思い出

2010年12月31日

宇宙・明日・救い

2010年というと、
アーサー・C・クラークの『2010年宇宙の旅』を思い出す。
と言っても、私は映画しか知らない。
もちろん、あの『2001年宇宙の旅』の続編である。
 
そこでは、木星が太陽化した。
小説では、ルシファーと呼ばれるようになったらしい。
堕天使の名である。
 
現実には、
あのように宇宙開発が進んだわけではなかった。
だが、考えてみれば、宇宙を開発するというのは、
戦争をするに匹敵するくらい、
莫大な費用を使うと同時に、
実入りが期待できない事柄であったことだろう。
 
昔はSFと呼んだ。
宇宙戦艦ヤマトもガンダムも、
今の若い世代や子どもたちにさえよく知られているが、
最初は私の子ども時代の産物であった。
 
おそらくは、
手塚治虫の描いた未来像が
大きな影響を与えていると思われる。
それは、荒唐無稽な未来物語ではなく、
様々な資料にあたって学び、さらに
自分の想像力と構成力を駆使して、
生み出したものであった。
 
人類は宇宙へ出て行く必要がある。
それは、この地上での限りある資源や食料、
そして起こりうる争いと滅亡とから
救われるための脱出路でもあった。
 
チリの鉱山での脱出劇も今年あった。
閉じこめられた人々が、
不死なる名をもつ鳥に抱かれて
光の国へと引き上げられていった。
 
まるで、最後の審判の救いのようではなかったか。
 
救われるというのはどういうことなのか。
私たちはこの地上を、
どのようなものとして今捉えているのか。
 
まだ、答えは簡単には出ていない。
出ることもないかもしれない。
だが、問いかけていく中から、
進路というものも見つかるような気がする。
 
2010年から2011年へ。
ひとつ超えていくこの時に、
私たちは今をどのように受け止め、
明日をどのように願うのだろうか。
 
素朴ではあるが、
人は、どこから来て、どこへ向かおうとするのか。
この問いは、根本的である。
聖書は、その問いに道筋を与えている。
答えを知るのは神のみであるにしても。


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2010年11月21日

万年筆

近頃は、万年筆というものが、
必ずしも万年という意識では使われなくなった。
もちろん、当初より一万年を意味するものではなかった。
インクを新たにつぎ足すことで、
ずっとそのままの手触りのペンが使える、
ペン先も金を使い強度を増して、
使い捨てず使い続けられる、という意味ではなかったか。
 
そもそも、スポイト状に吸い込み式であった万年筆を、
若い人は知らないのではないかと思われる。
そして、万年筆が物書きのステイタスであったなど、
思いも寄らないのではないだろうか。
 
百円均一の店にも、万年筆はある。
万年筆という名前で、使い捨てのものすらある。
カートリッジ式のものは、
アクリルのボディで、中身がすっかり見えており、
ボールペンと違うのはペン先の部分だけ、というふうでもある。
 
その万年筆、私は仕事でも使う。
採点をするときに、赤は重宝する。
ただ、アクリル製である点で、ひとつ困った。
キャップに、ひびが入ってしまったのだ。
パチン、としまらなくなった。
 
これは、持ち運べない。
シャツのポケットに差していたとしたら、
気づけば胸が真っ赤という、
事件性のある格好になってしまう虞があるからだ。
 
家で置いて使うようになった。
で、代わりのものもまた安物で済ませた。
さすがに私も、原稿用紙に万年筆で、ということは今はない。
大学時代に書いた論文は、その形態であったのだが。
 
新しい万年筆にカートリッジをはめたが、
なかなかペン先からインクが出てこない。
しばらく置いていたが、出てこない。
これは不良品か、と諦めて、
古いほうのものに差して、キャップを新しいものに換えてみた。
つまり、車のエンジンはそのままで、ボディだけ換えたようなものだ。
 
と、新しいほうにインクが通じたことが分かったので、
やはり、とまた新しいもののセットで組み直した。
やはり、ペン先が摩耗していない分、
シャープな書き味がある。
 
たかが百五十円ほどである。
書き味も何も問題などないのかもしれないが、
ちょっと郷愁を誘うような、万年筆の味わいであった。

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2010年11月17日

威張っていても

失敗をひとつひとつ責められるのは辛い。
その点、私は
失敗が多々あるにも拘わらず、
それを責めてくる人がいない。
 
これは、助かっているとも言えるし、
甘えているとも言える。
小さなところにまで目くじらを立てて
指摘してくるということが、あってもよいはずだ。
 
それは、私を謙遜にするかもしれない。
なまじ誰も言ってこないから、
私は図に乗って、調子に乗って、
平気で他人を攻撃してゆくのかもしれない。
 
弱い者をいじめるかのように、見えるだろう。
そして、私自身弱い者であるのに、
誰もその弱い者をいじめることがないので、
偉そうに威張っているだけという実情があるのかもしれない。
 
尤も、執拗に私に対して攻撃をしかけてきた人が
皆無であるということはない。
対処に困ったこともある。
そんなときの私の態度が、また
ふんぞり返っていたかもしれない。
 
陰で、ずいぶんな言われ方をしているのも事実だろう。
まともに言っても私が聞くようなことがないので、
そして私が自分を曲げるようなことがないので、
言っても無駄、と非難しているかもしれない。
 
その人が、単にご自分を正当化したいがために
虚偽を振りまいていたとしても、
私が非難されていたというのは、
私にも原因があるからだ。
 
面と向かって叱られることがないとなると、
私はますます天狗になっていく。
鼻をへし折られて惨めな思いになったことが……
ないはずがない。
その経験は、私を大きく変えた。
しかし、そんなことをまだまだずっとやっているかのように、
見られているかもしれないし、
見られて当然だとも思う。
 
だが、自己嫌悪などに陥っている暇はない。
威張っていても、弱い人間の一人にすぎない。
聖書がなかったら、
どんなに破滅的でいたことだろう。
だから、また聖書を開く。
そこから、他者の声を聞くのである。
 
神という、絶対の他者から。


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2010年11月11日

アニメのタイトル

テレビの子ども向け番組、
たとえばアニメ番組で、
物語のはじめに、その日のタイトルが出てくる。
 
たとえば(ダサイが)「意外な事件」だとする。
それが読み上げられる。
よくある光景だ。
 
私はここでよく、違和感を覚える。
このタイトルを読み上げる声が、
アニメの主役の声であったときだ。
 
この主役は、この物語が始まるそのとき、
「意外な事件」が起こることは知らないはずだ。
だが、物語の始まりの時点ですでに、
「意外な事件」だとその声が告げている。
 
アニメが始まったとき、
この主人公は、そんなことが起こることを知らずに
のほほんとやっているわけだから、
ここで嘘っぽい白々しさを私は感じてしまうのだ。
 
いい大人がなにを、と仰るだろうか。
いや、子どものときからそれを感じている。
声が出ず、文字だけの場合は、それは感じない。
感じるのは、登場人物の声が読み上げたときだ。
 
子どもにとり、アニメは絵空事ではない。
時に自分がヒーローになり、
また感情移入もしてしまう、
一つのリアルな時間空間である。
 
そのリアルさの中に、
矛盾がいきなり入り込んでしまうと感じるのである。
いかにも、
これは演技ですよ、芝居ですよ、と
宣言してしまうようなやり方を突きつけられると、
子どもはもうそこから距離をとってしまうのではないか。
 
小説の中には、
主人公がストーリーテラーとして登場し、
思い出を語り聞かせるという手法がある。
作家の中には、リアリティを失うので避けたがる人もいる。
一つの手法としては面白いし、味わいもある。
落ち着いて話が聞けるかもしれない。
 
だが、子どもはおじいさんから昔話を聞こうとして
アニメの物語を見ようとはしていない。
少なくとも私はそうだった。
主人公がタイトルを読み上げると、
自分の体験として物語に入りたいときに、
いきなり壁を設けられるような気がして、
一歩引いてしまうのだ。
 
こんなことを感じた人は、
ほかにもいらっしゃるのではないだろうか。


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2010年10月09日

唱歌を遺したい3

少しばかり古くさい言葉は、もう意味が分からない。
それが若い世代の現実である。
辞書を引こうなどとも思わない。
日本語の語源を知る機会にもなるが、興味がない。
言葉の世界を探ることは、日常の理解にも深みを与えるが、
面倒くさいことこの上ない。
紙の辞書は殆ど引かず、電子辞書しか使わない学生たち。
言葉が、ただの方便に成り下がっていく傾向がある。
言葉は功利的に使うしかないのだろうか。
そう言うと、逆に今度は、
言葉は霊魂だ、つまり言霊なるものがあると信じ始める。
どうにも始末に負えない。
 
他人事ではない。
キリスト教でさえ、もう過去の遺産だ、と
決めつける輩がいろいろ出てきつつある。
そもそも歴史はどうであったか、
そのシンボルはどんな意味をこめているのか、
見出す、あるいは見出そうとする言葉を用いることも無理だとすれば、
唱歌のみならず、人々が皆一つの大きな枠組みの中で有するパラダイムが、
いったい何であるというのか、
そんな様々な課題が、同じように押し寄せるであろう。
 
人は、自分の経験した範囲の中で「なつかしさ」を感じるものであるが、
直接経験しなくても、
歴史なり古典なり、先人の遺したものを味わっていきたいものだ。
聖書を解釈し、保持していくということも、
それと似ている面があるかもしれない。
 
読書の秋、
書を読むというのは、どういうことであるのか、
一部の人しか、その愉しみをもっていないのではないか、と
ちょっと心配に思うことがある。


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2010年10月08日

唱歌を遺したい2

生物も、滅亡が囁かれているものが数多い。
これだけ都市部ではまともな生き物の棲む場がなくなるのだ。
生物が減らないほうがおかしい。
動物園でおなじみの動物にしても、
実のところ絶滅が避けられないという悲観的な状況のものもある。
このサイトで目立たせているパンダはもちろんのこと、
カエルですら、かなり危ない。
いや、全身の皮膚でも呼吸のできるカエルだからこそ、
環境の影響をまともに受けてしまうのであろう。
 
歌もまた、いつしか絶滅が危惧されるものとなる。
その時だけの商売的な流行り歌ではなく、
歌い継いでいきたい、芸術的でもある、唱歌。
作者の名前を時に隠してしまう公的な意味も含ませて、
今となっては誰が真の作者か分からない事態も生んだ。
聞いたこともない子どもがやがて成人し、
いよいよ誰もその曲を知らないようになっていく。
 
悲観的に見ればそういうことだ。
しかし、種としての役割を担った生物ならば理由があるだろうが、
明治大正の唱歌なるものが、
それほどにどうしても残さなければならないものなのだろうか。
 
このラジオのリスナーは、若い人も少なくないが、
そこそこの年齢の方が多い。
ラジオ深夜便よりは若いかもしれないが、
ベテランの部類の人がけっこういることだろう。
この人たちにとって、唱歌が懐かしいのは事実である。
だから、自分が子どものときに聞き、また歌った歌を、
自分の子や孫に伝えたい、と思うのも自然である。
ただ、残したい理由が、自分のノスタルジアにあるのみだとすれば、
本当に残さなければならないか、という疑問も生じてくる。
 
読書という文化もまた、絶滅の危惧の中に置かれている。
マンガも本だし、ひとつの文化であるが、
マンガは読書のもつ世界とはまた違うところを泳いでいる。
著者のもつイメージを客観的なものであるかのように
定着させようとする働きがマンガにはあるから、
マンガだけでは、読書の広く深い愉しみは
残念ながら十分に伝えられないであろうと思われる。
 
(続く)


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2010年10月07日

唱歌を遺したい1

伝えたい歌 残したい歌。
NHKラジオビタミンの
火曜日11時過ぎからのコーナーである。
 
よく紹介されるのが、唱歌。
古き良き歌の謂われや背景を紹介して、
受け継いでゆきたいという願いと共に、
パーソナリティの神崎ゆう子さんが
毎週2曲程度を調べて、伝える。
 
唱歌は、明治期以降の西洋音楽の輸入の中で育まれた。
讃美歌を大いに取り入れたらしい。
讃美歌にそのまま歌詞が新たに載せられたものもあるし、
そのような音楽を学び作曲したのも確かである。
 
学校の音楽の教科書からも、
今そういう歌が消えていっている。
歌詞が分かりにくいというのもあるし、
時代が古いという考えもあることだろう。
新しいものでもいいものが沢山ある、ということで
押し出されて過去へ消えていくものもある。
 
私などはよく聞き知っているほうであろうが、
さらに若い世代だと、全く知らないというものもある。
歌のおねえさんとして、
そうした唱歌や童謡を歌い続けてきた神崎さんとしては、
忘れられていく名曲が忍びないのでもあるだろう。
 
(続く)


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2010年09月25日

タバコの値上げ

今はタバコを吸わないから、
タバコの自販機などめったに眺めない。
タスポはその後どうなったのか、
ちょっとニュース的に気になることはあるが、
正直、さして興味がない。
 
スーパーのレジで
袋詰めしている相方を待つ間、
目の前の自販機を見つめて、驚いた。
10月から、タバコが概ね400円を超えるようになるという。
一箱買うというのも、
今の私の経済力ではちょっと痛いではないか。
 
種類もずいぶん増えているのが分かった。
もう、判別がつかない。
マイルドセブンの多様化には、
もう全くついていけないように思えた。
 
さらに目立ったのは、
洋モクがむしろ安く見えることだ。
昔は、洋モクはちょっとリッチな象徴だった。
 
自分が吸っていたころには、
吸わない人がその煙をどう思うかなど、
考えていなかったと言えるだろう。
だから今、いまだに歩きながらタバコを吸う人も見るけれども、
他人のことなど考えていないのだということは、よく分かる。
しかしそれにしても、
よくも長い間、人々はタバコの煙に我慢していたものだ。
それほど、偉いことのステイタスだったのだろうか。
 
さすがに渋すぎたが、「わかば」は金がないときに買った。
今回も、まだ安さの点では目立っている。
ハイライトは、まだ上の世代の愛用者が多かったようだ。
時代は、だんだんにニコチンとタールを下げてきた。
 
世間のいろいろなものが、
刺激を少なくし、毒を減らしてきた。
体罰が当然であった時代は、やはり再び来ないほうがいい。
わけもなく殴りつける軍隊は、やはり出会いたくないものだ。
 
セブンスターが似合っていた先輩の姿が、懐かしい。
もう、価値観や考え方も
あのころとはずいぶん変わってしまった。
 
あの頃に置き忘れたものを
いまなお大切に磨いている仲間がいることが
インターネットによって分かるというのも、
不思議な時代の進展のようだ。


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2010年08月31日

夏休みが終わる

あれほど長いと思われた夏休みが、ついに終わる。
人生の寂しさを思わせるような、ひとときだ。
いや、夏休みが後半を迎える辺りから、
そういうことがどうしても頭から離れられなかった。
私は小さなときから、
人生との比較を迫られている思いがしていた。
 
さらに、人生の中で
あと何度夏休みを迎えられるだろう、とも思った。
社会人になっても、夏休みという言葉はある。
いくらかの連続休暇を与えられることは、広くなされている。
でないとしんどいだろう。
今年はそれでも倒れる人々がいた。
 
野球部の中学生が
次々と倒れるニュースもあった。
熱中症だ。
インタビューを受けた指導者は、
水は与えたのだが、と反省の色なしだった。
数時間炎天下で練習を続ければ、
水分補給くらいでは耐えられない現実があるのだが、
自分の無知をも露呈するばかりか、
一つ間違えば指導する生徒たちの生命をも奪うところだと
どうやら自覚がない様子だった。
 
私も、優れた野球部指導者が
安全管理や行動において
あまりにも無知で、無責任であるために
それを全面的に庇う校長や教育長などとも出会い、
(実は巧妙にブレインとして動いていたのは教頭なのであったが)
教育行政の腐敗をまざまざと味わったことがある。
だから、あのテレビの指導者も、
ごく普通にいる教員なのだろうと醒めた目で見るしかなかった。
 
ともかく、夏が過ぎていく。
ただしそれは、暦で8月という人為的な区分によってそう感じるだけである。
たんに人生の夏も、決まった年齢で終えるわけではない。
それどころか、ずっと青春だということさえ、あってもいい。
甘っちょろい無責任な大人でいることは好ましくないが、
青春の輝きや希望、立ち直る力など、
失う必要のないものは、案外たくさんあるかもしれないとも思う。



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2010年08月15日

戦争終結と無事故への道

ともすれば、
あの終戦の日の玉音放送が……というイメージが、
私たちの世代にはまだある。
親が聞いている場合があるからだ。
 
しかし、実のところそれを体験した人は
確実に少なくなっていく。
65年の時間はあまりに長い。
 
その期間に合わせてここのところよく感じるのであるが、
バビロン捕囚の間に培われたユダヤ人の信仰が
むしろその期間に一つに育てられていったのは
やはり驚異的である。
環境をうまくとりいれるけれども
どこかふわふわ安定しない日本社会とはまた
違う趣があるのだろう。
 
単純に、どちらが良いとか悪いとか言っているのではない。
しかもまた、
そういう中にも日本社会の中心に、
何か一筋通ったものがあるとすれば、
それもまた謎となる。
 
あの日航機墜落事故からも25年がたつ。
四半世紀だ。
奇跡的な生存者がいたことは
ひとつの希望であったが、
やはり飛行機事故の恐ろしさは私たちを震撼させた。
 
それほどの事故が激減していることは、望ましい。
他方、自動車事故も減少の一途をたどっている。
事故後一日以内の死亡しかカウントしない故に
実情とはまた違う数字でしかないのだが、
たとえば自動車のメカニズムそのもののおかげで
死亡に至らないということも多々あるものだろう。
シートベルトもまたその一つであろう。
 
事故は一瞬である。
今まで遭ったことがない、などと威張ることはできない。
遭っていたらその瞬間、
もう証言できなくなるということがあるのだ。
 
尼崎の事故でさえ、
もう風化しそうになっている。
経営上いろいろ言われながらも
航空会社は事故のないように頑張っている。
JRは先日の保線車輌事故のように
相変わらずという印象を与えている。
競って、無事故へ挑戦するようでありたい。
それは、自転車に乗るひとりひとりまでが。
 
その積み重ねの上に、
きっと非戦も成立するのだ。
日常の平和を必死で護ることから始まって、
大きな平和が実現する道が拓かれるのだと考えたい。


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