恋は、とても自己中心的な感情である。
他人である誰かを、自分のものにしたいなどという、大それたエゴなのだ。
そのことをよくわかっておくと、「恋すること」がすこし、苦しくなくなる。
だって、わたしが勝手に恋してるだけだから、
だって、わたしが勝手に好きなだけだから。
「大好き」の重みは人によって違う。
愛情の重さを物理的に測ることはできないけれど、誰がどうしたって、「私とあなたとは恋人同士だから、同じ気持ちです」なんてことは証明しようがない。
ただ互いのことを信じる、それしかない。
たとえば恋をしたとして、その人と両想いになれたとする。
いわゆる「両想い」、つまりは恋人同士になった途端に、恋は愛に変わったかのような錯覚に陥りそうになるのだが、決してそんなことはない。
誰かと誰かの片想いが、たまたま偶然に、重なった。
それはタイミングであり、幸運であることは確かだが、愛を手に入れたのだと勘違いするのは時期尚早と言える。
恋は、恋のままである。
まだ、その時点では。
恋い焦がれるのは、その恋した相手の人となりに惹かれたからこそ。
でも、恋い焦がれている状態では、どうしてもフィルターがかかってしまうために、相手の本質を見抜けているとは言い切れない。
恋は、いつかなくなる。
早いか、遅いか、程度はあっても。
必ず、なくなる。
恋は終わったとしても、共に生きられるのであれば、それが愛だ。
恋が終わったら、共に生きられないのであれば、そこに愛はなかった。
ただそれだけのことなのだ、と思う。
恋をしているさなか、熱情に溺れながらいつも、
「これは、愛だ」と、思う。
けれども、それは全部、違っていた。
なんだか、読み返してみると今まさに失恋したばかりの女が書きなぐっているだけの稚拙な言葉たちのように思えるが、断じてそうではない。
ただ、今、とても心穏やかに、冷静に、そう思う。
恋は、いつだって一人だけでするものだ。
二人でしている、というように見えてはいても、それぞれがそれぞれの想いの中に生きている。
互いのことを、当然思いやりはするし、尊重したり、慮ることもできはするが、それだってすべて、我が気の赴くままでしかなく、そこにあるのはあくまで自分自身の感情なのだ。
いつか愛に変わる恋は、絶対にある。
けれども、そうではないもののほうが格段に多いのは事実だ。
いつか愛に変わる恋。
それが、未来が見える恋。
他人である誰かを、自分のものにしたいなどという、大それたエゴなのだ。
そのことをよくわかっておくと、「恋すること」がすこし、苦しくなくなる。
だって、わたしが勝手に恋してるだけだから、
だって、わたしが勝手に好きなだけだから。
「大好き」の重みは人によって違う。
愛情の重さを物理的に測ることはできないけれど、誰がどうしたって、「私とあなたとは恋人同士だから、同じ気持ちです」なんてことは証明しようがない。
ただ互いのことを信じる、それしかない。
たとえば恋をしたとして、その人と両想いになれたとする。
いわゆる「両想い」、つまりは恋人同士になった途端に、恋は愛に変わったかのような錯覚に陥りそうになるのだが、決してそんなことはない。
誰かと誰かの片想いが、たまたま偶然に、重なった。
それはタイミングであり、幸運であることは確かだが、愛を手に入れたのだと勘違いするのは時期尚早と言える。
恋は、恋のままである。
まだ、その時点では。
恋い焦がれるのは、その恋した相手の人となりに惹かれたからこそ。
でも、恋い焦がれている状態では、どうしてもフィルターがかかってしまうために、相手の本質を見抜けているとは言い切れない。
恋は、いつかなくなる。
早いか、遅いか、程度はあっても。
必ず、なくなる。
恋は終わったとしても、共に生きられるのであれば、それが愛だ。
恋が終わったら、共に生きられないのであれば、そこに愛はなかった。
ただそれだけのことなのだ、と思う。
恋をしているさなか、熱情に溺れながらいつも、
「これは、愛だ」と、思う。
けれども、それは全部、違っていた。
なんだか、読み返してみると今まさに失恋したばかりの女が書きなぐっているだけの稚拙な言葉たちのように思えるが、断じてそうではない。
ただ、今、とても心穏やかに、冷静に、そう思う。
恋は、いつだって一人だけでするものだ。
二人でしている、というように見えてはいても、それぞれがそれぞれの想いの中に生きている。
互いのことを、当然思いやりはするし、尊重したり、慮ることもできはするが、それだってすべて、我が気の赴くままでしかなく、そこにあるのはあくまで自分自身の感情なのだ。
いつか愛に変わる恋は、絶対にある。
けれども、そうではないもののほうが格段に多いのは事実だ。
いつか愛に変わる恋。
それが、未来が見える恋。