2008年01月
2008年01月15日
マラン・マレ「膀胱結石手術図〜快癒へ」
どうも明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
えーまずはライブ情報から。
1月22日にKQLDがピットインでありますね。でももう完売だから意味ないんだけど。
あと1月28日に中目黒「楽屋(らくや)」で坪口トリオがありますね。
そういえばKQLDは解散らしいね。
まあなんとなくそういう雰囲気はしてたし、「そろそろかな・・・」と思っていたのだ。
なんかイマイチだったんだよなあ。
と思っていたら、また三月にKQLDやるらしい。
どっちなんだ(笑)
ということで久々のブログ本編にレッツ豪徳寺!
今日はまた、いちだんと長いよ〜
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こないだの昼間、天気も良かったので例の多摩市役所の展望レストランにカツカレーを食べにいきがてら(市役所なので激安!&その展望レストラン人が居なくてガラガラで居心地がよい。さらに空いているときにいくと厨房のオジサンが漬物とかどんどんサービスしてくれるし。ここちょっとおすすめ)永らく借りっぱなしになっていたCDを返しに行ってきたのですが、また何かCDを借りようと思ってCD棚を眺めていると、「マラン・マレ『膀胱結石手術図』」というのがありました。
なんじゃこりゃ??
マランマレというのはバロック期のフランスのヴィオール奏者&作曲家である。
けっこうこの人の曲は好きで、「ヴィオラ・ダ・ガンバ組曲」とか、天気のいい昼間に聴いたりするんだけど、いいんだよ。
メジャーキーの遅い速度のバロックものは天気のいい昼間に合うのですよ。
でまたヴィオラダガンバの柔らかくてアタックとかヴィブラートのあまりない音質が優しくてなおよろしい。
バッハのヴィオラダガンバとチェンバロの曲とかもいいし、ヒンデミットの室内音楽のヴィオラダモーレのやつとかもいいし、ヴィオラダガンバとかヴィオラダモーレとかけっこう好きなのである。
で、問題のマラン・マレの「膀胱結石手術図」なんだが、帯文を見てみると「膀胱結石手術の様子を音楽化した・・・」云々と書いてある。
ハハハ・・・なんだよそれ〜って感じなんですけど(笑)
まあでも所詮はバロックだからそんなに激しいサウンドでもないだろうと思って、図書館のCDは3枚までしか借りられないし、結局マランマレは借りず、高中正義2枚とビルエバンスの「エクスポラレイションズ」の計3枚を借りてきた。
「エクスポラレイションズ」なんて何年ぶりに聴くだろうか。
CD持ってたけども、キズだらけで聴けなくなって捨てたのだった。
まあそれはいいんだけど、そうしたらその日の夜にバイオリンの友人から電話がかかってきたので、
「今日図書館行ったら、マランマレってバロック期の人の『膀胱結石手術図』っていう題名の曲があってびっくりしたんだよ〜」
と言ったら、
「あ、その曲知ってる・・・わたしやったことあるかも・・・」
なにい〜マジですか!って感じでどんな曲なの?って聞いたら、
「語りが入ってるんだよねあの曲・・・けっこうグロテスクな語りで、『今膀胱にメスが・・・』とか言うんだよ〜でも私その曲小学校で小学生前にして演奏したから、いいのかなあこんな語り小学生に聞かせて・・とか思った(笑)」
「へえ〜でも曲自体はバロックなんでしょ?」
「うん・・・でもちょっと劇的になったりする所もあったなー・・・『今、膀胱にメスが・・・』とか(笑)」
「じゃあその、『今、膀胱にメスが・・・』とか言うところでGmでチェンバロでジャララララララ〜ン!とか鳴ったりするわけ?」
「そうそう、そんな感じ」
「うーんそうか・・・でもヘンな題名だよねえ・・・変わってるというか・・・描写音楽とはいえ、膀胱結石の手術の様子を描写するっていうのはかなり変わってるよねえ(笑)・・・こんな変わってるコンセプトと題名の曲ってバロックに限らず後の時代でもあんまりないよねえ(笑)」
「そうだよね・・・しかもなんで『膀胱』なのかしら?って感じだよね(笑)」
まあどうなんだろう?マラン・マレがこの曲を書いた意図。
多分ウケを狙ったんじゃなくて、けっこう真面目に書いた作品だとおもう。
当時にしては、作曲のインスピレーションが湧くだけの大イベントだったに違いない。麻酔無しの結石手術は。
しかし、意外な着目点の題名ってけっこうあるけど、この題は相当意外だ(笑)
勉強になるなあ。
マラン・マレ、ネットで調べてみると、かなりいっぱいヴィオール関係の曲書いている。
しかしフランスバロックってあんまり知らないなあ。
あとラモーとかぐらいしか思い浮かばない。
まあだいたい僕くらいのレベルではバロックものはみんな同じに聴こえるし(笑)
例えばチェンバロものなんて、より一層同じに聴こえる。
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リーコニッツに「モーション」というアルバムがある。
リーコニッツにエルビンジョーンズに、あと名前忘れたけどベースっていうピアノレスのサックストリオ。
で、このベースがヘンで、小節頭でルートを弾かないところがかなりいっぱい出てくる。
しかもリーコニッツのプレイもけっこうアブストラクトで、このアルバムの曲はほとんど王道スタンダードばっかりなんだけど、テーマもかなり崩して吹いている。
だから昔、僕がこのアルバムを初めて聴いた頃は、よく曲の進行がわからなくなってロストしていた。
ジャズをやり始めたばかりのガキにはなかなか手強いアルバムだったのだ。
で、自分のレベルの低さを棚に上げてこのベーシストをバカにしていた。
「なんかヘタクソなんじゃん?このベース。小節頭でルートとか弾かないし」とか思って。
しばらく聴かなかったけど、この間CDを手に入れる機会があって久々に聴いてみた。
おお!
すごいいいじゃん!!
いいんですよかなり。
でもやっぱり漫然と聴いてると、キチンとついていくのはちょっと大変だけど、ベースはちゃんと歌っているうえで、あえて小節頭でルートを弾いていないということがわかった。けっしてヘタクソではなかったのだ。
進行も全然間違ってなかったし。
ごめんなさい。自分のレベルが低いばかりにバカにしていて。
そういえば最近の僕のプレイも、小節頭でルートを弾かないことがどんどん多くなっている。昔からある王道スタンダードにおいては。
共演者や聴衆には判りづらいところもあるだろうけど、そんなこと知ったことじゃねえ!という事でいいと思いたい(笑)
小節頭でルート弾くというようなプレイは、もはやつまらない。僕にとって。
理論的にどういう風にアプローチしているのか自分でもよくわかっていないけど、ちゃんと自然に歌ってるからいいのだ。
というような事を最近の自分の音楽への姿勢を反省すると共に再確認し、改めて「心のなかの歌心どおりに弾こう!」というように考えた。
なんか最近ジャズをやっててもつまらないことが多かった。
仕事っぽいギチギチの制約があるバンドもあったし。
知らず知らずのうちに自分で自分を縛っていたのだろう。
もっと自由にアプローチしましょう。
体の力を抜いて。
状況と自分の感覚に身を任せ。
でもこれが意外と難しいのだ。
どうすっかな〜・・・
そう!大切なのは自分の心の中にある歌を優先するということなのだ。
でも、今のひからびた頭でっかちのジャズシーンでは「ベースは小節頭でちゃんとルートを弾くこと!」という風な雰囲気になっている。
だめだめだめそんなんじゃいけませんよ〜。
そんなルールはないのだから。
あと、自分が出そうと思った音を弾き損じて他の音を出しちゃったりしても、それを間違いと捉えるのではなく、それを新鮮に感じるようにしよう。
音楽に間違いはない、と自分でよく言ってるじゃないか。
頭ではわかっていたはずだが、ついついいつの間にかそういう弾き損じを間違いとして捉えるようになっていたようだ。
だから最近スタンダードやっててもつまんなかったんだな。
どうすれば弾き損じを間違いと捉えないようになるか?
力を抜けばいいんじゃないか?
ライブの時に場を捨てればいいんだな。
うまくやろうと思わないことだなきっと。
あああもう当たり前の事じゃないか!これ!
でもなーこういうことやってると、仕事ライブなんかでは、バンマスにイヤな顔されるだろうなー。
仕事は仕事、臨機応変にって言っても俺はそんなに器用じゃないしなー。
ま、適当に。
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仕事といえば、今まで何人ものプロデューサーやプロデューサータイプの人間に見そめられて色々な仕事をしてきたが、例外なく最後はケンカ別れなのである。
まずプロデューサータイプの人間は眼が泳いでいる(笑)
眼をまともに見て話そうとしない。
すでにそこが信用できない。
なんであんなに眼が泳いでるかね?連中は。
やましいことがあるとしか思えない。
ちゃんと眼を見て話しなさい!
まあわかるけどね。連中は色々な人間と付き合って、その人間関係をとりもって、しかもどこかから金を引っ張ってきて、うまい具合に事を進めなきゃいけない。
まあ政治家みたいなものだからな。
でもそこがわかっていても、やはり眼が泳いでいるのは、なんか信用できないし、バカにされてる感じさえする。
そこらをうまく飲み込めるほど僕は大人じゃないのだ。
でもそこら辺がうまく飲み込めればもうちょっと金になるかな?(笑)
プロデューサー諸兄の方々には、僕のことをもうちょっとうまい具合にだましてくれと、切にお願い申し上げる次第であります。
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話は変わって、ウッドベースでフュージョンっぽいことをやるのはなかなか大変なので、そういう練習をしている。
イエロージャケッツをコピーしたり、シーケンサーにそういうフレーズを打ち込んで一緒に弾いたりして、練習している。
しかしなかなか大変なのである。
僕がウッドベースで今まで弾いてきたことは、クラシックか、4ビートのジャズか、ボサノバとか、あとはドラムンベースとかが多かったので、16ビートの細かいシンコペとかなかなか難しいのである。
自分のバンドでは16ビートとかやってたけどねー。
でもさらに磨きをかけるべく努力しているのだ。
ドラムンベースとかはさ、32ビートだし、そういうの弾けるんなら、その半分の16ビートとか簡単なんじゃないの?とか思うかもしれないが、じつはドラムンはドラムだけが32ビートで、ウッドベースは以外に8ビート単位だったりするのだ。
ドラムンベースとかって、ドラムが速くなったぶんだけベースのスピード単位は落としてバランシングさせているのだと思う。
まあもともと、ドラムンとかジャングルっていうのは、その音楽的インスピレーションの根源はレゲエやダブやスカだと思う。
そう考えるとわかるでしょう。
レゲエやダブやスカのベースのリズムは、けっこう単調でゆったりしてたりするじゃない。16ビートで続けて弾いたりあんまりしないしねー。
でもそういう、32ビートモノで、ウッドベースパートをデジタル編集したものとかは、がんがん32ビートでウッドベースの音が出てきたりしてその限りではない。
でももう最近、デジタル編集モノはいい加減飽きたなー。
ああいうのはいい加減、「あ、編集モノだ」ってわかった瞬間に興味が失せるようになってしまった。
でも、中には物凄い編集モノもあるけどね、そういうのは許す。
許すけど、いずれにしろあんまり何回も聴きたいと思うものには最近お目にかかってないなあ。
ということで以上のことを踏まえると、ベースが最も細かく動く音楽のジャンルは、フュージョンだったりするかもしれないのだ。
で、ウッドベースでそういうフュージョンとかコピーしたりすると難しいんだよ。
キメなんかもボチボチ出てくるし。
無理しないでエレベで弾けばいいかもしれないが、ウッドベースでやりたいのだ!
ウッドベースの方が見た目がかっこいいし(笑)
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ドラムンで思い出したけど、最近なぜかこの界隈で「ダンスミュージック」という言葉を良く耳にするが、なんかやだ。
いわゆるクラブで大音量でかかりそうな音楽とか、黒人っぽいグルーブ感がフィーチャーされた音楽とか、そういう類のものだけを、「ダンスミュージック」って思ってる人が多いみたいだけど、なんかまた誰に洗脳されたんだか知らんけど、ちょっと違うよ君。
そういう捉え方はなんか観念的なんだなあ。
僕なんかは普通のジャズでも踊ってしまうし、クラシックでも踊る。
フュージョンでも踊る。
現代音楽じゃちょっと踊れないけど(笑)
でもバルトークやヒナステラあたりだったら踊れるかもしれん。
「ダンス」っていう言葉にかこつけて、なにかこう「私、クラブで遊んでます」とか「私、肉体的な本能的な音楽が好きです」みたいな、実は全然踊らない奴とかがそういう風に無理に自分をアピールしてる感じがして、見苦しい。
だいたい、本当にクラブで踊るのが好きな奴は「ダンスミュージック」なんて言葉は使わないしね(笑)
だいたいクラブで踊ってる人間の大半が聴いてる音楽は、トランスであったりヒップホップであったりレゲエであったりして、あんまりアフロポリっぽい音楽ではおどっていない。
まあ最近クラブはとんとご無沙汰だからよく知らんけど。
無理しないで自分の好きな音楽で踊ったらどうかね。と言いたい。
あるいは無理して踊らなくてもいいんじゃない?(笑)とも言いたい。
ダンスダンス言うな!バカ!社交ダンスか!(笑)
しかしジャズで踊る人ってあんまりいないね。
たまにジャズのライブを見るときなんか、あるレベル以上の演奏であったら僕は体が動くのであるが、でも他のお客さんは黙って真剣に聴いている。
でも僕は踊りたくてしょうがない。
でも一人だけ踊ってその場から浮くのも恥ずかしいから、後ろの方で人知れず踊る(笑)
昨日マイルスの「クールの誕生」を久々に聴いたけど、やはり良くて、メロディーを思わず口ずさんでしまうし体も動く。
自分の好きな音楽は全て「ダンスミュージック」なのである。
でも本当にクラブには行かなくなった。
一時期は自分で演奏する以外にもけっこう通っていたけど。
まああれだな、だいたい最近のクラブは電気が明るい。
昔のクラブは本当に真っ暗で、ブラックライトがたまに光っているだけで、足元も見えなかった。
空気も悪いし、あのクラブ独特の匂いを思い出すよなあ。
あの頃のクラブ(20年くらい前)は本当に何が起こるかわからない危険な感じがあった。
殺人事件とかもあったし、実際僕自身も何度かケンカとかしたことあるし。
でも今は全然健全な感じになっちゃったでしょう。
今そういう危険な感じがする場所ってあるのかね。
そういう場所じゃないと新しい芸術って生まれない気がするんだけど。
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スタンゲッツの「1952〜1991」というベストアルバムはすごく良くて、どの曲をとっても非の打ち所のない名演奏が収められているが、けっこうすぐ飽きた。
ここで思い出すのは魯山人の言葉なんだけど、「およそなんでも美味すぎるということは、特等品にはならない。美味すぎるために特等を下って一等品となる。総じて美味すぎるものは、最高級美食とは言い難い・・・」
そう、このゲッツのアルバムも、とてもとても美味しい料理なんだけど、とても美味しいという”味”というものがあるということで、特等品をくだって一等品になってしまったような演奏なのだ。
さらに魯山人によれば、ふぐについて、
「ふしぎなような話であるが、最高の美食はまったく味がわからぬ。しかしそこに無量の魅力が潜んでいる・・・(中略)・・・すっぽんも美味いものであるが、このふぐに較べては、味があるだけに悲しいかな一段下である。否、その味が味として人に分るから、まだそれは本当の味ではないのである。すなわち、無作の作、無味の味とでも言おうか、その味そのものが、底知れず深く調和が取れて、しかも、その背後に無限の展開性をもっているものでなければ、真実の美味ではなさそうである。」
言っとくけどね、魯山人は「美味しんぼ」って漫画でだいぶ有名になったけど、僕も美味しんぼで魯山人を知ったのだ。
「美味しんぼ」は爆発的ヒット漫画の一つだけど、僕は美味しんぼの連載がスピリッツだっけ?とにかく連載が始まった頃から「あの漫画は面白い!というか美味そうだ!」と騒いでいたらしい。と、この前古くからの友達に言われた。
だから美味しんぼも世間のブームに乗って読み始めたわけではなく、最初から好きだったのだ。
だから僕はミーハーではない。偉いのだ(笑)
最初に美味しんぼを読んだのは、ちゃんとおぼえているのだが、高校生の頃、京浜急行の立会川の駅だった。
その頃の彼女が品川の八潮団地に住んでいて、その帰りに立会川の駅に行ったら、ホームのベンチにスピリッツが置いてあったのだ。
その日は冬だったか冷たい雨が降っていて、時間は夜12時近くであったろうか。
改装中の立会川のホームは僕のほかに人も居なく、針金でガードされた工事用の臨時電球がポツポツと灯っているだけで薄暗かった。
雨が降っていて寒いし暗いし人影も無いしで、その時の立会川のホームはなかなかの異次元空間だったので、ベンチに置いてあったスピリッツを手にとって何気なくパラパラめくったことをよく覚えている。
で、そこで初めて美味しんぼを読んだというわけだ。
なーんか面白かったんだよね。美味しんぼ。
で、美味しんぼを読んでいると魯山人の話が良く出てくる。
そうして魯山人に興味を持ち、魯山人の本を読み始めたというわけだ。
とりあえず「魯山人味道」という本を読んでみたら、うまそうだし面白いし、文章に味があるし、色々なことに怒っているし、芸術についてもとても真面目に考えていて、一発で好きになってしまった。
魯山人を読んでいて感じたのは、なにやら岡本太郎と共通性が感じられたことだ。
どこがどういう風にというわけではないけれど、あの激越な調子とか日本の古くからの芸術に対しての見方とか、芸術界全般にたいするアンチっぷりとか。
要するにパンキッシュなのである。両者とも。
照れ屋っぷりが半端じゃないともいえる。
安易にブームに乗ることに対しての照れ。表面上の模倣についての照れ。カッコをつけることに対しての照れ。など。
で、俺は勝手に「よし!じゃあ、魯山人→岡本太郎→菊地雅晃という系譜が日本芸術の本道なのだ!」とか勝手に息まいてたんだが、バカですねえ(笑)
でもあれなんだね。魯山人→岡本太郎って系譜はもう周知だったのだね。
知らなかったけど、1年位前、岡本太郎美術館に行ったとき、魯山人と岡本太郎が友人であったということや、この二人をクローズアップしたイベントが行われていることを知ってかなりビックリした。と同時にちょっとだけ悔しかった。
魯山人と岡本太郎のつながりを意識しているのは俺だけだと思っていたのに(笑)
なんの話だっけ?
ゲッツの話がとんだところに逸れてるなあ(笑)
でもいいですよ、この「スタンゲッツ1952〜1991」ってやつ。
まあとにかく結論としては、ふぐ、っていうのは音楽でいうところのバッハとかモーツアルトとかパーカーかもしれんということで(笑)
われながら良く分からない結論だけど面白いからいいでしょう(笑)
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ボッテシーニのコントラバスとピアノのための「エレジー第一番」という曲はとてもいい曲だ。
ロマンチックで、いい旋律で。
見よう見まねで、というか聴こう聴まね?で弾いたりするが、こういうソロコントラバス曲というものはチューニングを長二度あげなければいけないうえ、この曲は自然ハーモ二クスが多用されているので、レギュラーチューニングではその自然ハーモ二クスが出ない。
だからハーモニクスが出てくる部分は人工ハーモニクスで弾け・・・るわけがない(笑)
この曲はむちゃくちゃ多用されてるからね。自然ハーモニクスが。
困るなあ、困るんだよ君。
あの長二度高いソロコントラバス用のチューニングの音質ってイマイチ好きになれない。
なんか音のテクスチュアがこう、のっぺりとツルンとしちゃって。
コントラバスはせっかく味わい深い暗い音なんだから、それを殺しちゃってなんかもったいない。
まあ、わかるけどね。ソロやるんだったら輝かしい通る音にしなきゃいけないって気持ちも。
でも、生楽器でできるだけ大きい音を出すことを求められた昔だったらいざ知らず、今の時代にそんなに音量とか輝かしさを求めなくてもいいんじゃないか?
コントラバスの持ち味を生かせるような場所で演奏するとかレコーディングをすればいいんじゃないか?
いやーそれにしてもレギュラーチューニングのコントラバスの音はつくづく滋味深い。
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車が変わって2ヶ月近くになるけど、最近またちょっとレオーネ(11月まで乗っていた以前の僕の車)のことを思い出す。
レオーネは2台乗り継いだし、計5〜6年乗っていたので、もうほぼ満足なんだけど、やっぱりあの車良かったなあ。
スタイルやエンジンの音や味も良かったし、それになによりターボ付きだったのにけっこう燃費が良かった。
現在の、このガソリン価格高騰のご時世では、燃費はとても重要になってくる。
今の車はトヨタのライトエースワゴンだが、燃費はレオーネの7〜8割かな?
でも今の車にした頃からガソリン価格がガツンと高騰したので、感覚的には燃料代が前の1.5倍くらいかかってる感じがする。
困りますねえ。
でもね、ライトエースもなかなかいいんですよ。
ユルユルで。
レオーネもユルユルだったが、ライトエースも最近の車のように剛性とかも高くなくて、全体に緩くていい感じ。
ステアリングの剛性感なんかも、今の車のようにガシっとしてなくて、ちょっとナマクラな感じがして、緩い感じに拍車をかける。
実はこの車をもらった相手は古くからのダチなんだが、その友達はこの車の新型というべきタウンエースのノアってやつを買ったのだ。
で、両車乗り比べてみたが、ドアを閉める音なんかは明らかにノア(新型)の方が安っぽい音がする。
内装の質感なんかも、もちろん新型も悪くないけど、旧型も全然いい感じ。
やはりバブル期のトヨタ車は、作りに金がかかってる気がする。
全体に作りがしっかりしてる感じがすごくする。
次の車検をとるかどうかわからないけど、とりあえずタダだし、しばらくの間、古きよきワンボックスワゴンライフを楽しませてもらいましょう。
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今日は天気も良かったし、休みだしドライブに行きたかった。青梅の方にでも行きたかったが、またまた腹の調子がわるく(胃炎&腸炎)昨日病院に行って来たばかりなので、あんまり動き回ってもよろしくないだろう。
だからブログ書きなのである。
ドライブといえばこないだ東北のほうでの仕事の帰り、時間もあったし、高速でガーッと帰って来てしまうのはいかにもつまらないので、高速を使わず下道でゆっくり帰ってきた。
いやになるまで下道で帰ろうと思ったのだが結局全部下道で帰ってきてしまった。
夜中なので道も空いている。
途中で那須高原の道の駅に寄ったりした。
那須高原はスノッブだね。
嫌いじゃない。あの雰囲気。
暗い山道を登っていくと、突然高さ5メートルくらいはあろうかという大きなクリスマスツリーが店先に置かれた名も知らぬコンビニがあったりして。
その前には、バブル期の六本木の裏にあったような街路樹がライトアップされたホテルがあったりして。
う〜んいい感じだね!
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そういや、正月に都内をドライブしていて、何気にお台場のほうにドライブに行った。
いつもお台場に行くときは、山手通りを通って、国道一号か海岸通りでレインボーブリッジをわたって行くのだが、このときは正月の空いてる都内道路を満喫しよう!ということで六本木の方を抜け皇居の前を通って、日比谷通りで銀座の方を抜けて築地を抜け・・・という道順で行ったのだ。
ふふーん空いてるねー正月は・・・正月の都内はいいねー・・・
なーんて言いながら、歌舞伎座の前を通り過ぎ勝鬨橋を渡ったらあそこの交差点を左折して・・・あの交差点はT字路のどん詰まりだからそれが目印だな・・・そろそろだな・・・よし見えてきた・・・・あの行き止まりを・・・ん?・・・あれれ!!??
全然行き止まってない!!!
なっ、なんだ〜っ!!あの道路はっ!?つうかなんだ〜っ!?あの橋〜〜〜っ!!??
勝どき橋から湾岸道路まで、道路が貫通してるじゃないか!
おお〜すごいね〜・・・・
知らなかった・・・・こんなことになっていようとは・・・・最近こっちの方通らなかったからなあ・・・。
うーんすげえな・・・国土交通省・・・・
いつのまに・・・。
やるな・・・・。
前だったら、豊洲のほうをグルっと遠回りして、東雲のほうから湾岸道路に入るのだが、その必要が無くなった。
うーん・・・首都高速も4号と5号がつながったし、新しい道路を走るのはなかなか気持ちいいものである。
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ウィキペディアで色々な小説家のことを見ていたら、夢野久作の「ドグラマグラ」のところに行き当たった。
よお!久しぶり!って感じで、ドグラマグラを読んだのはもう20年くらい前だけど、わけが解らない小説だったよなあ。
「ドグラマグラ」のキャッチコピーでは、「この小説を完読した者は必ず一回精神に異常をきたす」っていうのが有名だけど、そんなわけないだろう、と思って最後まで読みきってしまったが、確かにその後僕は、一回精神に異常をきたしてしまった(笑)
まあ20代〜30代前半の僕の私生活は大いに乱れており、ここに書けないようなことも色々あったので、ドグラマグラのせいばかりじゃないんだけど。
というかさ、「ドグラマグラ」を読もうと思う人なんていうのは、もともとちょっとそういうおかしい資質があるんじゃないかと思うんだけど(笑)
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小説といえば最近、庄野潤三の小説を借りたので、ぼちぼち読んでいる。
なんか、庄野潤三が住んでいるところって、読売ランドがある丘陵地帯の一画らしく、多摩マニアの僕としてはすでにそこだけでゾクゾクする(笑)
貸してくれた人の弁によれば、
「多摩丘陵を舞台にしての小説なんですけど、もうただただ平和な日常が綴られているだけなんですよ〜」
ということらしい。
うーん最近そういうのも好きなのでいいかもしれない。
と思って読んでみると、一応私小説なんだが、本当になにも起きない(笑)
私小説にありがちな暗さや狂気など、微塵もない。
うーんこれはちょっと新鮮だぞ。
帯文の文章も「人生の光芒・・・」なんて書かれている。
うーんこういう滋味深いものは、最近、齢もトシだし、けっこうグッとくるのだ。
音楽で言えばちょっとディーリアスっぽい?
いや、ディーリアスとはちょっと違うかな?
パーシーグレインジャーとかかも。
ディーリアスの音楽は、若い頃の劇的な人生の後、静かに隠遁生活を送り、夕焼けを眺めつつ、昔の様々な出来事を思い出し、思わず涙をこぼしているような音楽で、表面上は穏やかなものが多いが、その背後には、様々な喜怒哀楽の感情が秘められている。
そう、ディーリアスの音楽は、哀しい「終わり」の音楽なのだ。
しかしグレインジャーのは、もうただただ自然に感謝して平和に人生を送っているような音楽である。
「終わり」を描いた音楽もあるかもしれないが、ちゃんと「始まり」や「途中」の音楽もあるのだ。
まあもともとグレインジャーは英国やその周辺の民謡を採集して、それを編曲したものが多いらしいから、そういう音楽であるのは当然なんだけど。
この民謡採集によって得られた数多くのメロディーは、ディーリアスもおおいに利用していて、あの「ブリッグの定期市」のテーマなんかも、もともとグレインジャーが採集してきたメロディーの一つらしい。
グレインジャーでは、吹奏楽の人たちは知ってると思うけど、「収穫の賛歌」という曲がとてもいい。
黄金色の小麦畑の秋の収穫祭みたいな情景が浮かんでくるような、しみじみいい音楽である。
フォスターとかにも近いかもしれない。(フォスターはあのケンタッキーフライドチキンの曲の作曲者)
グレインジャーの音楽は、その本質的な心はかなり平和な感じなんだが、それでもたまにちょっとヘンな響きとかも出てくる。
チューブラベルとチェレスタと弦のピチカートなんかを弱音の微妙な音使いで混ぜ合わせたりして、なかなか神秘的な曲もある。
なんだかんだ言って、20世紀半ばまで生きた人だから、和声とかオーケストレーションとかそれなりにモダンなのである。
ということで今日の結論としてはフォスターで思いだしたので、ケンタを食べたいけど、今の体調では無理、ということ、でした。
それでは。