そんな恋ならいらねぇよ。

「恋愛がしたい」と思っている。 そのための行動もしているつもり。 でも、どういうわけか、うまくいかない恋ばかり。 「恋愛経験値」の数だけは増えて行くけれど… その中の、本物っていくつありますか?

2018年03月

恋は、とても自己中心的な感情である。
他人である誰かを、自分のものにしたいなどという、大それたエゴなのだ。

そのことをよくわかっておくと、「恋すること」がすこし、苦しくなくなる。

だって、わたしが勝手に恋してるだけだから、
だって、わたしが勝手に好きなだけだから。

「大好き」の重みは人によって違う。
愛情の重さを物理的に測ることはできないけれど、誰がどうしたって、「私とあなたとは恋人同士だから、同じ気持ちです」なんてことは証明しようがない。
ただ互いのことを信じる、それしかない。

たとえば恋をしたとして、その人と両想いになれたとする。
いわゆる「両想い」、つまりは恋人同士になった途端に、恋は愛に変わったかのような錯覚に陥りそうになるのだが、決してそんなことはない。

誰かと誰かの片想いが、たまたま偶然に、重なった。
それはタイミングであり、幸運であることは確かだが、愛を手に入れたのだと勘違いするのは時期尚早と言える。


恋は、恋のままである。
まだ、その時点では。


恋い焦がれるのは、その恋した相手の人となりに惹かれたからこそ。
でも、恋い焦がれている状態では、どうしてもフィルターがかかってしまうために、相手の本質を見抜けているとは言い切れない。


恋は、いつかなくなる。
早いか、遅いか、程度はあっても。
必ず、なくなる。

恋は終わったとしても、共に生きられるのであれば、それが愛だ。
恋が終わったら、共に生きられないのであれば、そこに愛はなかった。

ただそれだけのことなのだ、と思う。


恋をしているさなか、熱情に溺れながらいつも、
「これは、愛だ」と、思う。

けれども、それは全部、違っていた。


なんだか、読み返してみると今まさに失恋したばかりの女が書きなぐっているだけの稚拙な言葉たちのように思えるが、断じてそうではない。

ただ、今、とても心穏やかに、冷静に、そう思う。


恋は、いつだって一人だけでするものだ。

二人でしている、というように見えてはいても、それぞれがそれぞれの想いの中に生きている。
互いのことを、当然思いやりはするし、尊重したり、慮ることもできはするが、それだってすべて、我が気の赴くままでしかなく、そこにあるのはあくまで自分自身の感情なのだ。



いつか愛に変わる恋は、絶対にある。
けれども、そうではないもののほうが格段に多いのは事実だ。


いつか愛に変わる恋。

それが、未来が見える恋。

このエントリーをはてなブックマークに追加

そろそろいい加減に、この問題について真剣に考えなくてはならない、と思う。

わたしは兼ねてから、このブログにも書いてきた通り「恋愛と結婚は別だ」と主張してきた方である。

恋って、基本的に片想いでしかない。
それが「恋」という名を冠している以上、それはただの一方的な気持ちなのである。
「両想いだ」「恋人同士だ」と、人は言うけれど、一体なんの保証があってそれを言うのか、わたしはいつも不思議だった。

今でもそうだ。

彼氏だ、彼女だ、と互いに甘い呼び名をつけてはいるけれど、それって一体なんの意味があるんだ?
法的な契約でもなんでもない、その肩書に、どうして皆そんなに安心しているのだろう?
と、わたしは今も思う。

ハタから見たら「彼氏」だと思われているような存在がわたしにいたとしても、その人はただの他人でしかない。
たとえどんな口約束をしていても、互いの信頼のもとでだけ成り立つ関係、それ以上にはなれない。

結婚は、違う。
家族にも、友人にも、世間にも、神にも誓っている間柄なのだ。
それは、何にも代え難い、確固たるものだ。
契約なのである。
「わたしとあなたが同じ戸籍に入り、この先の人生を共にしていく」という、契約。

これは、一方的な想いなどでは成り立たない。
互いの価値感が一致した先にしか果たせない契約なのであり、それは双方の想いが重なっているという証なのである。

一緒であるわけがないじゃないか、と、思う。
昔から、思っている。

だから、結婚を考えていない年の頃はただただドキドキできればそれで良かった。
だって、今が楽しければ良かったのだから。
今は、ちがう。
ただドキドキするだけの恋は、もういらない。
そんなことしている場合ではない。
結婚、しなければ。

そんな風に、考えるようになった。

でも。

「結婚、しなければ」 
「この人は、結婚相手としてはどうなんだろう?」

そんな風に、常に相手を見定めていたら、恋はできなくなった。
「結婚相手として」相手を見たとき、大抵の人は受け入れられた。
けれど、その誰にも、恋はしていなかった。


いいのか?
本当にそれでいいのか?わたし。


という疑問が湧くようになった結果
全ての相手を切り、今はまっさらな状態である。




わたしが結婚をしたいのは、子供を産みたいからだ。
そして、なぜ子供を産みたいかと言えば、それが最大の親孝行だと思っているからだ。
幸い、うちの親は自身が結婚に失敗していることもあり、三十路を過ぎた娘に対しても口うるさく結婚についてああだこうだとは言ってこない。
けれど、孫を見たいとは思っているようだ、というのは言葉の端々から感じている。

考えてみれば、わたしが結婚をしたいのは、自分のためではなかった。
せっかく高齢の祖母が元気でいるのだから、出来る事なら曾孫を見せてあげたい。
女手ひとつで、私を育ててくれた母を安心させてあげたい。喜ばせてあげたい。

そんな想いが、わたしを結婚へと駆り立てていた。


けれど。

ふと、自分自身に立ち返って考えてみたとき、

私は今、お母さんになりたいか?
誰かの妻に、なりたいか?

と、問いかけてみたけれど、
YES、のような気もしたが、
その後にクエスチョンマークがつくような、
そんな想いが湧き上がったのだった。


わたしは、結婚は、誰かのためにするものだと思っている。
自分のために生きるのなら、ひとりでいたいと、そう思っている。


わたしは、誰かのために生きる覚悟をした気でいたけれど、やっぱりまだもう少し、自分のために生きたいのかもしれない。


それでも、「いやもうそんなこと言ってられない歳だから」と、踏ん切りをつけるのか。
「あーやっぱり、そうだよねえ」と、自分のあるがままの心を受け入れ生きていくのか。

その選択は、やはりどちらにせよ勇気のいることで、まだ自信を持って決めたと言い切ることはできない。


ただ、ひとつ、わかったことは、
今は結婚よりも、恋がしたい。
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ