あたらしい引越し場所&今やっている事

 あたらしい引越し場所

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 レイ& マリアの里親さん勝手に応援の為の共同管理ブログ

里親さん応援の為の資料室



 
 施設内虐待について知ってください



児童養護施設のイメージ・アップの為に奔走する大人たち

告発する事によってしか内部事情を明らかにできないタイプのサイト管理者は思うだろう。「削除依頼」について、きのうの番組を見て思った事。本当に誹謗中傷で全くそんな事がないのなら「イメージが悪くなる事を心配する事」はないと個人的に思う。(それが事実無根であるならきちんと謝罪し、それ相応に対処するのは当然である)イメージが悪くなる場合、何を心配するかによるが、児童養護施設のイメージが悪くなる事について、(最低でも)虐待していない施設であるなら何を心配する必要があるのだろう。

一人の匿名の書き込者による告発、あるいは当事者による命を掛けた書き込みに対して、その「一つの真実」に対して、全く神の前に隠すものない事を知っているわたし達人類だから、それを前提として会話をするのなら「イメージダウン」など、どうでもいいではないか。それとも自分が能天気なのだろうか。真実に至る道は、匿名書き込みという獣道をゆく者にとっては、明るくまっすぐなのだ。

養護施設という「運営する側」としての思惑とは子どもの幸せではないのだろうか。もしわたしなら「イメージ」よりも子どもの安全を第一に考える為、どんな告発に対しても胸を痛め、まず調べるだろうから。

もし自分にも「ある真実」がはっきり明示できるのだったらいくらでも書く事ができるけれど、わたし個人は過去が見えないので(過去を思い出せない、施設にいた事はわかるが、施設という名称から感じられる気分の悪さしかない)児童養護施設を「印象=イメージ」でしか語る事ができない。だからわたしが語るとキャンペーン行為と思われ、職員から警戒される。

たしかに過去に、個人的にはきついしつけの結果、今も軽い、いや軽すぎるゆえどうにもならない怪我などが多少残るものの、あの頃日本はそうだったと、戦争時代を生き延びたお姑から激励?されると、何が問題点なのかわからなくなってしまう。

でも、軍靴の足跡高い時代は、家庭育ち施設育ちともに逆境の時代だった。わたしが子ども時代を過ごした時は、現在社会で家庭の子は総中流社会を満喫している時代で、人々全て楽しく生きている中、児童養護施設で親もなく生きているとは言いづらかった。

だからやらり戦争時代のひいおばあさんの話をきいて、自分はマシだなどと考える必要はないと思う。その時代の中にあり、いかに周囲の中から取り残され、差別と偏見のしわ寄せを受けていたかが問題なのだと思う。そこに施設育ちの独特感、特殊性があると思う。

児童養護施設の子は、親がいないから臭いといじめられる。それも又施設の子へ対するイメージ。だけどそのイメージを植えつけられている施設の子を守ろうとする、立ちはだかろうとする職員は誰もいない。施設の子が家庭の子に比べてイジメが少ないわけではなく、自分が死を選ぶ事で人を動かせると思っていないから、誰にも言わないだけだ。

わたしはそう思う。個人的な意見だけど、死にたくなる気分になる時は、訴える相手がいる場合だと思っている。自分が死を掛けても意味がなければ人は何もしない、生き延びようとする。

施設の子をイジメから守ろうとする職員は、児童養護施設の印象が悪くなる事なんかよりも、子どもが少しでも幸せに暮らせる事を心底考えている筈とわたしは思う。

それなのに、児童養護施設のイメージが悪くなる事に対してはとても心配している。とても不思議な事だと思う。養護施設の見てくれなんかより、施設の子どもが「親なしだから臭い」とイジメを受けている事の方が、怒りで気が動転する事ではないだろうか。

これもまた、施設児童としては甘い考えかもしれない、施設は施設、家庭ではない、職員は指導員であり、親ではないのだから。ならばせめて「施設は施設でいいじゃない、家庭じゃないんだから、あなたは職員、わたしの親じゃないんだから」と思うのだ。

わたしにとって施設職員は「この子と一生関わる覚悟がない」という点において、せつな的な通行人でしかないのです。だから「養護施設を家族、家庭と言わないで」という、養育放棄児童の本音があります、ただし他の、虐待家庭からの子や虞犯の子はその限りではありませんが。里親家庭では必要とされる事を模索し、施設では無駄な事を排除する事を模索している、わたしは今、施設で得られたビジネスライクな性質をきちんと受け継いで生きている。

大人がそれぞれに求める「子ども」らしさ

・・・と書いている自分の姿勢が相手におもねるようで、あまり好きじゃないけれど書いてみる。そろそろ引越し先も決定し、あとは記事の移動のみとなった今朝。ふと大人は委託や措置されてくる「子ども」にどんな性質を求めているのかと、問いかけてみる・・・。

大人は、子どもに、どんな風な子どもの姿を重ねているのだろうか。または、どんな子がきてもオールマイティでのぞむつもりでいるだろうか。たとえば、自分になじんでくれない、水臭い子、それでいながら誰に対してもそこそこ愛想のいい、感情のほとばしりの感じられない無気力な子がきたら?

その子自身は施設から「問題なしのいい子」とお墨付きを与えられているのに、イライラさせられる。その子には問題は見当たらないのに、その子とはソリがあわない?それを「生理的に合わない子」として施設へ返してしまうのだろう。大人同士の付き合いならそれでいいが、不調で戻される子は「やっぱりね、大人の都合に振り回されたよ」と見えないところでため息を吐くだろう。

ブログで発信しはじめた当初より、今は里親家庭に警戒心も持ち始めている。閉ざされた空間、家庭という新たな世界。親になる人を親として認識できない児童養護施設から来た子どもたちは、虞犯でもなければ虐待の痕跡があるわけでもない、集団の中で問題なくすごしてきた子ども。しかし、自分の事は大人の手を煩わす事もなく始末できる。

そのようなタイプの子がきたら、不調で施設へ戻す前に里親はどんな心理状態へ追い詰められるのだろう。一組の夫婦の妻は「やさしい母と子ども、なんでも相談してくれる」をイメージし、一緒に楽しく過ごせると思うのだろう、夫は「力強い父、家父長としての尊厳」を持ちたいだろう。でもそれを児童養護施設から来た子は、やらせてくれない。

児童養護施設から来た子は自己完結で生きている、結果的に、里親委託をした大人たちに対して「親をやらせてくれない」事に激しい怒りと憎悪を感じるかもしれない。

子どもが子どもらしくなくては、親として自分のよって立つものがなくなってしまう。

児童養護施設しか知らない子どもたちは、児童養護施設で育つ際に不必要と思われるものはそぎ落として生活している。又は乳児院から来た子は、不必要なものは育てられていない(TT)家庭ではたくさんの付加価値をその子どもにタグのように付けて、親は親の存在理由を示せるかもしれないが、児童養護施設では子ども=単に措置児童の一人でしかない。そこに子どもらしい子どもを必要としていない。

単に集団生活を乱さない子ども集団を束ねる事が目的であり、規律を乱さない子ども集団をすばらしいと感じる大人は一人の親的職員じゃなく軍隊長の気分だろう。一糸乱れぬマスゲーム的な子どもたちを彼らは求めている。個人の思いが丁寧にキャッチされる事のない、大雑把な心理と統制下にある規律と緊張だけが反映されている。

里親さんによっては、Mariaの方が好きと感じる方が多いだろう。昨日も彼女と話していて、じっくり染みてきたのだけれど、レイよりはMariaのメッセージ性は明確で強く、そしてわかり易い、そして胸がキュンとなるようなメッセージにあふれている。Mariaという少女の涙と痛みがそこにあるから当然、里親さんはそれを鋭敏にキャッチするだろう。

でも、レイはMariaを、翻訳してくれる人だとも思ってる。Wolfさんもそう。言いっぱなしで説明が苦手なレイの代弁をしてくれる気分になる。でもMariaがその、つまりわたしの心情をできるだけわかり易い言葉で説明してくれる。そこにはMaria自身の過去から彼女が自分の気持ちをわかりやすく残そうとしている努力が結実している。

里親登録をする時、里親さんはそれぞれの事情の中で里親制度を知る。偶然知ったその里親制度に登録をする時の動機が、原初のイメージではないかと思う。その時、どんな生活を心に描いているんだろう。Mariaとわたしは性格がぜんぜん違う。少なくとも2人の性格について好きになるか苦手かと瞬時に感じる感性は、読む側である大人の過去から付随する好悪を反映して記事を読んでいることを自覚しているだろうか。里親登録時のこうあるべき家庭の印象を、Mariaとレイそれぞれになぞらえても、子どもの個性はそれでは足りない、児童養護施設にどれくらいの個性があると思うのだろう。

ネットを離れてオフラインで語り合う時は互いに想いがあって、違う性格ながらも見ているゴールがほぼ同じである事にうれしく思い「あたしたち、わたしたちはやけに気持ちが合うよね」と相手の事をもっと好きになっている事に気づく。それはWolfさんに対しても似ている気持ちを持つ。

その時にMariaと喧嘩した時も「なんだ、同じような事を考えてたのに表現が違うだけでどうしてこんなに喧嘩になるかね」と驚く。話す、誤解を解く努力をするという事を無駄だと感じない、分かり合っているのにわかっていないと誤解する互いは、定期的に会って話し合う事がうれしい。

わたしは、虐待の有無を超えて、無愛着、愛着障害、児童養護施設での集団養育、これらから心が切り離せない事を今一度確認した。

「里親」を既得な人と位置づけたくないわたしの本音がある。里親を目指すならより高次の、子どもへの理解へ至る為の勉強をしてほしいという本音がある。わたしももちろん施設育ちに甘んじる事無く、絆作りをがんばりたい、また絆作りを経なければ、書けない記事も多かった。

里子体験は得られなかった、家庭作りも暗礁に乗り上げている、でも絆作りだけはきちんと自分の一生の中の小さなともし火としたい。わたしは結局のところ、WolfさんとMariaのことをエゴイストだけど、とても大好きだし、自分の関係者だと言いふらしたいのだ。

捨てられた子たちに、そんな相手と出会ってほしいと望む。

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