか。
 
ちがってよい、と言いながら、
同じところに線を引いた、と締めくくるのは、
文を書く人がアイロニーとして用いるテクニックである。
ちがってよいなんて、愚かな考えだ、と示したいときに使うのである。
 
たぶん、そういうつもりで
コラムニストは書いたのではない、と推測する。
だが、ありふれたアイロニーであることにさえ気づかないほど、
当然同じところに線を引くのだ、と称えているのだとしたら、
私は少し怖い気がする。
 
これは善いことだ。
だから全員賛成しなければならない。
 
このような思い込みによる暴力が、
どんなに怖いことか。
歴史の中で、何を引き起こしてきたか。
そこに、知らず識らずはまっているのだから、
やはりこの罠は恐ろしいことなのだと真底思う。
 
真実はどうだか分からない。
お目に留まったとしたら、
西日本新聞の方に教えて戴きたいものだ。

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2010年10月11日

時間的なことば・空間的なことば

ことばなるものは、考えてみれば、
同時に二つのものを示すことができない。
 
そもそも、ある瞬間その時だけを考えてみると、
その瞬間には、一つの音しかそこにはない。
ゼノンの飛ばない矢ではないが、
瞬間において、ことばは成立しにくいのだ。
 
もし、その一語だけでことばとして成立し、
何かを伝えたとしよう。
「き」と言えば、木のことかと分かるように。
しかし、それでも、一語である。
二つの情報はとても盛り込めない。
 
ことばは、時間の軸に沿って流れる。
その流れの中で、次々と意味が伝えられていく。
そのため、ことばを送る順序というものが大きな役割をもつ。
一つの文があるとする。
その最初の言葉は、けっこう重要な役割ではないだろうか。
また、余韻を残すという理由なのか、
最後の言葉というものも、重要なものと見なされないだろうか。
 
聖書のギリシア語を見ていると、
文頭に何が来ているか、文末は何か、
よく注意してみると、面白い。
何を筆者が強調しているか、分かる。
残念ながら、多くの日本語訳では、これが分からない。
文頭が何であるか、日本語で流暢に記すと、
原文のそれとは一致しないのだ。
 
ところが、手話は違う。
もちろん、時間の中で動いていくのは確かなのだが、
結果的に音の言語とは違う性質を確かにもっている。
空間を利用して示すのが手話であるから、
右手と左手の位置や向きにより、
一瞬の中で、複数の内容、あるいはまた、
複数の人の立場を同時に表すことも可能なのだ。
 
これを伝え会う言語としての手話を使っていると、
言葉としての日本語とは
きっと違う発想が生まれてくる。
というより、考え方のパラダイム自体が異なるであろう。
 
日本語を英単語だけで英語に置き換えることが無理なように、
手話もまた、単純に単語置き換えでは済まされない世界である。
ろう文化というものが認められるようになってきたが、
それがいったい何であるのか、
まだ明らかになったとも言えないし、十分調べられているわけでもない。
ようやく両者の梯ができようとしているこの時代、
互いの理解が進むことを願わないではおれない。


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2010年09月08日

聖書的2

もちろん、基本的には、それは自分自身の領分である。
私自身が、「これは聖書的だ」という判断を控える、ということであって、
世の中で「聖書的」という言葉が使われていることをすべて
糾弾しているというわけではない。
 
ただ、えてしてそれは、
ある事柄や思想に権威をつけて、
それを相手に認めさせようという場合に用いられる表現であるような気がして、
危険な香りがするのは確かである。
 
私には、「聖書的である」という言葉は、
「諺にあるとおり」というように感じられている。
「諺にあるとおり」、善は急げである──というと、
とにかくすぐに事に当たることが真理である、
その真理には古来の人々の諺というものが権威となっている、
そういう事情を示している。
しかし、「諺にあるとおり」、急がば回れという──と持ち出されると、
先の言明は絶対ではなくなる。
 
そもそも、諺というものは、
その都度の知恵のためのものであって、
絶対的な価値を有する言葉であるのではない。
聖書の言葉にしても、二面性を有しているような場合があり、
どこを強調するかによって、現れ方が違うように見えるとも言えるのである。
行いよりも信仰が勝る、という場面もあれば、
行いのない信仰はだめだ、という場面もある。
ならば、どちらが「聖書的」であるのか、
それはきわめて恣意的な選択になってしまう、とも考えられる。
 
私が危惧するのは、
「聖書的」という言葉が、
相手を自分に従わせる場合に効果のある言葉ではないか、という点である。
「的」という、曖昧な性質の比喩に基づく以上、
いわばどうにでも使われる虞があるということなのである。
 
そうでなくても、聖書に書いてある、というのは
一定の文化的領域においては、権威のあることなのである。
それを以て、自分が正しい、という路線に持ち込む限り、
すでに危険なところに足を踏み入れていると言えるかもしれない。
聖書に書いてある、という認識が、
自分は罪人である、という穴に流れ込む水のようであるときに限り、
聖書的だという捉え方はしてよい、
その程度に考えておくのが安全ではないか、と思うのだ。


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2010年09月07日

聖書的1

これはたんに私の感覚であり、感情であるかもしれないから、
大いに「ちがうよ」と言われても差し支えないのだが、
私はどうも自分で使いたくない言葉というものがある。
「聖書的」という言葉だ。
たぶん、書く上でも殆ど使っていないだろうと思う。
 
○○は聖書的である。(であろうか、でない……)
 
どういう意味で使われている言葉であるかというと、
たぶん、「聖書からすれば正しい」「聖書に則っている」
という感じではないかと思う。
「聖書に似ている」ではないだろう。
「聖書っぽい」というのでもない。
 
聖書をカノンと信ずる者同士での会話にしか出てこない。
そもそも聖書が正しい、という前提に立つ上での言葉である。
それはいいとして、
信徒のうちで、自分の考えや社会の現象などについて、
それは聖書に合っているかどうか、という判断をして使う言葉だ、
という点ではあまり異論がないだろうと思う。
 
つまり、直接聖書に書いてあるのではなく、
聖書といういわば法に合致しているという判断を、
発言者が下している言葉なのである。
聖書と現象や思想を結び付ける段階での言葉である。
だから、聖書的だというのは、
実はその事柄そのものに属する性質ではなくて、
事柄と聖書とを結び付ける、人間の側の判断のことなのである。
 
しかし、「聖書的」という言葉を発したとき、
その事柄に権威がつく。
それはいわば無条件で正しいという地位を得る。
地位を与えたのは、基本的に自分である。
 
私には、そのことが、
自分が神として判断しているかのように思えてならないのである。
 
(続く)


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2010年09月02日

絶対

絶対という言葉は、
小中学生に教えるのが難しい。
極めて抽象的であるからでもあるが、
「ゼッタイ」という語が、
日常語で彼らには決定されているからでもある。
 
漢語としてそれを見れば、
「対を絶する」ということであり、
実は理解しやすいことになる。
 
私たちは、「きっと」の意味でしか
それを理解していないのが普通である。
しかし、元来それは、「神」の領域を指す言葉である。
 
他と相対的に存在するのではない。
他と比較できるような代物ではない。
他の一切のものから切り離されて、
他のものに制限を受けたり影響を及ぼされたりすることなく、
そのだけ単独として成立するもの。
 
多神教、あるいはすなわち人間的神観からは
出てこない概念であるかもしれない。
 
国語として、絶対の対義語は、ということで
相対なる言葉を教えることがあるが、
その相対という言葉自体、
絶対と比較しながら教えることになる。
 
だとすれば、「絶対」もまた相対的なのか。
 
いやいや、哲学的な議論に惑わされないようにしよう。
もっと研ぎ澄まされた感覚で、
私たちは「絶対」なるものへ目を向けてもよいのではないかと思う。


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2010年08月04日

日本人の自然観

訳語が本来の語と
概念的に一致していないということは、
当然どの言語間にもあるだろう。
 
私たちは「自然」という訳語をもった。
しかしそれは元来、おのずからそうなること、を意味した。
文法的に自発と呼ばれるようなものである。
 
これは日本人の得意とするところであった。
それで、いつしか、自然を大切にするというフレーズも
日本人には肌に合うものと見なされてしまった。
 
自然の風景を描いてください。
そんな頼みを受けた日本人は、何を描くか。
これがしばしば、「ふるさと」の歌であるし、また、
田舎の田園風景である。
 
この自然観、おそらく殆どの皆さんは違和感がないだろう。
自然とはたとえばどういうものか。
田舎の田園風景。
 
待って戴きたい。
どう考えても、瓦葺き屋根も、田んぼも畑も、
人工のものであるはずだ。
人の手が入り、人の手により作られた風景なのである。
 
私たちが心象で語るとき、
感情で思いを述べるとき、
このように、言葉の意味や概念など、
まるで無視しているということがよくある。
 
自然概念は、そういう感傷的なものとは無縁である。
それは自然に対立するものでしかない。
自然はだから、もっと厳しいところもある。
長閑な、自分の心が落ち着くなどというものとは違うのだ。
 
概念や論理がすべてであるとは思わない。
だが、それ以上に、
言葉の意味を恣意的に扱う議論は、
結局立場の強い者を勝たせるためのものでしかないことを
はっきり了解しておかなければならない。


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2010年07月25日

国籍

愛国心があるのか。
このように迫る人がいる。
迫られた歴史がある。
おまえは日本人ではないか。
日本人なら日本の国を愛するのは当然ではないか。
 
「わたし」という言葉を、日本語は殊更に言わない傾向がある。
よほどの時でなければ「わたし」という一人称を出さない。
なにも、自我を主張せよと言うのではない。
「わたし」と口に出すことを特別視する精神が、
そこからよく分かるということだ。
 
「わたし」が某国を愛するかどうかは、
「わたし」の問題である。
だから、迫られる謂われはないはずだ。
ところが「みんな」という形でしか
人間は存在していないと信じ込んでいる宗教的確信から、
おまえは日本の国のために死ななければならない、
という結論にまで脅しつつ導く者が、かつて沢山いた。
今もいるような気がする。
 
日本にいながら、アメリカ市民権をもつという人がいる。
そのとき、「おまえは当然日本を愛するのだ」と迫る者がいても、
なんだか滑稽なことになってしまうのではないか。
 
かつてパウロは、アジアを旅しながら、
投獄されたときには、自分はローマ市民であると告げた。
水戸黄門の印籠のように、
それを聞くと下っ端のローマ役人は真っ青になるのだった。
 
クリスチャンの国籍は、天にある、と私たちは言う。
聖書の言葉からである。
パウロが、それを書いた。
本当の国は天にあり、地上を旅するものなのだ、と。
 
それは、死んでから、という限定はない。
私たちは、すでに今このときに、天に国籍があるのだ。
いったいどうやって、その国籍を取得したのだろう。
分かっている。
イエス・キリストが、杉原千畝氏のように、
私たちを天の国に、亡命させてくださったのだ。
しかも、自らを犠牲にして。


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