2008年05月19日

民商、概念と「経済学」(続編)

羞恥心(挨拶)




>いとうY先生、葉玉先生、fuji 様、kuro 様

コメントを頂き、ありがとうございました。本エントリーは、頂いたコメントへの私のご返答です。直接のお答えになっていないかもしれませんが、ご容赦ください。

ですます調は今回もやめます。

1.実務家から一目置かれる学者になりたい
  + 共同研究の必要性

前回の書き振りからは分かりにくかったと思うが、私は学者と実務家の分担はあくまで便宜的・相対的なものであり、両者が交流し、さらに相互に領空侵犯することは好ましいことだと考えている。

学問や大学が生き残るためには、それなりに外の世界から「やるじゃないか」と見てもらえることが大事である。○○法の学者だけ、しかも出身大学が同じような人間だけで集まって研究会をやることは、もちろん悪いわけではないが、それ「だけ」ではダメだ。そのような閉じた空間では高く評価される理論が、外で受容されない可能性は、ある。というか、その可能性は大きい。

商法と民法、法律と経済、理論家と実務家、日本と外国、そのような交流を徐々に進めていくことが、学問を勁(つよ)くするためには必要だ。

以上は、前回のエントリーを裏側から表現したものでもある。

<伝統的法律学>と<新しい(たとえば経済学を用いた)法律学>の間に貴賎はないが、みなが前者しか行わないとしたらそれは問題である。個々の学者は極論すれば何をしても良いが、学界全体としてバランスの取れた(社会からの需要にもある程度応えられているような)新・旧のミックスになっていることが大切であり、その第一歩としてさまざまな形での共同研究が望まれる。

2.方法論を論じることの功罪

学者が「研究はかくあるべき」という方法論を持って研究に臨むことは、基本的には良いことだと思う。内心に秘めるだけでなく、自己の信念を公に語ることも結構だし、複数の学者の間で方法論について論じられ、闘われることがあっても良い。

ただ、どの方法論が適しているかは、取り上げる問題によって異なる。ある問題に適した方法論は1つではないかもしれない。実定法学は実践的な性格を持つというか、もっとストレートに言うと、法律学の便宜性・恣意性、議論が状況依存的であることに鑑みれば、特定の問題を離れて抽象的に方法論を論じることには限界がある。

厄介なのは、師弟関係・学派などの特別権力関係の中で方法論が語られるとき、それはしばしば「(良い意味での)研究の自由」を抑制する原理として機能することである。その場合には「1」で述べたあるべき学問のあり方とは反対のものとなろう。

雑駁な感想に過ぎないが(もっとも、緻密に論を展開することは不可能に近いが)、「民法の人は方法論を気にしすぎ」と思うし、他方で「商法の人は方法論に自覚がなさ過ぎ」とも思う。

3.ミクロとマクロ

法律には、目の前の個別の事件を公正妥当に解決するという側面と、紛争予防も含めて、一般的なルールを定めることで、社会・経済全体が合理的に運営されることを支援するという側面とがある(大別して)。前者だと説得手段という色彩が前面に出、後者だと社会改善という目標に力点が置かれる。

両者を調和させる方法はいくつかあり、そのような工夫がなされるべきである。

が、粗くいうと、実務家や民法研究者は個別局面での正義・公平に重点を置き、商法研究者や経済学者はルールの持つ社会基盤としての側面に重点を置く傾向がある。(もちろん、一人の人間の中にもいろいろな「私」が存在するのであり、一概には言えない)

裁判官は、目の前の事件を解決するために、しばしばルールを事案ごとに微修正して調節したり、事実認定で結果を調節することがあるといわれている。それが真実だとすると、そのことを批判するだけでなく、判例によって示された判示に代わるより一般性のある(あるいはより使いやすい/ ルールの名宛人に対して誤解の少ない)ルールを提案したり、合理的な判例の読み方を提供したり、といった作業によって、学者は実務に貢献したり、「一目置かれる」存在となることが可能かもしれない。

(もちろん、そのような学者はウザイとして実務家から敬遠される可能性もあるので、注意)

4.私にとっての基礎法学、ないし方法論

私は、いわゆる基礎法(法哲学、法社会学、法制史など)に関心がないわけではないが、その方面の能力・素養は全くないと負の自己理解を持っている。まあ、理論よりも実践に関心がある/才能があるということにしているのだが、

村上淳一『<法>の歴史』(東京大学出版会、1997年)
長尾龍一『法哲学入門』(講談社学術文庫 <初出1982年>)


この2冊は折にふれて読み返している(全くのお節介だが、ロースクールの学生も、たとえば2年生の夏休みとか、3年生になる春休みに、こういう本を一部だけでも読めば、人によってはプラスが大きいだろう)。それは、何か自分の理論の支えとなるような何物かを探して読むというよりも、自分が学問の王道というか、本筋というか、そういうものから逸脱していないかどうかを自己チェックする作業である。

「3」でほのめかしたように、法学はナイーブな意味での「(社会)科学」(*)とはいえないというのが私見ではあるが、縦令そうであるとしても何らかの意味で「学問(の名に値するもの)」でなければならないとも考えている。

* 注の注。科学史でよく言われているように、自然科学であっても恣意性から完全に自由ではない。もちろん、それは悪いことではなく、その程度のものにすぎないことを認識していれば良いだけの話なのだが。私が不思議に思うのは、なぜ一部の法律学者にかくも強烈な「科学への憧憬」が存在するのか、であったりする。

私が研究者の卵になったときに、ちょうど民法の分野では法解釈論争が華々しく展開されていて、私もそれを少しかじったものである。そのことは、今の私に一定の示唆を残してはいるが、残念ながらそのとき某先生や、他の某先生がおっしゃっていたことには、私は共感できずに現在に至っている。

最後の点については、村上・前掲書の第3章を参照。

5.前回のエントリーへの注記

これは、コメント欄ではなく、メールでコメントくださった方からの示唆である。私は「2」の終わりあたりで、「失礼ながら、私の上記の分類でいうと、報告者の吉田先生(民法)は左派であり、コメンテーターの藤田先生(商法)は右派であろう。」と書いた。

しかし、当該シンポジウムでの吉田先生は、私の分類で言うと、左派(伝統的な概念法学)の側面が強く出ているが、吉田先生ご自身は必ずしも法外在的な議論を排斥される方ではない、とのこと。

本日のエントリーの「3」にも少し書いたが、一人の人間の中にもいろいろな「私」が存在し、概念法学やったり、経済学的分析をやったりすることは矛盾なく両立する。

そして、もちろん書いた時点でも自覚はしていたのだが、書き終えてしばらくたって改めて思うのは、前回のエントリーで用いた「左派」「右派」の用語の恣意性である。たとえば、「じゃ、あの人は、・・・」と当てはめようとすると、なかなかうまくいかない。

私は、この分類・整理の軸を精緻化することで扱う対象を狭くする(**)よりも、あえてラフな軸を使うことで少なくとも民商法(学界)全体を対象として論じることを選んだわけであり、それはそれで正しかったと今でも思うが、当然意を尽くせていないところはあるわけで、その点はどうかそういうものに過ぎないということでご容赦いただきたい。

注**) 民法の先生方による「民法解釈論争」は、このようなものであることが多いような気がする。

あと、シンポジウムでの藤田コメントには、「伝統的な方法『だけ』では、不十分である」との主張のほかに、「経済学をやれば良いというわけではもちろんなく、質が求められることに注意が必要である」との主張も含まれていたが、この点は他日を期したい。

6.御礼

拙いエントリーを最後までお読みくださった読者の方々に、御礼申し上げます。


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1. 第4回 底流にテーマを持つことが重要/磯崎哲也さんのブログ論  [ Web担当者Forum ]   2008年08月07日 11:03
「いしたにまさきのブロガーウォッチング」

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1. Posted by fuji   2008年05月19日 22:02
先生、詳細なご返答ありがとうございます。

要は「バランス感覚」でしょうか。

『法哲学入門』は、私もはるか昔に読んだ気がします。アナーキーに対する批判に感動し、自分の幼稚さを思い知らされた記憶があります(記憶違いかもですが)。
2. Posted by おおすぎ   2008年05月20日 10:24
>fuji 様

「バランス感覚」とのコメントを頂いて、なるほどと思いました。

いろいろな学問スタイルがあってしかるべきところ、現実にはあるスタイル(「A」としておきます)が欠けていて、しかもAの必要性が非常に増している、というときに、そのように感じている人はAの必要性を叫んだり、Aを実践したりしますよね。そうすると、学界全般から見ると、その人は「バランス感覚のある人」には見えないかもしれません。

「法哲学入門」をもう一度読み返してみます(少し先になりそうですが)。
3. Posted by takiguti   2008年05月22日 16:38
宮台真司って知ってる?
社会学者っておもしろそうだね・・・
法律は、難し過ぎて一般ピープルには。。。。人格が大きいかな?
4. Posted by おおすぎ   2008年05月22日 18:13
>takiguti 様

宮台先生は、学部は違えど前任校の同僚で、はるか昔に入試の委員会で一緒に仕事(雑用)をしたことがあります。当時からすでに、彼は有名人で、茶髪でしたが、委員会での発言・行動は良い意味で常識的であり、頼りになる先生でした。3年ほど前、あるメディアでご一緒したことが1回だけあります。

彼には、積極的に社会に打って出る側面のほか、実は難解な学術論文を発表する側面があります。ひとりの人間の中にいろいろな「私」がいるというときの好例ですが、私もそうありたいと思っています。・・・これで、頂いたコメントへのご返事になっているかどうか心許ないですが。

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