そんな恋ならいらねぇよ。

「恋愛がしたい」と思っている。 そのための行動もしているつもり。 でも、どういうわけか、うまくいかない恋ばかり。 「恋愛経験値」の数だけは増えて行くけれど… その中の、本物っていくつありますか?

例えば、誰が見ても紛うことなく男子の需要は高いであろうと思われる後輩がいる。
彼女には、今現在特定の彼氏はおらず、かと言って周りに言い寄ってくる男は余りあるほどいる。

その中から、彼女は選んでいる。
大いに選ぶべきである、とわたしは思う。
わたしよりも、7つも年下の彼女に対してだから、である。

そんな彼女は、躊躇いもせずに言う。

「だって、カッコ良くないんですよ」
「いや、でもさすがに、年収1000万は欲しいじゃないですか。結婚してまで働きたくないですし。かと言ってカツカツの生活もしたくないし」

いいのだ。
彼女はあと3年はそれでいい。
その間に、年収1000万超えのイケメンを掴まえる可能性は大いにある。
そう、本気で思っている。
嫌味でも妬みでもなんでもなく、容姿と彼女の年齢を加味すればその可能性は捨てられないに違いない。

だが、その彼女と一緒に婚活をしている、わたしと同年代の者に対しては心底思う。
「いやそろそろ現実見なよ」と。


彼女にしてみても、美貌は持ち合わせている。
だからこその自信である。
それは大いに構わない。
だがしかし、彼女は失敗続きなのである。
現実見なよと言いたくもなるのだ。

だが、それは私個人の価値観に過ぎない。
「三十路過ぎて、結婚も出産も考えているのであれば、条件は妥協すべき」という、私だけの価値観。
彼女は今すぐに結婚がしたいとは思っていないのかもしれない。
子供だって産めなくて構わないのかもしれない。
そこを突き詰めて聞いたことはないので、知らないけれど。
彼女が「例え何歳になったとしても、子供が産めなくなったとしてもいいから、私の眼鏡にかなうイケメンの高給取りと結婚できたらそれで幸せ。そうでなければ結婚なんてしなくたいい」と思っているのであれば、誰も咎められない。

三十路を過ぎた時に、女は考えるべきだ。

結婚をしたいのか、しなくてもよいのか。
子供を産みたいのか、産まなくてもよいのか。

そこをしっかり、はっきりとさせておかないと、この年頃の恋活はややこしくなるばかりなのである。


思えば私は、恋がしたかった。
けれどここ最近、そうではなくなった。
というのはつまり、結婚がしたいということではないのか、と思う。

ならば、結婚相手を探す必要がある。

私の恋をしたい相手は、つまり、ドキドキしたい相手。
それはわかりやすく言うとすれば、「背が高過ぎずどちらかと言えば痩せ型で塩顔。服装はオシャレすぎずかと言ってダサくもない。仕事が好きな、年下の可愛い系男子」である。

つまり、理想。
私の、少女マンガ的ビジョンの中ではいつも、仮想彼氏といえばこんな感じ。
まあ、実際付き合ったことはほぼない。


今現在、結婚相手を考えてみたとき、思い当たる条件はただひとつ。
「わたしのことを大好きな人」というだけである。

だから、私に気がある人とはそれなりに関わりを持つようになったし、「好みじゃない」だけで関係を絶つ様なことはしなくなった。


恋愛観自体は、変わっていない。
年々、恋愛観と結婚観との間には開きが出ているような気がする。

それが当然だ、と私は思う。

半分夢を見たような状態で、ふわふわと堕ちていくのが恋だ。
なにもしらないオトコのほんの一部だけを知って、「すき」だと思うあの感情を恋と呼ぶのだとしたら、あるオトコの考え方や人となりをありとあらゆる面から見て、感じて考えてみたとき、「この人となら一緒に生活を送っていける」と思うのが、結婚。

恋は時間とともに現実になってゆくから、双方がイコールになることは、もちろん少なくはない。
それが最適だし、羨ましいとも思う。


けれど、この歳から恋を現実に変えていく時間をもったいないと感じてしまう私は、どちらかと言えば冷めているのかもしれないな。
このエントリーをはてなブックマークに追加

久し振りの更新で、しかも冒頭からこんなことを突然言うのはいささか申し訳なくも思うが、言わせて頂く。

私は三十路を過ぎていまだ単身であるし、今現在彼氏はいない。
そんな私が勘違いも甚だしいと言われるかもしれないけれど、あえて言う。
これはあくまでも、客観的に自分を評価した結果であるということは強調するが、私はモテてきた方である。

いきなり何を、と思われたかもしれないが、これもまた客観的に自分を評価した上で言う。
今現在、私はまるで男にモテない。

それは単純に、年を重ねた結果、需要が減ったということであるとも思いたかったが、どうやらそのせいだけとも言い切れない。



「三十路を過ぎてなお、彼氏もいなければ独身である」という、今現在の自分の身の上は、自分自身が招いたものである。
と、私はそう思っている。

私は言霊だとか、引き寄せの法則というものを信じている。
というか、体感している。
恋愛でもそうだし、それ以外の様々なことにおいても。
であるからして、今現在のモテない自分の状況を招いたのは私自身でしかない。
と、思ったので、そこに至るまでのことを振り返ってみたのである。


思えば私はモテたのだった。
小学高学年頃には有頂天だった。
そんな時代のモテなど、クラスで目立つ方の部類だったことや、沢山の男子と仲が良かったことや、およそ私自身の人間性とはほぼ無関係な要素によって産みだされていたものである。
ということは今でこそよくわかるが、なんせあの時分「私はモテる女だ」という自我を形成するのには十分すぎるほど、モテにモテていた。

中学生になり、周りにいわゆる男女交際なども始まり出し、そのモテをいかんなく発揮した上で私は小学生の頃から両思いだった相手と初めての男女交際を始めた。
順調だったのだ、ここまでは。

だがその初彼氏は他の女に奪われた。
その後も高校、専門時代と、まだゆるゆると「モテないなあ」とまでは思わないで済む程度の、微モテはところどころで発揮していたが、「スーパーモテる女子」という自信はなくなっていた。
この頃から私は、「一番好きな相手が私を好きになってくれないこともある」ことをようやく学び始める。

そんな私が大人になった。

さあ、どうか。

私はここで、知ることになる。
自分が、恋のカケヒキなるものがド下手くそであるということを。
周りの女子たちは、何人もの男を選別したり、彼氏はいながらも結婚に相応しい相手かどうかを厳しい目で見極めたりということをし初めていたのに対して、私はそんな彼女らを横目に思っていたのだった。

「だって、好きな人とじゃないと付き合えない」
「とりあえずとか意味わかんない」
「彼氏がいるのに他の男も見てるとか信じらんない」

今なら、わかる。

結婚を意識した時に、たったひとりだけを見ていていいわけがないだろ、と。
とりあえず付き合ってみて、そいつがいい男に育つ可能性はいくらでもある、と。

そして私は、こうも思っていた。

「私はまだ、出会ってないだけだから」


今ならわかるのだ。
これが、行き遅れ女子の思考パターン。


世間から見た時の私は、完全に行き遅れ女子なのである。
それは重々承知している。
でも、今現在、そんな思考の元に行動していた過去の自分を責める気持ちはないし、後悔しているわけでもない。

ただ、ふと、思ったのだ。

「過去の栄光にすがりついたまま老いぼれることだけはしたくない」と。

もちろん私のように、いつか自分で気付く者が大半であろうことはわかっている。
けれど、ちょっとだけ思う。
そうではない人も、少なからず、きっといるのだ。


私は、モテる自分をモテない自分に思い直すことに、おそらくこの数年を要した気がしている。

モテるから別にこれはいらない。
そう思っていて見過ごした、本当は割りといい男を逃してきた可能性は、大いにある。

今現在、私は、過去なら見向きもしなかったような男と、割と真剣に向き合うことができていると思うのだ。
それはきっと、「こんなモテない私をいいって言ってくれる人なんだから」という、ちょっとした卑下。

だけれど、私自身はこれを、とてもいい変化だと感じている。良かったな、こんなふうに思えるようになれて、と。

「いやいやどんだけだったんだ今までのお前は」
というお叱りもあるかもしれないが。


見方を変えるということは、やはり、自分が変わるということなのだろう。
このエントリーをはてなブックマークに追加

恋は、とても自己中心的な感情である。
他人である誰かを、自分のものにしたいなどという、大それたエゴなのだ。

そのことをよくわかっておくと、「恋すること」がすこし、苦しくなくなる。

だって、わたしが勝手に恋してるだけだから、
だって、わたしが勝手に好きなだけだから。

「大好き」の重みは人によって違う。
愛情の重さを物理的に測ることはできないけれど、誰がどうしたって、「私とあなたとは恋人同士だから、同じ気持ちです」なんてことは証明しようがない。
ただ互いのことを信じる、それしかない。

たとえば恋をしたとして、その人と両想いになれたとする。
いわゆる「両想い」、つまりは恋人同士になった途端に、恋は愛に変わったかのような錯覚に陥りそうになるのだが、決してそんなことはない。

誰かと誰かの片想いが、たまたま偶然に、重なった。
それはタイミングであり、幸運であることは確かだが、愛を手に入れたのだと勘違いするのは時期尚早と言える。


恋は、恋のままである。
まだ、その時点では。


恋い焦がれるのは、その恋した相手の人となりに惹かれたからこそ。
でも、恋い焦がれている状態では、どうしてもフィルターがかかってしまうために、相手の本質を見抜けているとは言い切れない。


恋は、いつかなくなる。
早いか、遅いか、程度はあっても。
必ず、なくなる。

恋は終わったとしても、共に生きられるのであれば、それが愛だ。
恋が終わったら、共に生きられないのであれば、そこに愛はなかった。

ただそれだけのことなのだ、と思う。


恋をしているさなか、熱情に溺れながらいつも、
「これは、愛だ」と、思う。

けれども、それは全部、違っていた。


なんだか、読み返してみると今まさに失恋したばかりの女が書きなぐっているだけの稚拙な言葉たちのように思えるが、断じてそうではない。

ただ、今、とても心穏やかに、冷静に、そう思う。


恋は、いつだって一人だけでするものだ。

二人でしている、というように見えてはいても、それぞれがそれぞれの想いの中に生きている。
互いのことを、当然思いやりはするし、尊重したり、慮ることもできはするが、それだってすべて、我が気の赴くままでしかなく、そこにあるのはあくまで自分自身の感情なのだ。



いつか愛に変わる恋は、絶対にある。
けれども、そうではないもののほうが格段に多いのは事実だ。


いつか愛に変わる恋。

それが、未来が見える恋。

このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ