2011年03月

2011年03月31日

報告・最終回

最終・25日に頂いた報告です。余りにもひどい状態に涙しましたが、これは現実です。お読みください。
森本さんは、無事お帰りになりお仕事をされています。


23日は、午前中だけボランティアをしました。
腰を痛めた方の家のゴミ出しで、地震の折りに割れた食器類をご自分では処理できない方の手伝いでした。
一緒に向かった青葉区の女性は自分も被災したにも関わらず、貴重なガソリンを使う車を出しボランティアに参加してました。
彼女の家もガスは止まったままで、地震以来お風呂に入ってないということです。
食料品も乏しく、肉類は1週間食べてないと言ってました。
職場も休業になったため、出かけてきたと言います。
職場が休業ということは、収入も減るということでしょうか。
夕方に仙台駅を出る高速バスに乗るため、ボランティアセンターを出発しました。
やはりタクシーを使う気にはなれず、ザックを背負い駅まで2時間ちょい歩きました。
駅近くのコンビニが営業していたので、夫が予約してくれた新潟ー東京間の高速バスを、やっと換券できました。
そのコンビニで夕食を調達しようと思い、おにぎりを1つだけ買いました。
初日、幸町小学校で私の食べるおにぎりを見て「おにぎりだ〜」と言ったつばさくんの顔が頭をよぎりました。
新潟行きの高速バスに座り少しうつらうつらした私に、「ボランティアの方ですか」と声をかけた隣の男性は、おだやかに地震の日のことを話し始めました。
北海道から実家の父親の見舞いに来て被災したと言います。
多賀城のジャスコに取り残された人のニュースはテレビで見ました。
そのお一人でした。
ジャスコで地震にあった後、別の所にいる家族の様子を見に 下に降りた時、津波がくると言うのを聞いて3階に上がったということです。
地震の衝撃も冷めやらぬ間に、津波が目の前に現れたということです。
駐車場を押しつぶすように水の壁が襲って来て、人のいる車が横倒しに流されていくのを見たそうです。
そして、その先に駐車場を歩いている人を飲み込んでいくのも見たということでした。
聞きながら言葉が出ませんでした。
ジャスコの2階にいた人たちは、津波にもまれながら柱にしがみついていたらしいです。
どんなに冷たかったことでしょう。
ジャスコの3階に取り残された300人程の人たちは、水が引けるのを数日待つことを覚悟しなければいけなかったようです。
そんな中、ジャスコの店員さんが店内の100円ショップのお菓子を配ってくれたそうです。
1階の食料品売り場は水没してしまいましたが、3階の100均商品で気持ちもホッとできたようです。
それでも、いつまで寒さをこらえて待てばいいのかと不安になり、翌日その中の100人程は脱出を試みたそうです。
職場を退職したその男性も胸まで水に浸かりながら歩き出し、途中で足を取られ頭まで潜ってしまったそうです。
もがきながら、何とか足場を見つけ、立ち上がり歩き出し、やっとの思いで水から這い出したと言ってました。
あの寒さの中をです。
水が引けた後現場を見ると、いろいろな残骸が足元にからまりあい、そこに足を挟まれたかもしれないと思うとゾッとしたということです。
無事脱出したものの、家族と連絡が取れず、入院している父親の安否も気になり、随分不安な日が流れたようです。
水を求めて、何時間も自転車を走らせたとのこと。
一番怖かったのはパンクで、ここでパンクしたら帰れない、水も探せないと、釘やガラス、瓦礫を踏まないようビクビクしながら慎重に走ったということです。
水がなくて苦しかったと言ってました。
避難所に一時1000人が非難した時、食糧は一人一人に十分ありますと言っていた県議が、実は半分の人しか行き渡らなかったこと、避難所の運営も統制が取れず、名簿さえ作ろうとしないことなど、行政の後手後手を批判されていました。
民間にいるこの方は、ちょっと考えれば出来ることも、少しも動こうとしなかった行政に腹が立ったということでした。
混乱した状態で、なかなか整然といかないことは仕方ないと思うのですが、これだけ地震対策をしているのに、実際起こると想定外ということは言い訳に過ぎないと言ってました。
それでも、海外から日本の対応はすごい、被災した人たちの忍耐もすごいと言われてますと言うと、確かに日本人の仁徳ですね、略奪も殺人も起きない、日本人は誰も責めることなく、秩序正しい列を作り、順番を守るところは誰に教わったことではない、日本の文化でしょうか。
こうして、若者らボランティアの方が駆けつけてくれるのを見ると、確かに日本も捨てたもんじゃないと思いますと話してくれました。
私もこれだけ情報が入ってくるのに何もできないことがもどかしく、いわき市の母親が私達は見放されたとメールを送ったのを見て、見放すはずはないと気がついたら向かっていたと伝えました。
確かに個々の出来ることは微々たるものです、でもボランティアセンターに次々と集まる老若男女はたくさんいます、みんな力になりたいと重い荷物を持って駆けつけましたと話しました。
共にがんばりましょうと話しました。
途中のサービスエリアでコロッケを2つ買ったので、1つ渡すと、遠慮しながら「いただいたよ」と隣にいる二人の娘さんにまず渡し、3つに分けて、「温かいものはホッとします、おいしいです」と丁寧に言ってくれました。
「拾った命です。大事にします。やることは大変なんですが」
生活への不安も口にしてましたが、それでも家族全員助かったのでと、生タンポポ死をさまよった方の言葉は重いと感じました。




以上が森本さんの5回に亘る報告です。
森本さんのご苦労をねぎらうと共に、被災地にまいてきた種がきっといつか実ると信じています。


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2011年03月30日

その3・その4

3月22日と23日に頂いた報告です。森本さんも少しは落ち着きを取り戻し、心にゆとりが出来たのか、ユーモアも感じられ、ホッとさせられました。

仙台4日目、本来は出勤しなくてはいけない日ですが、職場に事情を伝えやむなく理解していただきました。
今日は岡田地区に入りました。
住所では、宮城野区蒲生と呼ばれる地域です。
白鳥地区、岡田地区に行くということは、ドロドロになることを意味しています。
合羽、登山靴姿で入りました。
ひどい状態でした。噂では、時々ご遺体が見つかる地域と聞きました。
訪問した地域は、家ごと流されている風景は見えませんでしたが、車は家に突っ込み、コンテナ、倉庫が横倒しになって道を塞ぎ、家の中はぐじゃぐじゃでした。
玄関と庭に車が2台突っ込み、身動きがとれない一軒にボランティア十数名が投入されました。
9・11の時に人命救助をしたニューヨークのトムさんも一緒でした。
レスキュー経験のリーダーの指導の元、玄関を塞いでいる車をバーベルであげて真っ直ぐした後、ワイヤーをくくりつけ牽引しやっと引っ張り出しました。
現れた家の中は、タンスや冷蔵庫が何十にも重なり合って、天井にまで達してました。
娘さんの家の引っ越しで、家財道具を持って来ていたらしく、2軒分の家財道具が上下にかき回されて文字通りぐじゃぐじゃ状態でした。
言葉に出ない状況が目の前にありました。
家主の人たちは、嘆き尽くして落ち着いて後だったのでしょう。
比較的落ち着いて笑顔も見られ、休憩時には握ったおにぎりを振る舞ったりしてくれました。
家に入る時、リーダーの一人がいきなり入ると危険だと注意しました。
釘、ガラスが散乱してるので、気をつけるよう何度も言いました。
足を踏み入れるとガラスを割る音がしました。
どこをどう引っ張り出せばいいのか躊躇しました。
タンスを引っ張り出した時、気をつけていたリーダーの足の甲にガラスが突き刺さり、長靴を履いていたにもかかわらず、傷口から血がドクドク流れ出ました。
慌てて止血して消毒をし、バンドエイドを貼りました。
ちょっと緊張しました。
その後数人がかりで冷蔵庫、タンス、食器棚とえんやえんやと持ち上げ、泥を掻き出しました。
津波に浸かった畳はものすごく重かったです。
一枚をとても一人で持ち上げられません。
二人でヒーヒー言いながら出しました。
掻き出した泥は、一輪車一台分運ぶのにヨロヨロします。
他県から来た耳の遠いおじさんは、毎日腕立て伏せで鍛えているらしいのですが、津波に濡れた畳4枚を一輪車で軽やかにに運ぶと尊敬の眼差しで見られています。
ニューヨークのトムさんは、大人8人で動かなかった泥に埋まったピアノを一人で持ち上げたとやはりヒーローになっていました。
私も何回か運ぶうちに一輪車が安定してきました。
やはり、腰が要です。
腰をきちんと入れると安定します。
動作法で説いていることが実感です。
一日働いた後は、合羽はドロドロ、体はクタクタになりました。
帰りに、冷凍庫の倉庫らしい中にあったベーコンとソーセージが大丈夫だったらしく、いただけたということでした。
久しぶりのタンパク質、みんなで歓声を上げました。
今夜は肉だ〜。
今夜もお粥と思っていたので、思わずガッツポーズ。
一緒に仕事をした神奈川の介護福祉士の女性が「さとうのごはん」を分けてくれ、ごはんとベーコン2枚、ソーセージ1本のごちそうと相成りました。
昼間は芋饅頭1つだったので、なんというごちそうでしょう。
ソーセージ、ベーコンをこんなにもおいしく味わったことはありませんでした。
毎回、夕飯に酒盛りをするのですが、毎日ドロドロ地区に入るお父さんが、白鳥のビールを数本持って来てくれるのです。
白鳥には、キリンのビール工場があり、出荷前のビールがコンテナごと流されたところです。
関西から駆け付けた還暦のおじさんと二人、一日中ドロドロになった後に数本失敬してきてくれるのを、みんなでコップ一杯ずついただいたのが始まりでした。
他県からのおじさんは、毎日毎日ドロドロ仕事をするのです。
一日おきでないとキツい仕事なのに。
まだ小さいお孫さんが物心ついた時に、地震の時おじいちゃん何してたと聞かれた時にちゃんと話せるように来たと言います。
この合宿所で唯一の戦前生まれです。
地元の人が一輪車でビールを取っていくのを、一喝したらしいです。
物資がないから人情としては分かる。
なら、たとえ5分でも片付けを手伝っていけと。
そしたら、うまく飲めるだろうと。
人情味のある我らの長老です。
毎日の酒盛りは、8時15分にお開きになります。
次の日の仕事があるからと。
何故か8時15分なのです。
でも、長老が言うので、みんな従って寝る準備に入ります。
9時消灯。
その後がまあ、オーケストラの始まりです。
隣に寝ている介護福祉士は、朝になると、昨日は何匹恐竜がいたと聞きます。
そうです、ほとんどジュラシックパークにいる気分です。
襲われる心配がないだけです。
今日あたりは、子守歌に聞こえてきそうです。
じんちょうげなんたって、一番はニューヨークのトムさんですが。
その鼾のオーケストラとも今夜が最後です。







ボランティアセンターの2階には、全国からいろんな人が集まってきます。
昨日は、24〜25人泊まったでしょうか?
夜のオーケストラも賑やかでしたが、私もその一員だったでしょう。
隣の介護福祉士は、隣に寝ている介護福祉士の鼾がうるさく、しかもだんだん近づいてくるもんだから寝られなかったと言ってました。
仕方ない、関西の彼女は、連日ドロの地区で力仕事をがんばったんだから。
でも、それを聞いて、昨日はメス恐竜がいたんだと朝から大笑いでした。

関東の二十歳3人組は、持ち物のほとんどが食糧です。
アルファ米を60個持ち、カレーレトルト、おでん、食器も大鍋にホットプレートまで持ち込んでいます。
食べることは譲れないようです。
その分働くと張り切っています。
気前のいいおじさんは、みんなに振る舞って食材がなくなると関東3人組のところにご相伴にあずかりに行きます。
このおじさんは誰もが大歓迎です。
朝早くから起きて、入口周りの掃除をしたり、みんなのゴミを集めたり(ゴミも基本的に自分たちで持ち帰るからいいって言ってるのに)細々と働きます。
そして、今日もドロ地域に力仕事に出かけて行きました。

昨夜、首都圏から一人の青年が来ました。
ボツボツ話すうち、オーストラリアの帰りで、まだ実家には言ってないと言います。
実家は?と聞くと、少しためらって実は韓国籍だと言います。
韓国の青年も駆け付けてくれたんだと感激すると、自分は日本育ちでやっと永住権を得られたということでした。
なので、少し前まで兵役を意識していたと言います。
そんな話をしながら、兵役の代わりにここに救援に来てくれたのかと、胸が熱くなりました。
私が帰る準備に上にあがると、沖縄から来たという青年に会いました。
彼も大きな荷物を持ってました。
茨城が風評被害もあって物資がなく孤立しているのを聞き、まずは茨城入りしそこを支援して、山形から仙台入りしたということです。
仙台の状況でボランティアが足りてるようなら早めに引き上げ次の所と考えているようです。
ここの人間模様を一通り伝えておきました。
彼も岡田地区に行きましょうと宣言してくれました。
続々と集まってくれる若者に心温まる思いで仙台を後にしました。

すみれ




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2011年03月29日

森本さん報告その2

大変お世話になっております。
本日は視覚障害者の方の家の片付けにボランティアに入りました。
専門職3人でこの方の支援に入ったのですが、すでに3日間ボランティアが入っていてほとんど片付いている様子でした。
他県から入った保健福祉士が仕切ってコーディネートしたらしく、もっと必要なところな人手を回すべきだろうと内部で少しもめたりしました。
いろんな場で全体を見渡せるリーダーは重要だし、それに従って動く現場が求められます。
混乱している場では、なおさら大切になってきます。
勉強になるなと思います。
高速バスの予約が電話では全くつながらず、Uさんにも相談すると、仙台駅に行かないとダメだろうということで、往復2時間かけて自転車で行ってきました。
新宿へのバスは4月の初めまで一杯で、新潟行きのバスが23日の夕方の便がやっと取れました。
被災地に行くには、往復の足を確保して入らないといけないですね。
今夜は大阪と埼玉から、さらに3人ずつ若者が駆けつけてくれました。
一様に、いても立ってもいられず来たと言ってました。
埼玉の3人は、塩釜を手伝って北上してきたらしいです。
神奈川の一浪生は今年大学に合格し、やっと来られたと言ってました。
少しずつ集まってきていますが、交通手段が確保されないのが、ボランティアがまだまだ少ない理由のようです。

仙台駅は天井が落ち、線路が曲がってしまったということで、全く機能していません。
新潟からの新幹線も取りたかったのですが、新潟駅でないとダメなようです。
明後日は新潟に一泊になるかです。
仙台駅へは、ボランティアセンターの年配の方で家から自転車で来ている方が帰る方向だと一緒に案内してくれました。
それでなかったら、とても辿り着けなかったです。
行き帰りのコンビニは営業停止、食料がだいぶひもじくなってきたので、どこかで食糧を調達したかったのですが、結局食事になるものは手に入らず、今夜もお粥を食べました。
それでも果物のイチゴ、グレープフルーツが買え、ボランティアセンターに持って帰り、みんなで分け合って食べました。
生き返ると皆さんに好評でした。
帰り道、歩道橋を渡りたがった子どもに、地震が来るからダメと止める母親の姿がいて、まだまだ余震に怯えているんだと感じました。
確かに地震で建物の損壊はありましたが、人が何十人も亡くなるような地震ではなく、今回は、全て津波がもたらした被害だと地元の方は言っていました。
地元の人は、神の怒りの技だとか、千年に一度だとか言って、いまだに信じられない光景だと口々に言っています。
明日は、やはり津波の地域に向けて手伝ってきたいと思います。

つくし

3月21日に頂いたものを転載いたしました。


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2011年03月28日

森本美砂さんの報告

いつも皆さんに、署名のご協力を頂いている、特定拉致被害者・山本美保さんの双子の妹さん、森本美砂さんが、今回の大災害の現地・仙台でボランティア活動をされてきました。その報告を頂きましたので、森本さんに承諾を頂いて、ここに転載させていただきます。

森本さんは、ご自分の深い悲しみを胸に秘めて、だからこそよくわかる被害者のお気持ちに寄り添う事を思い立ったのだと思います。現地の生々しい報告です。お読みください。


大変お世話になっております。
昨日、新潟経由で仙台に来ました。
東京から仙台へは直接来られず、日本海経由で新潟からは仙台行きの高速バスに乗り、5時間半かかりました。
この間、Uさん、Kさん、〇原前仙台市長さん、Aさん、Tさんのお世話になりました。
私の移動を支援してくださった方々に感謝申し上げます。
仙台に向かう高速道路でひっきりなしに救急車が通りました。
急患の患者さんが搬送されるんだと思いました。
高速道路の速度規制などもあり、家を出てから14時間かかってようやく仙台に来られました。
昨日は、救う会宮城のAさんの知り合いのTさんの避難されているSさん宅に泊めていただきました。
初日から暖かいところを提供していただき、有り難いことでした。
本日は、仙台市内のボランティア拠点に登録に行き、10時過ぎ避難所になっている幸町小学校にカウンセリングボランティアということで向かいました。
100人位の方が避難されていて、子どもたち、お年寄りの方もいて、足を伸ばして寝てないということでした。
お年寄りお二人に動作法のリラクゼーションやマッサージをしたり、子ども相手にパネルシアターをしました。
お子さんもストレスがたまっている様子でした。
パネルシアターから毛布ブランコ、手遊びと、ひとりの子は、私のそばを離れず、何度も何度もやってとせがみました。
少しでも笑顔になったのが救いでした。
日頃やっていることが生かせたかなと思います。(森本さんは県立支援学校に勤務されています)
小学校への行き帰り、食料売り場とガソリンスタンドは、どこも長蛇の列でした。
道路は隆起して寸断されている道がいくつもありました。
余震も何度もがありました。

それでも、仙台市内は比較的いい方で、海岸沿いの白鳥地区 はひどい状態だということです。
ビールもコンテナごと流され、それらはを盗難者も出たり、石巻では治安が悪いとさえ言われました。
今日から自衛隊が入り、襲われることもないということです。
今夜はボランティアセンターの2階に泊まります。
全国からボランティアが集まってきています。
北は耳の遠い、お孫さん3人のいる県庁退職者、南は福岡から駆けつけた若者、山形から来た一家は、5人で泊まっています。小学生の男の子もお母さんと一緒に、汚れる力仕事に手を挙げる姿に、胸を打たれました。
先ほど、ニューヨークから来たという元消防隊員が上がってきました。
はるばるニューヨークから単独で救援に来てくれ、涙が出る思いです。
ジャパニーズスイーツと言って羊羹を渡すと、very ディリィシャスと言って食べてくれました。
誰もが大きい荷物をかついで来ています。
昼間のボランティアも地元を中心に大勢集まっていました。
ボランティア拠点も立ち上がり機能し始めています。

是非とも、被災地にガソリン、灯油を回してください。
梅食糧を得るのに、何時間も待っている人がいます。
水、電気の止まっている所もまだまだ多いです。
是非、できることから支援をお願いします。

森本美砂



これは3月20日に頂いたものです。これ以後5回に亘って報告を頂きました。明日以後、続けて転載いたします。


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2011年03月27日

凄いブログ

ここによくコメントをくださるヒキノ様のブログで、被災された漁師さんがリアルタイムで発信し続けているブログがあることを教えていただき、伺ってみました。

本当に驚きました。地震発生3分後から、船で沖に逃げながらブログを書き続けています。命と船以外全部失ったようですが、それ以来毎日のように現地を歩いて発信し続けて居ます。11日の1ページから是非お読みください。コメントも多い日は100を超えています。ここをクリックしますと、3月11日のページが開きます。どうか応援メッセージを書き込んでください。

http://blog.goo.ne.jp/heiun/d/20110311

「漁師の徒然なるブログ」 です。



そしてそのブログのコメントの中に、環境・放射線の専門家、武田邦彦教授のブログが紹介されていました。テレビや報道の間違いを指摘しています。解りやすく書かれていまし、信頼できる情報だと思います。

http://takedanet.com/
たんぽぽ
こちらもご覧ください。


どちらも正確な情報だと思います。


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