いのち

2010年11月25日

食生活改善

半年前の健康診断の結果がよくなかった。
でたらめな食生活をしていたのは事実だった。
年齢が重なっても
若いころと同じような食べ方をしていては、
中性脂肪が蓄積されていくのは、
考えてみれば当たり前のことだった。
 
二次検査が要求され、
生活改善を図らなければならなくなった。
妻は、食生活についてはきちんと考えてくれている。
油の使用を抑えるほか、
海藻と茸が欠ける日はないようにし、
その他の栄養バランスもよく考えている。
なのに私は、ごはんを多く摂りすぎていた。
 
これを減らした。
最初は物足りないと思ったが、
そのうち慣れてきた。
 
こうした生活を一ヶ月あまり続けた。
先日の健康診断では、
体重や腹囲の変化に驚かれた。
 
以前ならば、
少々食べてもどうということのなかった
小さなアイスクリーム。
久しぶりに口にしてみたら、
一つで、もう満腹に近い感覚がするではないか。
 
わずかなもので済ませていると、
少しのもので十分満足できる。
いつもたくさん必要としている生活を送っていると、
いくら手に入れても少しも満足しない。
 
そういうものなのだ。
足るを知る、というのは
真実の知恵であるわけだ。


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2010年11月15日

七五三

七五三。
元来、宗教的な由来が強くないと言われるが、
神社行事のようになってしまった。
 
子どもが、一定の年齢にまで成長するのは、
親の願いでもあった。
他方、そこに達する前に
この世から去らせられる子どもも多数あった。
 
いわゆる出生してから一人前の「ひと」であるという認識は、
必ずしも古くからのものではない。
民法でのように、懐妊のうちより権利を有するなどということも
おそらくなかったことだろう。
 
子どもは何にもまして宝だという万葉の歌もあるからには、
その逆こそが、よくあることだったと見ることもできる。
 
奇数を尊ぶ中国文化に基づいているのかもしれないが、
子ども本人は訳も分からず七五三を迎える。
そして、思春期に友だちと、
七五三ってあったよね、と懐かしい話をするかもしれない。
 
我が家ではついに七五三行事に参加することがなかった。
成長感謝をその代わりに教会で祝ってもらっている。
旧約聖書で、子どもあるいは孫を祝福する親の姿がある。
神に代わり祝福するという責任の重さ。
それがまた、親としての務め。
 
子どもへの願いと祈りは、
いつの世の親にも通じるものがあるだろう。
どこか負い目を覚えつつも。


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2010年10月20日

からだと健康を知る

健康診断を受けない年があった。
今年、受けた。
引っかかった。
 
中性脂肪も厳しいが、
肝機能に異常が出ている。
糖尿も怪しいとされた。
二次検査を受けよ、という指示であった。
 
夏休みの間は、きわめてハードな中にあるし、
少しは改善へと向かってから、とも思え、
つい先日、二次検査を受けた。
 
エコーを、生まれて初めて撮られた。
妊娠時に用いられる、あれである。
妻は何度でも経験しているが、
私はなんだか変な気持ちだった。
 
肝脂肪が明らかだった。
 
血液検査の結果は、次週に持ち越された。
すると、糖尿は関係ないことが分かった。
肝機能の鈍さが、軽度に出ていた。
 
結局、経過観察でよいことになったが、
食生活を改善するように、と医師と話し合った。
妻はこの問題については積極的であったので、
食事を司る者として、私にずっと警告を送っていた。
 
アルコールそのものは、影響は出ないものと思われた。
要するに、「食べ過ぎ」である。
 
私が食べている間は健康に違いない、ということで
私は若い時期と同様に食べる習慣があった。
しかし、それではもう処理しきれない時代に入ったのだ。
 
運動そのものが欠落しているわけではない。
一日一万歩くらいは歩いている。
通勤だけで数千歩、これはかなり早足である。
スポーツをしている、とまでは言えないが、
子ども相手に遊ぶことは比較的体力を使う。
 
本などから、肝臓やコレステロールについての知識を得る。
一概に、健康食品であれがいい、などというのは性に合わない。
機能的な説明が施されていると説得力はあるが、
基本的に、様々なものを適切に取り入れるという考え方を私はする。
ただ、気をつけたいこと、避けたいこと、
逆に、これを積極的に摂るとよいこと、
こうしたことは心得ておきたいとは思う。
 
健康オタクになりたいとは思わないが、
からだのことについて、無知というのも心許ない。
食べるということは、いのちの問題だ。
そして、食べられるものに対する思いも、抱いていたい。
あるいはまた、食べ物をくださる神の恵みにも、もちろん。

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2010年08月23日

正義のために暴力を

正義の実現のためには、
暴力も必要だと考える人々がいる。
 
特別な人ではない。
もしかすると、多分に、あなたも。
 
しかし、正義の実現のためには強制も当然だと考えることは、
基本的に、自分が正義だという前提に立っている。
そして、この自尊心をくすぐるように仕向ける者が、どこかにいる。
誰かが、操ることになりかねないのだ。
ひどく賢い者がいて、人々のそういう自尊心を利用する。
まるで歩兵のように、利用することのできる奴が、どこかでほくそ笑むのだ。
 
彼らは、決して自分が危険な目に遭わないように配慮する。
血気盛んな人々を利用して、争いをさせる。
ほら、これが正義だろう、と扇動して、
そうだそうだ、という声を集めて、それを力とする。
もし何かトラブルがあったとしても、
その声のほうに被害が及ぶだけで
影のリーダーはそれとは無縁の場所で安泰なのである。
 
彼らは自分の手を汚さない。
兵隊が暴力を振るうことはあっても、彼らは慎重である。
でも自分の目標は達成させる。
 
ちょうど、ポケモンのバトルがそれを象徴する。
ポケモンのトレーナー、そしてゲームする当人は、
バトルという戦争をポケモンに行わせるが、
自分自身が傷つくことはない。
電気や炎で傷つくポケモンを利用して、
自分が勝った負けたと騒ぐだけである。
 
暴力により正義が実現できる、という信念を
こっそりとでも有している人々は、
そのようなトレーナーにより闘わされる存在となる。
しかし人間は、ポケモンのように
傷ついたら「もどれ」とモンスターボールに戻って
不思議なことに直ちに回復するという代物ではない。
 
人間は、血なまぐさい戦争の中で、
体がちぎれ、目が飛びだし、
死体は水を吸ってぱんぱんに膨れ、蛆が湧く。
醜い戦争がどうして起こされるかというと、
暴力で正義を実現すべきだという信念が
人々を貫いていたからである。


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2010年06月24日

全国民を代表しておわび申し上げる

沖縄全戦没者追悼式は、昨日
65年という長い年月を経つつ
少しも古びることのない魂の叫びと共に開催された。
 
この日付についてはいろいろと問題もある。
だが、ともかく沖縄の痛みが
決して過去のものとなっていないことを
少なくとも一年に一度でも証ししていくことは
大切な営みとなっている。
 
沖縄戦はもとより、
その後の歴史が今もなお現在そのものであることを思わされた。
基地問題は、将来をも築いていく。
傷つけてきた歴史が、また傷をつけ続けることを
誰一人として忘れてはならない。
沖縄の人ばかりでなく、他の地域の人々も。
 
鳩山前首相は、
ついにこの式典を訪ねることがなかった。
新たに就いた菅首相が出席した。
国を代表する人としての言葉が注目された。
 
やはりライターがいるのではあるだろう。
それを読み上げるだけの役割しかなかったのかどうか、
その辺りの真実は分からない。
基地問題の故に前首相が退陣に追い込まれた直後だけに、
ひとつひとつの言葉には、またかつてない重みがあるはずだった。
 
政治的な駆け引きや
近づいた選挙のための配慮など
あくまでも手段としてしか捉えられない現実の側面を
理解してやらないつもりはない。
だが、私が聞いた次のなにげない一言は、聞き逃せないものだった。
 
「全国民を代表しておわび申し上げる」
 
その通りだ、とお思いだろうか。
私は、この言葉に、失望した。
というより、それが本音で動いているのだと憤りを覚えた。
 
いったい、お詫びされる本人が、お詫びする者を代表とするだろうか。
「全国民」に沖縄の人が入るならば、
自分が自分にお詫びを言っていることになる。
 
沖縄県の仲井真知事は、この基地問題を
「国民全体が等しく取り組むべき課題」と正しく捉えたが、
菅首相は、全国民がお詫びするのだと陳謝した。
 
依然として、沖縄の人は、「国民」に数えられていないのだ。
 
65年前も、そうだった。
沖縄は、日本国民だというふれこみで皇民化教育を施されつつ、
実は日本人ではないという扱いを受けた。
それがための、捨て石としての沖縄戦であったし、
その後の基地政策でもあったのではなかったか。
 
首相は、沖縄を除く「全国民」を代表したと言っている。
沖縄は、その国民ではないという前提である。
根本の部分がちっとも変わっていないということを
ぽろりと出してしまったこの言明だが、
果たしてこの一言にこだわった論評が、
沖縄以外の地域の新聞や報道機関から、これから出てくるだろうか。
出てこないとすれば、
どの新聞もどの論者も、同じ穴のムジナであるということになるだろう。


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2010年05月12日

看護の日に思う

ナイチンゲールを記念して、
その誕生日を看護の日として
必要な医療と、看護師の職場環境についても、
人々に注目してもらう機会が与えられている。
 
もちろん、看護師は天使ではない。
医療機関や国家からすれば、
なんとか人員とその質を確保したいところだろう。
歯車のひとつとして、資格のある者をどんどん入れていきたい。
海外からその人材を、という道も拓けてきたが、
困難な日本語の故に、高い壁があるようだ。
 
職場環境も、一時よりは改善されているのかもしれないが、
二交代制はひとりひとりをぼろぼろにしていかないか懸念される。
危険性は、患者の側にも看護師の側にもある。
まさに、人命が関わる故に、
命を懸けた現場であるのだが、
どこかボランティア的なものが要求されているようにも見える。
 
一方では、少子化問題などともいうくせに、
看護師が母親になることが実に困難にもなっていく。
過酷な労働現場であることを否定することは、
少なくとも当事者でなければ、できないだろう。
 
少女が、将来なりたいもの、夢はと訊かれて、
もちろん年代にもよるが、
ものごころついてから後、看護師という答えは、かなり多い。
その夢を、潰さないような仕組みをこしらえたい。
その夢を、叶えられるような制度を調えたい。
 
同時に心配するのは、
看護師の質の低下である。
すべての看護師が完成された存在ではないのは当然であるにしても、
技術的・倫理的に
あまりに低レベルのプロを生み出してもらうのも困るのだ。
 
看護専門学校から看護大学へ次々と移行していく中で、
知識の習得は多くなったが、
実習は激減している。
頭でっかちではないかとの懸念もあるが、もちろん、
知識があることは、経験を深めるために有用である。
うまく活かせる制度であってほしいと願う。
 
必要な機関や必要な人材は、
世の中皆で支えていこうとする気持ちが欲しいところだ。
あなたもまた、医療制度を支えている一人なのである。


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2010年04月05日

もしもそんなことが

北海道で、車の中でどうやら火遊びをしたらしい
子どもたちが焼死するという
いたましい報道を聞いた。
その矢先、
宮城県で同様に車から出火、
ただし救出されたというニュースも流れた。
 
よその親を非難するようなことをすると、
自分自身に矛先が向くような羽目になると
分かってはいても、なんだかうなってしまうものだ。
 
車内にライターがあったということ。
三歳の子を筆頭に子どもたちを車に残して
親が長時間(10〜30分)離れていること。
 
「もしも、そんなことが起こったら」
いくらかの想像をしたならば、できないことでもある。
万一そんなことが、と思うことよりも、
「まさか起こらないだろう」が先立ったとき、
えてして事故は起こるものである。
 
その意味では、安全はつくらなければならない。
意識して、労苦して、犠牲を払ってまでも、
創り出さなければならないものである。
 
子どもは、ほんの僅かな時間に飛び出したり、
親が予想もしないような行動をとったりすることがある。
だがまた、それをいくらかでも予測して、
危険を避ける方策は、いくらでもあるものだろう。
わざわざ夜に子どもたちを街に連れて行き、
目を離して放置しておくというのでは、
危険の中に置き去りにするに等しいものだ。
 
いやはや、そんなことは、
少なからぬ親がやらかしている。
私も例外ではない。
だがまた、日頃から
危険については口やかましく注意し、
違反行為については鬼のような形相で怒っておく、
そんな演技もまた、必要であるかもしれない。
 
私たちが殆ど無意識のようにやり過ごしている事柄についても、
それをする意義を考えるとか、
その後どういう悪いことが起こる可能性があるかを考えるとか、
努力して想像するところに、
少しでも、危険を避けるヒントがあるのではないかと思う。
 
運転免許試験のときに、よく言われた。
「もしかすると陰から子どもが飛び出すかも、そう考えて運転せよ」と。
単純な原理であるかもしれないが、
少しでも安全を生み出したいのならば、
まずそこから実現させることを考えるとよいのではないか。
 
それにしても、
火遊びのために亡くなった子どもたちのことを不憫に思う。
可哀想でならない。
 
もちろん、泥酔の運転者により追突されて
亡くなった三人の子どもたちにとって、
ごまかしと言い逃ればかりを続けているその運転者は、
どんなふうに目に映るだろうか。
 
そしてまた、自分自身も、
そのような者にならないようでありたい、と願い、
そのためにはどうすればよいか、
その都度考えていきたいものだと思う。


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2010年03月31日

桜の樹の下

できるなら、桜の花の下で死にたいものだ、と
詠んだ歌人がいたという。
桜を愛する人は少なくない。
同時に、桜はどことなく怖いという人もいる。
彼岸花もそうだが、葉がなくぬっと花が咲くところが
何か感じさせるそうなのである。
 
その散り様もまた、
何かを思わせる。
日本人の精神に影響を与えたのは確かであろう。
 
温暖化の故なのか、
この桜の満開の時期がだんだん早くなっているようにも見える。
だがまた、花冷えは厳しく、
京都府北部の妻の故郷でも昨日積雪があったという。
冬のような寒さに、なくなった灯油のことを複雑に思っている。
 
立春大吉、という言葉がある。
母の実家が禅寺であったため、
貼ってあったのを見たことがある。
 
祖父が亡くなったとき──日付は、今日だった──、私はそばにいた。
幼いながらも、その悲しみはたとえようもなかった。
春休みだったために、
容態の悪かった時から葬儀までずっと同行した。
 
立春大吉じゃなくて、大凶だね。
デリカシーのない私の発言は、
もちろん直ちに窘められた。
 
あのとき、桜は、まだ咲き誇ってはいなかったのではないか。
いや、桜という記憶が、あの風景にはない。
やはり三月末だと、あのころはまだ咲いていなかったのか。
それとも、私が桜などに無頓着であったのか。
頭の中に響き渡っていた、
意味もないようなメロディは、いまだに忘れないのであるが。
 
テレビでなじんだ俳優や歌手が
ぽつり、ぽつりと鬼籍に入る。
 
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて
信じられないことじゃないか。(『桜の樹の下には』梶井基次郎)
 
文学の影響も、小さくはない。


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2010年02月08日

一芸に秀でることと満遍なく勉強すること

バファローズの小瀬浩之選手の死は、
チームのみならず、野球ファンにも
大きな衝撃を与えた。
 
何がどうだったのか、分からない。
そして、多分誰にも分からないし、
分かったふりもしたくない。
 
彼の事情がどうであったのか、想像もつかない。
また、安易に決めつけるのもいけない。
それとは一応無関係に、という意味で、
少し思ったことがある。
 
過去に、野球関係者で自殺した人もいる。
一般的な中では比較的少ないのかもしれない。
一日に百人を数えようかというほどの人が
自殺している現実の中では、
プロ野球という狭い領域かもしれないが、
特に多いというふうには見えない。
 
だが、中には、引退後に
うまく仕事が見つからない、という背景の人もいる。
野球ができなくなったとき、
他の何かができない自分を痛感したとき、
気が滅入っていくのかもしれない。
 
一つのことに秀でるということは、悪いことではない。
一芸入試ということも褒めたたえられたことがある。
人間、勉強がすべてじゃないんだ、
勉強ができなくても、何か一つに優れている人を認めよう、と。
 
それはそれで嘘ではないのだが、
その一芸のどきる人が、
その一芸だけを仕事として生きていける保証は、現実にはない。
野球しか知らない人がいたとして、
現役引退後も野球関係の仕事を続けられたなら、
それは幸せであるかもしれない。
だが、そうできないとき、
他の仕事が何もできないということになると、辛いものがある。
 
「巨人の星」の星飛雄馬のその後のエピソードはよく知らないが、
当初は野球のほかには何もできない人であるように描かれていた。
ライバルの花形満は、たぶんいろいろできたことだろう。
こちらは、自動車会社のトップの職を務めている。
 
どうして勉強はしておけ、と言われるのか。
勉強ができなくても、一芸ができれば、夢を追えば、という論理もあるが、
その夢が実現でき、その道だけの生涯を送れる人など、
実のところそう多くないのが現実なのだ。
勉強しておけば、つぶしが利く。
少々苦手なことでも克服しようとする勉強の能力があれば、
置かれた現実のどこかに食らいついていける可能性が高くなるのだ。
 
苦手な科目は受験科目に選ばなくてもいい、という風潮がある。
だが、センター試験でも、多数科目を必要とする受験制度はなくならない。
それは、必要なことなのだ。
好きな勉強だけやっていればいい、という考え方では、
一芸に秀でたとしても、
生き方として逞しくなれないのだ。
 
わさびやからしを好まない若者が増えているという。
そういう育てられ方をしてきたせいでもある。
新たな刺激を求めて歩み出ようとする気概に乏しく、
できるだけ間違わないように、とおそるおそる歩くような足取りに見えないか。
思い描いた夢の通りに死ぬまで生きていられたら幸福であろうが、
思い描けない事態を生きなければならないことが、きっとあるだろう。
 
ホークスで愛された大越選手は、
ちょっと理不尽な解雇のような形で引退を迫られたが、
教育関係の資格をとりたいと、
様々な勉強を始め、そういう道を見出していたはずだ。
そのとき、野球で得た経験が、また生きることになるだろう。
 
一つのことに熱中するのは、いいことだ。
だが、それを活かすためにも、
さしあたり勉強はしておくがいい。
勉強の能力を身につけておくといい。
何かを始めなければならないときに、その経験が役に立つ。
いわば、勉強の仕方というのを身につけておくのだ。
 
だから、勉強が何の役に立つのか、などという疑問を、
勉強がめんどくさいからという理由で正当化している中学生などがいたら、
まさに勉強こそが役に立つのだ、と言ってやりたい。
勉強ほど、役に立つことはないのだ。
 
その上で、自分の道を歩み、力を伸ばせばいい。
勉強などしなくても一つのことをしたから成功した、などと言う
偶々運のよかった成功者の自慢話を、真に受けてはならない。


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2010年01月17日

震災の日に

『防災の決め手「災害エスノグラフィー」』という本を読んだ。
すでに書評のほうで触れたので
そのこととはあまり重複しないよう心がけて、
考えたことを伝えたい。
 
とにかく、
私たちは送られた情報から
一面的な受け取り方をしがちである。
住民同士の美しい助け合いがあったのは事実だし、
そのような面をむしろ報道しようとする姿勢も理解できる。
だが、報道したということは、
それがごく日常ではないということでもある。
醜い争いや辛い人間関係などで一杯、というのが
実は日常であって、
そんな中で、何か助け合いがあったということが
ニュースとして知らされたということも十分あるうるだろう。
 
難しい。
日常だからこそ、報道されるということもあれば、
非日常だからこそ、報道されるということもあるのだ。
 
それは、報道されないことが起こっていない、ということにはならない。
逆に、報道されえないことでも、切実な問題がある。
かの本の中で、
遺体の火葬についての悩みが繰り返し書かれていた。
そう。一度にこれほどの死者が出ることを想定していない故に、
火葬が間に合わないのだ。
冬であったが故にまだいくらかでも猶予があったかもしれないが、
葬儀屋などによる防腐処理などがなされることもないため、
過ぎ去る時間の中で、野焼きを求める遺族もいたのだという。
それはそうだろう。
 
そして、消防活動と人命救助との間で選択を迫られる
ぎりぎりの状況に追い込まれた消防隊員の決断がある。
それを私たちがこの高みに立った場所から見て、
非難するなど、できないものである。
苦しい選択をしなければならず、また
それ故にその時のことが将来もずっと残るということもある。
自分の家の無事を確認するよりも先に、
公務として不眠不休で働いた職員の方々を、
尊敬しても、批判することなど、できるはずがない。
 
それでも、あの選択はどうだったのか、
この人たちには、ずっと残ってしまうものがあるのだ。
 
生き残った人々についても、
まだ元の生活に戻れているわけではないし、
経済的に追い詰められたり
傷ついた体や心を抱えて苦悶している人々もいる。
震災は過去のことではないし、また、過去にしてはならない。
 
そして、傷つき不安な生活基盤の中に置かれた子どもたちの就学のためになされている
あしなが募金活動に対して、
中傷をしてくるような真似を、
いやしくも人間であるなら、絶対にしてはならないはずである。
 
遠き国や、という讃美があるが、
関東大震災を見た外国人の眼差しを通して生まれたものである。
阪神淡路大震災の時にも、繰り返し歌われた。
時に、クリスチャンでなくても、
教会で歌われるこれを聞き、共に歌う人もいたという。
また、復興の力の一つになったとも聞く。
かつての聖歌にあったのが、
どういうわけか新聖歌には削られてしまっている。
残念でならない。
 
なお、12日に発生したハイチの地震のその後が懸念される。
黒人が大部分の、歴史のある国である。
国民の多くがカトリック信徒であるとも言われる。
歴史の中に不幸な側面も多々あったと聞く。
ともかく祈らずにはいられない。


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